パウル・クレーの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 音楽一家だったクレー家では、「童話」がよく読まれた。絵の手ほどきをした祖母。物事に没頭しだすと異常なほど熱心になる気質。7歳の時、ヴァイオリンを習いはじめる


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はじめに:長い間、一家の大黒柱はピアニスト教師の妻で、クレーはずっと「主夫」だった

スイス出身の画家パウル・クレーは、表現主義キュビズム、シュールリアリズムの美術動向に関連づけられてきましたが、実際にはそうしたレッテルは及ばないほどにクレーは「運動」と「浸透」と「交錯」、そして「成長」を繰り出していました。モーツァルトやバッハ、さらにはヒンデミットやシェーンベルグを好み、また自らも才あるヴァイオリニストだったクレーは、時間芸術としての「音楽」を絵画化し、「運動」を秩序づけようとまで目論んでいたのです。
その企ては、バウハウスでの仕事や教えで結晶化され、後に『造形思考』や後の『無限の造形』として著され、モダンアートへの重要な導きともなった『パウル・クレー手稿—造形理論ノート—パウル・クレー・ノートブック』は、ルネッサンス文化におけるレオナルド・ダ・ヴィンチの『A Treatise on Painting』に匹敵するともいわれています。絵画や音楽は無論、クレーの動物・植物、文学、哲学、生命論、建築などに関する知識は躍動し、クレーの「マインド・ツリー(心の樹)」を形づくっていました。
たとえば若い頃から植物に関する書物がいつも手許に宝物のように大切に置かれ、ほとんどすべての植物をラテン語でとなえることができたといいます。自然から賦与された不思議のして多様な植物は形にいつも感嘆し、ガラス箱のなかに保存していました。クレーの絵画では、部分的で求心的方向をとる線が「女性的成長」として、全体的で遠心的な線が「男性的成長」として、<植物の成長>があらわされました。また点は原(ウル)要素と考え、すべての「種子」は<宇宙的>であると思考したのです。クレーは、自然の奥に隠されている原形的なもの、精神的なものを求めつづけ、「人間」と「樹木」が同じ自然のなかに形づくられた場所を創造しようとしていたのです。
「芸術の本質は、目に見えるものを再現するものではなく、見えるようにすることである」というクレーの有名な言葉はこうした鋭い感性からきているようです。人間の原(ウル)状態 クレーは自身、豊穣な「始源」の場所にいたと語っています。


また、パウル・クレーは、じつは長い間にわたって一家の「主夫」でもありました。一家の大黒柱は、3歳年上のドイツ人ピアニスト、リリーで(26歳の時、結婚)、彼女のピアノ教師からもたらされる収入がクレー一家を14年間支えていたのです。アパートの台所がアトリエとなり、クレーは家事一切を引き受けています。料理の腕前は、若かりし頃、叔母が経営する「森の端」という名のホテルでよく休暇を過ごした時に、フランス人のコックから習ったものだったようです。スイスの家庭料理の「ロシュティ」や「ポルチーニ茸のリゾット」「タラの水煮」、スイスのハンバーグ「フリカデル」「豚のヒレ肉とシャンピニオン」「焼きリンゴ」などはクレーの得意料理だったといいます(『クレーの食卓』講談社
主夫業は、料理に限ったものではありませんでした。息子フェリックスが生まれると、夜泣きに温かいミルクを飲ませるのもクレーの役割で、「フェリックス・カレンダー」に息子の成長のすべてを書込んでいます。
クレーの絵『新しい天使』について、ヴァルター・ベンヤミンは次の様に語っています。廃墟の上に廃墟を積み重ねられたカタストロフィー(破滅・破局、環境の大変化)のなかに滞留し、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めてなんとか組み立てようとするのだが、楽園から吹いてくる強風(それは「進歩」の圧力)を受け、もはや翼を閉じることができず、目前の廃墟の山に舞い戻ろうとするのだが、未来の方へと不可抗的に運ばれてゆくばかりであると。「東日本大震災」のカタストロフィーにも、きっと多くの「天使」が舞い降りてきていることとおもいます。そしてやがて「風の又三郎」のように、ある日強風にあおられ未来の方へと運ばれていくのでしょう。その時、原(ウル)状態になった廃墟は、目に見えるものをたんに再現するのではない、新たな「運動」をともなって創造されるにちがいありません。
それでは一緒にパウル・クレーの「心の樹」の根元に入り込んでみましょう。そして、ぜひともクレーの絵も併せてたくさん見てみることをおすすめします。クレーは「鏡」に映し出されたような真実性を信じるのではなく、胡桃クルミの中の”核”の如きものを心の目で感じ取ろうとしていました。パウル・クレーの「マインド・ツリー」が、これを読まれる方の「心の食卓」の一つの”食材”になればこれ幸いです。

音楽一家だったクレー家。父は普通の音楽家タイプと異なっていた

パウル・クレー(Paul Klee)は、1879年12月18日(〜1940年没)スイス連邦の首都ベルン(Bern;スイスで4番目の規模の都市、13世紀から自由都市として発展したベルン州の州都でもある。人口12万7000人程。ドイツ語圏)近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれています。ベルンは湾曲するアーレ河畔につくられた美しいベルン旧市街は世界文化遺産、また6キロにもわたるヨーロッパ最長の石づくりのアーケード街としても知られています。そしてベルンといえば、理論物理学アインシュタインが若かりし頃、ベルンにあったスイス特許庁に審査官として勤務しながら、相対性理論(1905年)の論文を執筆した地としてもよく知られています。アインシュタイン(ドイツ・ウルム市生まれ)パウル・クレーと同年生まれで、ともにヴァイオリンをよくしていました。クレーは11歳の時に、ベルンのオーケストラに籍をおくほどの腕前で、プロの音楽家へすすむことも充分ありえました。
パウルの音楽的才能は、音楽一家だったクレー家の環境から生まれています。ドイツのチューリンゲン出身だった父ハンス・クレーは、ベルンのホーフヴィルとベルン師範学校で半世紀余にわたって音楽教師をしていますパウルが生まれて数ヶ月後にホーフヴィル師範学校の教師に初めて就く)パウル・クレーの「日記」覚書きには、「父は音楽家であるが、第一に教育者であり、音楽学者であり、批評家だった」と記しています。さらに「精神的な関心の広さによって、彼(=父)は普通の音楽家タイプと異なっていた」と語っています。じつはこのこと、つまり父ハンス・クレーの「マインド・ツリー(心の樹)」が、息子パウル・クレーの「マインド・ツリー」に大きな影響と刺激を与え、知的関心領域をぐんと広げることになったのです。


父ハンス・クレーは小学校に入る頃にはすでにヴェルツブルグ市交響楽団の団員の許で数種の学器を習いだしています。小学校教員としてアモールバッハの鉄工所学校に赴任中に、自らもヴァイオリンを弾くライニンゲン侯婦人がハンス・クレーの音楽的才能を覚え、私財から出された奨学金をもとにハンスは22歳の時シュトゥトガルト音楽院へ入学。その地でピアノと声楽を学んでいた4つ年下の女性イーダ・フリックと知り合い1875年、結婚。ヴェルツェンハウゼンで最初の教職、長女マティルダ誕生。ライン峡谷のアルトシュテッテンへ、継いでバーゼル、そしてベルンの師範学校で音楽教師として赴任している。

声楽家の母だったが、絵画の”遺伝子”は母方にあり。詩文入りのフランスの「絵草紙」が手本

南仏系のスイス人だった母イーダもピアノと声楽に優れ、クレー家はまさに音楽一家だったのですが、母方の家にはある伝説がよく囁かれていたといいます。その伝説とは大伯父のことで、ロンドンで肖像画家として成功しながらも行方不明になったというものでした。後にパウル・クレーは自身の造形的資質に関して大伯父の資質が”遺伝”していると考えていたようですが、母方にはこの大伯父だけでなく他にも才能のある画家(祖母アンナの兄弟の一人)がいたといいます。また祖母アンナ自身も絵心に満ち、幼いパウルがやって来ると、絵の描き方の手ほどきをしたり、パウルのために複製絵を切り取って集めたり、画用紙や色鉛筆うや紙切りハサミを与えています。パウルのスケッチ好きと彩色好きはこの祖母アンナのそれと、刺繍好きが影響を与えていました。
パウルが幼少期に描いていたものは、動物や教会、馬や馬車、橇(そり)、如雨露(じょうろ:植木などに水遣りするときの道具)や庭園の様子だったようで、風光明媚なスイスの自然そのものを描くことはありませんでした。その理由は、祖母が見せてくれた詩文入りのフランスの「絵草紙」が最初のお手本になったからでしたパウルは後年になってもその「犬と猫」といった「絵草紙」のタイトルを記憶している。ちなみにパウルは、その自由さ、気まぐれさ、動きの優美さ、家に対する愛着さから「猫」を愛し、若い頃から二匹の猫を飼い、いつも描いていた)
次いでパウルは、カレンダーに付いている複製絵を「模写」しはじめたようです(これも祖母からの影響)。その複製絵は、ベルン近郊を主題にして描いたものが多く、パウルが近郊の景色を鉛筆やペンでスケッチするきっかけになっています。けれども、4歳の時、ある日、絵に描いたお化けが急に本物になってしまい、驚いて母のところに逃げ込んだという記述が『日記』にあることからみても、心に映ったものを描いていたようです。そのお化けが小さい悪魔のようになって窓からのぞいていたという記憶は深くパウルの心に刻み込まれていました。

物事に没頭しだすと異常なほどに熱心に

3歳頃までの幼い頃、パウルは姉と同じようにスカートを履いていて、それがとてもお気に入りだったのに、ある時、自分が女の子ではなく、可愛らしい衣装を身につけることができないことを知って悲しんだといいます。パウルはかなり早いうちから美しい小さな少女たちの印象が強烈で、同じようにフリルのついた可愛らしい衣装を着れなくなっても、5歳までは女の子のように人形と遊ぶのが大好きでした。
3歳から5歳まで、パウルは女の子でないこの頃の記憶としては、自分が女の子ではないので、スカートの下に素敵な白いレースのついたズボンを履けないのを悲しみます。そのためなのか、大好きだった人形や物を窓から外に投げだすのが癖になってしまいます。絵や人形遊びだけでなく、空想の羽根をのばしながらあれこれ「演技」するのも大好きだったのですが、演技中に時々、「ぷぅー!」という嘲笑するような声が聞こえてきて心をかき乱され我慢できなかったといいます。その声の主は父でした。幼い頃からずっと、父を絶対的な存在で、「パパは何でもできるんだぞ」という父の言葉はそのまま真実として受け入れていたので、その思い込みは少しゆらいだりしたようです。
こうした繊細にして抵抗力のある気質は、父ではなく母から受け継いだもののようです。またこの年頃から物事に没頭しだすとその熱心さはふつうでなく、几帳面な程にずっと取り組んでいたといいます。たとえば部屋の隅にあったカルタ遊び用の小さな机に向って絵を描きだと、うずくまるようにしてずっと描いているように。母はパウルを少しでも庭に出して外気を吸うようにと考えよく部屋から追い立てたりしたといいます。

「童話」がよく読まれたクレー家。叔父さんの所でユーモア雑誌をよく見る

クレー家では音楽だけでなく、「童話」もよく読まれたようです。パウルはそうした物語を暗記していて成長してからも物語ることができました。小学校にあがる前から、パウルは人形芝居が好きになっていて、とりわけ道化役がお気に入りでした。これもどうやら母方の人物からの影響だったようです。母方の叔父エルンスト・フリック(フリック叔父さん。レストランを経営していて。パウルはスイスで一番のデブだと日記に記している)パウルのためにと新聞のなかから劇場のチラシを切り取ってくれていて、パウルはそのチラシを集めていたという記述があるからです(『パウル・クレー』フェリックス・クレー著 みすず書房。人形芝居の観客は、姉とクレー家の女中と近所の子供たちでした。パウルはこのフリック叔父さんのレストランによく連れていかれたようで、そこで絵を描いたり、絵入りの週間ユーモア雑誌ミュンヘンで発行されていたもの)をよくみていました。また食卓のテーブルが「化石」の断面でできていて、そのグロテスクな迷宮のようなかたちを鉛筆でなぞっては紙に書きとっていました。それがパウル・クレーの「奇怪なもの好き」のきっかけで、9歳の時のことだったといいます。
フリック叔父さんは動物の鳴き真似が得意で小さな子供を騙したりしていますが、後にパウルも7歳の時、2、3歳年下の男の子たちに、お前たちは罪深い人生を送っていると責めて泣かせ、泣き出すと手の平を返して嘘だからといって慰めたといいます。少年パウルは決して心穏やかで優しいばかりの少年ではありませんでした(『クレーの日記』は、後に他人に読まれることを意識し改竄されている部分があるという。この日記は19歳の時から約20年間つけられ、40歳過ぎてから清書された時に「子供時代の思い出」という一文が添えられた)。9歳の時には初恋の美少女(クレーはとにかく美少女好きだった)に機会を狙いすまして強引にキスしようとしますが、激しく抵抗され失敗に終わっています。

