エゴン・シーレの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- シーレ一家は「鉄道一族」の家系だった。唯一の慰みの「スケッチ」をストーブで燃やした父(母)

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はじめに:エゴン・シーレがもっていた扉のような「鏡」のこと

ゴッホが亡くなった1890年、ウィーン近郊のドナウ河畔に彗星のごとく降ってきた一個の孤独な魂ーエゴン・シーレ。その魂は、地球上の奇跡の花や庭の香り、鳥の啼き声を聴いた時、鳥の目に<自分>が薔薇色に映し出されているのを見ました。それがシーレの「ナルシシズム」のはじまりでした。しかし映し出されている<自分>とは誰なのか。シーレは自分の部屋に体全体が映る木枠に囲まれたおおきな「鏡」を持ち込んでします。その「鏡」こそ、シーレの自画像制作の装置であり、二重の自画像、そして三重の自画像すらが生み出されることになるのです。「扉」ほどの大きさのある「鏡」でしたが、シーレにとってはそれは何処かに通じる「扉」ではなく、あくまでも自己を映し出す「鏡」だったのです。
当時の新たな美術界のムーブメントだった、ウィーン分離派クリムトら)にも、象徴派にも、表現主義にもいっけん属さず、シーレが唯一人独自の道を突き進むことになったのも、その「鏡」の存在ゆえだったのかもしれません(シーレ芸術は、ウィーン分離派を基盤に、分離派の芸術を表現主義に変貌させた。『エゴン・シーレ画集』エルヴィン・ミッチ著)。無論、その「鏡」を必要としたエゴン・シーレという<魂>がまずあってのことですが。
そしてシーレの観察は、山や水、花や樹木にも向います。同時にそうした「自然」にシーレは、人体との相似するような動きや形、喜びや苦悩を感受するのです。その時、シーレは、幼少の時に喜びとともに感じ取った「奇跡の花や庭の香り、鳥の啼き声」に、「夢みる少年」となって帰ります。宇宙に舞い戻っていった時、シーレはわずか28歳の時でした。妊娠中の妻エディットがスペイン風邪で死去した3日後のことでした。
それでは少年シーレの「魂」が、地上に降りてきた地点、オーストリアの首都ウィーンの西方約30キロにある町トゥルンへ参じてみましょう。時は、世紀末の匂いが漂いはじめる1890年、6月12日のことです。

シーレ一家は「鉄道一族」の家系だった

エゴン・シーレ(Egon Schiele)は、1890年6月12日、オーストリアの首都ウィーンの西方約30キロにある町トゥルンに生まれています。ドナウ河畔の小さな町です。父アドルフ・シーレは、国家の鉄道官吏としてオーストリア国有鉄道に勤務し、シーレが誕生した時はトゥルン駅の駅長でした(若い頃は鉄道技師)。アーチストになる者としてはかなり珍しい部類に入るとおもいますが、駅長だった父の関係上、シーレが幼年期・少年期と住むことになるのは、トゥルン駅の改作口の上、線路に沿って建てられた2階建て官舎のなかの一部屋だったのです(2階の端の部屋)。
シーレは「自画像のためのスケッチ」(20歳の時に書いた一文)のなかで、「僕の中には、古きドイツの血が流れている。そして、しばしば先祖たちの存在を身裡に感じるのだ。アンハルト大公園ベルンベルクの初代市長にして法律顧問官のフリートリヒ・カール・シーレの曾孫(ひまご)たる僕は、ドナウ河畔トゥルンに、1890年6月12日、ウィーン人を父に、クルマウ人(南ボヘミアの人々)を母に生まれた」と自身をスケッチしています。アンハルトとは19世紀にドイツ帝国に組み入れられ、ドイツ革命(1918年)まで存続したドイツ中部にあったアンハルト公国のことで、シーレはオーストリアの土壌とは別に、ドイツに根を張っていた祖先たちのスピリットの木霊(こだま)を感じとっていたようです。
古きドイツの血脈は、父アドルフの家系で、14世紀まで遡ることができるようです。シーレはスケッチしませんでしたが、実際には先祖の多くは農夫であり学校教員であったり、プロテスタントの牧師、官吏、軍人、法学者らでしたが、ドイツ統一の立役者で「鉄血宰相」の異名をもつドイツ帝国初代宰相にしてプロイセン王国首相の、あの政治家オットー・フォン・ビスマルク(1815ー98/「賢者は歴史から学び、愚者は経験からしか学ばない」という名言がある。伊藤博文大久保利通に多大な影響を与え、「明治憲法」は「プロイセン憲法」が模範だった)とも血のつながりがあるといわれています。母マリーは、南ボヘミアチェコ)のクルマウ出身で、先祖は代々農民か職人でした。ただ母の父ヨハン(シーレの祖父)は、鉄道関係の建築家で財を成し、ウィーン市内に6軒の貸家を持つほどでした。シーレの叔父(父方)もウィーン北駅の監査役、祖父ルードヴィッヒ・シーレはボヘミヤ西部鉄道の設立者(若い頃は父同様に鉄道技師)だったので、シーレ一族はまさに「鉄道一族」だったといえるでしょう。また鉄道はどの国でも初期は国有であり駅長であったり、鉄道関係の建築家、ウィーン北駅の監査役と、シーレ一族が国家と近いところにいなければなれない職に何人もが就いていたのです。

