アンリ・ルソーの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 「ブリキ屋」で板金工の職人だった父が不動産狂いに(7歳の時、破綻)。小学校では内気で目立たず「図画」「音楽」が得意。「樹の町」と呼ばれるほどの故郷ラヴァル
ほとんどの作品に、不思議な背景として、密林の楽園として、「樹木」が描かれているのを見てみましょう
はじめに:「樹木の画家」と言われるようになったアンリ・ルソー
アンリ・ルソーは、49歳の時、パリ市の税関職員を”早期退職”し、フルタイムの絵描きになっています。長く「日曜画家」として絵筆をとっていたことと(現存する最初期の作品は35歳の頃のもの)、正式な美術教育を受けていなかったので、「ナイーブ・アート(素朴派)」とみなされたり、アンドレ・ブルトンが、キリコとともにルソーをシュルレアリスムの先駆者としたり、詩人アポリネールがつけた「歓楽街(モンパルナス)の老いた天使」とか「穏和なる税官吏」と呼ばれたりしました。
生い立ちについて決して他言しなかったため、ナポレオン3世のメキシコ遠征に軍楽隊の一員として随行した体験が、「熱帯樹木」として描き込まれたという「伝説」に拍車をかけましたが、今では逆に「伝説」になるほど熱心にパリの「植物園」に通ったことがわかっています。
ではなぜそうまでした「植物」や「樹木」を描きこんだのか。ルソーは、熱帯の原始林だけでなく、風景画や肖像画、自画像、子供を描いた絵、幻想的絵画に至るまで、そのほとんどの作品に「樹木」を描き込んでいるのです。その”オブセッション”、”偏愛”ぶりはいったい何なのでしょう。今では「樹木の画家」とすら言われるほどなのです。(『アンリ・ルソー 楽園の謎』岡谷公二著 中公文庫)
その「謎」を解く鍵は、ルソーの幼少期にありました。絵画に描かれた奇妙でリアルな無数の「樹木」は、アンリ・ルソーの「マインド・ツリー(心の樹)」の”投射”としてあらわれたとみた時、ルソー絵画の”根源”の風景に触れることができるかもしれません。
謎に包まれていた幼少期。町のシンボルだった塔の中に生まれる
アンリ・ルソー(Henri Rousseau)は、1844年5月21日(〜1910年9月2日)、フランス・パリの南西300キロ程に位置するにマイエンヌ県(ベイ・ド・ラ・ロワール地域圏内)の中心地ラヴァル(Laval)で生まれています。北部はノルマンジー地方、西部はブルターニュ地方に接しています。東方には自動車レースで世界的に有名な町ル・マン、西方にはかつてはケルト人の王国として栄え、現在はブルターニュ地方の中心都市で、モン=サン=ミッシェル観光の起点になっているレンヌがあり、ちょうどその中間に位置する地方都市です。人口は5万人程で、かつて酪農と農業以外は繊維産業があったくらいでしたが、現在は電機産業が発達したばかりでなく、1999年より毎年開催されているヨーロッパ最大のヴァーチャル・リアリティ・コンベンション「ラヴァル・ヴァーチャル」が開催される町として知らています。
奇妙な現実感を抱かせる絵をつくりだしたアンリ・ルソーの生まれ育った場所で、ヴァーチャル・リアリティのコンベンションが開催されるとはなんという偶然の一致でしょう。実際、アンリ・ルソー自身、エキゾティックで濃密な熱帯の密林を描いている時に、それがリアルに感じられ、息ぐるしくなって新鮮な空気を吸うため窓をよく開けたと言われています。ルソー本人は、『夢』『蛇使いの女』に描かれたような熱帯の楽園を直接体験したことはなく、ナポレオン3世のメキシコ遠征に参加した者から聞いた話と、当時の時代の流行だった「エキゾティズム」を織り交ぜて、大きな画布に”素朴”なヴァーチャル・リアリティをこしらえたということができるかもしれません。