父の繊細な職人気質。夏には一家で森の中へ

母はことあるごとにパウルを連れ祖母の家を訪れていたようです(祖母や親類は、バーゼルからベルン市内や近郊に引っ越して来ていて、お互いに盛んな行き来があった)。そして自分の生家の人からの影響をパウルが自然に受け入れるままにしていたにちがいありません。ピアノと声楽に優れ母イーダもまた、そうした環境に育ったからで、しかしまさか息子パウルが後に画家の道を選択することになるとは想像もつかなかったにちがいありません。母方の人々からの影響に比べ、父ハンス・クレーの郷里はドイツのテューリンゲンだったこともあり、父方の人たちからの影響はかなり少なく、根本的な内面的接触はほとんどなかったといわれています。最も父は、地理的にドイツ中部のやや右に位置し「緑の心臓」とも呼称されるテューリンゲン出身らしく(多くのドイツ人は森の中に入るのが好きだといわれるが)、夏には家族で森へ入っていったといいます。そして冬によくパウルを連れて行ったのは、美術館でした。また父ハンスは、教会の日曜礼拝にオルガン奏者として手を貸していただけでなく、片手間に煙草パイプや釣針、弓矢などを自らつくるなど、その繊細な職人気質的な部分は、音楽以外にも多分にパウルにも受け継がれていったようです。

7歳の時から「ヴァイオリン」を習いはじめる。美術を愛するヴァイオリン教師と巡り会う

クレー家やパウル・クレーの音楽的才能について知悉している人にとっては、クレーの絵画に「音楽的感覚」が色彩としてあらわされている作品が数多くあることはあらかた知ってられることとおもいます。さらにはクレーが10歳にしてベルン音楽協会管弦楽団の非常勤団員になり、それ以降も持ち歩いていたスケッチブックやノート、教科書に風刺的デッサンや風景画を描いていたことも。「音楽」も「絵画」(今日なら「イラスト」や「映像」や「写真」だろうか)もともに上手い少年少女は周りには時折りいたりするので、パウル・クレーの場合もたまたま2つのこと(実際には、これに「文学」も加わる)を”器用にこなす才能”があるとおもってしまいがちですが、クレーの「マインド・ツリー」をよくよく辿ってみれば、やはりそれぞれにしっかりした”根っ子”があることがみてとれます。「音楽」も「絵画」は、クレーの「心の樹」のなかで、祖母がよくした「刺繍」の様に織り上げられ、重なりあい、融合していったにちがいありません。
パウルは小学校にあがった7歳の時から、ヴァイオリニストだった父ハンスと同じくヴァイオリンを習いはじめています。家では無論のこと、「音楽」で満ち溢れていたはずなので、急速に上達していったようです。ヴァイオリンを素直に習いはじめた一つの背景には、5歳の時に大好きだった祖母が亡くなったことも幾らか関係しているようで、「絵かきとして”孤児”になってしまった。そのかわりにしばらくして、ぼくの音楽教育が始められた」とありますパウル・クレーの日記覚え書より『パウル・クレー』—フェリックス・クレー著)。しかしフリック叔父さんのレストランで化石の断面のかたちを映しとったり、ノートや教科書の余白に、風刺的デッサンや風景画を描いていたのは、祖母という絵の<臍の緒>と切れてしまった後のことで、すでにかなりの養分が”樹液”の様にパウルの感性に取り込まれていたためだったとおもわれます。
少年パウルは2、3年もするとヴァイオリンの腕前はかなり上がり、モーツァルトやバッハの作品も弾けるようになります(10歳の時に、ベルン管弦楽団の非常勤団員として定期演奏会に参加)。そしてある優れたヴァイオリン教師に巡り会っています。そのヴァイオリン教師は、「音楽」以外でも少年パウルに影響を与えることになります。そのヴァイオリン教師は、スイスのバーゼル大学の教授で美術史家、文化史家として知られるヤーコプ・ブルクハルトを尊敬し、彼の著述を手引きに、美術を深く愛するひとだったのです(ブルクハルトは、当時バーゼル大学で古典文献学を担当していたニーチェの”注意”を<世界史>へうながした人物)バーゼルと言えば、母の出身地でもあり、大好きだった祖母もかつて暮らしていた土地でした。パウルの裡で再び留まっていた「美術」への意識と感性が蠢きはじめます。パウルは教師の書棚に揃っていた美術書に耽溺するのに時間はかからなかったようです(21歳の時に、友人と半年のイタリア旅行に出掛けた時に持参していったのが、ブルクハルトの『チチェローネ—イタリア美術的観賞の手引き』だった。現地ではその書籍からのクレーの感化は限定されたものだった)パウルの心のなかで、絵画がまるで色彩鮮やかな「楽譜」の如く、連なりはじめたのでした。
▶(2)に続く

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ロバート・メイプルソープの「Mind Tree」(2)- ピカソの影響でキュビズム風のマリア像を描きだす。13歳、「ホモセクシャル」なのではないかと不安に。16歳、ゲイのポルノ雑誌で衝動がはじける。軍隊栄誉学生団体に加入


Art Bird Books Websiteでも、「Mind Tree」を展開中です。「写真家のMind Tree」のコーナーもあります。文章と違って「ツリー状」の紹介になっています。http://artbirdbook.com
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中学生になり、マンハッタンに出かける許可をもらい、友人と美術館を巡る

▶(1)からの続き:中学生になると、少年メイプルソープの人生が変転しはじめます。父から地下鉄に乗ってマンハッタンに出てもいいという許可がおり、ロバートは親友になったジム・キャシディと一緒に、土曜日にマンハッタンに繰り出すようになりました。中学を2年で終える特別のプログラムが受講できたロバートとジムの2人は、他の生徒たちとは一風変わっていました。ロバートと同じく運動神経が鈍かったジムも、皆が大好きなベイスボール・チーム、ブルックリン・ドジャース(現在は本拠地はロサンジェルスだが、当時はまだブルックリンが本拠地で地元で絶大な人気を誇っていた)は眼中になく、ジムのドジャース・スタジアムは「メトロポリタン歌劇場」でした(オペラ好きの消防士の父に連れられて行った。ちなみにジムの祖父はグラフィック・アーティストで母は絵が趣味)。2人してメトロポリタン美術館ニューヨーク近代美術館MoMAにも訪れ、あれこれと美術作品を見てまわるのでした。ジムは作品についてあれこれ語り、口下手なロバートは作品から刺激を受けロドーイングを描いていきます。ジムはロバートの絵才に感心しながら、いつも刺激しつづけていたようです。


この2人の子供たちに気づかされることは、「運動神経」が鈍いというそのことが、長い人生のなかで決してマイナスばかりになることはないということです。要するに自分は周囲の皆と違うという気づきや体験、試練を人生の早い段階に与えられることになるからです。中途半端に運動神経が良いと、その試練は遅まきにやってきて人生の選択において判断を鈍らせたり、身体能力が勝って、「心の樹」の存在を感じにくくしてしまいがちです。もちろんチーム・スポーツを通じて培われるものも多くあり、一概に言い切ることはできませんが。

ピカソの影響。なぜキュビズム風の顔が崩れたマリア像を何枚も描いたのか

ロバートにとって芸術的なものといえばカトリック教会陣内やイコン(マリア像やキリスト像を見ることだけでしたが、マンハッタンの美術館で数多くの美術作品に触れ、ロバートの芸術体験と視覚世界が一気にひろがっていくことになります。ところがそんなロバートに興味深いことが起こります。多くの美術作品に触れたロバートは次々に絵を描きだしたのですが、その絵はなんと「マリア像」だったのです。ただ、そのマリア像は教会で見続けていた柔和な表情と姿ではなく、顔が崩れ継ぎはぎされたグロテスクなマリア像だったのです。少年ロバートはそんなマリア像をしつこいくらいに何枚も何枚も描いたのです。
そのマリア像は、美術館で見たキュビズム時代のピカソの作品に影響されたものでした。当時キュビズム(20世紀初頭の美術運動。ピカソ、ブラックらが創始した伝統的な一点の視点を放棄した図法)など知る由もないロバートがなぜそんな混乱した聖母像を何枚も描いたのか。2人になった時、少年ロバートは相棒のジムに「お袋は子供を産むしか能がない」(自伝『メイプルソープ』より)と打ち明けています。その頃、母は妊娠つづきで、流産した後も、再び妊娠し、5人目のエドワードを産んだ後、さらにまた妊娠していました(後に妊娠しないよう子宮摘出された)。母は目にかけていたロバートに手をかけられなくなっていました。ロバートにとっては母がどんどん遠くに行ってしまう、そんな内面が絵になって生じていたのです。後にメイプルソープの初期作品の中心テーマの一つが、崩壊した「マリア像」だったことをおもえば、いかに強い内的関心事だったかわかるとおもいます。

高校では仲間に入れてもらえず、教会傘下のマッチョな青少年団体に参加

13歳で(1960年)の時、ロバートと友人ジムは2人とも、コダック社製のカメラ「ブローニー」を手に入れていました。クリスマス・プレゼントでした。ロバートが最初に撮った写真は、赤ん坊の弟のジェイムズでした。メイプルソープ家には、父が「写真」を趣味にしていたため現像用器具がひととおり揃っていました。ロバートはジムと2人で父に隠れてネガを現像して楽しみます。
じつはロバートとジムは2人とも、中学時代、「SP」と呼ばれるスペシャル・プログラムの生徒だったので、中学は2年間しか通っていません。ロバートはこの「SP」を、”スペシャル・ピープル(特別な人間)”の略だと思い込むようになっていたといいますが、少なくとも周りの人たちの目には、本人たちが思っているイメージとは異なる、”スペシャル・ピープル”と映っていたようです。そんな2人の”スペシャル・ピープル”でしたが、高校に入学すると2人が会う機会は減り、「写真」への関心も比例するように減っていきました(しかし、リアルなイメージへの感覚はずっと潜行します)。
ロバートが入学したのは5000人の生徒が通うマンモス校マーティン・ヴァン・ブレン高校(Martin Van Buren High School ;メイプルソープ家があるフローラルパークのやや西寄り、 ヒルサイド・アヴェニュー沿いに建つ)で、生徒の大半はユダヤ教徒でした。カトリック教徒だったロバートは学校にあるほとんどの友愛会(大学の「フラタニティ」や「ソロリティ」といった社交クラブや友愛クラブの高校生版)には入れてもらえず、アウトサイダーの気分を晴らすため、社交の場をキャンパス外に求めたのです。そこはアワー・レディー・オブ・ザ・スノウ教会(
our lady of the snow church)傘下に結成されていたコロンビアン・スクワイアという青少年団体でした。

青少年団体への加入は、半ば父に気にいってもらいたいがためでしたが、この団体もマッチョな青少年にとくに人気があり、ユニフォームも白いマルタ十字の付いたネイビー・ブルーのジャケットでした。ロバートはこの青少年団体に加入し、「自己改造」をはじめます。自らの呼称を「ボブ」とし、その名の如く男らしく振るまおうとつとめます。が、マッチョさは板につかず皆から浮いてしまうばかり。
青少年団体のお目付役の教会の神父たちの仕事は、青年を不純な行為に走らないよう、不潔な考えをもたないように監視することでした(聖なる結婚の契り以外の性行為は無論、少しでもいかがわしい映画を観ることも不道徳として厳しく禁じていた)。ロバートは、制服の様に型にはめられた行為や考えが、次第に耐えられなくなっていきます。学校でも青少年団体にいても文化的な趣味を話題にすると、男らしくないと烙印を押されるばかりで悩みは深くつきません。少年ロバートの「心の樹」は、統一されたユニフォームを着せられ、家でも学校でも教会でも、迸(ほとばし)りでる”芽”は行き場を失ってしまったのでした。

13歳の時、自分は「ホモセクシャル」なのではないか、と不安におののく

少年ロバートが家のクローゼットの中に隠されてあった『チャタレイ夫人の恋人D.H.ロレンス著)を見つけたのもこの年でした(1960年ロバート13歳の年。米国でも同書の無削除版は輸入禁止になっていた。裁判で言論・出版の自由が適用され輸入可の判決が下った1959年の後すぐに父が購入したものとおもわれる)メイプルソープ家でも「セックス」の話はタブーだったこともあり、『チャタレイ夫人の恋人』は秘められたものでした。ロバートはこの『チャタレイ夫人の恋人』よ読んではじめてマスタベーションを経験します。
ここまでは多くの男子に共通するものといえますが、クローゼットに隠されてあった「ヌード雑誌」を見た時、ロバートは自分の感覚と欲望の”異変”に気づきます。「ヌード雑誌」に載っていた女性のヌード写真だけでなく、一緒に映っていた男性の姿態に押さえがたいものを感じたのです。自身は「ホモセクシャル」なのではないか。ロバートは、不安と恐怖にさいなまされます。この時期、米国でもホモセクシャルであることは、イコール「変態」であり、社会的にも受け入れられず、一生涯「オカマ」として軽蔑されて生きる運命にあるとおもわれていたのです。
不安にあおられたロバートは、少しでも疑惑をもたれないように、高校の第二外国語の選択も、希望していたフランス語から急遽スペイン語に切り換えたほどでした(フランス語を専攻する者は「オカマ」だけだという風潮があった)。「男」らしく振る舞う努力をつづけたにもかかわらず、少年ロバートは、メイプルソープ家で「変わり者」扱いされはじめます。父は、スポーツ好きでハンサムで美人の彼女もいて、どこからみても”男らしい”兄リチャードを完全に贔屓(ひいき)にし、ロバートは同じ部屋を共有していた兄と口をきくこともなくなり、ひとり孤立していったのです。

