竹久夢ニ(2):女性と接する度合いが多かった幼少期


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竹久夢ニ(1)から:

3歳の頃から馬の「絵」を描きだしていた

邑久町旧正月は賑やかでした。とくに西大寺の観音様の会陽(えよう)「裸祭り」には、父・菊蔵も張り切って繰り出したといいます。

母と夢二たちが田舟に乗って数日後に出向けば、西大寺境内は様々な屋台が並び、太鼓や笛の音、じんたのクラリネットが奏でられ、のぞきカラクリに猿の曲芸、猛獣使い、一寸法師の綱渡りの絵看板が掲げられ、夢二を夢中にさせました。

また、大智明権現の春祭で催された競馬や吉井川の河原で見ることができた草競馬も、幼少の頃から夢二を虜にしていました。

夢二が3歳の時、初めて描いたのは「馬の絵」で、7歳の時に馬に乗っています。夢二の最初の妻となる岸たまきは、まさに馬のようにくりくりした大きな目をした面長で、目と目の間が少し離れていて、体躯は大柄ですんなりした女性だったと言われ、夢二の幼少期よりの馬好きが反映された女性だったともいわれています(『竹久夢二』青江舜二郎著)。

 

「夢二式美人画」の”根っ子”が、3歳の時から描きはじめた「馬の絵」と、夢二の女性好きー女性と接する度合いが多かった幼少期ーなどが絶妙に絡まったものだとなれば、「夢二ワールド」は俄然興味深くなってこざるをえません。

 

「夢二ワールド(式)」は、夢二が東京に出てから様々な流行や伝統を吸収しクリエイトしたのではなく、また神戸の中学で港のエキゾチズムに触れて感性が開眼したのでもなく、その原型と土壌はすでに夢二の郷土で、その身辺からたっぷりと刷り込まれ、夢二の感性と情緒を底から育んでいたのですから。

 


大好きだった6歳年上の姉・松香。

そして妹と、3歳年下の初恋の人


「夢二式美人画」は、郷土の文化環境や美しい自然だけでなく、竹久家の家庭の中からも紡ぎだされ染めあげられていました。

母・也須能は、子供たちに似合う柄の布を仕立て、色鮮やかな子供着や家族の仕事着をいつも縁側で手織っていたといいます。自分で繰った糸を壷に入れて様々な色に染め上げ、シマ目を数えて納屋で糸を繰り、色彩と柄を工夫してつくりだすのが母の趣味であり日々の営みの一つだったのです(母は足が少し悪かったこともあり田畑で働けなかった)。

 

 

伯父(邑久郡玉津村)が紺屋を営んでいたので、若い頃に母もそうしたノウハウと作業を覚えたようです。また、母は夢二が物ごころつくかつかぬか頃に、率先して「いろはにほへと・・・」を教え込んでいます。絵の面では、母方の年上の従兄が絵を描くのが好きで、うまく描けると夢二に絵をよく見せていたといいます。


そして6歳年上の姉・松香の存在は、夢二の感性の下地を育むに充分でした。桃割れを結い、野菊やウツボ草を髪にさしていた姉が夢二は大好きだったことはよく知られています。

一緒に家の裏手の妙見さんの丘や、道の向こう側の国司様の丘にのぼって大樫の下にゴザを敷いては、カヤツリ草で遊んだり、オオバコの芯で引っぱりあったり、アザミの花を摘んだりしていつも一緒に遊んでいました。

また6歳下の妹・栄が歩けるようになると、そこに妹もくわわるようになりました。「夢二ワールド」の根源には、姉と妹の存在があり、小学校にあがってからは、初恋の女の子、宇津木美津野(3歳年下)がそこに加わるのでした。

 

夢二が小学校4年の時、こうした夢二の世界に大きな亀裂が入ってしまいます。最愛の姉(17歳頃)が嫁いでしまったのです。

少年夢二は、突然、姉がいなくなってからというもの子供部屋の廊下にいつも涙をためて一人立っていたといいます。大切なものが根こそぎもぎ取られてしまったようで辛くて悲しくて仕方なかったのです。

 

そうなると小学校の初恋の女の子、宇津木美津野に意識がどんどん向いていきます。美津野は3歳年下の丸顔の女の子で、いつも着物の袂(たもと)に赤や紫、青の糸を沢山入れていました。

「美さんの袂は、私には容易ならぬ聖地であった」と後に夢二は語っています。絹糸でかがった手鞠、友禅の布でこさえたお手玉が飛び出てくる美津野の袂は、少年夢二にとってまさに魔法の蔵でした。

その魔法の小さな暗い蔵から出てくるのは色鮮やかなものばかりで、それもまた女性的なるものへの憧憬を強化したはずです。夢二の後に夢二は絵や詩に少女美津野を描いています。(『竹久夢二正伝』岡崎まこと著 求龍堂 昭和59年刊)

 

 


校舎を出て、対象を思いのままに描かせ、

全国の小学校の図画指導に革新をもたらした担任の先生


数え8歳の時、地元の明徳小学校に上がった夢二は、「絵」に夢中になっていきます。

この小学校時代に、夢二は自身最初で最後の絵の先生と出会っています。小学校の担任の服部先生でした。

服部先生はちょうどその時分、「1時間写生教授の実際」と銘打った研究を発表し(全国小学校教員大会にて)、初等教育での革新的な図画指導をぶちあげて注目された先生でした。つまり教室内ではなく、子供たちを校舎から外に出させて、教科書を使わず何ものにとらわれず、描く対象を決めたら自由な雰囲気で思いのままに「写生」をさせたのです(校庭に生えていた植物のソテツや宮の鳥居など、先生がまず皆で描く対象を決め、それを自由に写生させた)。

 

 

この教室外での「写生」授業を提唱したのが、夢二の担任になった服部先生だったのです。服部先生は他の授業でも、教科書抜きの型破りな授業をして学校に激震をはしらせていました。

た、絵を通じ友達になった3歳年長の正富由太郎(後に民衆詩人になる人物。父は村長も務めた)は、邑久の地方では珍しい絵本や雑誌を持っていて夢二に刺激を与えました。

2人で一緒に、今でいうグラフィティ・アーティストのように、大師堂などの神社仏閣の壁や塀に、墨や鉛筆をもちいて絵や小唄をかいて回ったのです。その落書きは友達や大人もうならせるできだったといいますが、父の知るところとなり土蔵に入れ懲らしめられたりしています。

 

夢二は絵の他にも、童話や短歌、小唄などをつくっていましたが、それも夢二の「マインド・ツリー(心の樹)」が、いかに広く深く、郷土の文化や芸能、村や竹久家を訪れる芸人と接していたかを物語っています。

それは夢二の才能の芽になっただけでなく、気質にもなっていきました(後年、芝居などの楽屋に気楽に立ち寄ったり、気になった芸人とすぐに打ち解けることができたという)。

母方の祖父・津田紋三郎は、とくに絵心に富んだ夢二を画家にしたいと望んでいたのですが、父は確実な仕事に就かせるため実業に向うことを望んでいたのです。