谷崎潤一郎の「Mind Tree」(2)- 幼少期に刻印された歌舞伎、下町の芝居小屋体験。小学校担当の独自の「早期教育」。12歳の時、皆で回覧雑誌『学生倶楽部』制作


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幼年時代」に対する谷崎潤一郎の思い

▶(1)からの続き:谷崎潤一郎は、後年自著『私の「幼年時代」について』の中で次のように述べています。


「自分が小説作家として今日まで成し遂げた仕事は、従来考えていたよりも一層多く、自分の幼少時代の環境に負うところがあるのではあるまいか、と云うことである。私は今まで、自分が今あるような人間になったのは、青年時代以降の学問や、経験や、社会との接触や、諸先輩諸友人との切磋琢磨に依るのであると考えていたけれども、今日に至って振り返ってみると余人は知らず、私の場合は、現在自分が持っているものの大部分が、案外幼少時代に既に悉(ことごと)く芽生えていたのであって、青年時代以降に於いてほんとうに身についたものは、そんなに沢山はないような気がするのである」


谷崎潤一郎は、幼少時代に身につけたのは何か、何が芽生えていたのか、そしてどんな生育「環境」だったのか、小学校時代の少年潤一郎をここではみてみましょう。
泣き虫だった阪本小学校(尋常小学校)の一年の時、潤一郎は笹沼源之助という少年と友達になります。源之助少年の実家は東京で最初の中華料理店であり(もとは長崎のしっぽく料理がはじまりだった)、高級店の偕楽園を営んでいました。何度も遊びに行った偕楽園は、少年潤一郎にとって最も思い出深い場所の一つになっていきます。小学校高等科に上がった4年後に偕楽園が文学好きの仲間たちの雑誌「編集所」として集まるようになってからは、少年潤一郎たちの溜まり場になっていったのです。

幼少期に体験した「歌舞伎見物」、下町の芝居小屋やお神楽

当時の尋常小学校のシステムは、まず4年間を終えると高等科(高等小学校)に進むことになります。高等科を2年で修了すれば尋常中学校受験資格を得ることができますが、当時は高等科ですら卒業する者も少なかった時代でした。潤一郎は尋常小学校時代、非常に先生に恵まれ、強烈な影響を受け、潤一郎が『私の「幼年時代」について』(上記)で書いた様に、自身の「マインド・ツリー(心の樹)」の”根本”、”根底”をつくりだすことになるのです。まず、最初の4年間で、担任の野川先生から、他の生徒よりも自分が優れていることを指摘され、自信をもって勉強するように促されたようです(神童としての自覚の芽生え)。
一方で、小学校の3、4年頃まで、潤一郎は母や祖母、伯母、叔父たちに新富座歌舞伎座に連れられていっていました。九代目団十郎や五代目菊五郎らが名を轟かせていた頃で、潤一郎は一級の舞台芸術を幼少期にさかんに観ていたことになります。「歌舞伎見物」だけでなく、下町の芝居小屋や縁日のお神楽、明徳稲荷や水天宮の例祭もよく見物したそうです。絵双紙や歌舞伎、お神楽は、「谷崎文学」の匂い立つ大切な要素となっていることからも、幼少期の体験がいかにおおきかったか物語っています。というのも10歳頃から、谷崎家も叔父も零落しはじめ観劇の機会が一気に減少していっているのです。そしてそれに代わるかのように、様々な書物に出会うようになっていったのです。
ただ少年潤一郎が、「小説」と出会ったのは小学校2年の頃のことだったようです。叔父の活版所の奥座敷にいつも置いてあった「小説」(いつも新刊の『文芸倶楽部』だった)をこっそりと拾い読みしはじめていました。この頃に大人が読んでいる「小説」が、”面白い”ということを「発見」しているのです。母校の出身の出版人が母校の生徒を前にして話をしたことも、少年潤一郎に「小説」や「出版」をいっそう身近に感じさせる要因の一つになったようです。