42丁目で売られていたゲイのポルノ雑誌で衝動がはじける

父はメイプルソープ家の「変わり者」ロバートを扱いかねていましたが、自分と同じくプラット・インスティテュート(父の母校)に進学させ、自分と同じくエンジニアの資格をとらせ”常識人”にしようとようと決めていました(兄リチャードも父の意見通りエンジニアの資格取得をめざし州立アカデミーに入学)。ロバートは進学を契機に息苦しい家から逃げ出そうと目論んでいましたが、父は自宅通学を言い渡します。父の青写真通りにプラット・インスティテュートへの進学を決めたロバートは入学前に、かつて祖父が勤めていたナショナル・シティ・バンクで使い走りのアルバイトをしていますが、昼休みに近くにあったヒューバート・フリーク・ミュージアムに出向くようになります(このフリーク・ミュージアムへは、ひと世代上の写真家ダイアン・アーバスも足繁く通っていた)。そこで見た両性具有者やヴードゥー教の儀式などの見世物は、かつて祖母が連れて行ってくれたコニー・アイランドの「見世物小屋」の記憶を甦えらせたかのようにロバートを惹き付けたようです。
しかし、フリーク・ミュージアムへの興味を吹き飛ばしてしまうほどのものとロバートは出会ってしまうのです。それは42丁目で売られていた「ゲイのポルノ雑誌」でした。18歳にならないとその類のものは購入できないため、16歳だったロバートは雑誌の表紙写真しか見ることはできません(性器の部分には黒いテープが貼ってありそれがまた欲望を強めた)。ロバートは身体の芯から”樹勢”が迸り、強烈な衝動が突き上げてくるのを我慢できなくなります。ロバートは盲目の売り子が店番をしている時があることに気づき、本当に目が見えないことを何度も確認し、ある日ポルノ雑誌を万引きします(後日もう1冊盗もうと企て失敗。見張りに見つかり死にもの狂いで逃走)。ポルノ雑誌を見たロバートは、「こいつをなんとかアートにできないかと思った。この感覚を作品のなかに留めることができれば、僕にしかできないことがやれるんではないかと思った」と後に語っていますが(『メイプルソープ』パトリシア・モリズロー著)、それは後日談のことで、その時のロバートにはそこまでの感覚の余裕はなかったにちがいありません。

かつて父も入会していた軍隊栄誉学生団体「パーシング・ライフルズ」

父の母校でもあるプラット・インスティテュートに入学したロバートがまず最初におこなったのは、学内のROTCユニットに属する軍隊栄誉学生団体「パーシング・ライフルズ」へ入会でした。この学生団体は、学内で政治的に最も右寄りでキャンパスを歩く時も銃を肌身離さず、タフガイからなるファシスト的団体として知られていました。じつはかつて父もこの団体に所属していたのです(兄リチャードも入会)
なぜロバートがこうした自身の気質と真逆ともいえるグループに入会希望をだしたのか。それはホモセクシャルに対する激しい罪悪感と、ゲイ雑誌の万引きで捕まりそうになったことへの恐れ、そして選ばれた人間しか仲間入りできない、(父や兄と同じように)”男らしさ”を象徴するエリート組織の一員に自分もなりたいという思いからだったといいます(猛特訓に耐えられなかったと父に告げるのが癪だったため懸命に踏みとどまったとロバートは語っている)。「パーシング・ライフルズ」の制服や、ゲイのSMプレイを彷彿とさせるしごきは(銃の先を肛門に突っ込まれたり、ペニスにレンガを縛ったロープを結わえ腰を振ってレンガを前方に飛ばすもの等、こうしたしごきが新人テストで夜明けまでつづいたという)、意に図らずもロバートを”開花”させてしまったようなのです。「ゲイのポルノ雑誌」「制服」「SMプレイ」気味のしごきなど、後のメイプルソープのアート作品のなかにそのどれもがあらわせられたり、実際に用いられるものとなったのです。そしてそれらを見事にリアルに再現するものが「写真」だったのです。
▶(3)に続く-未
・参照書籍/『メイプルソープ』パトリシア・モリズロー著 
 田中樹里訳 新潮社 2001年刊

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セルゲイ・エイゼンシュタインの「Mind Tree」(2)- 12歳の時、母が家を去る。「絵」と「読書」に向う。父からは「技師」になるよう説得。19歳の時、ダ・ヴィンチと内的つながりを”発見”、後継者になる運命を確信


映画『十月』(1927年)より
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12歳の時、母が家を去る。家の中はまるで”空き地”に

▶(1)からの続き:「道化師」になって、もう一人の自分をつくり出さなくてはならなかった心理的背景には、母の突然の家出もあったようです。サンクトペテルブルグに父と乳母がやって来て、再び家族で暮らしだして1年余りたった、少年セルゲイ12歳の時のことでした。小学校から帰宅したセルゲイは家の中の様子がいつもと違うのに驚きます。部屋が空っぽになっていたのです(残った家財道具は父のピアノとベッド、乳母のベッドだけだった)。母は再び家を出たのでした。今度の目的地は憧れの国フランスでした。父は家具を購入する経済的余裕もなく、当分のあいだ家の中は”空き地”の様になってしまったのでした。セルゲイは天上の聖母マリア様に懸命に祈りましたが、母は一向に帰ってきません。母は自分を愛してなどいなかった。セルゲイの心の中に何も無くなった部屋の様に、冷たい”空き地”が広がっていきました。その”空き地”に現れたのが、想像上の「道化師」—もう一人の自分—だったのです。
セルゲイは想像上の「道化師」を、他人にも目に見えるようにしなくては気がすみません。少年セルゲイは、それらしい「衣装」に装い、覚えた身振り手振りで、自ら”笑いの種”となったかとおもえば、言葉を慎重に選んで周囲の者にふてぶてしい印象を与えるのでした。こうした「変身」行為は、痩せ細った「心の樹」を支えるものになっただけでなく、「もう一人の自分」に”身をやつす”と、自らが表に出ていない分、他人とつきあいやすいことに気づいたのです。しばらくすると周りの者は、「もう一人の自分」の方が、本当のセルゲイであるかのように思いはじめたから不思議です。大きな頭と短い胴体、短く小さな手足に、「道化師」をすっぽり乗り移らせると、きびきびした精気溢れる表情にマッチし、自身のなかで不思議な調和が生まれでたのです。長じてからも、他人といる時は、セルゲイは「道化師」役をつづけていたので、その性格や気性が「セルゲイ・エイゼンシュタイン」だと思われつづけたのでした。
「道化師」に身をやつしているあいだ、少年セルゲイの心のうちで母への愛が憎しみへと変じていきました。ひとり乳母といる時だけは、セルゲイは「道化師」になる必要はありませんでした。素朴で、善良な乳母だけが、少年セルゲイをそのままに暖かく受け入れてくれていたのです。平穏でやすらぎを感じることができるのは乳母と一緒にいる時だけだったといいます。生涯を通じても、セルゲイ・エイゼンシュタインは、素朴で謙虚な人々と一緒にいる時にだけやすらぎを感じつづけ、そうした人々につねに愛情を注ぎつづけた源は、乳母と過ごした少年期の体験にあったのです。

初めての友達と、家の庭でサーカス”興行”をとりおこなう。「絵」と「読書」に向う

母が家を去り、ならば父と心を通わせ、時間を多く共有するようになったかといえば、そうではありませんでした。父は外向的で、友達と人生を謳歌する気象で、妻がいなくなった家にもすぐに順応していきました(嘆きはピアノにのせて易々と追い払えたようにみえた)。そんな父との生活にセルゲイは”順応”できず、一緒に住んでいるのに父との距離はひらいたままでした。父は親子の真剣な話し合いよりも、家具を新調することに熱心だったのです。苦々しい空気を察した父は息子を故郷のラトビアのリガに住む母の姉妹の許に送り出しました。母の姉妹との暮らしに嫌気がさしたセルゲイでしたが、その地で初めて親しい友達ができます。後に芸術活動を共にすることになるマクシム・シュトラウフでした。家の庭でサーカス”興行”をもつ程に、2人は「サーカス」に夢中になります。セルゲイは「道化師」だけでなく、動物になったり、あらゆる役をこなしたといいます。
「道化師」や動物になっていない時、少年セルゲイが時間をさくようになったのは「読書」と「絵」でした。それまでの心理的状態に、その二つの行為が強く作用し、少年セルゲイの内で、痛烈で鋭い「観察者」が育ちはじめていきます。「観察者」であることによって少年セルゲイは、不安と劣等感をなんとか払拭できたのです。
かなりたってから母から贈り物が届いたのですが、(愛と憎しみが入り交じった複雑な気持ちはあったものの)「観察者」セルゲイにとって、その贈り物は痛烈な皮肉の対象にしかならなくなっていました(ダイヤをきらめかせた富豪に、ユダヤ人とニグロの少年が「ありがとう」というプラカードをもってお辞儀するカリカチャアを描いた)。結局、出されることはなかった母への返信には、自分はいま悲劇『ニーベルンゲン』(ヘッベル)を上演することになっていて手がはなせないと書かれてあったといいます(この28年後に、エイゼンシュタインワーグナーの楽劇『ワルキューレ』をモスクワのボリショイ劇場で演出)。少年セルゲイの「心の樹」に、「道化師」や「観察者」としてだけでなく、<神話物語>の”樹液”が生成されはじめていたことをこの手紙は告げているようです。

父から「技師」になるよう説得される。「建築」を”再発見”する

リガに暮らす間、セルゲイは市立実科学学校に通っています。良い成績を取り良い学生たらんという意欲もなく、学校での勉強に身が入ることはありませんでしたが、<知識欲>は旺盛で、「絵」を描いていなければ、「読書」する少年だったといいます。少年セルゲイは美術学校に通いだしています。ところがせっかく通いだした美術学校の教育方法は、枠をはめ込むようなのアカデミックな教育方法でセルゲイは息苦しくなり、「文学」と「代数学」へと避難回避しています。
1914年、第一次世界大戦が勃発。サンクトペテルブルグに戻ったセルゲイを待っていたのは、将来に向けての父からの説得工作でした。見通しもたたない芸術志向を捨て、「技師」になるのが最善だという父。父を前にするとどうしても萎縮してしまう本来は気の小さいセルゲイは、この説得を受け入れるのです。父の引いた青写真にのっとり、セルゲイはモスクワ大学の土木工学専門部に入学します。が、セルゲイは敷かれたコースを歩むばかりではありませんでした。


「芸術の分野で働きたいというぼんやりとした、まだはっきりしない志向は、ぼくに同じ工学でも機械や、技術の分野にではなく、芸術に密接に結びつけられたもの—すなわち建築—へのコースをえらばせた」(『エイゼンシュタイン』マリー・シートン著 美術出版社)


「建築」は、はじめてサンクトペテルブルグの華麗なロシア・バロック建築を見た時にも心を奪われたもので、遡れば少年の頃から不思議と「視線」が向かうものだったのです。もとを辿ればその志向は「建築技師」だった父からもたらされたものでした。関係がうまく”構築”できない父から「技師」になるよう説得されたものの、その芽はセルゲイのなかにすでに宿っていたといってもいいかもしれません。そして自ら「建築」や建築装飾をあらためて”再発見”することによって前にすすむことができたのです。

「ヴォードヴィル・コメディアン」と「寄席演芸」への関心

「建築」の科学的アプローチが、セルゲイにとって興味深い挑戦する対象となる一方、「サーカス」への情熱は決して衰えることはありませんでした。またあらたに「ヴォードヴィル・コメディアン」と、エキセントリックでユーモラスな「寄席演芸」を体験しすっかり魅了されてしまいます。大学の建築学科でしっかりした勉強を重ねていれば、ふつうは大衆演芸への関心は休日の楽しみや趣味で終わりそうなものですが(日本で言えば、芝居や落語が大好きな建築学科の大学生のイメージだろうか)、セルゲイの興味の持ち方は人と違っていました。セルゲイは「サーカス」や「寄席演芸」などの舞台上の「道具立て」に興味をもちだしたのです。それは「サーカス」のリングであったりエイゼンシュタインは芝居『メキシコ』の客席のど真ん中にボクシングのリングを設置し実際、試合をさせた)、寄席の舞台の時代ものの小道具や書き割りなどで、古(いにしえ)のものになればなるほどセルゲイのイマジネーションと幻想を掻き立てたのでした。
その背景にあったのは、真剣に取り組みだしていた「イタリア・ルネッサンス」研究で(18歳の時)、セルゲイはその時代の至高の絵画表現だけでなく、屈託のない演劇的表現に惹き付けられていたのです。そして当時さかんに催された「即興喜劇コメディア・デラルテ」の存在を知るに及び、セルゲイが目にしていた「ヴォードヴィル・コメディアン」(喜劇役者)の動きと様式の中にも、ルネッサンス期の「即興喜劇」の技術が生きているのに気づいたのです。

19歳の時、レオナルド・ダ・ヴィンチと内的つながりがある運命を確信

セルゲイが「イタリア・ルネッサンス」研究に打ち込んでいた時、ロシア帝国は音を立てて瓦解しはじめていました。1917年、「二月革命」が勃発した日にもセルゲイは市街戦が行なわれている最中に、アレクサンドリンスキー劇場に芝居を観に向っています。メイエルホリドが演出する『仮装舞踏会』の初日でした。市街戦のなか劇場は閉まっていました。ただそれほどにセルゲイは、芸術に没入していたのです。セルゲイにはっきりしている未来予測が一つだけあったといいます。それは「技師」としてどれほど成功しようとも、本当の自分を表現することはできない、ということでした。
周りの学生たちが政治思想を闘わせたり恋をしたりしているなか、セルゲイが夢中になっていたのはイタリア・ルネッサンスの万能人、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」でした。セルゲイ19歳の時でした。ダ・ヴィンチ初期の傑作『ベノアの聖母(マドンナ)』は、サンクトペテルブルグエルミタージュ美術館に蔵されていて、セルゲイはそれを見ていますが、セルゲイを魅了したのは、画家・彫刻家としてのダ・ヴィンチだけでなく、哲学者であり、工学者であり、建築家でもあり、化学者、解剖学者でもあり、科学技術に通じた発明家である多面的な才能に溢れたダ・ヴィンチでした。


