ウェブサイト「伝記ステーション」について

只今、「マインド・ツリー」を”搭載”したウェブサイトを構築中です。
「伝記ステーション」となります。
http://artbirdbook.com
チェックして頂ければ幸いです。
本ブログも準備整い次第、順次はじまることになります。

トーマス・エジソンの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- <子守唄代わり>にいろんな本を読み聴かせた元小学校教師の母の「読書習慣」。小学校を辞めさせ一緒に「百科事典」を読む。9歳、高校教本『自然・実験哲学概論』を読み化学実験に取り憑か


はじめに:フェイスブックの「いいね!—I like it!」は、まさにエジソンが生んだ電話の挨拶語「Hello ! 」に相当する

世紀の「発明家」エジソンは、ご存知のように子供向け偉人伝のなかでもつねにトップバッターの一人として登場し、最初の特許申請をおこなった投票記録機(21歳)や株価表示器(22歳の時)、電気・白熱電燈、蓄音機、キネスコープ、アルカリ蓄電池などなど、その発明品の数々、業績の凄さにはあらためて瞠目させられます。立志伝中の人物として皆さんも子供時代に野口英世ヘレン・ケラーにまじって偉人伝を読んだ記憶があるのではないでしょうか。ところがその後、理系に踏み出して行ったひとはまだしも、文系に向ったひとはトーマス・エジソンのことについて学んだり、聞いたりする機会はほとんどめぐってこないままだったのではないでしょうか。わたしも今回、おそらく40年余ぶりにエジソンの名が記憶に呼び覚まされた口なので偉そうなことは何も言えません。
とにかく幼少期から奇行に近い<好奇心>に満ち溢れ、世界初の「発明工場」といわれる研究所を建設し、生涯で1000点を超す発明(品)を生み出し、発明を「事業化」していったエジソンの「マインド・ツリー(心の樹)」は、知れば知るほどすこぶる興味深いものがあります。たとえば、聴力をほとんど失ってしまったことにもめげず(耳の不自由さこそが蓄音機や電話機の完成に取り憑かれた原因と自ら語っている)、14歳の時に自ら「The Weekly Herald」という新聞を編集し、電車内において販売し売り子スタッフを雇って売りさばいていたこと、その際にどんな「情報」が好まれるか「マーケットリーサーチ」も試み、後に「マーケットリーサーチ」の先駆者としてのエジソン、さらには「ブランディング」の魁(さきがけ)としてのエジソンの顔をもつことなど(「エジソン蓄音機」「エジソン・フィルム」など商品のネーミングすべてにエジソンの名を冠していた)、「常識」という理性を超えたその発想力、実行力はまさに驚異的です(最も、エジソンはゼロからの発明というより、日本人の様に「改良」「応用力」に秀でており、このことからもエジソンの伝記は私たち日本人にとって多いに意味あるものになります)。子供用の偉人伝で事足れりとし、伝えない教えないということは”犯罪的”であり、ならば青年・大人こそエジソンの「伝記」を今あらためて読んでおくべきであるとおもうのです。
今日では気楽に挨拶言葉としてもちいられる「ハローーHello」という言葉も、じつは電話の開発競争をしていた時に、エジソンが生み出した言葉で、屋外でもこの「Hello」を使えばフランクに見ず知らずのひとに語りかけることができる空気がアメリカに醸成されていったという話一つとっても理系人間だけにエジソンをもっていかれるのは明らかに損失なのですエジソンは文学や日常生活のことは、20歳年下の2番目の愛妻マイナに手引きされたが)。アップルのスティーブン・ジョブスやフェイスブックマーク・ザッカーバーグの伝記本を読まれた方は、エジソンの伝記本(例えば、浜田和幸著『快人エジソンー奇才は21世紀に甦る』など)を読まない手はありません。フェイスブックの「いいね!—I like it!」は、まさにエジソンの「Hello ! 」に相当する効果と機能を発揮しはじめています。
快人エジソン - 奇才は21世紀に甦る (日経ビジネス人文庫)
エジソン—20世紀を発明した男
エジソン—20世紀を発明した男



アメリカでは、国家プロジェクトとして「エジソン文献研究プロジェクト」が発足していて、500万ページにも及ぶ実験メモや、2万5000枚のレコード(「3分間世界一周の旅」と銘打たれたものもあるという)、6万5000枚の写真などに現在次々に光をあてられ公開されだしているようです。東日本大震災以降、話題にならない日はない「電気・電力」についても、「メンローパークの魔術師」エジソンこそ、目下、日本の緊急課題の一つ「中央発電所システム」の開発者であり、計画停電の余波も受けている路面電車や地下鉄システムの土台を築(米国での最初の電気機関車すら組み立てていたという)いたのもまたエジソンでした。渋沢栄一ら多くの日本人とも会い、武士道や日本文化に関心が深かったエジソン(よく知られているように電球の最適のフィラメントとして京都の竹を素材として利用している)、この日本の現状を、自身の未刊に終わった未来小説『不思議の国のトーマス』に描きだすことはなかったでしょう。
エジソンは次の様に語っています。「わたしの発明はすべて宇宙という『マスター・マインド』からのメッセージを受け止め、練り上げただけなのだ」と。晩年はスピリチュアルな世界とのコミュニケーションに関心を深めていきました。人間の脳(意識)から出るエネルギーを拡大する装置をつくりだし、遥か未知の領域へとすすみだそうともしていました。「1%のひらめき(と99%の努力)」という言葉の真意は、とくに赤ん坊の頭脳の中に宿る「リトル・ピープル」の知性と声のことだというのです。
「マインド・ツリー(心の樹)」とは、エジソン流に言えば、宇宙という「マスター・マインド」が、「Hello ! 」と<地球>に”コミュニケーション”して、地球上の「生命体」として生まれ出たものなのです(「Mind Tree」は、よって人間にだけあるものではない)。たとえばファーブル少年の昆虫や植物への強烈なおもいは、地球上に「マスター・マインド」がコールして生み出した別様の「生命体」との”コミュニケーション”であり、「すべての存在は結びついていることがわかるようになるだろう」というエジソンの予言の実践者だったのです。エジソンをこよなくリスペクトする映画監督スティーブン・スピルバーグも映画『未知との遭遇』『E.T.』『グレムリン』などを通してそうした思いを描いているはずです(「リトル・ピープル」としての子供が主人公になる理由)
それではエジソンの少年期の「Mind Tree」へと向ってみましょう。向こう側から「Hello ! 」と応答してくれるかもしれません。

頑強な肉体と反骨精神の塊の父は、カナダからアメリカへの亡命者

トーマス・アルヴァ・エジソン(Thomas Alva Edison;幼少期は、家庭内ではずっとミドルネームの”アルヴァ”、あるいは”アル”と呼ばれていた)は、1847年、2月11日、米国オハイオ州北部、エリー湖まで15キロ程に位置する小さな町ミランで生まれています。父サミュエル・エジソン・ジュニアは、カナダの北東部ノバスコシアノヴァ・スコシア州生まれのオランダ系カナダ人でした。カナダ・ノバスコシアで生まれ育った父が、なぜカナダ国境を越えてアメリカの地に住み着くようになったのか。その背景には、独立心と反骨精神、起業家精神に溢れるトーマス少年の”性根”、「マインド・ツリー(心の樹)」につながるものがあるので、まずはそのあたりからみてみましょう。
エジソン一族の祖先はオランダのアムステルダム出身でした。曾祖父ジョン・エジソンが一家でニュージャージーのパサイク河畔へと移住してきたのでした。イギリスよりも早く資本主義を生み出したオランダを郷里にもつこの曾祖父はどうやらマンハッタンで銀行員となり、資本をうまく利用して裕福な地主となっています。ところがアメリカの独立戦争で事情から大英帝国サイドに立って偵察兵として活動したため、米国独立を目指すジョージ・ワシントンの革命軍に捕獲され、投獄されてしまうのです。夫人の出身が名家オグデン家で、革命軍に親族がいたため嘆願が功を奏し死刑を免れています(財産没収後、英国艦隊がカナダへ移送。もし死刑になっていたらトーマス・エジソンは存在しなかった。あるいは別の生命として誕生した)トーマス・エジソンの父サミュエルがカナダ人だったのはこうした背景があったのでした(トーマスの祖父はカナダ陸軍に所属していたようです)。父サミュエルはエリー湖南岸に近いカナダ・オンタリオ州ヴィエナの政府割り当ての開拓地を得て移り住み、大工仕事から畑仕事(屋根材売買と穀物商売)、不動産など様々な仕事を起こし、トーマスの母になるナンシー・エリオット(ピルグリム・ファーザーズにまで遡る初期アメリカ移民の子孫で、スコットランドアメリカ人)と出会った頃には、小さなホテルを経営するようになっています。
ところが父もまた税金をめぐってカナダ政府と反目、反乱集団の一味としてカナダ政府から追われ、かつて一族が強制退去させられたアメリカへ亡命することになるのですエジソン家は政治闘争の敗者つづきで、トーマスは敗者復活戦でもあった)。亡命に際してサミュエルは真冬の寒さの中、暗闇にまぎれて約2週間、服も破れ血だらけでアメリカに逃亡します。命を落としてもおかしくない程の決死行は、エジソン一族に遺伝する頑強な肉体と反骨精神を証明するものでしたエジソン家は骨格が頑丈で幼少期に病死しなければ長寿の家系だった。曾祖父は104歳、祖父は102歳まで生きている。トーマス・エジソンも幼少期の一時期を除いて頑強な肉体をもち、メンロパークでの発明期間中、睡眠は30分の仮眠を何度かとるだけで、一日合計3時間程しか睡眠をとらなかったといわれている)

亡命先のアメリカの地に自分で家を建てた父。「鉄の馬車」=鉄道への関心

父サミュエルが辿り着いたのは、ヒューロン湖の南端、ミシガン州ポート・ヒューロンで、逃亡者を温かく受け入れてくれた地アメリカへの定住を決意。2年後にはエリー湖に近い小さな町・オハイオ州ミランへと辿りつきます。ミランは最盛期にはロシアのオデッサに次ぐ世界第2の穀物港になったほどで、交易と入植を促進する運河によって急成長していた町でした(トーマスが生まれる22年前には、ニューヨークに通じるエリー運河が開通していて運河建設ブームが巻き起こっていた)。サミュエル・エジソンが働きだしたのはこの運河工事の現場でした。
大工仕事ができたサミュエルは、町の片隅に丘陵の斜面に小さなレンガ造りの家を自分で建てています。カナダの木材を使った屋根材を扱う材木屋をはじめ軌道に乗せると、2年後に家族をカナダから呼び寄せました。父43歳、母37歳の時、トーマスが生まれます(トーマスが生まれた時、兄姉はすでに14、16、18歳になっていた。すぐ上の兄姉3人はトーマスが生まれる前に病死)。頭が異常に大きかったため、町医者は脳炎ではないかと疑ったほどでした。そんな頭でっかちのトーマスの最も古い記憶は、これから大草原を横断しようとする家の前に停まっていた3台の幌馬車だったといいます。
エジソン一家が父がカナダから最初に逃れてきた町ポート・ヒューロンへ移り住んだのは、トーマス7歳の時でした。ポート・ヒューロンには、ミランでは見ることのない「鉄の馬車」が走りだし、町が急速に発展しだしていました。「鉄の馬車」とは鉄道のことです。ミランの町のリーダーたちは、エリー湖の南岸を走るレイク・ショア鉄道が、運河事業を壊滅させると判断、鉄道敷設を拒否します(運河経営者は料金の引き下げを始めていた)。後に少年トーマスはこの鉄道の売り子としていろんな商売を繰り出し、アイデアを組織していくことをおもえば、鉄道の走る町への移住は大正解でした(仕事の手当も減少しだしていてエジソン家以外も多くの住民が移動しはじめ、父の兄弟の一人がすでにポート・ヒューロン近郊に住んでいた)。ただポート・ヒューロンに移り住んだ父サミュエルは、息子トーマスの様にその「鉄の馬車」から事業の”ヒラメキ”をもらうことはなく、木材を販売したり、不動産に手をつけたり、自家菜園で摂れた作物を販売したり、食料雑貨店を営んだり、大工をしたりとあまりぱっとしなかったよいいます。たんに衰退する町よりも勃興する町の方が仕事がしやすいという判断基準だったのかもしれません。

