ロバート・キャパの「Mind Tree」(2)- 15、6歳の時、「文学」と「政治」に関心をもちだす。街頭デモで行進、逮捕、出国。ベルリンで左翼的亡命者のネットワークにつながる
15、6歳の時、「文学」と「政治」に関心をもちだす。ジャーナリストへの夢が生まれる
▶(1)からの続き:エンドレ(少年キャパ)が、「ジャーナリスト」の道を心に描くようになったのは、ギムナジウム第7学年、卒業の前年の16歳の年だったようです。「フォト・ジャーナリスト」の世界に足を踏み入れたのは、それからわずか数年後(当初は暗室助手)のことですが、その場所がベルリンだったことと(ドイツ語を充分に喋れなかった)、当時のヨーロッパをの政治環境、そして実家の経済状況が大きく影響していたのです。
まずは学校の授業終了後、友人たちとプラハの町へ繰り出して学校と家での憂さを晴らすばかりだったエンドレ(少年キャパ)が、どのように「ジャーナリスト」を夢みるようになったのかみてみましょう。後年キャパは、ギムナジウム時代の最期に2学年の間に、自分のなかにある関心が湧いてきたと語っています。それは「文学」と「政治」でした。年齢的には、15歳から16歳にかけてのことです。卒業をひかえたギムナジウム最終学年の年、1929年に世界大恐慌が起こり、その余波はハンガリーにまで及び、その衝撃波は少年エンドレ(の部屋)までやってきています。前年から熱心に「文学」を読みだし(ギムナジウムでは6年間ドイツ文学の授業があったが)、「政治」に関する書物を読みはじめていたエンドレの自室の「読書空間」は、他の2人の兄弟が同室に押し込められ消滅してしまいました。
どういうことかといえば、ハンガリーも世界大恐慌に飲み込まれてしまったため、サロンの拡大経営がすっかり裏目にでてしまったのです(30〜40人もの従業員を抱える大所帯になっていた)。経営が急激に苦しくなり経費節約から、アパートメントをサロンと仕事場にあてたため(リヴィングが着付けサロンと展示場と化した)、子供たちそれぞれにあてがわれていた寝室がとりあげられ、3人が一つの部屋に押し込められてしまったというわけです。読書の刺激で急激に伸長しはじめていた自身の「マインド・ツリー(心の樹)」がまるで窒息しそうに感じたエンドレは、腹いせに冬であったにもかかわらずサロンの窓を開け、サロンの長椅子をベッドにして素裸で寝たといいます。「読書」したい時は、風呂場を締め切り、バスタブに浸かって何時間でも「本」を読むようになります。後にキャパは朝起きてからバスタブに浸かって、たっぷり2時間一人静かに「本」を読む習慣は、世界大恐慌下の16歳の時の出来事からはじまったものでした。
少年キャパがバスタブに浸かって何時間も読んでいたものとは
エンドレ(少年キャパ)が、バスタブに浸かって読んでいたものとは何か。その中心は、間違いなくラヨシュ・カッシャーク(カッシャークとも)が発行する『ムンカ(労働)』誌でした。ラヨシュ・カシャーク(当時42歳)は、詩人にして画家、グラフィック・アーティストであり、編集者でもあり、社会主義者で、強烈なメッセージとエネルギーを発していた人物です。カッシャークは、時代の社会問題に向き合った文学と美術のための『A TETT(行動)』誌(初版・第一号500部〜2年の間に17号を刊行)を第一次世界大戦中の1915年に創刊(まだエンドレは3歳の時)していました。
この『A TETT(行動)』誌自体、ベルリンの前衛文学雑誌『ディ・アクツィオン』のスピリットを引き継いだものでした。「ディ・アクツィオン」とは、ドイツ語で「行動」を意味しています。同誌は「自由な政治と文学のための雑誌」を副題に掲げ、政治的アンガージュマンの重要性をうたっていました。「政治」と「文学」は、本来問題意識を”同根”にしています(「言論の自由」というように、「言語ー言論」と「政治(体制)」は裏表にある)。『A TETT』は検閲で発行禁止になりますが、カシャークはすぐに『ドクメントゥム』誌を創刊します(構成主義的芸術やバウハウス建築から、ロシア映画、シュールレアリスム文学、さらにはドキュメンタリーやジャーナリスティックな「写真」まで射程。3号まで)。次いでハンガリー・アヴァンギャルド芸術運動の代名詞になる『MA -マ(今日)』(1916年創刊。掲載作品の中心は小説、絵画、評論)を発行します。「古典的な決定論から我々は離れるのだ。強制された生き方をできるだけ意識的なものへ、独立したものへと修正する可能性を人間に与えるのだ」(『MA』誌)と語り、意識化されるようになってきた<人間の自己目的性>と、可能性としての美しい生を実現するため社会と芸術の闘争を戦い抜こうと、カシャークは熱いメッセージを込めた。