ダ・ヴィンチのことを読めば読むほど、ますます自分とのあいだに何か内的なつながりがあり、自分がダ・ヴィンチの20世紀の後継者になる運命を確信した。セルゲイはフロイトによるダ・ヴィンチ精神分析的研究に出会った時、いっそう強い絆が確立されたようにおもわれた。このダ・ヴィンチ分析はある面で、自分そっくりあてはまると思われたのだ
 不用意に急いでフロイトによるダ・ヴィンチ研究)に目を通して、最初は大して感心もしなかったが、不意に、『幼年時代の記憶』が意識の中心に爆弾のように炸裂した。彼は茫然とした。新しい太陽が地平線にのぼり、すべてが愛情であふれた。それは天啓だった……」(『エイゼンシュタイン』マリー・シートン著 美術出版社)


セルゲイがダ・ヴィンチを「映し鏡」のように感受しただけでなく、”内的つながり”がある、”強い鉾”があるとまで思いつめるようになったのは、おそらく「幼年時代の記憶」の共通性だとおもわれますダ・ヴィンチにはセルゲイ以上に”家庭”は無かった。ダ・ヴィンチが生まれると公証人だった父は逃げるように良家の娘と結婚し、母もすぐに別の男性の許に嫁いだため、80歳を越していた父方の祖父だけが、セルゲイに対する乳母のように、幼少期のレオナルドの面倒をみた。セルゲイの母の様に、ダ・ヴィンチの母も去っていった)。「心の樹」が成長する過程や契機に相同性を感じとったようです。そのため人類史上類い稀な人物ダ・ヴィンチに自己を<同一化>する大胆さをもいとわなかったのでした(セルゲイには、「道化師」といい「ダ・ヴィンチ」といい自己を自分が強く深く関心が向いた者に、強烈に<自己同一化>する性向があったようだ。またそれが深い学びにつながったといえる)


後の映画『戦艦ポチョムキン』で、民衆や労働者や兵士たちの「顔」や「姿」がリアルに描かれているのは、ダ・ヴィンチの科学的探求精神の”映し”なのです。メディチ家に対するクーデターを仕掛け失敗に終わり首吊りの刑になった者の姿を冷静に克明にスケッチ(「バロンチェルリの首吊り」)したダ・ヴィンチのように、セルゲイはロシア帝国が目の前で崩壊していく様子、敵対関係にある階級がどのようにふるまうかを克明に「観察」していたのです。『戦艦ポチョムキン』は、セルゲイの記憶の底に刻まれた印象と、ダ・ヴィンチ的な科学的な「観察」から生み出されたものだったのです。
▶(3)に続く-未

セルゲイ・エイゼンシュタインの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 建築技師の父、うわべだけの家庭。乳母がもたらしたロシアの「大地」の匂い。ロシア・バロック建築とサーカスへの関心。「道化師」に自らを映し出した少年時代


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はじめに:映画を進化させた「モンタージュ理論」は、「日本語」の<漢字>の学びからやってきた

映画『戦艦ポチョムキン』の製作で、「モンタージュ理論」を確立したセルゲイ・エイゼンシュタインは、映画史のなかでも極めて重要な位置を占めています。『戦艦ポチョムキン』を監督した時、エイゼンシュタインはまだわずか27歳の時でした。映画を「発見」する前に、エイゼンシュタインは、人々の日常の生活の現実(アクチュアリティ)を反映させたリアリスティックな演出方法による野心的なプロレタリア演劇人だったことはよく知られています。ロシア演劇界の革命的な演出家メイエルホリドのもとに飛び込み、舞台と観客とのあいだのギャップを取り払うような時代の精神を体現した演出を吸収し、そこから自身の演劇を生み出していきました。その演劇の革新さは、エイゼンシュタインの少年時代から青年期にかけての「マインド・ツリー(心の樹)」がある意味そっくり映しだされたものだったのです。
20代前半に取り組んだ舞台、たとえば『マクベスシェイクスピアや『メキシコ人』ジャック・ロンドンの衣装デザインは、引っ込み思案だった少年エイゼンシュタインが自ら”同化”したサーカスの「道化師」の衣装から発展させたものであり、『戦艦ポチョムキン』で確立されたとされる「モンタージュ理論」は、青年期に興味をもって学んでいた「日本語」の<漢字>が、基本コンセプトとインスピレーションの<鏡>になっていました。
映画の革命的進化の契機に、エイゼンシュタインが勉強していた「日本語」とその<漢字>(無論、大本は中国語ではあるが、エイゼンシュタインは日本文化への関心から日本語、そして<漢字>を学んでいた)があったことは、エイゼンシュタインや映画史にそれほどの関心がないひとにとっても興味深いものではないでしょうか。映画とのかかわりがまだまったくない時期に、エイゼンシュタインの「心の樹」に<漢字>の”言の葉”がついていたことは、エイゼンシュタインや映画の世界にとどまらず、おおいに参考になるにちがいありません。またエイゼンシュタインは歌舞伎にも大いに刺激を受け、モスクワ公演をしていた市川左團次に「歌舞伎の見得は映画の技法でいうクロースアップだ」と述べ、映画『イワン雷帝』においては見得を切らせたことも夙(つと)に知られています。
「創造(力)」とは、二つのまったく異なる次元のものごとが強烈に接触し、奇妙に結びついた時にぽっくりと生じるものである、といわれていますが、セルゲイ・エイゼンシュタインの場合、まさにその様子が手にとるようです。そして「創造(力)」とは、同時に、自らの裡なる「心の樹」が映し出されないところでは、結局は(自分にも他人にとっても)何ものにもならず、無味乾燥なアイデアやイメージにばかりに始終するでろうこともまた本当であることを、エイゼンシュタインの「マインド・ツリー(心の樹)」から読み取れるのではないかとおもうのです。

ユダヤ人の父はロシア皇帝の直轄地ラトビアの都リガの建築技師

セルゲイ・ミハーイロヴィッチ・エイゼンシュタイン(Sergei Mikhailovich Eisenstein)は、1898年1月23日(〜1948年)バルト海に面するロシア帝国下のラトビアの都リガに生まれています(ラトビアは現在のバルト三国の一国のラトビア共和国第一次大戦後の1918年に独立。1940年にソビエト連邦に併合されるが、ソビエト連邦崩壊後の1991年に独立を回復)。
ユダヤ系だったエイゼンシュタイン家は、祖父、あるいは父ミハイルの代でその信仰を捨てていました。ロシア帝国は、ユダヤ人に対し、大学か技術専門学校の学位をもたないユダヤ人はロシア皇帝の直轄地となったリガに住むことを禁止します(1885年)。父ミハイル・エイゼンシュタインは、ロシア皇帝の直轄地リガ市の「建築技師」でした。


英語と日本語のウィキペディアでは単にあっけなく「建築家」とある。ただ、参照されている資料は1点のみで、その記述もかなり簡潔なもの。フランス語のウィキペディアでは、ingénieur municipal de la ville de Riga、リガ市に勤務する「技師」としている。また、伝記本『エイゼンシュタイン 上・下巻』/マリー・マートン著—では、リガ市庁に勤務する成功した「技師」、サンクト・ペテルブルグに移り住んでからも土木技師として働いていたと記述。評伝『エイゼンシュタイン』/レオン・ムシナック著—では、父ミハイルはリガ市の建築技師だったとしている。こうした記述を基に、少年セルゲイがサンクトペテルブルグに移り住んだ折り、その華麗な建築物や装飾に大きな感銘を受けていること、サンクトペテルブルグでセルゲイは16歳の時、公立土木高等専門学校に入学、父と同じ職業に就く準備のため「建築技師」の勉強をはじめた、という詳細な記述—『エイゼンシュタイン』レオン・ムシナック著内、ジョルジュ・サドゥールによる年表—を含めそれらを総合的に勘案、判断すれば、リガ市に勤務する「建築技師」が妥当だとおもわれる。


ロシア皇帝の直轄地リガでは、ユダヤ人であってもキリスト教徒に改宗しさえすれば、父ミハイルのように市の建築技師に就くことや市の官吏になることを認めていました。けれどもミハイル・エイゼンシュタインのように、資産家のロシア婦人と結婚することになるとかなり稀なケースだったといいます。市の建築技師として秀でて成功したミハイル・エイゼンシュタインが娶ったのは、小柄ながらも洗練され品のある女性ユーリアでした中産階級でも上の部類の家系の出身ともされる)。ユーリアは、フランス風、ドイツ風、英国風のエレガントで、優雅なものにしか関心がない、言ってみれば”根の浅い”女性でした。ミハイルは、俄か成功者が必ずといっていほど陥る落ち着かない刺々しい路を歩くことになります。
一方、ユーリアにしてみれば、ずんぐりした胴体に幅広の額ながら洗練されているとおもったミハイルは、蓋をあけてみれば友人たちと劇場に乗り込んで最前列に陣取り、ヨハン・シュトラウスの喜歌劇『こうもり』の舞台のコーラスの合唱のあいだ、酷い声を張り上げて歌いつづけせっかくのコーラスを台無しにするような人物でした。家の外では、露骨な戯れ言に興じるばかりで、品格を重んじる母ユーリアとはあまりにも気質や性根の種類が違っていました。この父ミハイルの気質は、息子のセルゲイへと受け継がれていくことになります。幼少期のセルゲイにとって、母ユーリアはまるで手のとどかない世界に住む聖母そのものだったといいます。

とりつくろわれたうわべだけの家庭。乳母がロシアの「大地」の匂い、神秘の感覚をもたらした

エイゼンシュタイン家の家庭は、とりつくろわれたうわべだけのものでした。ロシア皇帝の直轄地リガの支配者側の空気に近いものものだったにちがいありません。そんなお高くとまっているのか、分裂しているのかわからないエイゼンシュタイン家に、暖かな「大地」の匂いをもたらす人がやってきたのです。セルゲイの乳母となる女性でした(後にエイゼンシュタイン家の家政婦となる)。このロシア人の乳母から、幼いセルゲイは、両親からは決して得ることのできない、素朴なロシア民衆に対する親近感や、ロシアの百姓言葉を肌感覚で接することになったのです。乳母は小さなセルゲイに、(後のエイゼンシュタインにとっても)決定的に重要な感覚を宿らせます。それは「神秘的」なものに対する感覚でした。乳母はセルゲイに、聖像(イコン)や魔除けには深淵なパワーが潜んでいるので、幸運の象徴は肌身離さず身につけていなくてはならないこと、聖像の前でお祈るすること、聖人たちの奇跡の「物語」の数々、目に見えない彼方にある世界のことを教え、伝えたのでした。


エイゼンシュタインはもはや、自分が三角形の構図をくりかえし用いるのは、自分の創作だとか、自分の思いつきだとは思わなかった。逆に、自分はたんに超自然的な意識の媒介手段(インストルメント)に過ぎないと感じた……「偶然の一致」は彼に、基本的な形式、とくにピラミッドとか三角形のように神と人間と宇宙の関係を象徴する形式は、このより高い真理の具体的な証跡であると確信させた。この形は人間の情念をゆり動かす手段であって、こういった形の中に人間は、たとえその背後にある形而上的な観念をつかみとる意識的な知力をもたないとしても、秩序ある宇宙の神秘を感じとったのだ」(『エイゼンシュタイン 上巻』マリー・マートン著 美術出版社 232頁)


小さなセルゲイにとって、乳母とちがいいつも身近にいてくれない母は、ゆえに人の匂いもなくどこか神秘的で、手のとどかないところに存在する聖母マリアのイメージと重なる存在だったようです。セルゲイ7歳の時、突如、母ユーリアに連れられ家を出、列車に乗ってサンクトペテルブルグ英語圏での呼称はセントピーターズバーグ。1914年から1924年の間の呼称はペトログラード1924年以降、1991年までのソビエト連邦時代はレニングラードへ行きました。ユーリアは「北のベネチア」と呼ばれるその地に部屋を借り住みだしたのです(母の行動の背景には、日露戦争敗戦直後、1905年に第一次ロシア革命が勃発し、ロシア帝国が独立に向かい蜂起したラトビア市民を武力鎮圧するなど物騒な日々がつづいていたが)。両親が別れて暮らすことは、当初は偶像ですらあった母と2人きりになれ無情の幸せを感じたのですが、次第に不安なものになっていきます。セルゲイの”聖母マリア”は、セルゲイを父の住むリガに送り返したのです。再び今度は逆に乳母に付き添われてサンクトペテルブルグの母の許へ。そしてまたひとり列車に乗せられリガへ。
父と母の間を行ったり来たりしている不安な気持ちのなかで、少年セルゲイが心を向けるようになったのは「絵」を描くことでした。セルゲイはいつも持っていたスケッチブックは、空想的な絵で溢れるようになっていったのです。この頃出会った終生の友となるマクシム・シュトラウフ(後に俳優)は、10歳頃のセルゲイがたくさんの空想的な絵でスケッチブックを満たしていたのを何度も目撃しています。