<子守唄代わり>にいろんな本を読み聴かせていた母の「読書習慣」

さて、母ナンシーは次々に子供が病死してしまった後に生まれたトーマスをたいそうかわいがったようです。幼いトーマスが眠りにつくまで、<子守唄代わり>にいろんな本を読み聴かせていたといいます。最初は『マザーグース』の絵本で、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』へ、そしてヴィクトル・ユゴーの『ノートルダムのせむし男』へと続いていきました。『ロビンソン・クルーソー』にしてもトーマスの年齢では理解が覚束ないはずなのに母が読み聴かせたのは、年齢に相応しいだろうという本を選んで読むのではなく、おそらくは母自身の「読書習慣」がまずあって、それに反応していたトーマスにもっと読んで聴かせてみようと、おもったにちがいなかったのです。最も母ナンシーは元小学校教師だったので、小学校に上がるまでの子供にとって理解が困難な本であっても、外国語をいとも容易く吸収する様に、子供には「柔軟」な頭脳があることを母は知っていたからでもあったはずです。
母ナンシーによれば、トーマスが同年代の子供と違いがでてきたのは7歳からだといいます。しかし、火が燃え広がる様子を見たくて、家の納屋に火をつけ燃やしてしまったエジソンの少年時代の有名なエピソードの一つは、それより1年前の6歳の時のことでした。運河で溺れかけたり、穀物用エレベーターの中に閉じ込められたり、一緒に川遊びをしていた友達が川で命を落としたのもこの頃で、父はあまりにも面倒をかけるトーマスを町の広場に連れて行き、素行を治すためみなの前で鞭を打ったといいます。そして小学校に上がる前頃から(8歳の時、小学校入学。12、3歳の頃だったのではという説もある)、トーマス少年は周囲の大人たちに質問責めにし、さんざんに困らせていました。ADHD(注意欠陥・多動障害)だったのではとも言われるほどその行動は際立っていたようです。ひとによっては「好奇心」とも「奇行」とも、どちらともとれるような行為が頻繁にあったようです。

トーマスに小学校を辞めさせた母は、家で刺激に満ちた授業をおこなう。一緒に「百科事典」にあたり、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』などを読む

患っていた猩紅熱(しょうこうねつ)が回復したトーマスは、8歳半1855年の時、教会が運営する私立の小学校に入学します(すぐに公立校に転入)。ところが教科書の丸暗記を強制する学校の授業方針に、トーマス少年は反発します。算数でも、1+1=2に対して、一つの泥ともう一つの泥を合わせると、二つの泥になることはない、と猛然と反論します。悪戯も過ぎていて先生にとってトーマスはあまりにも扱いにくい生徒でした。2、3カ月たったある日、教師が「頭が腐っている」と語っているのを立ち聞きし、その事を母に告げると、母は学校に出向き怒りを爆発させます。そして学校を辞めさせ、自分で教えようと宣言したのです。教員の資格のある母は、教科書を神聖化しない、教科書にとらわれることのない<教え方>があることに気づいていました(トーマスが小学校に通ったのはトータル6カ月程だったらしい)
教員の資格のある元小学校教師だった母は、早々に家で授業をスタートさせました。とにかく学校の教師よりも熱心な”授業”で、刺激に満ちたものだったといいます。最も有名なエピソードは、アヒルの卵がヒナに孵(かえ)れば、なぜ卵を温めるとヒナになるのだろうと、トーマスは小屋にはいって2日間アヒルの卵を温め続けたがヒナに孵らず、「百科事典」にあたって「3週間以上」温めつづけなくてはならないことを知ったことでした。母は<好奇心>が強い息子トーマスに、鳥の生態や花、魚、風のことなど、一緒に話し合い、分からないことは「百科事典」にあたって多くのことを学んでいきました。博識で知られるエジソンの出発点は、母と2人で学んだ「百科事典」だったのです。シェークスピアの戯曲、チャールズ・ディケンズの小説が、教科書の代わりに用いられました。歴史の授業では、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』やデイヴィッド・ヒュームの『イングランド史』、シアーの『世界史』を読んで聴かせ、またひとりで読むようにうながしてもいます。
天才エジソンの秘密 失敗ばかりの子供を成功者にする母との7つのルール (講談社プラスアルファ文庫)ローマ帝国衰亡史〈1〉五賢帝時代とローマ帝国衰亡の兆し (ちくま学芸文庫)
図説 ローマ帝国衰亡史
図説 ローマ帝国衰亡史

高校生用の教本『自然・実験哲学概論』が契機となり、化学実験に取り憑かれる

家授業がはじまった翌年(トーマス9歳の時)、母はリチャード・グリーン・パーカー著『自然・実験哲学概論ーA school compendium of natural and experimental philosophy』という高校生レベルの科学教本をとりあげました。石鹸や花火、塩の結晶づくりや酸で鉄鋼を溶かすといった化学実験の方法が、挿絵付きで解説されていました。すでに「百科事典」にあたって花や魚、鳥のことやら様々な事柄に<好奇心>が立ち上がっていた少年トーマスにとって、様々な「化学実験」はトーマスの<好奇心>を活性化し”つなげて”いくことになったのです。「火」の燃え広がり方を知りたいため納屋に火をつけたのはこれより3年前のことだった様に、トーマス少年は「自ら」試みる<実験精神>の習癖をすでに宿していたことが、<好奇心>の爆発につながったようです。少年トーマスは、教本を繰り返し読み込み、取りあげられていたすべての「実験」をみずから試そうと、トーマスは両親を説得して家の地下の物置部屋を「化学実験室」に仕立てあげたのです。後年トーマスはこの本が契機となり、<学び>の楽しさを身につけたといっていますが、自分の小学高学年の子供に突然、そうした高校生レベルの化学実験の教本を与えても、まず興味を示さないよいうに、それまでの<学び>が下地となり養分となっているのです。
▶(2)に続く-未
・参考書籍:『エジソン—電気時代の幕を開ける』(ジーン・アデア著 大月図書 2009刊)/『エジソンの生涯』(ロナルド・クラーク著 東京図書 1980刊)/『快人エジソンー奇才は21世紀に甦る』(浜田和幸日本経済新聞社 1996刊)/『天才エジソンの秘密—母が教えた7つのルール』(ヘンリー幸田著 講談社 2006刊)/『起業家エジソン』(名和小太郎朝日新聞社 2001刊)/『エジソン不登校児だった』(若林実著 筑摩書房 1990刊)

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宮沢賢治の「Mind Tree」(2)- 小学4年の時、川原での「石拾い」に夢中に。小学生5年の頃から植物や昆虫も蒐集しだす。盛岡中学では「植物・鉱物採集」「登山」が学校教育の一環だった。中学で成績は急降下、<反抗的>になる賢治


盛岡中学1年の時、賢治少年が初めて学校教育の一環として「登山」した南部富士「岩手山」(2040m)。賢治少年はすっかり岩手山の虜になり生涯で十数回登っている。

泣き出したら手に負えなかったが、行儀のよい子供だった

▶(1)からの続き:小学校に上がるまでの賢治は、あまりものを喋らず、笑うこともあまりなく、庭に生えていた梅の木に吊るしたブランコに乗ったり、ひとりで縄跳びをしているような子供だったといいます。ところが泣き出すと手に負えず、母イチがいくらあやしても泣き止まない頑固な子だったといいます(泣き止まなかった2つのエピソード。1歳年上の本正少年が、賢治が遊んでいた馬のおもちゃを貸して欲しいと頼んで遊んでいると、おもちゃをとられたと思って突然泣き出し泣き止まなかった—これは皆さんもよく経験すること。2つ目は、本正少年が小学校に上がった時、自分も一緒に行けるとおもい、実際には1歳年下なので小学校に一緒にあがれないことを知って泣き止まずずっと機嫌が治らなかった。子供を持つ親御さんも、泣き止まない我が子をしかりつづけることはやめましょう。小さな子供は泣くことで自己を感じ生み出していますから。たんに意地っ張りはよくありませんが、強い意志形成にもきっとつながっていきます)
賢治6歳の時、赤痢に罹り花巻の隔離病舎に入れられた時、看病に付き添った父・政次郎も感染した様に、長男の賢治は両親に大事に育てられ、行儀が悪くならないよう、あまり他の子供と遊ばせてもらえなかったため、ひとり遊びばかりしていたようです。まだ小さな頃、賢治が行儀よく大人しかったのは、仏教講習会の影響や家庭内の仏教的雰囲気が一番影響したようです(自然と正座して耳を傾ける姿勢をとらせていた)。家でも食事の時には、いつも恥ずかしそうに恐縮しながら食べ、物を噛むときもなるべく音をたてないようにしていたのもその影響下だとおもわれます。
また、仏教だけでなく「キリスト教」の精神も賢治に強い影響を与えています。花巻には、新教のバプテスト派が早くから伝道に着手していて、明治13年に教会を設立していました(賢治が生まれる16年前)。賢治との直接的な接点は、父と昵懇の仲になっていた斎藤宗次郎(花巻きっての熱烈なクリスチャンとして知られる内村鑑三の直弟子。内村鑑三全集の編集者)と花巻で活動していた内村鑑三の高弟・照井真臣乳(まみじ)でした。照井真臣乳は当時小学校2年生だった賢治にキリスト教を教え、賢治はキリスト教実践者たちの熱意ある行動と思想に深く影響されていきます(照井真臣乳は小学校5年の賢治の担任先生でもあった)。斎藤宗次郎氏とは、少年時代だけでなく、20代半ばの上京前後、花巻農学校在職中にも交流はつづきました(少年時代に斎藤師に賢治は作文や習字を見せている)
入学した花巻川口尋常高等小学校でも、賢治は行儀よく、言葉使いは丁寧で、柔和な表情でしたが、どこか態度が大人びていたこともあり、いじめっ子も手をださず、不思議とクラスで一目おかれる存在になっていきます。今でいう番長(6、7歳年上)が年下の金持ちの子供を脅しお金をまきあげていた時、毅然とした賢治だけには脅しが通じなかったといいます。


小学校時代の赤シャツ事件:ある同級生がめかして当時珍しい赤シャツを着て学校に登校した時、まわりから「メッカシ(めかしてる)!」と騒がれいじめられ時、賢治は自分も赤シャツを着てくるから、いじめるなら自分をいじめてくれとたのんだという。ちなみにこの当時、小学生の通学姿は、ランドセルはまだなく風呂敷包み。制服もなく着物やモンペ姿に草履だった。また馬車に指を轢かれ傷をした同級生の血にまみれた指を吸って治療した話もある。傷ついたひとに深い同情をよせる気質は母親ゆずり。


1年終了時には、修身・国語・算術・遊戯・操行のすべてで優秀の「甲」でした。が、2年生の頃、礼儀正しい優秀な子供と誰もがおもっていた矢先のこと、賢治少年はすすきの野原に火をつけたり、4年生の頃には小舟にのって北上川の対岸の畑にわたって瓜を盗んだりしています。そうかと思えば、当時のガキ大将が戦争ごっこの最中に野に火をつけたのが風にあおられ火が広がり、皆が唖然としているなか、率先してくい止めたのも賢治でした。