エンドレ(少年キャパ)が、時代と自己に目覚めだした時(バスタブ読書時代)、カシャークは『A TETT(行動)』や『ドクメントゥム』『MA』誌のスピリットを受け継いだ『ムンカ(労働)』誌(1928年創刊)を発行していました。エンドレ青春真っ盛りの15歳の時のことでした。ヴォルテールからカール・マルクス、ラヨシュ・コシュート、そしてウォルト・ホイットマンやトーマス・ジェファーソンらの理想と理論が虹のように組み合わされ、「混合」され、『ムンカ』誌上に打ち立てられた個人の権利、民主主義、平等主義、労働至上主義、反権力・反ファシズムの政治哲学は、まさに光となってエンドレの「心の樹」に生える若々しい青葉に燦々と降り注ぐのでした。
エンドレ(少年キャパ)は夢中になって読んだにちがいありません。なぜならエンドレは、その『ムンカ』誌の寄稿者たちが組織していた「ムンカケル(労働集団)」が主宰(40〜50人程からなる芸術と政治のグループが中心だった)する講義・討論・詩の朗読会に足繁く通うようになっていったからです(展覧会やパーティー、スポーツ・イベントなども企画されていた)。エンドレは、「ムンカケル」のイベントに集まってきた10代の早熟な若者たちのうちの一人だったのです。
「ムンカケル(労働集団)」に混じって街頭デモで行進する。そして「旅」と「冒険」のこと
この『ムンカ』誌に、社会改良を「写真」で訴える米国の写真家ジェイコブ・リースやルイス・W・ハインの「ドキュメンタリー写真」が掲載されはじめたのは、創刊から2年目、まさにエンドレ(少年キャパ)がバスタブを「読書空間」にしていた時のことだったのです。ジェイコブ・リースやハインに刺激を受けて、農村の現実と資本主義の桎梏のなか自国の貧しい人々に眼を向けはじめたハンガリーの写真家たちの写真も『ムンカ』誌上に掲載されだしていました。ロバート・キャパの初期写真は、じつはこの延長線上にあるものだったのです。しかし、そうした真摯な社会改良的姿勢と同時に、エンドレは”まだ見ぬ未知なるもの”へ—「旅」と「冒険」に—ロマンチックな程に憧れをもっていました。エンドレ(少年キャパ)は、ジャーナリストという職業に、この「旅」と「冒険」の匂いを感じとっていたのです。
エンドレと同じくユダヤ人の友人たちは、反ユダヤ主義の独裁者(ミクローシュ・ホルティ)が支配するハンガリーから一刻でも早く逃げ出したい気分に包まれていたといいます。皆が集まれば、外国に行き勉強したり、ブダペストではまずのぞめない職を得ようと思いを巡らしたようです。表面的なブルジョア生活への苛立ちや窮屈な家の環境も、「旅」と「冒険」への想いをふくらませる要因になっていたようです。
経済危機が深刻になると、「ムンカケル(労働集団)」も街頭に向かい、労働者街を行進しはじめました。毎週のように市街戦がみられるようになっていました。エンドレも旗をもち扇動的なスローガンを叫びながら、時に乱闘の中に突っ込んでいっています。国家警察に逮捕されれば学校は追放、大学入試資格試験も受験できなくなることは分かっていながら、エンドレは政治に深入りしはじめていったのです。それが時代の渦でもありました。ところがある時期から、小生意気でシニカルでもあったエンドレは政治的スローガンを鵜呑みにして突っ走る「群衆」に危うさを抱きはじめます。誰かが叫べばどんなスローガンでも、「群衆」は理由もわからないまま叫ぶ性質をもっていることに気づいてしまったのです。エンドレ(少年キャパ)の自由な気質、性向と、「群衆」はすれ違うようになっていました。「群衆」に、エンドレの寝室を占領したサロンの従業員たちや両親が二重映しになったのか、エンドレの「文学」好みが「群衆」のもつ圧力を嫌ったのかもしれません。が、エンドレはある日のデモで体に深い傷を負っただけでなく、逮捕されるのです(父がなんとかコネを利用し、国外退去を条件に釈放されたようです)。
ジョルジュ・ケペシュと親密になる。ベルリンで左翼的亡命者のネットワークにつながる
18歳(1931年)の時、ハンガリー政府のユダヤ人弾圧と排斥への怒りと、窮屈で偽善的なブルジョア生活への反発を胸に、エンドレはハンガリーを出国(脱出)します。ベルリンの学校に入学する目的があったものの、ほぼ亡命に近い出国でした(国外退去でもあった。この辺りの事情ははっきりしない部分でもある。フリードマン家はもはや息子を大学に通わせる経済的資力はなくなっていた。ウィーンまでの汽車賃すら級友の親に借りている)。母ユリアは、二重底の登山靴にシャツとジャケット、ニッカーボッカーだけはなんとか買い与え別れを告げます(生活費のための毎月の幾らかの送金を母は約束したがすぐにサロンは立ち行かなくなる)。ブダペストから北西にあるオーストリアのウィーンまでは170キロ余り。ドイツに入るためには必ず通るルートでした。ウィーンから北上しプラハ、ドレスデンを経由しベルリンに向かいました(ウィーンから450キロ程)。途中、ユダヤ人のための慈善団体で食事や何がしかの援助を求めての旅となったようです。プラハではあまりの疲労と空腹で浮浪者に黒パンを分け与えられたほどだったようです。