サンクトペテルブルグの華麗なロシア・バロック建築の虜に

11歳の頃、少年セルゲイの不安定な暮らしに終止符が打たれました。父ミハイルがサンクトペテルブルグに乳母を連れてやって来て、その地で土木技師の職を見つけたのです。じつはセルゲイは、サンクトペテルブルグに来る度に、このロシア最大の文化都市が誇る華麗なロシア・バロック建築にずっと心を奪われていたのです(後に、その建築への強い関心は映画『十月』にあらわされる)。建築や建築装飾への興味は、間違いなく「建築技師」だった父ミハイルの影響でした(セルゲイが16歳の時に入学したのは、サンクトペテルブルグの公立土木高等専門学校で、父と同じく「建築技師」の勉強をはじめている)
サンクトペテルブルグは、壮麗な装飾で埋め尽くされていました。少年セルゲイがすっかり魅了されたのは、とりわけ冬宮の荘重なファサードの装飾や花弁紋様、その上部にとりつけられた官能的な新古典派的な人像だったといいます(成年にいたっても持続されたその印象は、その社会的な意味を知った後には、逆に嫌悪感へと変わり、偶像破壊へと駆り立てられてるようになる。上流階級のロココ趣味には強い反発を抱いていた)。ミハイルに連れられてきた乳母ら一般ロシア民衆にとっては、サンクトペテルブルグは「非ロシア的」なものの総和で、まるで異国の地だったといわれています。それは「母なるロシア」と呼ばれる「大地信仰」を根底にするモスクワの、「土」の匂いがする「土着の都」とは真逆で、西欧に倣って「人工的」に建設されたキリスト教的にして父性的支配に基づいた大都市でした。
サンクトペテルブルグの華麗さ、その都市建築美は、不和だったエイゼンシュタイン家に、一時の融和をもたらしました。エレガント好きな母ユーリアにとってだけでなく、ユダヤ的なものを払拭して一人息子にコスモポリタンな教養を身につけさせようとした父にとっても願ったり叶ったりで、裕福な家庭で流行っていたように、さっそくイギリス人の婦人家庭教師が雇い入れられたのです。少年セルゲイの英語はたちまち上達、英国の児童文学にすっかり慣れ親しみ外国語で自己表現できるまでになっていました。結局、少年セルゲイはサンクトペテルブルグの小学校に通いだしたものの、重要な初等教育はこの婦人家庭教師から受けることになります(友達のように自由気侭に外で遊べない自分の境遇を英語で詩に書いて自嘲。後年になってもこの特権的な家庭教育を皮肉っている)

サーカスに魅了される。「道化師」に自分を映し出し、自ら「別の性格」をつくりだした

「人工都市」サンクトペテルブルグで、華麗な建築美と装飾に目を奪われる傍らで、少年セルゲイがもう一つ虜になったのは、サーカスの「道化師」でした。ことの発端は、乳母が気持ちが塞いでばかりのセルゲイを楽しませようと、ある日、空き地にたったサーカスに連れて行ってくれたことでした。空中ブランコ、綱渡り芸人、アクロバットなサーカスにひととおり興奮した少年セルゲイは、背丈が同じくらいの小柄な道化師が気になってしかたなくなるのです。その道化師は、人間と同じように頭があって手足があるにもかかわらず、これまで見たこともない不思議な生き物にセルゲイの目に映ったのです。おどけた仕草をする道化師に、少年セルゲイは自分を”映し出し”ていました。自分がもし道化師だったら、引っ込み思案や孤独につきまとわれなくなる、そう想像をはりめぐらしたといいます。その想像には、少年セルゲイの内面だけでなく、外面、つまりセルゲイ自身気に病んでいた身体的な不格好さ(セルゲイ自身、自分は頭でっかちで胴体も手足も短く妙ちくりんな体つきだと強く思っていた)から逃げたかった、身体を魔法のように隠してしまい誰にも相談できない欲求があったのです。
「大地の匂い」を運んできた乳母が、ふたたび「大地の人間」に触れさせたのでした。家に帰ってからも道化師にかけられた「魔術的」な幻想はなかなか消えず、それどころか自分が一日一日と「道化師」に”変化”していっているような奇妙な感覚が生じだしたのです。セルゲイはサーカスがサンクトペテルブルグの空き地にやって来る日を心待ちにし、テントが立てばセルゲイは見逃すようなことは決してなかったといいます。もはや小柄な「道化師」は、少年セルゲイの「分身」でした。
そしてセルゲイはあることをはじめるのです。セルゲイ自身、不格好だとおもっている自分の肉体的な特徴に合わせるかのように、自身の縮まった引っ込み思案の性格とはまったく異なる、もう一つの「別の性格」をこしらえだしたのです。
▶(2)に続く
・参照書籍:『エイゼンシュタイン 上・下巻』マリー・マートン佐々木基一、小林牧訳 美術出版社 1966年刊/『エイゼンシュタイン 現代のシネマ8』レオン・ムシナック著 小笠原隆夫、大須賀武訳 三一書房 1971年刊

美空ひばりの「Mind Tree」(2)- 敗戦翌年、芝居小屋「アテネ劇場」で旗揚げ公演。「四国巡業」でバス衝突事故、仮死状態から”甦る”。樹齢2000年の日本一の杉の大樹に誓う


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焦土と化した日本列島に、大きな想像の「リンゴの樹」が誕生する

▶(1)からの続き:敗戦から2カ月後の1945年10月。”戦後歌謡曲”の最初のレコードが制作され発売されます。「リンゴの唄」でした。
「赤いリンゴに唇寄せて だまって見ている青い空 
 リンゴはなんにも 言わないけれど 
 リンゴの気持ちは よくわかる
 リンゴかわいや かわいやリンゴ」サトウハチロー作詞)
「リンゴの唄」は、「戦後歌謡史」の<出発点の曲>になった曲でした。敗戦から3カ月後。焦土と化した日本列島に突如出現した「想像の巨大な樹」でした。その想像の樹は、心を寄せてくる、焼け出された無数の日本人に、一つづつの赤いリンゴを手渡したのです。その「想像の赤いリンゴ」は、米兵がすきっ腹の子供たちに渡すチューインガムやチョコレートでは満たしてくれないものを満たしたのです。まさに古来から「歌」に心を寄せ、”言祝(ことほ)がれる”ような<言語空間>に心をかよわせてきた日本人の”心根”を、その共通しうる(だろうと皆が思っている/あるいは思い込んでいる)想像力を、無意識の裡に確認させるような歌だったのです(「リンゴの唄」は、GHQ検閲第一作目となった松竹映画『そよかぜ』の主題歌。主演:上原謙並木路子東映時代劇の重鎮だった監督佐々木康は、後にひばり主演の映画を数多く手がけることになる)
空襲警報が鳴り響いていた空は、「美しい青い空」をとり戻していました。ひばりの母・喜美枝もそうした「空」が大好きでした。その美しい青い空の下、磯子にある古い木造の市場が、小さな芝居小屋に生まれかわっていたのです。「アテネ劇場」でした(地元では「磯子劇場」と呼ばれた。五人掛けの木製ベンチ10脚が2列に並べられていただけの客席だったが、こけら落としには歌舞伎界の大物・当時の中村勘三郎松本幸四郎も舞台に立っています。歌舞伎座は閉鎖中で各地の小劇場にあがっていた頃だった)

敗戦の翌年、磯子の芝居小屋「アテネ劇場」で、「美空楽団」が旗揚げ公演

1946年9月、「美空楽団」が、旗揚げ公演をおこなったのがこのアテネ劇場でした(3日間借り切りの主催公演だったため、東京から名が売れている夫婦漫才師をトリに出演させている)。9歳の少女和枝は1時間にわたって歌いつづけました。そのうちの1曲が「リンゴの唄」でした。この時、小さな歌い手・和枝の舞台上の名前は、「美空和枝」になっていました。芸名の姓「美空」は、母のアイデアで、「空のように広々とした気持ちで、どこまでも行って欲しいと思うから」と、母は語っています(『ひばり自伝』より)。ネーミングにはそれを付ける人の希望や思いが反映されることをおもえば、「空のように広々とした気持ちで、どこまでも行って欲しいと思うから」というのは、母・喜美枝自身の希望や思いでもあったのです。
この旗揚げ公演にして、後の「美空ひばり」の姿がすでに予感されています。美空和枝は、「旅姿三人男」を歌う際、道中姿に扮し三度笠で顔を隠して登場し、歌い出しの時に笠をとると照明がパッとあたる光景をつくっています。これも母のアイデアでした。男装の麗人としても映える「美空ひばり」はすでにこの時にはじまっていたのです。
またひばりがこの頃に歌うようになっていた歌、「大利根月夜」「小雨の丘」「チンライ節」「長崎物語」は、後年の「ひばり節」として知られる多くの要素が、この4つの歌曲にすでに含まれていたとわれます(『完本美空ひばり竹中労。それは遊侠調で詠嘆調の歌(後の「柔」)、抒情溢れるシャンソン風の歌(「悲しき口笛、波止場もの(「哀愁出船」)、コミック・ソング風の歌(「お祭りマンボ」)でした。

その年の暮れ、伊勢佐木町で焼け残ったビルで、NHKのど自慢横浜大会に出演(10歳の時)。急ごしらえの杉材を使ったステージで、少女ひばりは「長崎物語」を歌っています。複雑な表情をする審査員たち。審査員の空気が読めなかったアナウンサーが少女にもう1曲歌うよううながします。「悲しき竹笛」か「愛染かつら」が歌われたとされます。鐘は鳴りませんでした。子供が大人の歌を歌っても審査の対象にならなかったのです(前例がなく審査基準がなかった)。子供に大人の歌を歌わせるのは「児童虐待」にあたり、「ゲテモノ」趣味である、言われています。

杉田劇場で幕間のつなぎとしての起用される。興行師の目にとまる

つづいて「美空和枝」がステージに立ったのは、同じ磯子区内で最も立派な劇場で、海に面していた杉田劇場でした(日本飛行機という会社の工場を改装した建物。収容人数300人。この劇場が賑わったのを知って伊勢崎町界隈に、マッカーサー劇場と、後にひばりが舞台にあがることになる横浜国際劇場が、1947年にたてつづけにオープン)。母・喜美枝の売り込みが功を奏したのです。幕間のつなぎとしての起用でしたが、出演は3カ月続きました。この時、そしてその舞台で一緒に出演していた漫談の井口静波と俗曲の大物・音丸夫妻の一座から、前歌(前座)として「四国巡業」に出ないかと誘われます。
この「四国巡業」が、ひばりの命運を決する旅になったことはすべての『伝記』と『自伝』にあらわされています。それは「加藤和枝」死出の旅路であり、起死回生の「黄泉帰り」となり、真の意味での後の「美空ひばり」誕生のターニングポイントとなった旅となったのです。それは”黄泉帰った”者=当時の「美空和枝」ばかりでなく、その様子を直に体験した母・喜美枝にとっても同じで、これ以降、2人の「心の樹」は”一心同体”となり、日本一の”唄歌いの樹”となって伸びはじめたのでした。
以下、その経緯と顛末を簡単に書き記せば、次の様になります。このロングランになる「四国巡業」には、芸事好きだった父・増吉が大反対します。父は娘が、浮き草的な水商売家業で、河原乞食の様な芸人になることは大反対で、まともな堅気の家に娘を嫁がせたいという思いが強くあったのです。なぜなら自身が、栃木から出てきて丁稚奉公からたたきあげ、ようやく一つの土地に”根”を張った存在になれたというのに、可愛い娘がなんでまた”根無し草的な”芸人になるのか、という思いだったのです。芸事の手引きをしたことが裏目に出てしまうとは、父・増吉は思いもよらなかったようです。父・増吉は怒鳴りちらしたといいます。
父から猛反対を受けた「四国巡業」がなぜ成ったのか。この辺りからひばりが自伝で書いたように「光と影」(『自伝』のサブタイトルでもある)が凄まじい勢いで交叉していきます。あれだけの「光」を生み出すための「影」。粋で遊びも派手だった増吉。バーのマダム(かつて奉公時代に出入りしていた同業者の娘)とのあいだに2人の男の子をもうけ、すでに何度も夫婦喧嘩の種となっていたのです(戦争中に、母がその証拠写真をにぎった。それ以外にも、ひばり10代後半の時、母娘をさらに一体化させた事実が発覚します。ひばりが生まれた時に家にお手伝いとして来ていた母の実妹と関係してしまい、女の子が生まれています。それまでずっと仲のいい従姉妹が、ひばりの母の妹の子供だったのです。—『自伝』より)
「四国巡業」は、「家族の亀裂」(父の負い目)があって叶ったといってもいいものでした。父・増吉の道楽さが母・喜美枝の<異常>とも思えるほどの芸能活動へののめり込みの理由になったと一般的にいわれていますが、その背景にあったのは、単なる「道楽」の閾を越えてしまった父と、深い「家族の亀裂」でした(最も、8月の小学校が夏休み期間だったこともあり最期に父はしぶしぶ了承したともされる)