「昔ばなし」を話して聞かせながら学校へ通う。3、4年担当の八木先生から受けた影響

賢治は学校へ行く道すがら、「むかしこ(昔ばなし)」を話して聞かせるようになります。連れ立って学校に通っていた近所の金治少年相手でしたが、次第に何人かが話を聴こうと後をついて行くようになったといいます。賢治少年が語る昔ばなしの多くはその頃、賢治が愛読しはじめていた巌谷小波の本を読んで感銘を受けたものでした。3、4年時に担任となった八木英三先生(当時19歳の新人先生だった。後に早稲田大学を卒業し中学教師になる)が、その賢治に大きな影響を与えることになります。八木先生は、授業とは別に「童話」や「少年小説」(外国語から翻訳されたばかりの『まだ見ぬ親』五来素川訳など)をよく生徒たちに話して聞かせたのです。賢治は熱意溢れる八木先生の自由さに目をうばわれます(伝記本には必ず、でっぷりとした八木英三先生の写真が掲載されている。八木先生は、「君が代」も「わが代こそ千代に八千代に」だと語り校内で問題となり警察に引っぱられ、敗戦までずっと監視されていた人物だった。八木先生が皆に「立志」をたずねた時、賢治はまだこの時は「家業を継いで立派な質屋の商人になる」と応えている)

小学4年生、川原での「石拾い」に夢中に。小学生5、6年の頃、植物や昆虫も蒐集しだす

小学校も4年生の頃になると、学校から帰るとすぐに鞄を放り出して近くの豊沢川(西の山々から流れきて花巻市内で北上川に注ぎこむ)にかかる豊沢橋の下に広がる川原に直行しだします。その場所は、賢治だけでなく近所の子供たちの集合場所であり、イコール遊び場でした。そこで子供たちは、水泳ぎしたり、魚とりをしたり、虫を取ったり、「石拾い」を楽しんだのでした。上流から雪どけ水が新しい石を運んでくるので、とくに春は「石拾い」の季節でした。賢治だけは季節を問わず「石拾い」に夢中になっていきます。皆が「石拾い」に飽きても、賢治だけは「もっと透き通った石を探すから」と言ってひとり拾いつづけたといいます。「石ッコ賢コ」という綽名(あだな)はこうして皆の間で自然につけられたものでした。そんな賢治でしたが4年生終業時にも、依然すべての学科で「甲」でした。


賢治が通っていた時代に小学校は、尋常科だった4年制から現在の6年制に切り替わる(明治40年-1907年のこと)。そのため賢治は2度、小学校を卒業することに。一度目は、尋常科での小学4年生で、もう一度は、それから6年制に移行したため残りの2年を終えた時。


小学生5、6年の頃になると、「石」への凝り性はふつうでなくなり、川原で拾ってきたいろんな鉱石や矢の根石、さらには化石を様々な箱に入れだし、家族からも「石っこ賢さん」と呼ばれるようになります。その蒐集熱は、植物や昆虫にもひろまりだし、植物は押し葉にし大切に保管し、「昆虫」の標本づくりにも凝りだします。賢治は弟の静六に石のことを説明したり、蒐集した宝物を瀬戸物の甕(かめ)に入れて土の中に埋め、昆虫の屍骸があれば土のなかに埋葬して墓をたててりしたといいます。一方、賢治の「童話」好きはさらにすすみ、自分で読むだけでなく、弟や妹にいろんな童話や詩を読んで聞かせるのもまた大好きでした。自分で絵を描きながら、昔話を聞かせたこともしばしばだったようです。幻燈や活動写真も大好きで、賢治は弟や妹を連れて見に行っています。
ちょうどこの5、6年生の頃(10歳〜11歳)は、自意識も濃くなり自己形成が活発化しはじめます。”根っ子”にあった気質が、周囲の者や環境とさまざまに触れ合い交じりあいます。樹木で言えば、太い幹から突然、太い枝が生えはじめ樹全体はアンバランスになりながらも、樹勢は止むことはありません。賢治少年は突如、仏頂面をしおそろしく物事をきかないようになり、時に子分を引き連れて他の学校に遠征に出かけたり、教室で入口の扉を開けると物が落ちて来る悪ふざけを率先してやりはじめるのです(逃げる賢治を先生が追いかけもした)。賢治少年のこの<心の造山活動>はその後もつづき、断層もある様な複雑な<心の地形>が生み出されていきます。

盛岡中学では、「植物・鉱物採集」や「登山」が学校教育の一環だった

賢治少年は、中学に入る頃には、<心の地形>のさらに根源にある東北の地へと<アースダイブ>しはじめます。悪戯好きでガキ大将化しはじめた<心の造山活動>は、その深部へと潜りはじめ、何百万年、何億年を経て生み出された鉱物や地層へ、森へとその意識は蠢(うごめ)きはじめます。
13歳(1909年)、県立盛岡中学の受験に合格、入学します(当時は中学は義務教育でなく倍率は3倍だった。盛岡中学は国語学者アイヌ語研究で知られる金田一京助銭形平次の作家・野村胡堂、後に賢治にも大きな影響を与える賢治の10年先輩にあたる詩人・石川啄木を輩出している)。学校は盛岡市にあるため賢治は寄宿舎住まいとなります。盛岡中学では教育の一環として、「植物・鉱物採集」や「登山」「兎狩り」がおこなわれていて、賢治少年の「石」や「植物」への情熱をさらに促すことになります。行事でなくとも賢治少年は、岩石用ハンマーを腰にかけ、盛岡市内の岩手公園や岩山にはじまって、郊外の鬼越山、のろぎ山、蝶ケ森山へと通いだしています。盛岡一帯は、花崗岩や蛇紋岩、古生代の地層からなり(海底火山の噴出物も堆積)、盛岡はまさに「石の町」というにふさわしい町だったのです盛岡城の石垣も花崗岩でつくられている。岩手県全域が鉱山が盛んな県だった)。1年生の賢治少年は、花崗岩の中でもとくに雲母の一種の「蛭石(ひるいし)」やチョーク代わりになる黒脂石を好んで採集していました。


 公園の円き岩げに蛭石を われらひろえば ぼんやりぬくし


これは中学1年の時に、賢治が詠んだ短歌です。賢治は中学1年から「短歌」もつくりはじめていました。
賢治が初めて南部富士と呼ばれる「岩手山」登山を体験したのは中学2年の時でした。最初は学校行事の一環で、植物採集が目的の登山でした(寄宿舎監長を兼ねていた博物の先生が引率し、岩手山神社社務所に宿泊。午前1時起床、松明の灯をかざしながら、生徒80人が標高2040メートルの岩手山に登った)。この時、ふだんは体操の授業はクラスで運動神経のにぶさにかけては筆頭を通していた猫背の賢治(柔道も剣道も野球も何もかもスポーツはまるで音痴。ボール投げの姿はまるで女の子の様だったといいます)が、登山になると別人のようにさっそうとした健脚になり他の生徒たちを驚かせています。3カ月後にも英語の先生の引率で、唱歌を歌いながら夜明け前の岩手山を登っています。以来、岩手山の虜になった賢治は、ひとりで(時に数人で)登山するようになり、生涯を通じ数十回にのぼっています。中学3年の時に、小岩井農場に学校行事で遠足があり、以降賢治少年のお気に入りの場所になります。

中学時代、成績は急降下。<反抗的>になる賢治

小学校高学年に反抗心が芽生えた賢治が、家から離れ解放的な気分に浸れたのは2年余りで、次第に<反抗的>になっていったようです。小学校では「甲」ばかりだった成績も見事に急降下、授業中も教科書を開かず、哲学書を読むようになり、教師へも反発しはじめ心は屈折していきます。中学を卒業すれば、家業の質屋を継がされるという思いからでした(祖父はもともと商家を継ぐ者に学問は不要という考えだった)。それは重荷どころか賢治にとって質屋家業は、嫌悪の対象になっていたのです。先に書いた様に、自然災害を受けいっそう生活が苦しくなった近隣の貧しい農民から、僅かな品物を”収奪”するようなひどい仕事に賢治には映ったからでした。同級生は皆、進学をめざして勉強をかさねていたなか、自分だけは進学できそうになく賢治は鬱屈するばかりだったのです。
弟の清六も後に著書『兄のカバン』で、「家業の質屋は陰気な商売で、宮澤家に病人が絶えないこと、いつともなく人の世の哀しさが兄弟の身に染み込むようになった」と語っています。さらに「兄・賢治は、表面的には陽気にみえたところもあったといいますが、本当は小さな時から何とも言えないほど哀しみを抱えていた」とし、その哀しみは賢治が諸国を巡礼して歩きたいという思いが小さな頃から大人になるまでずっと抱いていたことと通じているようです。
▶(3)に続く-未

宮沢賢治全集〈1〉 (ちくま文庫)
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宮沢賢治全集〈8〉注文の多い料理店・オツベルと象・グスコーブドリの伝記ほか (ちくま文庫)
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セロ弾きのゴーシュ (角川文庫)
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宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)
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宮澤賢治の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 賢治誕生時、「三陸大津波」と「陸羽大地震」が相前後して起こった。母方は花巻銀行、花巻温泉、岩手軽便鉄道の設立に尽力。「仏教」が宮澤家の生活軸。母イチの花巻弁の声音は<音楽>の様だった


はじめに:多面体を生き、時にどのように結晶させるか。因果の鎖をとく”溶媒”

宮沢賢治は多面体です。詩人・童話作家・農学校教師・農業指導家・地質学者であるだけでなく、星座天文学好きであり、山好きであり、森や川を歩き標本採取し、石好きであり、音楽好きであり、芝居好きであり、エスペラント語をやり、読経好きな宗教家でもありました。なぜそんなに賢治は多面体なのでしょう。故井上ひさし氏によれば、羅須地人協会の創設の背景には、最初のバリ島ブームがあり、バリ島の農民の生き方が”発見”され、農民は日が暮れれば音楽家であり、芸術(芸能)家であり、同時に宗教家でもあると。『春と修羅』『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『雨ニモマケズ』などはそうした賢治の多面体が結晶したものといえます。
近代化された国ではひとは一生涯、仕事に染まってただ一色になってしまう。大人になることは、幼少期に見たパノラミックな風景を切り取り、イーハトーブ(岩手)の百花繚乱の自然から、光や風、大地から遠ざかることなのか。賢治の青年期は、父や家業への反目、妹トシの死、表面的な陽気さの裏の本質的哀しみ、根源的な人間不安、どう生きるかつねに悩みのなかにあり、国柱会へと宗教遍歴していきます。
宮沢賢治は、天上の世界と地上の世界に引き裂かれつづけましたが、その時空の裂け目を繋げたのが<宗教>であり、<音楽>であり、「銀河鉄道」の様に、<詩・童話>でありました。そこには目には見えない天界までとどかんとする「マインド・ツリー(心の樹)」が賢治の裡に立ち上がっていたからに他ありません。その「心の樹」の樹冠は、遥かな<銀河系>からの光を映しだしたかの様に、キラキラ輝いているのです。


「…二千年ぐらい前には 青空いっぱいの無色な孔雀が居たとおもい 新進の大学士たちは気圏のいちばん上層 きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を発掘したり あるいは白亜紀砂岩の層面に 透明な人類の巨大な足跡を 発見するかもしれません…」(『春と修羅』)


そう、気圏のいちばん上層のあたりで見つけた化石や、白亜紀砂岩の層面で発見された透明な人類の足跡は、<第四次延長>に伸びた賢治の「心の樹」のそれであり、わたしたち自身の感じる<心象風景>の未来の「化石」になるかもしれないのです。賢治の「心の樹」の”樹液”は、今生の<因果の時空的制約>を溶かす”溶媒”にちがいありません。賢治はそんな魔法の様な”溶媒”の原液をどこでいつ手に入れたのか。それは「イーハトーブ(岩手)」の大地と夜空にあったのです。