さて、アンリ・ルソーが誕生した建物は、このラヴァルの町のシンボルにもなっている塔で(町の中心のアルディ広場に建つ)、ウィキペディアの「ラヴァル」の町のトップページ(日本語版の方のみ、英・仏版は違う建物を掲載)に貼られた写真に写っている旧い2つの塔がそれです。塔は「プシュレスの門」と呼ばれていますが、門よりも左右に備えられた三層の太い円形の塔こそが、狭い城門に存在感を与えています。この門は、遡る15世紀に町を取り巻いていた城壁の一部で、ルソーが誕生した時すでに城壁の唯一の跡だったようです。ちなみにプシュレスの門とは、樵(きこり)たちが城壁の外側に鬱蒼と茂った森に入り、木を伐採しに行くために、この門を通って出ていったため名付けられ(樵は仏語でピュシュロン)るようになったといわれています。芸術の独学者だったアンリ・ルソーは自身の生い立ちについて決して他言することがなく、ルソーの幼少期のことは長い間(死後20年余たつまで)、謎に包まれていたため、かつて素朴派とすらみなされていたアンリ・ルソーが、町の中心地に建つ貴族が所有してもおかしくない旧塔に誕生していた事実は当時驚きをもってむかえられたようです。
板金工の職人だった父が、不動産狂いに。家の空気は軍人家系の母がつくりだしていた
なぜルソーはそんな塔に誕生したのでしょう。じつはそれは19世紀初頭、ルソーの祖父ジュリアン=プロテ・ルソーが、この塔を買い取り、父の代もルソー家の所有だったからです。ルソー家は貴族かブルジョアだったかといえば、祖父も父も「ブリキ屋」だったのです。実際、塔の1階に店を開いていて、2階を住居にしていました。店には、ブリキでこしらえたケンケ燈などのランプが売られていました(製造と販売を兼ねていた)。19世紀のまだこの頃は、電燈はもちろんもなくガス燈もまだ一般的でなく(1797年、英国マンチェスターで最初のガス燈が灯る)、町のほとんどの人が照明器具としてランプを使っていた時期でした。そして父ジュリアン・ルソーの代になると、ランプ製造・販売はすでに副業になっていて(時代背景として1850年頃からの灯油ランプ[Kerosene Lamp]の急速な普及で照明器具にも変化が生じていた)、仕事のウェイトはなんと不動産売買に傾斜していました。祖父が塔を買い取っているくらいですから、ルソー家は2代にわたって不動産に相当の興味をもっていたことになります。とくに父ジュリアン・ルソーは不動産狂いだったともいわれています。
父方は不動産に目がないブリキ屋であり、板金工だったのですが、母方のギヤール家は厳格な軍人家系でした。母エレオノールの父も祖父も軍人でした。祖父ジャン=ピエーエル・ギヤールは、フランス革命期とナポレオン一世の第一帝政下の戦役に参加し陸軍大佐にまでなっています。父ジャン=バティスト・ギヤールも、退役した後に再度志願しアルジェリアの外人部隊に加わり陸軍大尉になっています(戦病死)。また控え目な性格だったといわれる母エレオノールは、一方で芯が強く、信心深く敬虔で、優秀な軍人家系という誇りを失わない人でした。
ルソー家は、確かに板金工であり、ランプを製造販売する「職人」堅気(かたぎ)の一面もあったのですが、それ以上に軍人家系の厳格にして敬虔な母方の家系の気質が上回っていたようです。1階にランプの店を出していたものの、いったん塔の中に入れば、ルソー家の雰囲気は「職人」のそれではなく、母エレオノールによって醸しだされていた厳格なブルジョワのそれに近かったともいわれています。
小学校では、内気で目立たず。「図画」と「音楽」が得意だった
アンリは、5歳から、神父がひらいた小学校リセ・ソ・ラヴァルに通いだしています。内気な性格だったため、学校ではまったく目立つこともなく過ごしていたようです(ぐずでいじめられていた、という話もある程)。主要科目だったラテン語、ギリシア語、数学、物理、化学、歴史、地理はことごとく不得意科目で成績もまるで芳しくなく、そのため何度か留年しているようです。それでも図画、音楽、習字、暗誦、宗教教育で数度、次席賞をとっています。が、そのどれもが優れた成績のバロメーターになっている主要科目ではありませんでした。毎年学校では町のお偉方や生徒や父兄が参加するセレモニーがあり、成績優秀の子供たちに賞と商品が授与されるのですが、アンリは11年もの間に一度も晴れがましく賞を授与されることはありませんでした。とくに誇り高い母は息子のできの悪さにがっかりしていたといわれます。少年アンリは母の期待に応えることができませんでした。そのため母の愛は、弟のジュールに向っていったといわれます(ルソーには他に姉2人がいた)。少年アンリと母はその後もずっと距離を埋められないままの関係が続いたようです。