「四国巡業」でのバス衝突事故。「仮死状態」から”黄泉帰った”ひばり

ひばりの「不死鳥」伝説の起こり、そしてひばりの「心の樹」に「不死鳥」がとまったのは、昭和22年8月(ひばり9歳)、四国でのことでした。一座とひばり母子、そして「美空楽団」のメンバーが乗り合わせていた満席状態の路線バス(高知県大豊村から土讃線の大杉駅行き)がトラックと衝突。バスは崖の下を流れる吉野川に墜落する寸前で、バンパーが桜の木に引っかかったものの(桜の木が亡ければ全員死亡だったという。振り落とされた女車掌が偶然にも下敷きとなりバスが崖から落ちるのを防いだとも)、車掌さんは即死、ひばりも瞳孔が開き「仮死状態」になり、息が途絶えた車掌さんの横に寝かされ筵(むしろ)を掛けられています。村の唯一の医師のことなど、幾つもの奇跡と幸運が巡ります(詳細は『自伝』や『伝記』へ)。およそ30時間もの間、意識不明の状態が続きましたが(村医師は心臓に太い注射をしている)、奇跡的に息を吹き返しています全身骨折の重傷。右手首動脈への大きな傷は生涯後遺症となる。横浜に戻る前、四国で1カ月治療を受けている)
この世に生還を果たしたひばりは、地元の大杉村の八坂神社の境内にある、日本一大きな杉の大木(14尋—ひろ。つまり大人14人が手をつないで囲めるほどの太い幹)のことを聞き、「私は日本一の大杉のある村で生まれ変わったので、お礼に行きたい」と、村を離れる前にその大杉を見に連れて行ってほしいと病院の医師に願い出ています。その大杉の樹は、スサノオノミコトの化身ともいわれ、樹齢2000年余の「神木」でした。ひばりの最初に出版した『自伝』は、この杉の樹のことから始まっています。「助けてくださった杉さん、私も、あなたに負けないような日本一の歌手になりますから守って下さい」と、誓ったといいます。その姿を見て、母・喜美枝は、自分の命を捧げても惜しくはないと泣き出しています。
横浜に帰郷した時、「和枝には二度と歌を歌わせない」と、父・増吉は母にびんたをくらわせています。しかし、この大事故を体験した母・喜美枝の心の内に、「信仰」にも近い念がおこっていたのです。母は、まさに意識不明の状態から甦った娘の奇跡を見ています。娘に「神」が乗り移ったと、時に公言することもあったといいます(地元の新聞に「豆歌手・美空和枝は神様の申し子だ、という大きな記事が出た)。そしてひばり自身、父を前にして「歌をやめるなら、わたし、死んだ方がまし、自殺する」と言い放つのです。しかしバス事故を契機に「美空楽団」は解散してしまいます。

”2本あった樹齢2000年余の「神木」。「本尊」としての「ひばり」、「教祖」としての母

八坂神社の大杉は、和枝と母のように、1本でなく2本が重なるような大杉でした。ひとはそれを「本尊」としての「美空ひばり」、「教祖」としての母・喜美枝と見立てるのでした(敗戦後、心の拠り所を失った人々を呼び込むように、各地に新興宗教が誕生している。その教祖の多くは庶民の出の女性が多かった。そうした気性、気質に近いものをもっていた母・加藤喜美枝が、我が子に「奇跡」を見たことで、2人による”神がかり的”ともいえる「美空教」が誕生したと。「美空」の名は、いうまでもなく母がつけた芸名でもあった。後に美空ひばり自身よく口にしていた言葉は、「美空ひばりには神様がついていてくれるけど、加藤和枝には神様がついていない」だった。『戦後—美空ひばりとその時代』—本田靖春講談社
「四国巡業」とは、「美空ひばり」誕生に、それほど大きな意味をもっているものでした。「美空ひばり」と「母・喜美枝」の各々の「マインド・ツリー(心の樹)」に、四国でも随一の、否、日本一とも言われていた樹齢2000年余の「神木」が、映し込まれたのですから。あらためていうまでもなく、母と娘の名前は、「喜美枝」であり、「和枝」で、2人はもともと樹木の心と姿が映し込まれた名前でした。少女「和枝」が、黄泉帰った時、「神木」である日本一の大杉に、まったく素直に「お礼に行きたい」と思わせたのも、まったく無関係ではなかった、そう思わせずにはおられません。
▶(3)に続く-未
・参考書籍『戦後—美空ひばりとその時代』—本田靖春講談社 1987年刊)/『姉・美空ひばりと私—光と影の50年』佐藤勢津子著 講談社 1992年刊/それ以外は「美空ひばりマインド・ツリー(1)」に掲載

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ペレの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- ペレの曾祖父と曾祖母は黒人奴隷だった。プロのフットボール・クラブからスカウトされた父。授業中は落ち着きなくおしゃべりばかりの「問題児」。8歳の時の夢は「パイロット」


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はじめに:学校の授業を何度もさぼってまで行った場所は、「サッカー・スタジアム」ではなく、「飛行機の演習場」だった

ペレといえば、「サッカーの王様—The King of Football」です。16歳の時、サンパウロサントスFCに入団、16歳9カ月でブラジル代表としてデビュー、17歳でワールドカップに出場し、当時の史上最年少でのゴールを決めるなど大活躍、ブラジル3度の優勝に導き、公式記録では前人未到の1281ゴールを打ち立てています。ペレのみならずブラジルや南米の多くのプロのサッカー選手が貧しい家庭環境の出身ですが、ペレがサッカーに夢中になっていく過程をみると、幼少期からずっとサーカーに夢中になり、脇目もふらずにサッカーを追い掛け、それに並外れた身体能力が掛け合わさって「ペレ」が一気に誕生した、というようなイージーなイメージでは推し量れないものがあることがみえてきます。
第一に少年期のペレは、落ち着きがない子供で、授業中もすぐにぺちゃぺちゃ喋りだす「問題児」だったのですが、ちょっと変わったところがあったといいます。少年ペレの最初の「夢」は、サッカー選手でなく、「パイロット」でした。パイロットじたい、動く乗り物が大好きな少年たちにとってはありえない話ではないのですが、学校の授業をさぼっては飛行機の演習場に”しつこいくらい”に通う少年だったのです。父は息子に「パイロット」になるために勉強しておかなくてはならないことを教えたといいます。しかしある日起こったことを目撃し、「パイロット」になる夢が突然ペレから離れていってしまいます。
またペレの母もこれもよくいる母親のように危険な遊びをやらないようつねに監視し、宿題をさせ、次の学校に進学し、まっとうな仕事に就いて欲しいと願う人でした。とにかく少年ペレは、マンゴーやブドウ、サトウキビが植わっていた庭(父の関係で引っ越した大きな町バウルでの家)よりも広い場所、家の前の通りよりももっと広い場所、—それが最初のうちは「空」や(「パイロット」への夢)、「川」(溺れて死にそうになった)だったのですが—、単純に言えば教室や部屋の中にじっとして居ることがたまらなく嫌だったのです。誰しも子供の頃は、そうした思いになったりするものですが、その度合いは幼少期の「心の樹」の根のすわり具合によってかなり変わるものです。
それではペレの「マインド・ツリー(心の樹)」を一緒にみてみましょう。その「心の樹」の向こう側には、ペレの先祖たちの「心の樹」が重なってみえてきます。ペレの先祖たちは、「黒人奴隷」として、中央アフリカから”根こそぎ”狩りとられてきた者たちでした。ペレの「心の樹」は、決して彼個人のものなのではく、そうした彼等の「心の樹」と深くつながっているものなのです。ペレ自身もそのことを後に強烈に気づかされることになります。

ペレの曾祖父と曾祖母は、まだ黒人奴隷だった

ペレ(Pelé ; 本名:エジソン・アランチス・ドゥ・ナシメント—Edison Arantes do Nascimento/以下、幼少期も「ペレ」と記す)は、1940年10月23日、ブラジルのミナス・ジェライス州トレス・コラソンエスに生まれています。トレス・コラソンエスは、リオ・デ・ジャネイロサンパウロ(あるいはすぐ南方にあるサントス)とを結ぶ、二等辺三角形のちょうど頂き辺りにあり、ミナス・ジェライス州の最南端の町です。ペレの祖先の出身は、中央アフリカアンゴラかナイジュリアだったであろういわれています(ペレの家系をたどろうと調査したジャーナリストからペレが知った情報)。ペレの姓ナシメントは、黒人奴隷として働かされたプランテーション・オーナーの姓だったようです。
ブラジルでの奴隷貿易の廃止は1850年でしたが、奴隷制が廃止されたのが1888年でしたアメリカ大陸ではブラジルが奴隷制を廃止した最期の国となった)。ペレの曾祖父と曾祖母は実際まだ奴隷で、祖父と祖母の世代が、生まれた時からはじめて自由の身となった世代でした。ペレの「マインド・ツリー(心の樹)」は、アフリカの大地から村ごと”根こそぎ”捕らえられ、見も知らない土地に狩り出された先祖たちの哀しみの心の層から生えています(ペレは『自伝』に奴隷制は過去の遺物ではない、と記している)。ペレがサントスFCに所属していた時、はじめてアフリカ中部の国々を回って試合をした際、ペレはそこが自分の故郷なんだと感じた心と、つめかけた何万人ものアフリカ黒人たちの心と強く響き合い、世界観が一変したと語っています。


◉ブラジルの黒人奴隷について◉
ブラジル黒人奴隷史には、つぎの3つの時代があります。「砂糖の時代」(1601〜1700年)に65万人、「金の時代」(1701〜1800年)に189万人、「コーヒーの時代」(1801〜1870年)に115万人が、それぞれアフリカから連れてこられました。ペレのルーツも中央アフリカ出身だったように、実際ブラジルへの黒人奴隷は、中央アフリカギニア湾のアエウギン、ラゴスなどの湾で船積みされ(過酷な航海途中での死亡率は20%だったという)、二カ月間かけリオ・デ・ジャネイロサルヴァドールなどで降ろされ奴隷市場に送られています。ちなみに内陸進出には、高価になっていた黒人奴隷の代わりにインディオが捕獲され労働力として使用されています(「インディオ奴隷」といわれる)。
「金の時代」への移行の背景には、ブラジル北東部から追い出されたオランダが、カリブ海地域ではじめたサトウキビ栽培が成功し、ブラジルの砂糖生産事業に深刻な打撃を与えたため、砂糖に代わる新たな「富」としての金鉱が探索されていました。ペレの両親が出会ったのはまさに「宝石の鉱山」が州名になったミナス・ジェライス州です。まさに探検隊が金脈を発見(1693年)した土地で、すさまじいゴールドラッシュになったといいます(金の後に、ダイアモンド、トパーズ、紅水晶などが次々と産出された)。北東部の砂糖生産地から零落した農園主たちが奴隷を引き連れてやって来ただけでなく、あらゆる階層の人たちが雪崩をうって押し寄せ、無法地帯と化したといわれます。ペレの姓ナシメントは、プランテーション・オーナーの姓であり、祖先の出身もおおまかに辿れたということなので、「コーヒーの時代」に入ってから奴隷として連れてこられた可能性もありますが、ペレが生まれた「トレス・コラソンエス」は、金を中心に採れる鉱山が多いので、「砂糖の時代」の奴隷からこの地へと連れてこられた可能性も否定できません。


ペレは、誕生した地「トレス・コラソンエス」に、幼少期の2、3年間しか過ごしていませんが、『自伝』のなかでも書かれているように、誕生の地は、深く意識の裡で生きつづけているといいます。「トレス・コラソンエス」というこの土地の名は、この地に働いていたひとりの農夫の発案で建てられた教会の名「ホーリー・ハーツ・オブ・ジーザス・メアリー&ヨセフ」からきています。「ジーザス、メアリー、ヨセフ」の”3人の心(あるいは3つの心)”、つまり「トレス・コラソンエス」がこの土地の名となったといわれています(説はブラジルらしく複数ある)
ほとんど記憶のないこの町がどうしてペレにとって重要なのか。それには理由があります。ペレがこの土地に生まれるべくして生まれたという強い実感は、命を落としてもおかしくなかった「3度」の体験からきていたのです。同時に、その危険な体験は、少年ペレの腕白ぶりを裏書きするものでもあり、その危機はあわやのところで両親や大人たちに救われていたのです。「3度」も命が助かった程の腕白ぶりがが、ペレをサッカー界の「キング」にしたともいえるかもしれません。

生家は今にも崩れ落ちそうな古いレンガづくりの家

ジョアン・ラモス・ナシメント(通称ドンデーニョ)と母セレステが出会ったのは、このトレス・コラソンエスでした。父ジョアンは100キロ程離れた小さな町の出身だったのですが、トレス・コラソンエスで軍隊に所属していました。トレス・コラソンエスに生まれ育ったのは母セレステの方で笑顔が可愛らしい小柄な女性でした(父ドンデーニョは180センチ以上あるが、小柄な母の遺伝のせいかペレの伸長はサッカー選手としては小柄な171センチだった)
父ドンデーニョが夢中になっていたのは、「フットボール=サッカー」で、トレス・コラソンエスアトレチコセンターフォワードをしていました。そのクラブは地元のフットボールクラブで、プロのクラブではなく、いくら勝っても勝利給が出ることなどなく母の待つナシメント家にお金が入ることは一切ありません。そのためか当時フットボールをやっていると聞くと、ほとんどの場合あまりいい話にはならなかったといいます。そして2人の家も、古いレンガづくりで今にも崩れ落ちそうな家でした(現在は、家の前の通りがペレの名にちなんで名づけられ、家にはペレの生家だと記した額が飾られてある)。2人はセレステが15歳の時に結婚。翌年すぐにペレが生まれています。
生まれる時、お腹をあちこちキックするかのように、全身で暴れんばかりにして生まれたそうです。父は男の子だと喜び、生まれたばかりの足を撫でながら、素晴らしいフットボール選手になるぞと言ったそうです(ところがペレの最初になりたかったのは、フットボール選手ではなかった)