賢治誕生時、「三陸津波」と「陸羽大地震」が相前後して起こった

宮沢賢治(本名:宮澤賢治)は、1896年明治29年8月27日、北上山地奥羽山脈に挟まれた岩手県稗貫(ひえぬき)郡里川口村(後の花巻町。現・花巻市に生まれています(誕生は母の実家がある同じく川口村、後の花巻市鍛冶町)。賢治が生まれた前後は、東北地方に大きな自然災害が引き起こされた時期にあたっていました。賢治が生まれる2カ月程前には、岩手県内だけで死者1万8000人を超える大惨事となった「三陸津波」が、賢治が生まれた4日後には(8月31日)直下型地震の陸羽大地震(M7.2)が発生し、内陸から山地にかけ多数の家屋が倒壊し山崩れも1万カ所に及んでいます(それ以外にも度重なる集中豪雨や北上川の大氾濫が重なり、自然災害・凶作・冷害は大飢饉を引き起こし、岩手は荒廃し県民は貧困に喘いだといわれる)地震発生時、賢治の母イチは、念仏を唱えながら体をかぶせ必死でわが幼子を守ったといいます。
災害への関心が深かったといわれる賢治は、三陸津波の際の惨状(溺死体も多くあった)が写された写真を幼児期に度々目にしたといわれていますが、それは賢治の叔父(父の弟)の宮澤治三郎が当時まだ珍しかった写真の撮影に打ち込んでいて(技術は玄人レベル)、撮影された多くの写真と身近に接することができたからだそうです。まだ20代だった叔父・治三郎は、大津波の報を聞き一目散に釜石に駆けつけその惨状を撮影、新聞社に提供しています。
さて、賢治の実家の家業は、夙(つと)に知られているように「質・古着商」です。当時の社会経済環境から、生活苦にあえぐ農民は質入れして生き抜く者も多く、後に賢治は父・政次郎と商いのことで(商売代えを父に強く要望していた)、つねに衝突を繰り返すことになります。ところが面白いもので、農民や農業の肩を持つようになる一方、賢治は「商い」そのこと自体を諌めるのではなく、(妹トシの看病で上京中の23歳の時)新たに宝石(人造宝石)などを扱う商売を企てたいと父に書き送っているのです(数回目の手紙では、企画案は飾石・宝石、指輪やネクタイピン・カフスボタンとより具体化される)。そして賢治の「商い」への様々なかたちのアプローチと関心は、じつは花巻一帯を根城に、商工の業を広く起こし地位と富を築き繁栄してきた宮澤一族(地元花巻で「宮澤一族(みやざわまき)」と呼ばれ、花巻を代表する一族で、地域の秀才を輩出していた)の遺伝子のなせる技といえるものだったのです。
しかもこの「宮澤姓」は、江戸期から父方の姓であり、また母方の姓でもあり、2つの流れとなっていた宮澤家が、賢治の父と母の代で合流することになり、まさに花巻の一大勢力と化していたのです(地元ではどちらの宮澤家も、同じく宮澤一族とみていたようだ)宮沢賢治は、たんに成功した質・古着商の長男として生まれ育った者ではなかったのです。このことを押さえておくと宮沢賢治の生き方、思考に嗜好、反目・反抗、挫折や企図がおのずからみえてきます。賢治は自然災害を受けいっそう生活が苦しくなった近隣の貧しい農民から、僅かな品物を”収奪”するような<質屋>(当時の社会的有り様としての)という家業を嫌悪するようになり、<家>の宗教を、そして<家長>の父に対して反目(つっぱり)していくのです。

父方は江戸中期に呉服屋を繁盛させたが、後に衰退

母方の宮澤一族の方(その経済的手腕)には驚かされますが、まずは父方の宮澤一族からみてみましょう。宮澤家一族の始祖は、京都から花巻へ下った浄土真宗安浄寺の門徒としてつくした藤井将監(元禄9年、1696年没)と言われています。藤井姓が江戸中期にいつの間にか(理由は定かでなく)宮澤姓宮沢賢治の「宮沢」は、本来は「宮澤」表記。本名も宮澤賢治になっている)になったようで、江戸中期、はじめて宮澤姓を名乗った宮澤右八が起こしたのは呉服屋でした。使用人も多く雇うほど呉服屋は繁盛し、その子供の2代目の時、「土子金持ち」と呼ばれ栄華を誇ったと言い伝えられていますが、商家としての家風としては慎ましく地味だったようです。3代目は、勤勉だった2代目とちがい(宮澤家でも栄華は3代で一旦終わっている)、奔放で華美に流れ店は衰退。南部藩の頻繁な御用金徴収にも懲り、暖簾を下ろしてしまうのです。2代目の二男は別の呉服店に養子に出され、三男は堅物な人で親孝行者でしたが、気が小さい少年でした。それが賢治の祖父・宮澤喜助でした。
宮澤喜助は、新渡戸稲造の祖父もくわわっていた青森県三本木の開拓に、伯父らとともに経理として同行しています。喜助は初代の様に勤勉で質実剛健に生きたため宮澤家は復興しはじめます。この喜助が賢治の父・政次郎が継ぐことになる質・古着商をはじめています(分家の際、喜助の長兄から僅かな資財を譲り受けはじめた)。財産を蓄えた頃には、朝顔ラッパの蓄音機を購入し、越路太夫や呂昇のレコードを聞き、浄瑠璃本を買い揃え、義太夫に凝りだしていました。何よりも魚が大好物で「おれの儲けた財産だ、おれの好きなものを食わせないということあるか」と文句をよく言い、魚料理を知らない賢治の母イチを大いに困らせたようです。この喜助の妻・関キン南部藩勘定奉行頭の関七郎が祖)は、11人あった子供のなかで最も慎み深い性格で言葉も少なでした。馬から落ち腰を痛め、晩年はひたすら念仏を唱えていたといいます。

母方は、花巻銀行から花巻温泉、岩手軽便鉄道などの設立に参画

一方、母方の宮澤で(鍛冶町宮澤家)の祖の宮澤孝作1831年没)は優れた棟梁で、手がけた神社仏閣は現在もあちこちに残されています(花巻文化財指定の鳥谷ケ崎神社円城寺門など)。この宮澤家に婿養子として入った弥兵衛は、文房具や塗物を扱う雑貨商「宮澤屋」を開業、その誠実な人柄で商いは軌道に乗り、田畑ももつようになります。その孫の宮澤善治が町の人々から「宮善」(宮澤屋を指すが)と呼ばれる大人物となります。善治は、賢治と同様、虚弱体質でしたが胆力・気力があり、時代の動きに敏感で、タバコや塩(専売法以降、指定を受け販路拡張した)、砂糖、ガソリンも扱いはじめ、そのことごとくが当ります。慶応義塾理財科を卒業した善治の次男が進言した近代的経営のノウハウを取り入れて多角経営に取り組み、花巻銀行から花巻温泉、さらには岩手軽便鉄道などの設立に参画します(善治の次男は花巻農学校の県立昇格に尽力)
賢治が言うように(知人への手紙中)母方の実家・宮澤家は、まさに花巻一円の<財閥(賢治は”社会的被告”とすら表現している)>だったのです(また善治は町会議員を40年余り勤めあげ、その儲けっぷりを表に出さず生活も質素倹約を旨とし、多額の公共の寄付をおこなったという)。この善治の三男は釜石でタバコ専売店を開業していますが、賢治は度々その地を訪れ、三男が所有するヴァイオリンを弾いたり注文したレコードを届けたりと、2人の間には気兼ねのない関係がつづいたといいます。

家業以外にも情報に通じ株式投資で財を成した父

賢治の宗教心や仕事観に大きな影響(作用も反作用も)を与えた人物の一人はなんといっても父・政次郎まさじろう)です。ところが宮澤政次郎と賢治は、かなり資質も気質も異なります(「マインド・ツリー(心の樹)」的に言えば、”樹相”がことなる)。それでも賢治は政次郎の子として、政次郎の影響圏にありました。資質が異なる子供が、その親からどの様に、どんなかたちで影響を受けるのか、また屈折し反発しだすのか、そして複雑な心理的関係が時に、またとない果実を産みだすことがある、その”想定外”の果実を賢治は生み落としたのです。最もそのプロセスにおいては、親の方も子の方もそう容易には生来の地図を描くことは叶いません。なぜなら2人の関係以外からも影響や刺激が送られ、状況は転位し、新たな目標が付け加えられるからです。
まずは父・政次郎に接近してみましょう。政次郎は若い頃から宮澤一族の家風をうけ、勤勉で堅実な性格だったといいます。中学生頃から家業の仕事を助け、商いを知り任されるようになると、関西や四国にまで買い出しに出かけ安くて小綺麗な衣類を大量に買い付け、時代にあった商売のコツを掴んでいきます。情報の収集や研究にかけては人後に落ちず、景気上昇を引き起こした第一次世界大戦中に果敢に株式投資をおこない、財を成しています。後に「自分は仏教を知らなかったら三井、三菱くらいの財産はつくれただろう」と語り、積極的に店舗を拡張するなど時勢に応じて経営の転換を計る才覚をもっていました。店舗経営を近代的実業に切り換える目論みと準備もあり、それを長男の賢治に期待していたようです(結局、次男の静六が家業を継ぎ、大正15年に金物・電動機具商に転じている)

それでも「仏教」が宮澤家の生活軸になっていた。”慈母”としての母の存在

父・政次郎は実務家、理財家の一方、つねに研鑽につとめる求道者でした。朝夕の勤行が宮澤家のリズムとなり、日常生活もとっぷりと「仏教」に則った生活だったといいます(宮澤家一族の始祖で浄土真宗門徒だった藤井将監以来、200年余つがれた濃密な信仰空間があった)。幼子だった賢治の子守唄は、政次郎の姉ヤギが唄える親鸞の『正信偈(しょうしんげ)』や『白骨の御文章(はっこつのおふみ)』でした(賢治3歳の頃にこれらのお経を暗誦。当時はそうした子供はあちこちにいた)。祖母のキンの口からも年がら年中、「南無阿弥陀仏」の称名が絶えることはありませんでした。
また政次郎が法友数人と「我信念講話」の研修会を組織したのは、賢治3歳の時のことでした(1899年)。なんと最初の2年は盛岡高等農林学校の先生から農業についての話を皆で伺っていたといいますが、参加者は宮澤一族はじめ教育者や知識人ばかりで農民はいなかったこともあり、以降宗教論と人生修養を目的とした会になります。じつは政次郎が求道心を深めた背景には、賢治が妹トシを失ったように、大きな理由があったのです。1903年明治36年に27歳だった弟・治三郎を亡くしていたのです(この治三郎が「賢治」の命名者で、三陸津波の惨状の写真を撮っていたのが賢治のこの叔父だった)。政次郎は大沢温泉で催す夏期仏教講習会の世話人となり、仏教書の購入など費用の一切をまかないます。小学校にあがったばかりの少年賢治はこの講習会に父に付き従って毎回の様に出、暁烏敏(あけがらすはや)師や近角常観らの話に熱心に聴き入り、とくに暁烏敏師に寄り添って離れなかったといいます。暁烏敏師は近代仏教の先覚者・清沢満之の許で勉学を重ねた高弟で日露戦争中の東北大飢饉の際に慰問行脚している)、当時雑誌「精神界」を編集。政次郎はその雑誌の熱心な読者でした。暁烏敏は念仏唱歌を教えたり賢治ら子供たちと角力を一緒にとって交わっています。宮澤家の裏庭には小屋があり(政次郎の蔵書が収められていた)、賢治ら子供たちはしょっちゅう小屋に入っては仏教書などの「読書」をしていたといいます清沢満之門下の研鑽は、キリスト教古典からヘーゲルまで、一仏教一宗派にとどまらなかったことを考えれば、賢治が小屋で読んだものは仏教書に限らなかったはず)。賢治の弟の静六も外祖母の家でお菓子が出された時に、”煩悩”がおこるといって食べなかったといい、魚料理狂いの祖父とちがって兄弟そろってどれほど仏教が心の基盤になっていたか物語っています(堅物的ではなかったにしろ賢治もおおいにベジタリアンではあった)
どちらかといえば色白でひ弱な、大人しい性格の少年だった賢治だとみられていましたが、父・政次郎はそんな賢治の裡に、奔放な天馬の様な気質を見抜いていて、地上につなぎとめるためにつねに手綱をとってきたこと、そして「早熟児だったが、仏教を知らなかったら始末におえない遊蕩児になったろう」とも語っています。