「スケッチ」が唯一の慰み。シーレの「スケッチ」をストーブで燃やした父(母)。

ウィーン生まれの父アドルフはトゥルン駅から少年シーレをよく汽車に乗せていたといいます。華やかな首都ウィーンまではそれほど遠くはありません。そして少年シーレはそのウィーンにある「ウィーン美術アカデミー」に16歳の時、入学することになります。とまれシーレ少年にとっては、当面の間は蒸気機関車の玩具が大のお気に入りでした。汽車の絵もかなり描いていたようで、8歳から10歳頃に描いた汽車の絵は、横からみた汽車を蒸気機関車、車輛、客車などを極めて写実的に図面のように描いたものでした。鉄道関係の建築家の祖父の設計図を、訪問した際に見た可能性があります。
またシーレ少年にとっては、駅の構内が日頃の遊び場でした。汽車と乗り降りする人々、カファ、ブルク劇場、シェーンブルン宮殿、ステファンドーム、サン・ステファン教会、2階建て官舎の窓からはドナウ河と広大なトゥルン平野が見えたといいます。
シーレ6歳の時、地元の小学校に入学します。ところが神経質にして、夢想的なシーレはなかなか学校の集団生活に馴染めなかったようで、勉強にもすっかり辟易してしまいまし。この時代の学校は、勉学のための”兵舎”といってもいいほどで、繊細なシーレに限らず多くの生徒たちが、生気の感じられない学校で押しつぶされそうになりながら勉強していました。教師はつねに「権威」という壁の中に棲息し、生徒を「権威」に平伏させることが権利として認められているような時代でした。そんななかシーレ少年の唯一の慰み、気晴らしは、「スケッチ」をすることでした。ところが列車の絵を描いていた頃はほほえましく見ていた父アドルフは、シーレがあまりにスケッチに没頭しずぎ、しだいに憤慨するようになっていきます。父のそんな気配を感じてもシーレはまったく勉強に身をいれようとはしませんでした。挙げ句の果て、父はシーレのスケッチをストーブの中に投げ入れ燃やしてしまったのです(妹のゲイトルーデの記憶では、スケッチを燃やしたのは母マリーだとも)。
母マリーも心労がずっとありました。1879年に結婚した二人でしたが(マリーは17歳だった)、最初の子供の二人(女児と男児)はつづけて死産だったのです。その後、女児エルヴィラ、さらに女児メラニー、そしてエゴン・シーレ、再び女児ゲルトルーデを生みます。シーレ3歳の時、姉のエルヴィラ(10歳)が脳膜炎で亡くなっています。じつは梅毒性の疾患をもっていた父アドルフが治療を拒否したため母マリーも感染し、最初の二人の子供が死産したともいわれています。
シーレは生きて誕生した唯一の男の子でした。唯一の男児シーレが、勉学をほっぽってスケッチしかしない我が子に対し、ある時期ヒステリックになってしまっても仕方ないかもしれません。しかし後に母は、父とちがって息子シーレの絵画に対する情熱をしかと見定め、シーレがウィーン美術アカデミーに進めるよう支えました。しかし父亡き後、生活が苦しくなったシーレ家に余裕はありません。母にはシーレが浪費ばかりし家にお金を入れないと何度もシーレに苦言を呈します。家計のことや父のお墓のこと、男たるべきの仕事のことなどいろんな局面で、母とシーレは対立するようになります。シーレからすれば母はあまりに度がすぎるほどの倹約家に映っていました。とにもかくにもシーレが描いた絵をことあるごとに絵の蒐集家に売るようになるのも母からのプレッシャーだったのです。