ペレの本名「エジソン」は、発明王トーマス・エジソンにちなんで付けられた

ペレの本名のエジソン・アランチス・ドゥ・ナシメントの「エジソン」は、ペレがちょうど生まれた頃に、トレス・コラソンエスのペレの一家(ナシメント家)にやってきたあることを記念して付けられた名前でした。それは「電気」でした。父ドンデーニョは、その電気を”表現”してくれる「電球」を「発明」したトーマス・エジソンに敬意をあらわして付けたといいます。両親は、トーマス・エジソンの実際の名前「Edison」から「i」を取って「Edson—エドソン」としましたが、出生証明証で担当者が間違って、「Edison」と記入したため、「パスポート」も含めその後のすべての公式書類には、両親が付けた名前「Edson」が記載されることはありませんでした(ちなみに本当の誕生日は、10月23日で、10月21日となっているのは同じく公式書類上の間違い)
人の名前はよく体をあらわすといいますが、面白いのはトーマス・エジソンにちなんで付けられたペレの本名はダテではなかったということです。つまり電気を”表現”してくれる—明るく、見えるようにする—「電球」を発明したエジソンに対して、ペレは身体の電気シナプスを伝わる全<エネルギー>を「サッカー」として(あるいはサッカーを通じて)見事なまでに”表現”したのですから。



◉ブラジル・サッカーの起源と最初の黒人選手の誕生◉
サッカーがブラジルに伝わったのは、黒人奴隷が解放された数年後の1894年だとされます。英国に留学していたサンパウロ生まれの英国系ブラジル人チャールズ・ウィリアム・ミラーが、サッカーのルールブックとボール、ユニフォームなど用具一式を持ち込み、サンパウロ在住の英国人のクリケットクラブ「サンパウロ・アスレチック・クラブ」内にサッカークラブを創設しています。ブラジル在住のヨーロッパ人やヨーロッパ系ブラジル人—どちらにせよ上流階級の白人—の間で人気を集め、1901年にサンパウロに国内初のサッカーリーグが創設され、翌年5クラブによるリーグ戦が行なわれています。
リーグ戦といっても上流階級の白人エリートたちにかぎってのこと。黒人奴隷解放後も、社会的ダーウィン主義や進化論の影響で人種的偏見は根強く、競技場やグラウンドで英国式サッカーを楽しむ白人エリートが、道や空き地で古着や靴下を丸めたボールを裸足で蹴る黒人たちと、サッカーにおいても交わることはなかったのです。
黒人が初めてブラジルのサッカークラブに入団したのは、ボートクラブとしてリオ・デ・ジャネイロに設立(1898年)された「バスコ・ダ・ガマ」が1916年に設けたサッカーチームで、翌17年のことでした。驚くべき身体能力をもった黒人や黒人と白人のハーフのムラットも入った人種交合チームがリーグ優秀したことで、状況が一変していきます。ブラジル・サッカー界の黒人選手の社会的立場の向上を決定づけたのは、オーバーヘッドキックの生みの親で、1930〜40年代のワールドカップで大活躍したレオニダス・ダ・シルバでした。ドイツ人とのハーフのムラットで、1919年の南米選手権の英雄アルトゥール・フリーデンライヒも、英国式サッカーから「人種混成型」のファンタジックなブラジル式サッカー誕生に大きな影響を与えた初期のプレイヤーでした。
このようにフィールドで白人に混じって黒人がプレーするようになったのはペレの父ドンデーニョが生まれるほんの数年前のことだったのです。ドンデーニョの世代は、幼少年期に白人に混じってサッカーをしている黒人を見た最初の世代ということになります。それはリオ・デ・ジャネイロだけの現象でなく、それに遡ること7年(1910)年には、人種や階級に関係なく誰でもプレーできるクラブが、5人の労働者によってサンパウロにも創設されています。それが後にサンパウロで人気ナンバーワンのクラブになる「コリンチャス」でした。リオやサンパウロだけでなく、父ドンデーニョが住んでいたミナス・ジェライス州でもクルゼイロアトレチコ・ミネイロを中心に、1915年にリーグ戦が始まり、その動きはブラジル全土にひろまっていったのです。

プロのフットボール・クラブからスカウトされた父。トライアウトで大怪我

やがて一家に弟ジャイール(通称ゾカ)が誕生しますが、母セレステは兄弟ともに父のようにフットボールに夢中にならないように祈っていたようです。母はフットボールにいくら夢中になっても暮らしはいっこうに楽にはならないことが骨身に滲みていたのです。しかしドンデーニョのサッカーへの取り組みは真剣で、伸長180センチを越えていた父は、誰よりも高い打点を活かし、強烈なヘディングが得意なストライカーになっていきます。ブラジル代表のヘディングが得意なバルタザールを彷彿とさせ、「田舎のバルタザール」と呼ばれるようになっていました(一試合でヘディングシュートを5本を決めたことがあった)
ペレによれば、ペレの家系にはフットボーラーの血が流れていた、と語っています。父の弟(叔父)も父にまさるとも劣らずサッカー好きで、名ストライカーだったといいます(若くして亡くなったためペレが会うことはなかった)。サッカーに関しては他の誰よりも知悉していた父ドンデーニョは、ゴールと家計が直結するプロサッカー選手を目標にしはじめていたのです。
ペレ2歳の時(1942年)、ついに父ドンデーニョは州都ベロ・オリゾンテに拠点を置く、全国にその名を轟かせる州一番のビッグクラブ「アトレチコ・ミネイロ」にスカウトされたのです。ところが、その前のトライアウトの試合で悲劇が起こってしまいます。対戦相手のディフェンダーのアウグスト(1950年ワールドカップの主将)と試合中に激突。靭帯をやられてしまいます。次の試合にも出場できず、ドンデーニョの夢はついえます。
父ドンデーニョはトレス・コラソンエスに戻ると、地元のフットボール選手としてキャリアを再開します。サン・ローレンソや山の山腹にある温泉地ロレーナという近郊の町に父の仕事の関係で移り住んだ時にも、ドンデーニョはそれぞれの地元のクラブでフットボールをつづけていくのです。家計はいっこうに代わり映えしません。
4歳の時のことです。父がサンパウロの北西の町バウルのフットボール・クラブからオファーが掛り、役所の職員としての仕事も提供してくれることになり一家と叔父さん、父方の祖母ともども移り住むことになります。が、新しく就任した会長がその提示を再考し、役所の職員の話がふっとんでしまったのです。父はサンパウロ州の大会最優秀選手に選ばれる程大活躍しますが、膝の状態が悪化していきました(間接間軟骨だったが当時は手術することはなかった)。この頃、一家の食事はパンとバナナ一切れの状況が続き、衣類は捨てられてあったものを着、屋根は雨漏りしていたといいます。叔父さんはその土地で20年近く配達の仕事を続け、そのお陰で一家がやっていけたといいます。
ペレはバウルへの列車の旅で、一度命を落としそうになっています。窓から体を乗り出し過ぎ落ちそうになったところを父に捕まえられ引っぱり上げられたといいます。「トレス・コラソンエス」の「3つの心」の最初の一つがこれで、ペレはその時のことをよく覚えているといいます。

7歳の時、近所やスタジアム、駅で「靴磨き」をする

ペレ7歳の時、少しでも家計に貢献しようと思い、「靴磨き」をしようと考えます。叔父さんに手を回してお金を掻き集めるのを手伝ってもらい、靴磨きセットを購入しました。近所では2人に1人は裸足なので仕事になりません。比較的近くの通りに並ぶ家々を回ったものの磨かせてくれたのは一軒だけ。しかしペレ少年は、このことで学びます。自分が提供するサービスの値段のこと、お客を見込める場所のことです。父がフットボールの試合がある日、スアジアムで靴磨きをし幾らか稼ぐことができ、続いて少し遠い駅まで行って試すことに。ところが駅は別世界でした。同じように考える少年たちが大勢いて熾烈な競争があることを知ったのです。
ドンデーニョは診療所での仕事(洗い物などの雑務だったが地方政府からの助成金があった)を手にし、家計ははじめて好転しはじめます。少年ペレも子供なりにそれを感じとり、家に日が射したように感じたといいます。

授業中は落ち着きなく、おしゃべりばかり。「問題児」に

8歳の時、「靴磨き」に熱中するペレの教育のことが一家のなかで問題になってきました。ペレは8歳の時(おそらく少し遅く。貧困層ではよくあることだったが)、バウルにあるアーネスト・モンテ小学校に入学します。この小学校はペレ家のような貧困層に近い家の子がいくことはまずありえなかった小学校だったのですが、4年間勉強し、つづいて中学に進んで4年間勉強、そして幸運ならば次の高等学校へ進学し(そして大学をめざし)、真っ当な仕事に就くべきだと主張する母の希望で入った小学校でした。
母と祖母は麦輸送で用いられる純綿の袋を生地にしたシャツを縫い上げペレに着させたといいます(ズボンは破れたものを縫えば問題なし)。父がついてきてくれた初日から何日かは行儀のよい模範的な生徒だったといいますが、それ以上は我慢できなくなってしまいます。落ち着きがなく授業に身が入ることもなく、おしゃべりが止まらなくなってしまうのです。勉強をしなくてはという気持ちとは裏腹に、ついつい悪戯らに走ってしまう少年ペレ。その扱いづらさ腕白ぶりは、先生の内であっという間に「問題児」扱いされるようになってしまいます。とにかく学校は少年ペレの気質や性にまるで合わなかったことは確かです。

パイロット」になる夢をもった8歳のペレ。飛行場に通いつめる

8歳の時、少年ペレは学校そっちのけで、気になっていた飛行場に頻繁に通いつめるようになります。そこは「エアロ・クラブ」の演習場がある飛行場で、飛行機やグライダーの演習風景を見ることがお気に入りだったのです。引っ越して来たバウルは、サンパウロ州の中程に位置する中心都市(当時人口8万程。ちなみにパウロ州は明治以降の日本人移民が最も多い土地で、現在もその子孫の日系ブラジル人が最も多く住む)だったので、飛行場があったのです。
ペレは「パイロット」になろうと夢見はじめていました。興味深いことは、7、8歳頃の年齢だと、多くの場合、将来の「夢」はまだ薄ぼんやりしたもので、その想いだけが「夢」の周囲をぐるぐる回るだけで満足し、「夢」に近づくためになかなか踏み込んでいかないのではないでしょうか。「学校」をさぼってまでも、何度も何度も通いつめる、見に行きたいという気持ちをどうしても押さえられない、この他人には理解できない熱い思い、向う見ずで一途な行動力こそ、後の困難な人生に立ち向かう時に重要になってくるのです。失敗ももたらしはしますが、他の人には得られない<幸運>をももたらすのです。パイロットたちの仕事ぶりは、ペレを興奮させつづけました。空を飛ぶ仕事をして暮らしていけたら。ペレはパイロットに夢中になります。子供たちは自動車や電車、飛行機など、動く乗り物の虜になるものですが、ペレの場合、「エジソン」という世界の発明家の名前が、無意識のうちにはたらいていたかもしれません。しかも母は父のようにサッカーにかまけることには賛成しない空気を体中から出している。
ある日、少年ペレはパイロットになりたい「夢」を父に話します。心の中ではそんな夢は父に相手にしてもらえないだろうとおもっていたので、「立派な夢じゃないか」と父に言われたことは少年ペレにとってうれしい驚きでした。父はパイロットになる「夢」を実現するために何が必要か、身につけなくてはならない資格や技術、読み書きの必要性についての助言から、学校の授業が意味をもちだし、有益なものにおもえてきたといいます。この時から、サッカーの世界しか知らないとおもっていた父の人間的な器の大きさに触れ、父の言葉に重みを感じるようになったといいます。ところが勉強の大切さが頭では分かっても、少年ペレの授業をさぼる習性は変わらないままでした。
▶(2)に続く-未

・参照書籍『ペレ自伝』(伊達淳訳 白水社 2008年刊)/『ブラジル史』(金七紀男著 東洋書店) /『サッカー「王国」ブラジル』(矢持善和著 東洋書店)/『情熱のブラジルサッカー』沢田啓明著 平凡社新書

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ジョゼフ・コンラッドの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- ワルシャワ蜂起で土地を没収された地主貴族の父。北ロシアに流刑。「翻訳」の仕事をする父の姿。「海」や「異国」を奇想天外に”物語る”変わった少年


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はじめに:アフリカ・コンゴ、『闇の奥』に向ったコンラッドの引き裂かれた心根