父・政次郎は、賢治4歳の年(明治33年-1900年)、26歳にして育英会理事に選任されている。33歳にして町会議員に当選、以降4期勤める。また学務委員、育英会理事、人事調停委員、借地借家調停委員、民生委員、司法委員など町の様々な公的活動を歴任、藍綬褒賞も受けている町の有力者だった。賢治との確執からくる厳格な父親像とは裏腹に、公的活動では穏和な姿勢で町民に耳を傾け、皆が納得するまでじっくり話し合ったという。子供たちに対して厳しかったのは、家庭内の厳格さが一家の秩序を保つはずだという時代感覚にくわえ、身を飾るよりも心を磨けという精神主義の過剰からだった。母のイチが娘トシのために着物をつくろうとしても、つくらせてもらえず、イチは自ら養蚕を育て、自分で繭を売り、生地を用意し娘たちのために着物をこしらえたという。

母イチの花巻弁の声音は、<音楽>か<歌>の様だった

母イチは、魚にうるさい祖父喜助や、我が侭な精神主義者・政次郎に対する気苦労から心臓病や神経症に長年苦しみますが、情け深く、心に春風のようなゆとりをもつような生来の気質で、明るい笑顔でひとに接するひとでした。イチのその気質は、イチの母・徳(賢治の祖母)のそれを受け継いだといわれ、2人とも自然なユーモア感覚の持ち主でひとの心をほぐすのでした。イチは政次郎に嫁ぐ前は、英語や洋裁を習いに香梅舎という女塾に通い、新たしくモダンな感覚も持ち合わせていたようです。その感覚は賢治にも影響したようで、トマト(観賞用だったトマトを率先して食べた一人が賢治)やらチューリップ岩手県で最初にチューリップをつくったのは賢治だという。賢治は岩手県に珍しい花を植えだした張本人)、ビスケットにレコードコンサート、シャープペンシルから外国語など賢治はモダンなものを得意そうに食べたり使ったりする心性がありました。
そしてそれ以上に、母イチから賢治に継がれたのは身体そのものが<楽器>となったかのような張りのある立派なバリトン風な声音そのものであり、読経で鍛えた朗々としてシンフォニックな歌声でした。実際、賢治の朗読を聞いた人たちは、「音楽」の様であり「芝居(時に浅草オペラ風)」の様だったと記憶しています。母イチの声音がまた素晴らしく、花巻弁で喋ると、美しいソプラノでまるで<音楽>か<歌>の様に聞こえたと伝えられているのです。賢治ら子供たちは幼い頃から母のそれじたい<音楽>の様な声音で、「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」といつも聞かされていたのでした。それは母が賢治に伝えた生きる上での<楽譜>だったのです。賢治ら子供たちにとって母は、厳父に対する”慈母”でありつづけたのでした。
▶(2)に続く
・参照書籍:『宮澤賢治年譜』(堀尾青史編 筑摩書房 1991年)/『年表作家読本・宮澤賢治』(山内修編 河出書房新社 1989年)/『兄のトランク』(宮沢清六著 ちくま文庫 1991年)/『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著 ネスコ・文藝春秋 1995年)/『宮澤賢治の生涯—石と土への夢』(宮城一男著 筑摩書房 1980年)/『新潮日本文学アルバム 宮澤賢治』(1984年)/『デクノボーになりたい 私の宮澤賢治』(山折哲雄小学館 2005年)/『チェロと宮澤賢治』(横田昭一郎著 音楽之友社 1998年)他 

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ファーブルの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- フランス南部中央山塊の寒村に生まれる。3歳の時、祖父の農家に預けられ、<好奇心の芽>が膨らむ。文字が読めない父が町で買ってきた「動物」がのった「絵本」でアルファベットを覚える


1980年代、サントリーウィスキーのCM:ファーブル博士篇

はじめに:虫を愛でる国・日本でのファーブル人気

『昆虫記』とその著者ファーブルの名前は、大人から子供までおそらくほとんどの日本人は聞いたことがあるとおもいます。ところが、ファーブルの知名度は、じつは本国フランスでも日本程でなく、ファーブルが長年暮らした南仏アヴィニョンでもそれは同じだといいます。ちなみにファーブルのウィキペィアをみても、滅多にないことですが英語版のそれよりも日本語版の方が詳細だということが分かります(仏版は現在、日本語版より詳細である)
ファーブルが本国フランスや欧米圏よりも日本で人気があるのには理由があります。「神は世界を創り、悪魔は昆虫を創った」というのが、かねてから西洋の人々が昆虫に対して抱く共通の感覚だったからでした。虫を愛でる国・日本では大人気のカブトムシやクワガタムシも、西洋では悪魔を連想させてしまうのです。遡ればコガネムシも裁判にかけられ有罪とされたことがあったといいます(蜜を生産する蜜蜂とテントウムシだけが良い虫で無罪)
日本人は、大正時代からファーブルの『昆虫記』を読んできたといいますが、『昆虫記』の最初の翻訳者は意外な人物です。無政府主義者大杉栄なのです(大杉は自然科学者・丘浅次郎の弟子で、社会主義者も自然科学の方法を学ぶ必要があるという考えから)大杉栄は獄中、丸善からファーブルの英訳書を持ち込んで、「糞虫スカラベサクレ(フンコロガシ)」の生態に驚嘆し、翻訳に取りかかったといいます(ファーブルの『科学の不思議』を共訳した伊藤野枝とともに、関東大震災直後に憲兵隊により惨殺される。第1巻翻訳後だった)
昆虫の研究は、それまで死んだ標本を研究するのが当たり前でしたが、ファーブルは虫たちの舞台である「自然」と共感し、その<小宇宙>とともに、「生きた」虫を研究することへと、大きく転換させたといわれています。ファーブルは詩人のように、小さな生命に「魂」を感じとることができたからこそ、死んだ虫でなく、「生きた」虫を研究対象にすることができたのです。昆虫・動物.植物の研究だけでなく、生涯、詩を愛し、音楽を愛し(作曲もした)、山に登り、鉱物の研究にもいそしんだ姿は、東北が生んだあの宮沢賢治の魂と木霊(こだま)するものがあります。
虫博士ファーブルが全十巻の大作『昆虫記』にとりかかったのは55歳の時でしたが、ファーブルの虫や動物、植物、自然への関心は幼少期からすでにはじまっていました。ファーブルはどんな環境で、どんな幼少期を過ごしたのか。まずはそこからファーブルの「マインド・ツリー(心の樹)」に迫ってみましょう。

 

「アヴェロンの野生児」が発見された中央山塊の寒村に生まれる

ジャン=アンリ・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre)は、1823年12月21日(〜1945年没)、フランス南部、アヴェロン県サン・レオン(Saint-Léons)という小村に生まれています。南フランスというと、陽光溢れるプロヴァンス地方がすぐに思い出されますが、アヴィニョンやアルルの西方、地中海に面したモンペリエから北北西に100キロ程内陸部に入った所にあるサン・レオン村は、フランス中央山塊の南東部に位置し、冬期は気候が厳しく、やせた土地が多い高原地帯にポツンとある小さな村でした(当時のわずか400人程)。日本人でもこの一帯の山間部に行かれる人は相当に少ないようです。
ただ、この地域のアヴェロン県は、じつは日本でもかなり名が知られた時期がありました。「アヴェロンの野生児(The Wild Boy of Aveyron)」のことを記憶されている方も多いのではないでしょうか。1797年、森の中にいた裸の少年が捕獲され、感覚機能を回復させたり、言語を教え社会性を獲させようとしたが失敗に終わった野生の少年のことです(映画監督フランスワ・トリュフォーが、自ら野生児になって演技した映画『野生の少年』がある。トリュフォーは親から見捨てられ親の希望で少年鑑別所に送られた経験があった)
ファーブルが生まれた時、世話人の許で「アヴェロンの野生児」はまだ生きていました(ファーブル5歳の1828年、推定40歳で死去)。深い森と清らかな水が流れ、ブナやシラカバ、ミズナラやモミの木が生い茂る土地は、「アヴェロンの野生児」が自然の中で暮らしていた自然環境とそれほど遠くはないでしょう。3歳から6歳の間、ファーブルは父の実家がある標高1000メートルもある山間地で過ごしていますが、ファーブルはまるで「マラヴァルの野生児」の如く、ひとりで歩けるようになると自然の中へ入り込んでいき、昆虫や植物と戯れるのでした。

3歳の時、祖父の農家に預けられる。寒い日には、羊を抱いて寝た

土地の言葉でノアラック(高原の小さな村)と呼ばれていた生地サン・レオン村は、石灰質の山地をえぐって流れるミューズ川からせり上がった斜面につくられ、谷の頂には15世紀に建てられた古城がありました。石造りのファーブル家も古城の下の階段状になった斜面に建ち、土地も石灰質でライ麦、オート麦などしかつくれない小さな痩せた土壌があるばかりだったといいます。聞こえてくるのはせせらぎの音と小鳥の囀りのみの静かな村で、谷底には澄んだミューズ川が森の間を流れていました(ファーブルは『昆虫記』第10巻で、「懐かしい小川よ…貴いお前こそ、私の心に最初に印象づけられた聖なる詩なのだ」と記している)。巡礼の通り道になっていて市が立つ日だけは、近隣から人々が集ってきたといいます。
ジャン=アンリ(・ファーブル)が生まれて2年後に弟フレデリックが生まれます。幼な子を2人抱えて生活することは難しいと考えた若いファーブル夫婦は、兄のジャン=アンリをサン・レオン村から40キロ程離れたマラヴァルに住む父方の祖父母の家に預けます。祖父母の家は広い土地を持つ農家で、羊や牛を飼い、親戚や小作人、その子供たちも一緒に暮らしていました。祖父は仔牛が生まれると市に売りに行き、祖母は牛の乳を絞りバターやチーズをつくっています。
ファーブルは3歳から6歳まで、「物心がつく」時期を、この父方の祖父母の農家で過ごしています。寒い冬の日には、ファーブルは家の家畜小屋に潜りこんで羊を抱いて寝ていました(厳しい寒さの時には、大人たちも羊を抱いて寝たという)。周りは、エニシダの密生する畑、シダの葉の茂った林、キイチゴの赤い実がなり、聞こえてくるのはブナの木靴の音や、羊の番人がツゲの樹でつくられた笛で奏でる素朴なメロディーでした。
祖父はガリア人のように長い髪を肩に垂らし、藁を敷いた木靴をポコリポコリと音をたてて歩き、厳しい環境が気質をかたちづくったのか、いつも険しい顔つきをし冗談一つ言わない人だったようです。文字は読めなかったようで、一生に一度も本を読んだこともなく、村以外の世界は仔牛を売りに行く市しかほとんど知らなかったようです。周りの農民たちもほとんどが読み書きはできませんでした。

