宮沢賢治の「Mind Tree」(2)- 小学4年の時、川原での「石拾い」に夢中に。小学生5年の頃から植物や昆虫も蒐集しだす。盛岡中学では「植物・鉱物採集」「登山」が学校教育の一環だった。中学で成績は急降下、<反抗的>になる賢治
盛岡中学1年の時、賢治少年が初めて学校教育の一環として「登山」した南部富士「岩手山」(2040m)。賢治少年はすっかり岩手山の虜になり生涯で十数回登っている。
泣き出したら手に負えなかったが、行儀のよい子供だった
▶(1)からの続き:小学校に上がるまでの賢治は、あまりものを喋らず、笑うこともあまりなく、庭に生えていた梅の木に吊るしたブランコに乗ったり、ひとりで縄跳びをしているような子供だったといいます。ところが泣き出すと手に負えず、母イチがいくらあやしても泣き止まない頑固な子だったといいます(泣き止まなかった2つのエピソード。1歳年上の本正少年が、賢治が遊んでいた馬のおもちゃを貸して欲しいと頼んで遊んでいると、おもちゃをとられたと思って突然泣き出し泣き止まなかった—これは皆さんもよく経験すること。2つ目は、本正少年が小学校に上がった時、自分も一緒に行けるとおもい、実際には1歳年下なので小学校に一緒にあがれないことを知って泣き止まずずっと機嫌が治らなかった。子供を持つ親御さんも、泣き止まない我が子をしかりつづけることはやめましょう。小さな子供は泣くことで自己を感じ生み出していますから。たんに意地っ張りはよくありませんが、強い意志形成にもきっとつながっていきます)。
賢治6歳の時、赤痢に罹り花巻の隔離病舎に入れられた時、看病に付き添った父・政次郎も感染した様に、長男の賢治は両親に大事に育てられ、行儀が悪くならないよう、あまり他の子供と遊ばせてもらえなかったため、ひとり遊びばかりしていたようです。まだ小さな頃、賢治が行儀よく大人しかったのは、仏教講習会の影響や家庭内の仏教的雰囲気が一番影響したようです(自然と正座して耳を傾ける姿勢をとらせていた)。家でも食事の時には、いつも恥ずかしそうに恐縮しながら食べ、物を噛むときもなるべく音をたてないようにしていたのもその影響下だとおもわれます。
また、仏教だけでなく「キリスト教」の精神も賢治に強い影響を与えています。花巻には、新教のバプテスト派が早くから伝道に着手していて、明治13年に教会を設立していました(賢治が生まれる16年前)。賢治との直接的な接点は、父と昵懇の仲になっていた斎藤宗次郎(花巻きっての熱烈なクリスチャンとして知られる内村鑑三の直弟子。内村鑑三全集の編集者)と花巻で活動していた内村鑑三の高弟・照井真臣乳(まみじ)でした。照井真臣乳は当時小学校2年生だった賢治にキリスト教を教え、賢治はキリスト教実践者たちの熱意ある行動と思想に深く影響されていきます(照井真臣乳は小学校5年の賢治の担任先生でもあった)。斎藤宗次郎氏とは、少年時代だけでなく、20代半ばの上京前後、花巻農学校在職中にも交流はつづきました(少年時代に斎藤師に賢治は作文や習字を見せている)。
入学した花巻川口尋常高等小学校でも、賢治は行儀よく、言葉使いは丁寧で、柔和な表情でしたが、どこか態度が大人びていたこともあり、いじめっ子も手をださず、不思議とクラスで一目おかれる存在になっていきます。今でいう番長(6、7歳年上)が年下の金持ちの子供を脅しお金をまきあげていた時、毅然とした賢治だけには脅しが通じなかったといいます。
小学校時代の赤シャツ事件:ある同級生がめかして当時珍しい赤シャツを着て学校に登校した時、まわりから「メッカシ(めかしてる)!」と騒がれいじめられ時、賢治は自分も赤シャツを着てくるから、いじめるなら自分をいじめてくれとたのんだという。ちなみにこの当時、小学生の通学姿は、ランドセルはまだなく風呂敷包み。制服もなく着物やモンペ姿に草履だった。また馬車に指を轢かれ傷をした同級生の血にまみれた指を吸って治療した話もある。傷ついたひとに深い同情をよせる気質は母親ゆずり。
1年終了時には、修身・国語・算術・遊戯・操行のすべてで優秀の「甲」でした。が、2年生の頃、礼儀正しい優秀な子供と誰もがおもっていた矢先のこと、賢治少年はすすきの野原に火をつけたり、4年生の頃には小舟にのって北上川の対岸の畑にわたって瓜を盗んだりしています。そうかと思えば、当時のガキ大将が戦争ごっこの最中に野に火をつけたのが風にあおられ火が広がり、皆が唖然としているなか、率先してくい止めたのも賢治でした。