コンラッドの中編小説『闇の奥—Heart of Darkness』を読んだことのない人でも、映画監督フランシス・フォード・コッポラが、映画『地獄の黙示録』の原作に用いたこと(T.S.エリオットの『荒地』やジェイムズ・フレイザーの『金枝篇』などの神話的イメージも織り込まれた)、また原作の舞台はアフリカ・コンゴの密林の奥地だったのが、時のベトナム戦争を背景にインドシナ半島の密林の奥地に設定されたこと等(ロケ地はフィリピンで、実際配備されたのはフィリピン軍ヘリコプター部隊)、よく知られていることです。
この『闇の奥』の舞台だけでなく、コンラッドの作品の舞台は、東南アジアやアフリカから、オーストラリア、カリブ諸国、南アメリカ、スペイン、イタリア、そしてポーランドと、まるで地球そのものが舞台でした。コンラッドは19年余にわって船乗りだったのです。
コンラッドの家系は、船乗りの家系だったかとえいばまったく異なり、代々ポーランドの地主貴族でした。しかしポーランドの土地は、18世紀後半から、帝政ロシアをはじめ列強の三度にわたる分割で他国の支配下におかれつづけ、コンラッドの父の代にすべての土地を没収されています。父と母は、北方ロシアの極寒の地に流刑の身となり(幼少のコンラッドも一緒だった)、病が嵩じてその後、相次いで亡くなっています。
祖国ポーランドの大地から引き抜かれたコンラッドの「マインド・ツリー(心の樹)」の”根先”は、「海」へと向い、”安息の地”として帰化(広い意味の政治的亡命)、同化を希んだイギリスでも「異人」でありつづけざるをえなかったようです。二律背反の意識を払拭できなかったコンラッドの”根先”は、アフリカの奥地の密林を生み出した生命の原始(世界)、「原始本能」がとぐろを巻く世界に向ったのです。
それでは一緒に、人間性の深淵—「闇の奥」の旅に向った「船長コンラッドコンラッドは28歳で船長試験合格し、英国国民となる)という人生の船に乗って、コンラッドの「心の樹」の水源を遡ってみましょう。

郷土の「地主貴族」だった父。ワルシャワ蜂起で土地を没収される

ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad;ジョウゼフ、ジョーゼフとも表記される:本名テオドル・ユゼフ・コンラート・コジェニョフスキ Teodor Józef Konrad Korzeniowski)は、1857年12月3日、当時ロシア領ポーランド(現・ウクライナ。当時はポーランドウクライナ地方)だったキエフ近郊の町ヴェルディチェフに生まれています。
古い貴族の末裔で、土地を持つ郷土の「地主貴族」だった父アポロ・コジェニョフスキは、ある憂えのなかに生まれ、育ち暮らしていました(土地を所有している地主層や貴族インテリがきまって政治的意識が強くなる)。それはポーランドがつねに他の国家によって支配されつづけていたことでした。アポロが生まれる以前の1795年になされた「第三次ポーランド分割」ロシア帝国プロイセン王国オーストリア帝国によって分割)から、アポロが亡くなる1868年まで、その支配が終焉したことはありません。ポーランド共和国が復活するのは、ジョゼフ・コンラッドの晩年、亡くなる6年前の1918年のことでした。
父のコジェニョフスキ家の土地は、アポロが11歳の時、「旧ポーランド・リトアニア共和国」の復活をめざし、1830年に起こった有名な「ワルシャワ(十一月)蜂起」のあおりを受けて没収され、ロシアの土地となり、成人してからは支配国の土地の管理人の仕事に追いやられていました。


ワルシャワ蜂起」の前年にワルシャワ音楽院を首席で卒業したショパンは、ウィーンで演奏会を開いていたが、反ポーランドの空気がウィーンに漂い、パリへ。その途上、ワルシャワ蜂起失敗を知り「革命のエチュード」を作曲しています。またこの「ワルシャワ蜂起」では、ポーランド貴族に生まれ、現在でも愛国少女として根強いファンが多い女性将校エミリア・プラテルが活躍しています(25歳で死去)


「お前には、土地も愛も、国も民族も存在しない、お前の母—ポーランドが死んでいる間は」と、父アポロが息子コンラッドが誕生した時の洗礼詩のなかで発しています。アポロは煮えたぎる思いを胸に、第二次ポーランド分割でロシア帝国編入されたキエフの西方に位置するジトームィル(ジトーミルとも。ロシア革命後のウクライナ内戦でキエフを逃れた人々が建てたウクライナ人民共和国の首都)に移り住みますが、その地で巻き起こった革命が、燻(くすぶ)っていたアポロを点火します。愛国心の塊となったアポロは、暴力でデモが鎮圧されたばかりのワルシャワに向ったのです(無論、容易には当時の文化・社会状況は分からない。アポロは中途退学であるが、ロシアのペテルスブルグ大学で学んでいたこともある)

秘密国家委員会の首謀者だった父、流刑人となり、極寒の地に追われる

アポロ・コジェニョフスキが、美しく穏やかな女性だった母エヴァリーナ(通称:エヴァと結婚したのは、1856年のことでした。エヴァは革命戦士アポロを、とっぴな行動にかまけてばかりいる無責任さに呆れ、彼女の両親の心配事でもあり、その杞憂は当たり結婚当時のエヴァのかなりの持参金もすべて政治活動に費やされてしまいます。もっともアポロの祖父と妻エヴァの祖父の弟(大叔父)は、ナポレオンのモスクワ遠征1812年の時の戦友でありポーランドから9万5000人の兵士が遠征軍に加わる。遠征軍総勢約77万人)ポーランド陸軍においても同僚の将校で親友でした。後に流刑の身となったアポロについて極寒の地まで行ったのは、エヴァの両親はいざしらず)両家の間にある鉾があってのことに相違ありません(裁判でエヴァも有罪判決を受けていたという説もあります。『亡命者ジョウゼフ・コンラッドの世界』吉岡栄一著 南雲堂フェニックス)
アポロがエヴァを残しワルシャワに向ったため、エヴァはまだ4歳だったコンラッドとともにウクライナの祖母の家に留っていました。しかしアポロの安否を気づかいエヴァは幼な子コンラッドを引き連れ、危険を冒してまでアポロの許へ行っています。アポロはワルシャワで、極めて危険な活動に入り込んでいました。ロシア化するポーランドを憂え、政治秘密結社「赤党」—秘密国家委員会とも—を組織しますコンラッド自身、革命戦士だった父の顔は無論知っていたが、秘密国家委員会の首謀者—あるいは有力メンバーだったことは晩年になってはじめて知ることになる)ワルシャワのアポロの小さな家で秘密地下組織の会合がもたれていたのです。
じつは父方のコジェニョフスキ家は、祖父テオドールも”浪漫的”気質の強い愛国的行動の志士で、多く授かった子供の内、父アポロを含め3人の子供(内、一人女性)が革命工作に深くかかわっていたと、コンラッドは『自伝—個人的記録:A Personal Record』のなかで語っています(一人は戦死、一人はシベリア流刑)。”根”っからの愛国志士であり、祖父と同様、夢想家タイプだったアポロの人生において選択の余地はなく、その行為そのものが存在理由だったにちがいありません。
結果、エヴァと4歳のコンラッドが父アポロに合流して間もなくのこと、真夜中に警察が家に入り込み父アポロを逮捕、連行。そして7カ月にわたるワルシャワの城塞への投獄(この間にポーランドの反乱はロシア人によって鎮圧される)。獄舎からの釈放されたら、今度は「流罪」宣告。流刑人となったアポロは、モスクワから北方500キロにある、白海に流れ込むヴォログダ川の流域に広がるヴォログダに追放されてしまいます。エヴァコンラッドを連れ、アポロの許へ。3人で丸太でつくられた質素な家に暮らすことになります、しかし心も体も凍結する極寒の地で、エヴァコンラッドも次第に健康を害し、数ヶ月後、恩赦を受けるかたちで一家はウクライナのチェルニコフ(チェルニヒウとも。キエフの北北東120キロ程)へ移されます(チェルニコフは、後に原発事故を起こしゴーストタウンと化したチェルノブイリ原子力発電所—現ウクライナ領土内—からチェルニコフから東方へ80キロ程の所。チェルノブイリは当時、世界地図に存在しない機密都市だった)
そこからエヴァコンラッドだけは、祖母や祖父、従姉妹たちも住んでいた暖かな地ボブロフスキキエフの南西120キロ程)に一時的に移っています。エヴァの病は長引き(肺結核だった)コンラッドも幼年期を通じ、度重なる移住と寒さから神経の病に冒され、身体も弱ったままでした。コンラッドの「心の樹」の”根っ子”は、成長したくても、長距離の移動と凍えるばかりで伸びようもない状況にあったのです。そして2人は再びチェルニコフへと戻されます。

8歳の時、母エヴァ、死去。翻訳する父の姿をいつも見ていた

少年コンラッド8歳の時、母エヴァは肺結核をこじらせ息を引き取ります。母の死は、父アポロの”根幹”を激しく揺るがせ、苦悩で押しつぶされんばかりになります。父は机を売って教科書を購入する費用をつくり、息子コンラッドに教育を受けさせます。父と少年コンラッドは、深い悲しみのなか文学と勉強に没頭します。父はこの頃、翻訳の仕事で収入を得るようになっていました。コンラッドが小さな喪服を着たまま父の椅子に上って見ていたのは、父がシェイクスピアの『ヴェローナの二紳士』ヴェローナとはイタリアの町。シェイクスピア作品中、最古のものの一つ)を翻訳している様子でした。ヴィクトル・ユーゴーの『海の労働者(海に働く人々)—Les Travailleurs de la Mer』(1866年刊。名作『レ・ミゼラブル』の4年後の著作。ちなみに『レ・ミゼラブル』のすぐ後に著したのは『ウィリアム・シェイクスピア』だった)も父が翻訳したものでした。また17歳で自殺した、18世紀英国の詩人トーマス・チャタートンを描いたアルフレッド・ド・ヴィニーの戯曲『チャタートン』を名翻訳し序文を寄せています(チャタートンは自殺する前に船に乗り込んで航海しようとしていた)。父はコンラッドにいつも父が翻訳した文学を「音読」させています。
少年コンラッドの「マインド・ツリー(心の樹)」は、「海の男」と「作家」という二つの運命が、「海の男」は数年後に意識的に、「作家」は無意識の裡に潜在しつつも、まるで2本の樹幹となって、二重螺旋のように立ち上がりはじめた契機は、母亡き後、父と一緒に過ごしたこの時期だったのです。
少年コンラッドは、この間、健康もすぐれなかったこともあり、誰にも会うこともないまま本ばかり読んでいたようです(フランス語に通じるようになる)。再び父と離され、祖母や祖父のいるボブロフスキに行き、キエフでは専門の医師に診てもらい、再びチェルニコフへ向っています。

「海」や「船」、「遠い異国」のことを奇想天外に”物語る”変わった少年

再び父と再開できたのは10歳の時でしたオーストリアポーランドの首都リヴォフにて)。父アポロは精神的にも肉体的にも崩れかけ鬱状態(父も肺結核に罹る)。父にとってコンラッドは、この地上に引き留めてくれる唯一の支えでした。少年コンラッドは、この地方で学校の入学が許可されなかったことが、すでに入り込んでいた「文学」にいっそう向わせることになります。数人の友達に、いつも「変わった物語」を話していたといいます。それは「海」や「船」、そして「遠い異国」が必ず登場する奇想天外な話だったといいます。どうも口伝えに「物語」る力が、少年コンラッドにあったようで、友達に実際に起こったことのように感じさせるものだったといいます。ある女友達は、コンラッドが、祖国ポーランドの革命家が敵国ロシア人に闘いを挑むちょとした芝居の演出をしたとも語っています。とにかく少年コンラッドは、友達の間では、奇妙な「物語」を”語る”少年だったのです。
ポーランドも含め東欧には、「口承文学」の伝統がありました。人から人へと語り継がれる伝統の力は、権力に対する抑止力になったり、国民文学・民族の現語の貯蔵庫としての役割をはたらいたり、民族独立の地下水脈となったりしていたのです。父アポロが、ポーランド独立運動に身を投げ出す者であると同時に、文学に造詣が深かった(つまり愛国文士)のは、こうした東欧の文化的環境があったからでもありました。

アフリカの地図上の空白の場所を見つけ、『大人になったら絶対そこに行くんだ』と考えた

この頃、少年コンラッドは、アフリカの地図をじっと眺めることがあったといいます。『自伝—個人的記録』では次のように書かれています。


「当時のアフリカの地図を眺め、その大陸のいまだ未解決の謎を示す空白に指を置きながら、わたしは自信満々、あきれるくらい大胆不敵に考えた—『大人になったら絶対そこに行くんだ』」(こう回想した年は1868年、9歳位の時のこととあるが、1868年ならば11歳だが、コンラッドは12月生まれなのでちょうど10歳位の時だろう。コンラッドの記憶違いはよくあること)


そしてこの文とそっくりそのままの文章が『闇の奥』の冒頭近くに描かれています。
「ところで、子供の頃、僕は大変な地図好きだった。何時間も飽きずに南米とかアフリカとかオーストラリアとかの地図に見入りながら、数々の探検隊の栄光にわれを忘れ、夢中になったものだった。あの頃はまだこの地球上に空白の場所がいくらもあった。そのなかでも特に気をそそられる所が地図にあると、僕はその上に指先を置いては、大人になったらきっとそこに行ってやるぞ、と呟いたものだった」『闇の奥』藤永茂三交社


コンラッドの他の作品『海の鏡』や『黄金の矢』にも伝記的要素が多々描かれるように、少年コンラッドの「心の樹」の樹液が、たっぷりと文学的作品へと染み込んでいたのです。そしてセルバンテスの『ドン・キホーテ』やフランス最初期の文士ル・サージュの『ジル・ブラース物語』から、ディケンズ、フェニモア・クーパーを少年期に次々に読み込んでいったコンラッドが、最も心躍らせたのがキャプテン・マリアットの海洋物語や、航海記の類でした。
▶(2)に続く-未
・『自伝—個人的記録:A Personal Record』(鳥影社 1994刊)/図説『ジョゼフ・コンラッド—シリーズ作家の生涯』(大英図書館ミュージアム図書 2002刊)/『コンラッド—人と文学』(武田ちあき著 勉誠出版 2005刊)/『コンラッド』20世紀英米文学案内 研究社出版 1975刊

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