ファーブルの<好奇心の芽>が膨らんだ祖父が暮らすマラヴァルの地

祖母は話し好きで、毎晩夕食後、糸車を回して糸を紡ぎながら子供たちにいろんなお話をしてくれました。ひとりであちこち歩き回るようになると、ファーブルは「ちょうどモンシロチョウがキャベツの方へ飛んでいくように、わたしは虫の鳴く音をたどってどこまでも歩いていった」と『思い出の記』のなかで書いているように、自然の中へと入りこんでいくのでした。チョウの翅(はね)やオサマムシの翅をじっとながめるのだ。水の底の生命のこと、石をぱっくり割ってみると石の中に生命の形がでてきたりした。夕陽が沈めば、キリギリスの音を聞き分け、音の正体を想像したりしました。マラヴァルの地は、ファーブルの「森羅万象」への<好奇心の芽>が膨らんだ場所となったのです。
ファーブルの伝記作者G.W.ルグロは、自然に対するファーブルの鋭い観察と注意力は、親から受け継いだものではなく、もって生まれたものだと語っています。確かに、両親も、父方の祖父母も、母方の祖父母も、自然の中に住み暮らしていましたが、誰もファーブル少年のように鋭い観察と注意力を持つ者はいなかったようです。「森羅万象」が、「自然」が、ひとりの少年に生まれながらに備わっていた鋭い感受性に刺激を与え、引っぱり出したのでしょうか。ファーブルの弟子で友だった伝記作者G.W.ルグロの語るように、それは「もって生まれたもの」なのでしょうか。確かに、サン・レオンやマラヴァルの地の様に、”百花繚乱”の如き豊かな「自然」がなくては、ファーブル少年の昆虫や動物、植物、鉱石など「森羅万象」にわたる関心も観察眼も育たなかったことは間違いのないことでしょう。
「森羅万象」が、鋭い感受性の培養になり、その土壌になったことは間違いないこととおもわれますが、「森羅万象」に深く包まれれば、「もって生まれた」鋭い観察と注意力は開花する、という捉え方には大いに疑問が残ります。ここで思い出して頂きたいのは、「アヴェロンの野生児」のことです。このヴィクトールと名付けられた野生児は、間違いなくファーブル少年以上に、「森羅万象」の懐深く育っています。ところが野生児ヴィクトールには、ファーブル少年のような鋭い観察と注意力を伴った好奇心が溢れでることはなかった。それは鋭い観察と注意力を生まれながらに「もっていて」、野生児ヴィクトールは生まれながらに「もっていなかった」ということになるのでしょうか。

父が町で買ってきた「動物」の名前がのった「絵本」がもたらしたもの

ファーブルの「マインド・ツリー」に取りかかって数週間が過ぎ、いったん途切れかかった時、「しかし、私は生を探索している」という原題の『ファーブルの庭』マルティン・アウアー著 NHK出版)に出会ったのです。読みすすむうちに驚くべきことが分かってきました。ファーブル少年は学校に行きはじめても(6歳の時、両親の住むサン=レオンに戻されている)、読み書きをなかなか習おうとしなかったといいます。読み書きの入門本を与えても、中に書かれた文字よりも表紙に描かれた鳩の「絵」に心が惹かれるばかり(この頃、すでに村の学校に行っていたが野外授業の方が好きで、それ以上に昆虫を捕まえるのが大好きだった)
ある日、自分も名前以外の読み書きができない父が、私塾に通っても文字をまったく覚えようとしない息子に、これでは自分と同じに文盲になってしまうと危惧し町に出た時にあるものを購入しています。大判の色刷りの「絵本」でした(金銭的に負担にならないくらい安い絵本だった)。村で見るいろいろな動物の名前の頭文字をつかって、「アルファベット」を教えてくれるという内容のものでした。父は息子が動物好きで、息子がすでに名前も知っている動物がたくさん載っているので、これならきっと興味も引くし覚え易いとおもったのでしょう。たとえば、「A」は、ロバの「Ȃne - アーヌ」、「B」は牛で「Boeuf - ブーフ」、「C」はあひるで「Canard - キャナール」というように。まさにどんピシャでした(「Z」ではじまるこぶ牛「Zebu」など異国の馴染みのまったくない動物は、ずっと子音が慣れない状態が続いたが)。父は数日の間、自分もあまり分からないのに息子が読めるように手助けしています。そして私塾で使われていた鳩の絵の表紙の本も数日のうちに読めるようになるのです。ファーブルは後に語っています。「いまならこの突然の進歩を説明することができる。示唆に富んだ絵が、私をいろいろな動物と引きあわせてくれ、私の生まれつきの素質と合致したのだ」と。
つまり、生まれながらに「もっている」資質があったとしても、もしそれだけだったならば決して資質は伸びていかない、ということです。その資質が、「何ものか」と”合致”(ファーブルの言葉)した、幸運にも”出会った”時にはじめて、「進歩」したり、突然のびはじめるのです。

家畜のブタやヒヨコが入りこんでくる教室だった

両親の暮らすサン・レオンに戻ったファーブル少年が通った学校とは、ファーブル少年は名付け親でもあった村の教父ピエール・リカールの住まいも兼ねた私塾でした(義務教育前で村にはまだ学校はなかった。このリカール氏が、父にかけあいファーブルに教育を受けさせるようにサン・レオン村に連れ戻させたという。祖父の家があるマラヴェルには教育を受ける場所はまったくなかった)。教父リカールは村の教員であり、鐘楼の鐘つきをし、塔時計のネジを巻き、古城の財産管理人となり、理髪師であり、聖歌隊の歌い手もつとめていた人でした。こうしたいろんな仕事の合間にも、子供たちに手伝ってもらい林檎の摘み取りやカラスムギの取り入れ、その後に子供たちにフランス語の初歩的な綴り方を教えるといった感じでした(この当時、子供たちは農家の労働者で、誰もが私塾に通うことはなかった)。教室は豚小屋や鶏小屋とつながっていたため、家畜のブタ、雌鳥、ヒヨコが入ってくるような動物たちとつながった空間で、ファーブルはアルファベットを覚えるより窓から外の世界をずっと眺めるているのが大好きだったようです。


ファーブルがまだ子供の頃、フランス語は北部の「オイル語」と南部の「オック語」におおきく大別されていて、「オック語」もさらにトゥールーズプロヴァンスなど幾つもの方言に別れていました。19世紀には首都パリのある北部の「オイル語」が主流となり、フランス語が統一されていきます。ファーブルが育ったサン=レオンやマラヴァルでは南部「オック語」のラングドック方言が土地の言葉として日常的に話されていて、国語としての「フランス語」は外国語のように学校で習うものだった。(『博物学の巨人 アンリ・ファーブル』奥本大三郎集英社新書


私塾が休みの時は、牧場や野原に虫や小鳥を探しに出かけたりしています。林の奥で甘い香りをはなつシダのなかで、うっとりとした時を過ごすと、えもいわれぬ幸福感に包まれたといいます。ファーブルら村の子供たちのお気に入りの場所の一つは、皆が”テル”と呼んでいた大きな菩提樹の下で、隠れんぼなど格好の遊び場になっていました。その老樹の向かいに一年に一度村の市が立ち、珍しいものが市に並び、ファーブル少年は丘陵の向こう側に大きな「世界」があることを感じ取っていきます。
土地の所有権がなかった父はおもうように仕事をすることができませんでしたが(母は手袋づくりの内職をしていた)、ファーブルのアルファベットの勉強がどんどんすすんだ褒美に、ラ・フォンテーヌの『寓話集』を贈っています。キツネやカラスなどお喋りをする動物の話は、ファーブルの内面の「心の樹」に、再び見事にマッチしたのです。ファーブルの感性がさらに広がると同時に、本を「読む力」も急速に増していったのでした。
▶(2)に続く-未

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土門拳の「Mind Tree」(2)- 鬼瓦に顔が似ているとからかわれる。関東大震災直後、横浜市図書館の蔵書を片っ端から読み、奈良・京都の仏像と出会う。首席だったが学校に行かず「写生」に向う。17歳、「考古学」への関心


土門拳、14歳の時(当時中学1年)関東大震災を体験する。横浜に住んでいたが横浜市も壊滅(横浜だけでも3万人余の人が亡くなった)。この頃、拳は美術への思いをつのらせていて、戒厳令が解除された1カ月後に、瓦礫の中を二科展が催されていた上野まで歩いて見に行っている(臨時の開催日はその1日だけだった)

繰り替えされる引っ越し。「横浜の天神様」—岡村天満宮のこと

▶(1)からの続き:拳、小学2年生の秋、再び引っ越します。父の勤めの事情でした。移り住んだ先は、横浜市磯子区根岸の下町でした(現在の根岸駅近くではなく滝頭近くだったようだ。磯子区滝頭といえば美空ひばり誕生の地。拳少年がこの地に来てから26年後のことだった。拳少年の家からも、ひばりの家の近くからも巨大な横浜刑務所の建物が見えている。土門家は磯子区根岸監獄の赤レンガの塀に沿って歩き、共同便所を通り過ぎたところにある原っぱ脇、その原っぱの向かいに刑務所の官舎が見えたとある)。拳は家から程近くにあった岡村天満宮(京都の北野天満宮の分霊を祀る。「横浜の天神様」として知られる)によく出向いていたようです。祭礼には多くの露天が所狭しと立ち並び、境内には芝居小屋もかかり、社務所には子供たちの習字や絵が掛けられていました(ちなみにこの岡村天満宮には、現在、伊勢佐木町横浜松坂屋の屋上にあったバンド「ゆず」の壁画が掛けられファンの聖地。岡村天満宮のある岡村の地は「ゆず」の2人の出身地)。拳少年はこの地で、何度も「狐の嫁入り(無数の狐火が連なり提灯行列のように見える怪異現象)を見ています。この場所はいろいろ因縁深い土地柄のようです。
入学した磯子小学校では、勉強でも得意の習字でも拳よりもできる子が必ずいました。ならば大好きな「絵」で勝負だと画家を夢見はじめます(岡村天満宮社務所には、拳少年の習字も絵も掛けられたはずです)。拳が一途になるときかない気質だと父はわかっていたので、絵に向いだした息子に内心困っていたようです。この頃、父は警察から追われていた社会主義者をかくまったりしています。貧乏所帯にもかかわらず居候させたりし、朝から政治論を闘わせたりしています。社会主義者で思想家、アナキスト大杉栄を尊敬していた父は、羽織をはおい白鞘(さや)の日本刀を背負って選挙の大会に出掛けていました(後に土門拳大杉栄を尊敬するようになり、社会主義に共感していく)

鬼瓦に顔が似ているとからかわれ顔に自信がもてなくなる。「立川文庫」を読みながら帰宅する日々

磯子の地はたった1年半余り、父・熊造はまたも引っ越します(父は気質的に激情家。上司と衝突し退職)。今度は東神奈川方面の神奈川区幸ケ谷で、拳は二ツ谷小学校の四年生に編入します。ここでも成績はつねにトップクラスで、級長か副級長をつねにつとめていますが、憂鬱になる事件が起こります。鶴見の総持寺への遠足の折り、本堂の屋根の鬼瓦が土門の顔に似ていると皆が騒ぎだしたのです。拳は少し前に、お前の容貌は魁偉なのでよほど勉強して偉くならないと嫁のきてがないぞ、と脅かされていました。すでにこの頃、声にドスが利いて負けん気が強い拳でしたが、自分の顔にすっかり自信がもてなくなり、くさってしまうのです。小学生時代であっても、容貌の善し悪しは女の子だけでなく、男の子にも少なからず影響を与えはじめるものなのです(時代を担った人々の顔つきをとらえた写真集『風貌』は、土門の初期作品の内の重要な1冊)。そんな拳は、小学校3年までは帰宅して母がいないとワアワア泣く子供だったといいます。
またこの頃、両親に連れられ帝劇で歌舞伎を観ています。『忠臣蔵』の通しでした松本幸四郎が大星由良助役)。その後、昭和になっておなじく『忠臣蔵』を観ていますが(土門は『忠臣蔵』が大好きになる)、生活が貧しくなる一方の土門家は、歌舞伎に行く機会はほとんどなくなります。小学校3年から卒業するまでは、「東山36峰静かに眠る丑三つ時…」と無声映画で弁士が発する言葉にのって、チャンバラごっこに明け暮れています(この時代、ほとんどの子供がそうだが)土門拳の有名な江東区の下町の腕白小僧を撮った「近藤勇鞍馬天狗(昭和30年)と題された写真のごとくだったにちがいありません。
ちなみに拳が子供たちを腰を入れて本格的に撮り出したのは、『カメラ』月例で、「モチーフとカメラの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」を方法論としてぶちあげた昭和28年か、その前年頃からだった土門拳、43、44歳)。『筑豊のこともだち』は昭和35年に刊行されています。ただ子供への視線は、報道写真家として活動しだした昭和10年—1935年まで遡り、土門が伊豆や東京・小河内村で撮った子供たちのスナップ写真は、戦前の土門の代表作となっています。
5年生にもなると、拳は上野の絵の展覧会が気になって仕方なくなります。ところが神奈川からでは上野は遠く、両親も生活に追われそれどころではありません。芝の三田通りまでなんとか繰り出し、数件あった絵葉書屋で絵を見るのが楽しみになります。福田平八郎の帝展の特選絵「鯉」が絵葉書として売っていましたが、絵葉書一枚買う小遣いもありませんでした。
小学生高学年になると拳の本好きは誰がみても尋常ではなくなります。学校帰りは、「立川文庫」を読みながら帰るのがふつうで、何度も家を通り越してしまったり、本を読みながら七輪の火を焚けば気づけば七輪が白い灰になってしまったことも度々だったといいます。小学校5年生の時、「貧乏に負けてたまるもんか」と決意(靴は荒縄で縛ったボロの靴を履いていた)。小学校の卒業式では代表して答辞を読んでいます。