「昔ばなし」を話して聞かせながら学校へ通う。3、4年担当の八木先生から受けた影響
賢治は学校へ行く道すがら、「むかしこ(昔ばなし)」を話して聞かせるようになります。連れ立って学校に通っていた近所の金治少年相手でしたが、次第に何人かが話を聴こうと後をついて行くようになったといいます。賢治少年が語る昔ばなしの多くはその頃、賢治が愛読しはじめていた巌谷小波の本を読んで感銘を受けたものでした。3、4年時に担任となった八木英三先生(当時19歳の新人先生だった。後に早稲田大学を卒業し中学教師になる)が、その賢治に大きな影響を与えることになります。八木先生は、授業とは別に「童話」や「少年小説」(外国語から翻訳されたばかりの『まだ見ぬ親』五来素川訳など)をよく生徒たちに話して聞かせたのです。賢治は熱意溢れる八木先生の自由さに目をうばわれます(伝記本には必ず、でっぷりとした八木英三先生の写真が掲載されている。八木先生は、「君が代」も「わが代こそ千代に八千代に」だと語り校内で問題となり警察に引っぱられ、敗戦までずっと監視されていた人物だった。八木先生が皆に「立志」をたずねた時、賢治はまだこの時は「家業を継いで立派な質屋の商人になる」と応えている)。
小学4年生、川原での「石拾い」に夢中に。小学生5、6年の頃、植物や昆虫も蒐集しだす
小学校も4年生の頃になると、学校から帰るとすぐに鞄を放り出して近くの豊沢川(西の山々から流れきて花巻市内で北上川に注ぎこむ)にかかる豊沢橋の下に広がる川原に直行しだします。その場所は、賢治だけでなく近所の子供たちの集合場所であり、イコール遊び場でした。そこで子供たちは、水泳ぎしたり、魚とりをしたり、虫を取ったり、「石拾い」を楽しんだのでした。上流から雪どけ水が新しい石を運んでくるので、とくに春は「石拾い」の季節でした。賢治だけは季節を問わず「石拾い」に夢中になっていきます。皆が「石拾い」に飽きても、賢治だけは「もっと透き通った石を探すから」と言ってひとり拾いつづけたといいます。「石ッコ賢コ」という綽名(あだな)はこうして皆の間で自然につけられたものでした。そんな賢治でしたが4年生終業時にも、依然すべての学科で「甲」でした。
賢治が通っていた時代に小学校は、尋常科だった4年制から現在の6年制に切り替わる(明治40年-1907年のこと)。そのため賢治は2度、小学校を卒業することに。一度目は、尋常科での小学4年生で、もう一度は、それから6年制に移行したため残りの2年を終えた時。
小学生5、6年の頃になると、「石」への凝り性はふつうでなくなり、川原で拾ってきたいろんな鉱石や矢の根石、さらには化石を様々な箱に入れだし、家族からも「石っこ賢さん」と呼ばれるようになります。その蒐集熱は、植物や昆虫にもひろまりだし、植物は押し葉にし大切に保管し、「昆虫」の標本づくりにも凝りだします。賢治は弟の静六に石のことを説明したり、蒐集した宝物を瀬戸物の甕(かめ)に入れて土の中に埋め、昆虫の屍骸があれば土のなかに埋葬して墓をたててりしたといいます。一方、賢治の「童話」好きはさらにすすみ、自分で読むだけでなく、弟や妹にいろんな童話や詩を読んで聞かせるのもまた大好きでした。自分で絵を描きながら、昔話を聞かせたこともしばしばだったようです。幻燈や活動写真も大好きで、賢治は弟や妹を連れて見に行っています。
ちょうどこの5、6年生の頃(10歳〜11歳)は、自意識も濃くなり自己形成が活発化しはじめます。”根っ子”にあった気質が、周囲の者や環境とさまざまに触れ合い交じりあいます。樹木で言えば、太い幹から突然、太い枝が生えはじめ樹全体はアンバランスになりながらも、樹勢は止むことはありません。賢治少年は突如、仏頂面をしおそろしく物事をきかないようになり、時に子分を引き連れて他の学校に遠征に出かけたり、教室で入口の扉を開けると物が落ちて来る悪ふざけを率先してやりはじめるのです(逃げる賢治を先生が追いかけもした)。賢治少年のこの<心の造山活動>はその後もつづき、断層もある様な複雑な<心の地形>が生み出されていきます。