しかし、少年アンリ自身は、次席賞をとった「図画」と「音楽」だけは、自分の内では得意だと感じていたようです(アンリ・ルソーは、長じて画家であり、ヴァイオリン弾きであり、フルート吹きであり、作曲家でもあったことを思えば、すでに少年期にその才能が芽生えはじめていたといえる)。かつてルソーは、その素朴な絵画から、学校教育とは無縁に育ち、へたうまで、理屈と理性を促進する教養に晒されていない純粋な人とみられたことがあったようですが、習字で次席賞をとっているように、文字の綴りも正しく、正確で美しい字を書いていました(習字や美しい文字イコールではないが、ルソーは後年、詩を書き劇作家の一面もみせている)。
それでは少年アンリは、どうして「図画」と「音楽」が得意だったのでしょう。何処で「図画」と「音楽」に触れる機会があったのでしょうか。それは父方が受け継いでいた中世にまで遡るであろうフランスの「職人」の伝統との繋がりと、母方が受け継いできた深い信仰心を発露する場所としての教会(教会音楽)や、広場などで演奏される町の音楽家たちがどうもその源泉だったようです。そして、教会はステンドグラス工やエピナル版画の画工、奉納画、教会内陣の彫刻やバラ窓や唐草文様、ファサードの装飾、サンクチュアリやシンボルの像など、ルソー家の板金工の技術や町の職人たちの能力が発揮される場所でもありました。少年アンリの「心の樹」には、「図画」と「音楽」と、幼少期に見たり聴いたりしたことが、ある意味”正しく”映しだされていたともいえるのです。
7歳の年、父、不動産業に行きづまる。家屋も店も競売にかけられる
アンリ7歳の時(1851年)、町の中心に店と居を構え、鼻高々でブルジョアはだしだったルソー家のそのすべてが暗転しはじめます。塔1階の店を閉じ、ブリキ屋を廃業し、腰が定まらないまま入れ込んでいた不動産業にも行きづまってしまいます。翌年、半世紀近くルソー家の所有だった「プシュレスの門」は競売にかけられ、最後の大勝負の投機にも失敗、ついにそれまでに所有していた家屋3軒は差し押さえられ競売にだされてしまうのです。舞い上がっていたルソー家の目論みは完全に破綻。少年アンリの目の前で、「プシュレスの門」は永遠に閉じられ、一家もアンリも門の外へと出ていかなくてはなりませんでした。
故郷ラヴァルの町は、「樹の町」といわれる程、町中が樹木に包まれていた
しかし、そこにあったのはゼラニウムなどの美しい花を咲かせる「樹の町」でした。広場や通り、家々にある庭もプラタナスやマロニエが茂り、あちこちにこんもりした樹木のトンネルができるのです。多くの小鳥たちの囀りもあちこちから聴こえていたといいます。少年アンリの目に映ったのは、塔の中では見過ごしてしまっていた故郷ラヴァルの「樹の町」の姿だったのです。
後年、詩人ギユーム・アポリネールが、画家ルソーに「穏和なる税官吏」とか「歓楽街(モンパルナス)の老いた天使」と渾名(あだな)をつけましたが、「樹木の画家」とつけ忘れる程に、画家アンリ・ルソーの絵には「樹木」で満ち溢れていたのです。作品『夢』『蛇使いの女』『詩人に霊感を与えるミューズ』『私自身、肖像ー風景』『子供と操り人形』『不意打ち』『戦争』といった代表作だけでなく、『過去と現在』『ラグビーをする人々』『イブ』『女の肖像』『森の逢い引き』『森の散歩』『セーヴル橋の眺め』『ジョセフ・ブリュメルの肖像』『田舎の結婚式』など、絵の中に不思議にも必ず「樹木」が入り込んでくるのです。これらの絵を描いていたのは、40歳末以降で、パリの下町にひっそりと暮らしていた時のものでした。故郷から300キロ離れていても、ルソーの「心の樹」は、故郷ラヴァルの樹木と風景に深く繋がり、「心の樹」の土壌は数十年の時をへても故郷の土壌そのままだったのです。▶(2)に続く-未
参考文献:『アンリ・ルソー 楽園の謎』岡谷公二著 中公文庫/『アンリ・ルソーー証言と資料』山崎貴夫 みずず書房/『アンリ・ルソー』コルネリア・スタベノフ Taschen/『素朴の大砲ー画志』草森紳一 大和書房
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