関東大震災直後、横浜市図書館の蔵書を片っ端から読み、奈良・京都の仏像と出会う

神奈川県立第二横浜中学校(現・横浜翠嵐高等学校)の受験の口頭試問で、将来の希望を聞かれた拳は、「画家」になることと答えています。その思いがどれほどのものだったか、中学1年の夏休み明けの1923年9月1日に起きた関東大震災(横浜の被害も甚大で7万2000戸が焼失、3万人余が命を落としている)直後の拳少年の行動にあらわれているようです。東京・神奈川・千葉・埼玉に発令されていた戒厳令が解かれてすぐ(大震災から1カ月後)、拳は上野に二科展を見に行っています。震災後、品川までの汽車賃はタダで(品川より東は汽車はまだ不通)、焼け野原の中(神田橋の下には死体が浮いていた)、中学1年の拳は避難民で溢れかえる上野までひとり歩いていっているのです(二科展はその日限りで中止され作品は全部京都に送られた)
反体制的志向がすでに身についていた拳にとって、絵を見るならば官展の文展ではなく、二科展でした。二科展は在野の芸術家のためのものでした。この年、大杉栄が妻・伊藤野枝と共に憲兵に絞殺され井戸に投げ込まれる事件が起こっています。拳は中学1年にして(14歳)大杉栄の『自叙伝』をむさぼるように読んでいます。
横浜市では、震災後バラック建てながら横浜市図書館が復興しています。まだ蔵書は不揃いで貧弱でしたが、拳は図書館の蔵書をすべて読み尽くそうと心に誓います。最初は土曜の午後と日曜・祭日に必ず通いました。美術書から文化・歴史本をかたっぱしから読みはじめます。次第に平日でも学校をさぼって弁当持ちで図書館に通いだし、1年程であらかた読み切ってしまったのです。土門拳はその時の「読書体験」が後年の教養の基礎になっていると後に語っています。
その継続的読書が、拳の教養の基礎になっただけではありませんでした。この時の読書のなかで、後に写真家「土門拳」の代表作となる『室生寺』や『法隆寺』『古寺巡礼』シリーズで撮影することになる奈良や京都の寺々の仏像や建築を、書籍の挿絵の「写真」のなかに見ていたのです。写真という「方法」とアプローチは、拳少年の意識や認識がとらえることはまったくありませんでしたが、そこに写されていたものは拳少年の夢のような憧れとなっていきました。同時に、拳は他の書籍を読んでいる時、必ず『ニール(ナイル)河の草』木村荘八著)を手許に置いていたといいます。エジプト美術への憧れも、古(いにしえ)の時、古代への憧れを強めたようです。

首席となったが、学校に行かず「写生」に行く。ゴッホに入れあげる

図書館通いが続いたその年の3学期、拳は135名中、首席となっています。従兄に伝えると鼻の先で笑われ(従兄は秀才で一番以外なったことがなった)、それ以降、一番など取らないと決意しています。2年の時も級長を務めていますが、もはや学校ではまともに勉強しなくなっています。その年の秋、父が失業し病気がちになり、看護婦の母の収入だけでは一家の生計はたたなくなってしまいます(退学して家具屋の小僧になる話がでていた。拳の絵を高く評価していた教師の計らいで月謝が免除され退学だけは回避された)
16歳の時、拳の絵に対する情熱はさらにたかまります。学校の校門まで来ても、校舎に入る気にならず野に山にと「写生」に行ってしまうのです(雨の日は図書館通い)。そのため出席日数が足らず落第寸前に。家に居づらくなり、同じく画家を夢見ていた同級生(出田孝一)の家を居心地のよい自分の家の様におもってしまいます。スケッチに出る時など、出田少年の母は、夕食だけでなく弁当ももたせてくれたのです。学校の10周年記念祭では、拳のクラスは震災で崩れ落ちた教室の壁に岩絵具で大きな壁画を描きます。拳が陣頭指揮をとって徹夜しながら描いたのはアンリ・ルソーの「原始の森」でした(後に国語の教師が授業の邪魔になるとして撤去された)
この頃、拳の得意な科目は漢文が一番でした。教師が読む前に名調子で素読し、学校中にその噂は知れ渡ります。音楽も秀でていて、ベートーベン好きだった拳はクラスでただ一人満点をとっています。この頃、夢中になっていたのは、小説では志賀直哉、詩では高村光太郎千家元麿、絵画ではセザンヌゴッホルノアール岡本潤ダダイズム横山大観梅原龍三郎でした。ゴッホにはとくに入れあげ、美術雑誌の原色版の口絵を集めてスクラップしたり、自分の部屋にも作品を掛けていました(ある時飽き足らなくなりゴッホを捨ててしまう)

17歳の時、「考古学」へ関心が向う。両親が破局。ぎりぎりの生活に陥る

横浜貿易新報社主催の横浜美術展で、拳の油絵が入選したのは16歳の時でした(薔薇の花を10程描いた15号の作品。安井曾太郎らが審査)。中学生としては当時破格の30円で売れたといいますが、結局、ほとんどがキャンバスやら絵具代に費やされました(器用な父が額縁をつくっている)。この頃、拳は自分の作画に向う精神は神奈川駅で見た赤い痰壷の”悟り”であると感じています。古書店で雑誌『中央美術』を僅かな小遣いから買い東洋美術関係の論考を合本にしたり、横山大観の「生々流転」の図版を切り抜いて画帳をつくったりしています。興味深いのは、油絵を志しながらも関心は東洋美術だったことです。また、「小さき星の群れ」と題する同人雑誌を刊行したり、浅草のルンペンと一夜を共にして級友の尊敬を集めたのもこの頃でした。
父の困惑をよそに順調に伸びていったかにみえた拳の絵画への取り組みは、17歳の時、突如いったん収束します。拳の関心が、「考古学」へ向ったのですチェ・ゲバラも深い考古学への関心をもっていたように、現実空間が混迷した時、その土地の古の姿や古人の生き様への関心が、”根っ子”から何かを照らし出してくれる)。古代や「考古学」への興味は、国漢担当の谷川先生の影響でした(ほどなく退職し国学院大学の教授になっている。最も谷川先生は拳のことをつねに気にかけ絵描きになれば必ず一人前になると励ましていた)。拳は埋め立て様の土の採掘現場になっていた横浜の高島山の山頂近くの崖から、胴に鋸歯文が施された弥生中期の甕(かめ)を掘り出したり、矢じりの研究に没頭します。中学校の周りにも10カ所程の古墳があり、縄文・弥生文化時代の遺物が多く発見されていた頃でした。拳は学校を休んではあちこちの古墳に行って掘っては調査にいそしみます。後に土門拳が全力で取り組む『古寺巡礼』などに繋がる「二の矢」が、この「考古学」への興味と古代への夢だったといえるかもしれません。遡る「一の矢」は、横浜図書館で「写真」を通して見ていた奈良や京都の寺々の仏像や建築にあり。
この頃、父の女性問題から、母は拳を連れて家を出、横浜造船所内の医務室の看護婦として働きながら、拳の面倒をみています横浜市西戸部町へ引っ越している)。両親が別れてからは、経済的には赤貧洗うが如き状態が続きます。母が仕事から帰ってくるまで、七輪で火を熾すのが拳の役割でした(手にはいつも本があった)
歴史の試験では、出題とはまったく関係のない考古学(矢じりの研究)について書いて提出したり、アインシュタインの『相対性原理』に険しい顔をして取り組んでいます。あれこれ考えあぐねると、鶴見の総持寺へ行って座禅を組むのでした。
中学校の修学旅行は、拳少年にとって後の『古寺巡礼』に向けての「三の矢」となります。修学旅行先は、京都・奈良でした。法隆寺では皆がワイワイ騒ぐのをよそに、拳は一心不乱に画帳に写生しメモを走らせていたといいます。これら「三本の矢」以外にも、生地・山形の日枝神社や持地院の大仏にはじまり、桐(きり)の老樹への愛着、引っ越し先の谷中や芝公園界隈、岡村天満宮などが、それぞれに「三本の矢」を形づくる成分になり土壌になっていたにちがいありません。修学旅行後の印象記は先生に激賞されていますが、いつも首席だった拳の心はもはや学校の成績にはありませんでした。中学校の卒業時の成績は、119人名、後ろから数えて2番か3番でした(拳はビリで卒業するぞと決めていたが)。それよりも世話になった同級生(出口君)のために合本をつくっていたのです。「落葉集」と題された手づくりの合本には、ギリシャの壷から唐代の五彩壷、南画に「栄華物語」、写楽漱石安井曾太郎などについての口絵や論文、翻訳で埋まっていました。
▶(3)に続く-未

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パウル・クレーの「Mind Tree」(2)- 音楽への深まる愛と不安。母が全身不随の病に。疲れ知らずの「読書家」。父の反対を押しのけ、母はパウルをミュンヘンの画塾に送り出した。パウルから流れ出てくる「異常な力」とは


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「音楽」への愛が深まったにもかかわらず、「不安」が生じてくる

▶(1)からの続き:10歳の時、少年パウルギムナジウム(高等中学)に入学します(入学試験は免除されている)。学校では当初、とりわけ生物学や数学、古典語と、パウルは熱心に勉強し、成績も上々でした。博識な父からたくさんの刺激を受けたことも勉強へのヤル気につながっていたようです。
この年、パウルはオペラを初めて観劇しています(おそらく両親に伴って)。演目は『吟遊詩人』でした。パウルは大興奮します。これ以降、パウルのオペラ観劇はずっと継続されます(バレエは一度だけだった。演劇・歌劇には俳優が別人格にまるっきり変身することの魔術性と舞台風景にパウルは惹かれつづけた。芝居を”本”で読むことも異常に好んだ)。クレー一家は定期演奏会通いもかかさなかったので、パウルの「音楽」への愛も深まっていきます。イタリア古典歌曲(ランディ)にはとくに深い感動に浸されています。バッハのソロ・ソナタを弾いていると、スイスで高い人気を誇っていた画家ベックリンの作品がとるに足らないもののようにみえてくるのです。
ところが、少年パウルの内で次第に獏(ばく)とした「不安」がつのってくるのでした。四行詩を幾つも書きだしたのもこの頃です。そしてスケッチブックを手にし何やらものを描いている時にだけ、どこからか「希望」ともいるような清々(すがすが)しい感覚を覚えるのでした。窓ガラスに映る<自分の姿>を「観察」すると、いつもとは異なる感覚で満たされたといいます。以前にも何度も自らに問いかけ、<自分自身>のことを掴みとろうと”研究”してみたといいます。が、結局いつもはうまく探れなかったのに、今回はパチッと何かが弾け、「理解」できたというのです(10歳を少し過ぎた時のこと)