精神が破綻した父、梅毒で狂死する。シーレ家の家計は逼迫する

少年シーレは、12歳の時、ますます学校への反発を強めていきます。クレムスにある理工系の高等学校に入学し、1年だけ在籍した後、クロイスターノイブルクの同じく理工系の高等学校に転校していました。カフカが通ったように、入学金・授業料が高い文科系のギムナジウムにはシーレは入学できませんでした。この頃、シーレはほとんど友達とも付き合わず、ひたすら絵を描くことに熱中するばかり。その光景は「鉄道一族」の家族には理解を超えたものがありました。そんな折り、父アドルフが精神に異常をきたし狂気の発作をたてつづけにおこし、仕事から離れることになります。その2年後、シーレ14歳の時(1904年)、シーレ一家はクロイスターノイブルクに移り住みますが、その地でも父アドルフの精神の病は治まらず、実際には存在しない来客がいると言い張るので家族全員は、父の言う通り来客がいるふりをするのです。家計は逼迫しはじめ姉のメラニー(16歳)が急遽、地方鉄道のクロスターノイブルグの駅で出納係の仕事に就いています。これをみてもやはり「鉄道一族」です。
そしてついに父アドルフは狂死します。進行性麻痺とされていますが、おそらくは梅毒によるものだったようです(当時のウィーンでは性はタブーで、結果、性の抑圧と無知を招き、通りの裏で性的放縦が、性病を蔓延させていた。街路には「皮膚科・性病科専門」の看板が林立していた)。少年シーレは父の死後、5年後に父の霊と直接、話しをしたといいます。
そして父の死により一人息子シーレの後見人に、シーレの名付け親でもあった叔父(父の妹の夫)のツィハツェックが指名されます。後見人となった叔父はまもなくシーレにとってなんとも鬱陶しい存在となります。しかしこの叔父の肖像画をなんと9点も描いています。親戚のなかで最も裕福で、音楽会も家で催し美術にも造詣があった叔父ツィハツェックの邸宅にあった何点もの優れた絵画を見る機会があり、絵の署名の方法をそこで見知ったともいわれています(『エゴン・シーレ坂崎乙郎 平凡社)。

放浪の画家K.L.シュトラゥホが、少年シーレの素描力を「発見」する

少年シーレに幸運が巡り来たります。感受性の乏しい教師たちばかりだったクロイスターノイブルクの理工系高等学校に、放浪の画家K.L.シュトラゥホが赴任したのです。シュトラゥホはウィーン美術学校のグリーンペンケルルの弟子の一人で風景と人物画を得意としていました。シュトラゥホがウィーン美術学校ではなく、理工系高等学校に赴任したのは、杓子定規の遠近法や陰影をもちいたデッサンを嫌ったという当時の常識破りの教育法にあったためだろおもわれます。シュトラゥホは技術でなく、生徒それぞれの素質から生まれる表現力を重視していたのです。実際、少年シーレがシュトラゥホ先生を描いた肖像画は、ウィーン美術学校ならば、間違いなく落第点がでる手のもので、滲ませたやわらかい淡いマッスでシュトラゥホ先生のイメージをつかんだものでした。一方ほぼ同じ時期、高校の課題でシーレは、教室の窓から鳥瞰したクロスターノイブルグの町を、まるで「写真」かと思わせる程の描写力で描ききっています。その細密な描写力は、かつて描いた汽車の車輛の細密な絵を彷彿とさせるものでした。
少年シーレの絵と素描力は、シュトラゥホ先生に衝撃を与えます。理工系高等学校にこんな生徒がいるとは。シュトラゥホ先生は自分のアトリエに呼び一緒に制作に励みます。どれほど少年シーレにとってシュトラゥホ先生の存在が有り難かったことでしょう。シーレがウィーン美術アカデミーに入学した17歳の時にも、シーレはシュトラゥホ先生と一緒に戸外で風景画を相当の数(100点以上)描いています。
高校卒業近くになると、後見人の叔父は、シーレはウィーンの技術専門校に進むよう進言してきました。シーレには絵しかみえません。窮地に落ちいったシーレを救ったのは母でした。母マリーが叔父の強権を制止させ、シーレを美術アカデミーに進ませました。母はシーレが父を何度も激怒させ、家族を心配させ、それでも絵を描くことだけはやめなかった情熱を、ずっと見ていたのです。しかし母は、情熱だけで誰もが画家になれるとは考えていませんでした。母はシーレに知られぬようシュトラゥホ先生や、美術教育を受けていた画家マックス・カーラーと美術史家W.パッケルに助言をもらっていたのです。1906年、少年シーレ、16歳。シーレは晴れてウィーン美術アカデミーの入学試験に合格しました。その翌年、画学生となった少年シーレは、すでにウィーン美術界の名士になっていたクリムト(当時45歳)と知り合うことになります。偶然にも、その年(1907年)、あのアドルフ・ヒットラーが、自信に満ちて受けたウィーン美術アカデミーの入学試験に落ち、その理由を聞きに学長に面会しに行っています。▶(2)に続く