小学校の高等科での担当の先生の「早期(天才)教育」。その薫陶ぶり強く反応した潤一郎

決定的だったのは、つぎの高等科(高等小学校)で担任の稲葉先生との出会いでした。稲葉先生は教科書をそこそこに切り上げる、12、3歳の子供にむかって、弘法大師の『三教指帰』から道元の『正法眼蔵』、藤原定家西行の和歌、白隠和尚の『遠羅天釜』、上田秋成の『雨月物語』(稲葉先生はそのうちの「白峰」を、幸田露伴の「二日物語」や滝沢馬琴の「弓張月」の一節と対照して読ませていたといいます)、トマス・カーライルの詩、明治ものの矢野竜渓の『経国美談』「浮城物語』、東海散士や川上眉山、厳谷小夜のものまで語り、教えたのです。興奮した潤一郎は、道元の『正法眼蔵』を借りようと稲葉先生の兄が住職をつとめる目黒の真言宗のお寺にまで足をのばし、別の日には友人の笹沼君とカントやショーペンハウエルを語りながら先生の家を訪れたりしています。稲葉先生の驚くねき薫陶に最も強く反応したのが潤一郎でした。ふつう高等科を二年で修了すれば中学に進学するのですが、経済的な事情のため潤一郎はそのまま高等科で勉強をつづけ、計4年間高等科(高等小学校)に、つまり稲葉先生の下で学ぶことになったのです。この偶然も、潤一郎と稲葉先生との関係は奇妙な「師弟関係」に発展していく要因になったようです。
大人になって振り返っても、稲葉先生の下で学び読んだ本が一番記憶に残っていて、それ以降に読んだものは逆に忘れてしまっていると潤一郎は語っています。このことからも潤一郎の「心の樹」の幼少期にあたる幹の部分がいかにしっかりと逞しく生育していたかが分かろうかとおもいます。

12歳の時、12名程の同人で回覧雑誌『学生倶楽部』をつくる

少年潤一郎がはじめて創作したのは、稲葉先生と出会った高等科の1年の終盤の時(10歳)だったようです。友達の家によく来ていた6歳程年上の文学青年(野村孝太郎)が中心になり、12名程の同人で回覧雑誌『学生倶楽部』(小説、史伝、書画、科学、地理のコーナーがあり、各々が作品を持ち寄る。毛筆による毎月1号1部だけの刊行。10号まで発行された)を制作したのです。潤一郎、12歳の時でした。雑誌の編集所が、友達の家から笹沼少年の実家の偕楽園の離れの3畳の部屋に移ったために潤一郎は足繁く偕楽園に通い詰めることになります。潤一郎は谷崎花月や笑谷の雅号で、「学生の夢」「一休禅師」「楠公論」「森蘭丸」「玉取り姫」「蒙古の襲来」などを書き、習字も寄せています。編集所は時に習字や水彩画、日本画の展示会場にも早変わりし、潤一郎は上野の博物館に行って橋本雅邦の画を写生したり、絵草紙屋では大蘇芳年の版画を見習ったりしていました。『学生倶楽部』には稲葉先生も寄稿するようになり内容も充実していったようです。学校と『学生倶楽部』のどちらにもわたり、少年潤一郎は、稲葉先生に勇気づけられ後押しされながら「文学」への思いを駆り立てていったのでした。

無理を言って英語と漢学の塾に通わせてもらう。中学進学への問題

しかし、母も父も潤一郎の思いを受け止めることができませんでした。ヒステリー気のある母は、家のことよりも稲葉先生や物書きに入れ込みすぎる潤一郎を折檻しています。少年潤一郎は、泣き虫の名残りがありながら、この頃には相当に頑固で強情っぱりになっていました。泣きながら意地を張り通していたようです。父からも、小学校を卒業したら奉公に出るか、給仕になって働きに出るように、と言われていたことも、稲葉先生から学べるのは後少しだけかもしれないという思いとなり、驚くべき吸収力になったようです。
また家の厳しい家計のことは分かっていましたが、無理を言いつづけ英語と漢学の塾に通うようになります。秋香塾という漢学の塾では、『大学』『中庸』『論語』『孟子』『十八史略』と学び、英語は当時、歌舞伎俳優や上流階級の人たちも通っていた築地近くの「欧文正鴻学館(サンマー英語学校)」に通い勉強を重ねていったのです。
4年間高等科での勉強を終えた時(16歳、1902年)、依然家の経済は回復せず、中学校にすすめる状況ではありませでした。潤一郎は中学校になんとか進めないか何度も両親に懇願しています。稲葉先生も力のある潤一郎少年に学問を続けさせてやってほしいと両親に頼み込んでいます。その説得が功を奏し父は潤一郎に受験だけは受けさせます。結果、東京府立第一中学校(現、日比谷高校)に合格したのです(父はその合格を受け、実兄の久兵衛に学費の援助を頼み込んだ。久兵衛の長男も大阪の米穀取引所に奉公に出ていたのだが)。潤一郎が卒業した後、新しい校長に稲葉先生の教え方に理解を示さず横浜・鶴見の外れの小さな小学校(先生は稲葉先生一人だけ)に飛ばされたのでした。潤一郎は鶴見まで恩師稲葉先生を何度も訪ねています(稲葉先生は後に芝浦の沖電気倉庫番になった後、電車に撥ねられ轢死)。少年潤一郎の逞しく根を張りはじめた”樹幹”に無尽の栄養を与え、激励したのは紛れもなく小学校の担任稲葉先生だったことを潤一郎はずっと忘れることはありませんでした。▶(3)に続く-未

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