一家の風景が一変、母が全身不随の病に。「文学」に熱中

その翌年、11歳の時、得意だった数学の授業で、これまでにはなかったことが起こります。質問にまったく答えることができず、先生から「もっと勉強しなさい! もう座ってよろしい」と告げられたのです。少年パウルは、「眠っている力をそっと隠すのだ」とこの頃、思っていたようです(見えない存在になろうとしたカフカの様に)。そして「外側では微笑み、内側でもっと自由に笑い、魂には歌、唇には小鳥の囀(さえず)るような口笛を吹いて」「どこへ行ってもいい。私には確信がある。私は自然を愛している、自然は私を慰め、約束をしてくれる。私は<不死身>だ」と。5年続けてきたヴァイオリンの調弦が上手くできなくなったり、絵も描けず、詩も書けない心理状況が繰り返し巡ってきたようです。
ヴァイオリニストになろうと思ったことはない、と日記に書いています(11歳の時)。自分には華やかさが欠けているんだと。パウルの意識は内側に向かい、叙情的な詩の詩集をつくる計画をしたかとおもえば、エロティックな詩を書いたり、自主的に参加していた読書会で(おそらく父とともに)ソフォクレスの『アンティゴネ』を読んでいます。短篇小説を幾つか書いたのもこの頃でした(この年に全部処分)。次々に代わるオペラのソプラノ歌手への憧れ。一夫多妻の考えすら浮かんだという行くあてのない衝動ばかり。途中、ギムナジウムを辞めたいと両親に告げていますが、反対されています。以降、受難の日々がつづきます。
パウル14歳の頃から、クレー家の風景は一変します。パウル自身もひどい盲腸炎に罹っただけでなく、母が全身不随となり、以降20年以上にもわって病床に臥さざるをえなくなったのです(室内中に呼び鈴がとりつけられた)。重い病を患っても母は気丈に振る舞いつづけたといいます(クレー42歳の時に母、逝去)
パウルの心の内では、「文学」への関心が膨らむばかりでした。シェークスピアセルバンテス、オビディウス、モリエールイプセンヘーベルオスカー・ワイルド、ゾラ、トルストイチェーホフ、ゴーリキィ、ショーらの作品を手当たり次第に読みまくりますギリシア語への強い関心。ギムナジウムの卒業時には文学士の資格を得ている)パウルが「日記」を書きはじめたのは、ギムナジウム卒業真近かからでした。「日記」はその日の体験や考えに加え、読んだ本のタイトルにそのコメントも付けられ、本に関する事柄で溢れていました。少年パウルは、汲めども尽きない疲れ知らずの「読書家」になっていたのです。

父の反対を押しのけ、母はパウルミュンヘンの画塾に送り出した

好奇心に溢れた「読書家」パウルでしたが、学校の成績はさらに落ち、お仕置きに両親はパウルを修学旅行に行かせなかったようです。ギムナジウムの卒業試験は落第点より4点上でぎりぎり試験に通り、修学旅行の代わりに一人で遠出し、スケッチブックと色鉛筆を持ってビール湖にある島に初めての写生旅行に出掛けます。その時、パウルは自分は「風景画家」だと深く感じたといいます。その思いは強くなり、ミュンヘンに絵を習いに出たい衝動を押さえることはできなくなります。
ところがその思いは、「音楽家」としての将来を見込んでいた父とついに衝突することになります。クレー家のなかで、パウルの多彩な才能を感じ取っていたのは母でした。祖母や親類縁者との付き合いから、どれほどパウルが絵を学びとってきたことか。またその絵と絵に熱中するパウルの姿には、ヴァイオリンの演奏会の様には人々を魅了することはできていないにもかかわらず、特別な何か(才能)が不思議な息子パウルに潜んでいることを感受していたようです。音楽の道を歩んできた母イーダは、ひろい芸術的感性をもっていた女性だったのです。
母は父の意向をつっぱね、息子パウルの気持ちを汲み絵描きへの道を選ばせ、絵画熱が沸騰していたミュンヘンへと送り出します(母は親類縁者をたぐりミュンヘンの知人の住所をパウルに持たせ送り出した)。気負ったパウルは狙っていたミュンヘン美術専門学校(アカデミー)に自分の作品を持ち込んだのですが、画塾で予備教育を受けるように諭されます。大都会の空気に触れたパウルは、ミュンヘンには3000人以上もの若き絵描きがいて、自身もその内のひとりに過ぎないことをひしひしと感じざるをえませんでした。
一方、パウルはまだ気侭なもので、ハインリッヒ・クニールの画塾で知り合った仲間たちとリヒャルト・シュトラウスやヴァインガルトナーといった当時の名指揮者がタクトをふるう演奏会やオペラ観賞に夜ごと繰り出すのです。ただこの画塾で、年配の退役大尉から手探りするように描く方法を教えられ(裸体デッサン中心)パウルはあっという間に頭角をあらわし画塾の期待の星となったのです。期待の星として次年度の入学を目指したパウルでしたが、実際には入学に2年かかっています。パウルはこの頃、ミュンヘン美術専門学校を出ておくのは、将来の生存競争を生き抜くためにも必要なプロセスであり、後に大学に通って文学と哲学、美術史を勉強する考えがあることを母に手紙で書き送っています。

ミュンヘン修業時代に、3歳年上のピアニストの女性と出会う

このミュンヘン修業時代は、パウルにとって必要不可欠の待機時間であっただけでなく、決定的な出会いをもたらしています。人生は面白いもので、その人にとって生涯無二の存在(たとえば生涯の伴侶)は、人生の目標が到達された後にあらわれるというよりも、暗中模索しながら前進している時にこそあらわれることがえてして多いということです(無論様々なケースがあるものの、今日とちがって結婚年齢が格段に早かった時代は往々にそうしたケースが多かった)。そうした時期に出会った人は、立場がつくりだすイメージや人間関係、環境ではなく、その人の内面から沸き上がる人間性そのものの魅力に感じ深い付き合いがもたらされます(ために、破局も頻繁ではあるが)パウルが出会った女性、リリー・シュトゥンプフともまたそうした女性でした。リリーは3歳年上で、母イーダと同じくピアノストでした(つまりリリーは、母イーダと同様、音楽をよくしながらも、やわらかい芸術的感性をもち、パウルにとっては遠く離れて暮らす母親的役割を担ったでろう)
出会いは、画塾ではなく、母の友人を通じてとりおこなわれることになったバッコーフェン夫人宅での家庭演奏会での事でした(20歳の時。ミュンヘンに来てから1年以上たっていた)。そこにピアニストとして招かれていたリリーに、パウルは一目惚れしたのでした。バッコーフェン夫人宅や母の友人宅で繰り返し催された家庭演奏会で、2人は頻繁に共演を重ねます。パウルは感情の嵐となって接近するが、リリーはキスをしてもそれは友情としてのものだと割り切り、好きな男性がいることを打ち明けます。パウルは愛を勝ち得るために、リリーを魂を鷲掴みにするような求愛をし、それが叶うのです。穏やかでピースフルなパウル・クレーの作品ばかりを見ていると勘違いされる人もいるかもしれませんが、パウルは性格・気質的にはまったく”草食系”ではありません。愛を込めて情熱的に行動することは、自分の”天分”だとも言っているくらいです。それは若い頃のパウルの顔つき、目力をみれば一目瞭然明らかなことです。
さて、リリーの父は衛生参事(高級官僚の医師)で、妻を失ったのち娘リリーより僅かに年上の若い女性と再婚、娘の結婚相手も口をさしはさみました。父にとって相手はあまりにも想定外(規格外)の、定職のない、将来が何も約束されない芸術家志望の若者では、結婚を了承することなどもっての他でした。父は娘の結婚相手は医者か将校であるべきだと考えていたのです。しかもパウルはせっかく入学したミュンヘン美術専門学校(アカデミー)を、学ぶべき方向性を見出せなかったとして僅か半年で辞めてしまっています(実家の学資援助が底をついたといわれています。パウルはこの時いったんベルンに戻っている)。
2人は出会った1年半後に婚約の約束をかわしますが、それを知ったリリーの父は娘と縁切り(廃嫡)します。最も2人がすぐに結婚しなかったのは、リリーからパウルに対しある提案がなされたからでした。それは結婚はパウルが仕事でも人間的にも成長できてからのこととし、その期間を8年としたのです(自身もその間にピアニストとして成長したいと伝えた)
父への反抗心から安定の保証もない美術家志望のパウルと一緒になったリリーでしたが、立派な職の身分(医師か将校)の男性に好意を寄せていた時期がありました。しかしリリーは、パウルから流れ出てくる「異常な力」を逞(たくま)しく思い、信じていたので、パウルとの婚約は堅持されたのです。そしてこの「異常な力」は、母イーダも同じ様に感じ取っていたからこそ、父の反対を押してパウルを信じて絵の道に向わせたとおもわれます。さらにいえばその「異常な力」は、母方の家系に伏流していたものなのかもしれません。それが祖母から「絵」を媒体にして伝わった。左利きだったパウルを直そうとした時、祖母は感情のおもむくまま使いやすい手で描いた方がいいとして、つっぱねています。

21歳の時、半年に渡るイタリア「遍歴時代」

入学した美術学校で割り当てられたのは、2年前にミュンヘンで分離派運動を興した美術学校に着任したばかりのフランツ・フォン・シュトゥックのクラスでした。神秘的で象徴派画家のシュトゥックは、ルネッサンスの芸術家たちのように多様な側面をもち、版画家であり彫刻家であり建築家でもありました。講義には美術史や解剖学もありました。同じクラスで学んでいた生徒のなかに、ロシア出身のワッシリー・カンディンスキーがいて、後に強い関係で結ばれるようになります。シュトックはパウルにリュマン教授のもとで彫刻家としての修業をはじめてはどうかとか(実現されなかった)、別の教授のもとで版画の技法を学ぶようにと薦めています(イタリア遍歴旅行から帰り、成功した最初の作品の一つは、エッチングでなされた「樹のなかの処女」だった)
21歳の年(1901年)、パウルは学生仲間で彫刻家のヘルマン・ヘラーと連れ立って、ゲーテデューラーのようにイタリア旅行に出掛けています。パウルの「遍歴時代」でした。ミラノからジェノバ(ここでパウルは生まれて初めて海を見る体験をしている)リボルノ、ピサ、ローマ、ナポリフィレンツェへと巡ります(半年に及ぶ)ナポリでは初めて水族館を訪れ海の生物の奇怪な姿形に、またナポリの海岸にすっかり魅了されています。そしてボッティチェリラファエロダ・ヴィンチの聖ヒエロニムスにシスティナ礼拝堂のミケランジェロ、ペルジーノ、ヴァティカン美術館の彫刻群、初期キリスト教美術、ポンペイの絵画、各地のルネッサンス建築とゴシック建築バロック建築には感性が合わなかった)の謙虚な弟子と化し、またドニゼッティプッチーニ、マスカーニ、ワーグナーのオペラ公演、さらにはイタリア式の話し方や振る舞いを観察しています。「多くの事柄が私の内部の奥深くで変わっていく」とパウルが語るように、成長しつづけていたパウルの「心の樹」が、様々な刺激と感応、影響を受けて、一挙に激しくふるえ、”流動”し変容し、伸長しはじめたのです。
▶(3)に続く-未
・参照書籍:『パウル・クレー』フェリックス・クレー著 矢内原伊作・土肥美夫訳 みすず書房 1978刊/『新版・クレーの日記』W.ケルステン編 みすず書房 2009年刊/『クレーの食卓』林綾野、信藤信、編・著 日本パウル・クレー協会 講談社/『パウル・クレー』エンリック・ジャルディ著 美術出版社 1992年刊/『パウル・クレー:絵画のたくらみ』前田富士男、宮下誠ほか 新潮社 2007年刊

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