盛岡中学では、「植物・鉱物採集」や「登山」が学校教育の一環だった
賢治少年は、中学に入る頃には、<心の地形>のさらに根源にある東北の地へと<アースダイブ>しはじめます。悪戯好きでガキ大将化しはじめた<心の造山活動>は、その深部へと潜りはじめ、何百万年、何億年を経て生み出された鉱物や地層へ、森へとその意識は蠢(うごめ)きはじめます。
13歳(1909年)、県立盛岡中学の受験に合格、入学します(当時は中学は義務教育でなく倍率は3倍だった。盛岡中学は国語学者でアイヌ語研究で知られる金田一京助、銭形平次の作家・野村胡堂、後に賢治にも大きな影響を与える賢治の10年先輩にあたる詩人・石川啄木を輩出している)。学校は盛岡市にあるため賢治は寄宿舎住まいとなります。盛岡中学では教育の一環として、「植物・鉱物採集」や「登山」「兎狩り」がおこなわれていて、賢治少年の「石」や「植物」への情熱をさらに促すことになります。行事でなくとも賢治少年は、岩石用ハンマーを腰にかけ、盛岡市内の岩手公園や岩山にはじまって、郊外の鬼越山、のろぎ山、蝶ケ森山へと通いだしています。盛岡一帯は、花崗岩や蛇紋岩、古生代の地層からなり(海底火山の噴出物も堆積)、盛岡はまさに「石の町」というにふさわしい町だったのです(盛岡城の石垣も花崗岩でつくられている。岩手県全域が鉱山が盛んな県だった)。1年生の賢治少年は、花崗岩の中でもとくに雲母の一種の「蛭石(ひるいし)」やチョーク代わりになる黒脂石を好んで採集していました。
公園の円き岩げに蛭石を われらひろえば ぼんやりぬくし
これは中学1年の時に、賢治が詠んだ短歌です。賢治は中学1年から「短歌」もつくりはじめていました。
賢治が初めて南部富士と呼ばれる「岩手山」登山を体験したのは中学2年の時でした。最初は学校行事の一環で、植物採集が目的の登山でした(寄宿舎監長を兼ねていた博物の先生が引率し、岩手山神社社務所に宿泊。午前1時起床、松明の灯をかざしながら、生徒80人が標高2040メートルの岩手山に登った)。この時、ふだんは体操の授業はクラスで運動神経のにぶさにかけては筆頭を通していた猫背の賢治(柔道も剣道も野球も何もかもスポーツはまるで音痴。ボール投げの姿はまるで女の子の様だったといいます)が、登山になると別人のようにさっそうとした健脚になり他の生徒たちを驚かせています。3カ月後にも英語の先生の引率で、唱歌を歌いながら夜明け前の岩手山を登っています。以来、岩手山の虜になった賢治は、ひとりで(時に数人で)登山するようになり、生涯を通じ数十回にのぼっています。中学3年の時に、小岩井農場に学校行事で遠足があり、以降賢治少年のお気に入りの場所になります。
中学時代、成績は急降下。<反抗的>になる賢治
小学校高学年に反抗心が芽生えた賢治が、家から離れ解放的な気分に浸れたのは2年余りで、次第に<反抗的>になっていったようです。小学校では「甲」ばかりだった成績も見事に急降下、授業中も教科書を開かず、哲学書を読むようになり、教師へも反発しはじめ心は屈折していきます。中学を卒業すれば、家業の質屋を継がされるという思いからでした(祖父はもともと商家を継ぐ者に学問は不要という考えだった)。それは重荷どころか賢治にとって質屋家業は、嫌悪の対象になっていたのです。先に書いた様に、自然災害を受けいっそう生活が苦しくなった近隣の貧しい農民から、僅かな品物を”収奪”するようなひどい仕事に賢治には映ったからでした。同級生は皆、進学をめざして勉強をかさねていたなか、自分だけは進学できそうになく賢治は鬱屈するばかりだったのです。
弟の清六も後に著書『兄のカバン』で、「家業の質屋は陰気な商売で、宮澤家に病人が絶えないこと、いつともなく人の世の哀しさが兄弟の身に染み込むようになった」と語っています。さらに「兄・賢治は、表面的には陽気にみえたところもあったといいますが、本当は小さな時から何とも言えないほど哀しみを抱えていた」とし、その哀しみは賢治が諸国を巡礼して歩きたいという思いが小さな頃から大人になるまでずっと抱いていたことと通じているようです。
▶(3)に続く-未
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