ベルリンに到着したエンドレは早速エーヴァに会いに行きました。かつて同じアパートメントの同じ階に暮らしていた3人姉妹の一人で、「写真」にのめり込んでいたエーヴァです。そのエーヴァが、フォト・ジャーナリストのペーター・ヴェラー博士のもと、ベルリンの地で「写真」の仕事をしはじめていたのです。驚いたことに、弁護士一家というブルジョア家庭に育ったエーヴァが(勿論弁護士にもいろんなタイプはあるが、エンドレと同じく高級アパートメントが自宅だった)、左翼的な世界観のもと、ジャーナリスティックなルポルタージュ写真を撮っていたのです。そしてヴェラー博士を通して、左翼の報道局「ネオフォト」や「ベルリナー・イルストリールテ・ツァイトゥング」といった一流出版物に、エーヴァの写真が売り込まれていたのです(一方で、独立した肖像写真館を開業する寸前だった)。エーヴァはベルリンの地でもまたエンドレの先を行っていたのです。
そしてこのエーヴァの芸術面と同時に政治面での本当の師こそ、「ジョルジュ・ケペシュ György Kepes」だったのです。エーヴァにとってはケペシュとはブダペスト時代からの親友で、ベルリンに来てからは最も近い親友になっていました。エンドレからすれば7歳年上のケペシュとはブダペストでは知り合い程度でしたが、ベルリンではお互いが亡命の身という政治的環境が、エーヴァを介しつつも2人を急接近させました。ケペシュのアパートは友人たちが来ては何時間も政治や芸術の議論を繰り広げる梁山泊と化していました。日をおかずケペシュのアパートに顔を出していたエンドレは、こうして社会参加型の芸術観をもった左翼的亡命者の<輪=ネットワーク>につながっていきました(ブダペスト時代にエンドレの師だったカシャークも、ブダペストではほとんど交流はなかったが、亡命先のベルリンでモホイ=ナジと共闘しはじめている)。
両親のサロンは破綻寸前。「農業」をやるべきか、「写真」の道にすすむべきか
ベルリンでエンドレは大学ではなく(すでにナチスの温床と化し、ユダヤ人教授や学生が目の敵にされだしていた)、ドイツ政治高等専門学校(ドイチェ・ホーホシューレ・フュア・ポリティーク)に入学します(事実上、登録)。授業料が極めて安いだけでなく向学心のある者には誰にも開かれ、急進的な姿勢で知られたこの専門学校には、当時ヨーロッパでもトップレベルのジャーナリズム学部がありました。ところが、エンドレは授業にはあまり熱心に出席していません。決められた書籍を読むことはエンドレの性に合わないばかりか、若い頃から講義にはすぐに退屈になってしまうのです。学生証さえもっていれば、警察の尋問もうまくかわせ、交通機関も学生料金で学校の食堂で食費を浮かせることができ、そのことの方がエンドレにとっては重要でした。
この頃(1931年末)、ハンガリー経済は崩壊し、サロンも立ち行かなくなり母からの仕送りをあてにすることはできなくなったのです。たちまち学生証どころではなくなり、すぐにでもお金を稼ぐ必要に迫られたエンドレは、すすむべき道を緊急に選択する必要に迫られたのです。エンドレはドイツ語の書物はある程度読めはしましたが、ドイツ語はうまく喋れません。しかもドイツでも失業率は30パーセントをゆうに超えていました。ハンガリーに戻ることは選択肢にはありません。さあどうするか。「農業」をやるのはどうだろう。いや、「写真」にやはりすすんでみたい。けれども手持ちのお金はまったくない。「カメラ」がなくては「写真」も撮れやしない。やはり「農業」をやるしかないのだろうか。どうすればいい。
自問自答に苦しんだエンドレは専門学校で懇意になった教授に、今すぐ「農業」に向うべきか、それとも興味をひかれていた「写真」の道にすすむべきか訊ねています。本当は意は決していたことでしょう。じつは「写真」はその土地の言葉を充分マスターしていない者が、ジャーナリズムの仕事に就く上で最善の方法だったのです。同時に、エンドレは、「写真」の視覚芸術の中のアヴァンギャルドな可能性を(モホイ=ナジはすでにバウハウス叢書に『絵画・写真・映画』1925年刊を著していた)、ベルリンの文化状況やケペシュら亡命ハンガリー人たちの仲間を通じて理解を深めていました。「写真」という伝達方法を使えば、言葉に不自由であっても、何処に、どんな国にいようと、意図したものを伝えることができる、と考えたのでした。すでに名を売りはじめていたエーヴァに、自分も「写真」をやることを伝えました。写真の長年の訓練を受けてきたエーヴァは、エンドレの決心に驚きます。エンドレは新しい技術でつくられたコンパクトなカメラならば、従来のように長期に渡る訓練は特別に必要はないことを知っていたのです。キャパを一躍、世界的戦場フォトグラファーにしたあの写真「The falling soldier - 倒れる兵士」を撮る5年前のことでした。▶(3)に続く-未
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