宮澤賢治の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 賢治誕生時、「三陸大津波」と「陸羽大地震」が相前後して起こった。母方は花巻銀行、花巻温泉、岩手軽便鉄道の設立に尽力。「仏教」が宮澤家の生活軸。母イチの花巻弁の声音は<音楽>の様だった
はじめに:多面体を生き、時にどのように結晶させるか。因果の鎖をとく”溶媒”
宮沢賢治は多面体です。詩人・童話作家・農学校教師・農業指導家・地質学者であるだけでなく、星座(天文学)好きであり、山好きであり、森や川を歩き標本採取し、石好きであり、音楽好きであり、芝居好きであり、エスペラント語をやり、読経好きな宗教家でもありました。なぜそんなに賢治は多面体なのでしょう。故井上ひさし氏によれば、羅須地人協会の創設の背景には、最初のバリ島ブームがあり、バリ島の農民の生き方が”発見”され、農民は日が暮れれば音楽家であり、芸術(芸能)家であり、同時に宗教家でもあると。『春と修羅』『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『雨ニモマケズ』などはそうした賢治の多面体が結晶したものといえます。
近代化された国ではひとは一生涯、仕事に染まってただ一色になってしまう。大人になることは、幼少期に見たパノラミックな風景を切り取り、イーハトーブ(岩手)の百花繚乱の自然から、光や風、大地から遠ざかることなのか。賢治の青年期は、父や家業への反目、妹トシの死、表面的な陽気さの裏の本質的哀しみ、根源的な人間不安、どう生きるかつねに悩みのなかにあり、国柱会へと宗教遍歴していきます。
宮沢賢治は、天上の世界と地上の世界に引き裂かれつづけましたが、その時空の裂け目を繋げたのが<宗教>であり、<音楽>であり、「銀河鉄道」の様に、<詩・童話>でありました。そこには目には見えない天界までとどかんとする「マインド・ツリー(心の樹)」が賢治の裡に立ち上がっていたからに他ありません。その「心の樹」の樹冠は、遥かな<銀河系>からの光を映しだしたかの様に、キラキラ輝いているのです。
「…二千年ぐらい前には 青空いっぱいの無色な孔雀が居たとおもい 新進の大学士たちは気圏のいちばん上層 きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を発掘したり あるいは白亜紀砂岩の層面に 透明な人類の巨大な足跡を 発見するかもしれません…」(『春と修羅』)
そう、気圏のいちばん上層のあたりで見つけた化石や、白亜紀砂岩の層面で発見された透明な人類の足跡は、<第四次延長>に伸びた賢治の「心の樹」のそれであり、わたしたち自身の感じる<心象風景>の未来の「化石」になるかもしれないのです。賢治の「心の樹」の”樹液”は、今生の<因果の時空的制約>を溶かす”溶媒”にちがいありません。賢治はそんな魔法の様な”溶媒”の原液をどこでいつ手に入れたのか。それは「イーハトーブ(岩手)」の大地と夜空にあったのです。
賢治誕生時、「三陸大津波」と「陸羽大地震」が相前後して起こった
宮沢賢治(本名:宮澤賢治)は、1896年(明治29年)8月27日、北上山地と奥羽山脈に挟まれた岩手県稗貫(ひえぬき)郡里川口村(後の花巻町。現・花巻市)に生まれています(誕生は母の実家がある同じく川口村、後の花巻市鍛冶町)。賢治が生まれた前後は、東北地方に大きな自然災害が引き起こされた時期にあたっていました。賢治が生まれる2カ月程前には、岩手県内だけで死者1万8000人を超える大惨事となった「三陸大津波」が、賢治が生まれた4日後には(8月31日)、直下型地震の陸羽大地震(M7.2)が発生し、内陸から山地にかけ多数の家屋が倒壊し山崩れも1万カ所に及んでいます(それ以外にも度重なる集中豪雨や北上川の大氾濫が重なり、自然災害・凶作・冷害は大飢饉を引き起こし、岩手は荒廃し県民は貧困に喘いだといわれる)。地震発生時、賢治の母イチは、念仏を唱えながら体をかぶせ必死でわが幼子を守ったといいます。
災害への関心が深かったといわれる賢治は、三陸大津波の際の惨状(溺死体も多くあった)が写された写真を幼児期に度々目にしたといわれていますが、それは賢治の叔父(父の弟)の宮澤治三郎が当時まだ珍しかった写真の撮影に打ち込んでいて(技術は玄人レベル)、撮影された多くの写真と身近に接することができたからだそうです。まだ20代だった叔父・治三郎は、大津波の報を聞き一目散に釜石に駆けつけその惨状を撮影、新聞社に提供しています。
さて、賢治の実家の家業は、夙(つと)に知られているように「質・古着商」です。当時の社会経済環境から、生活苦にあえぐ農民は質入れして生き抜く者も多く、後に賢治は父・政次郎と商いのことで(商売代えを父に強く要望していた)、つねに衝突を繰り返すことになります。ところが面白いもので、農民や農業の肩を持つようになる一方、賢治は「商い」そのこと自体を諌めるのではなく、(妹トシの看病で上京中の23歳の時)新たに宝石(人造宝石)などを扱う商売を企てたいと父に書き送っているのです(数回目の手紙では、企画案は飾石・宝石、指輪やネクタイピン・カフスボタンとより具体化される)。そして賢治の「商い」への様々なかたちのアプローチと関心は、じつは花巻一帯を根城に、商工の業を広く起こし地位と富を築き繁栄してきた宮澤一族(地元花巻で「宮澤一族(みやざわまき)」と呼ばれ、花巻を代表する一族で、地域の秀才を輩出していた)の遺伝子のなせる技といえるものだったのです。
しかもこの「宮澤姓」は、江戸期から父方の姓であり、また母方の姓でもあり、2つの流れとなっていた宮澤家が、賢治の父と母の代で合流することになり、まさに花巻の一大勢力と化していたのです(地元ではどちらの宮澤家も、同じく宮澤一族とみていたようだ)。宮沢賢治は、たんに成功した質・古着商の長男として生まれ育った者ではなかったのです。このことを押さえておくと宮沢賢治の生き方、思考に嗜好、反目・反抗、挫折や企図がおのずからみえてきます。賢治は自然災害を受けいっそう生活が苦しくなった近隣の貧しい農民から、僅かな品物を”収奪”するような<質屋>(当時の社会的有り様としての)という家業を嫌悪するようになり、<家>の宗教を、そして<家長>の父に対して反目(つっぱり)していくのです。
父方は江戸中期に呉服屋を繁盛させたが、後に衰退
母方の宮澤一族の方(その経済的手腕)には驚かされますが、まずは父方の宮澤一族からみてみましょう。宮澤家一族の始祖は、京都から花巻へ下った浄土真宗安浄寺の門徒としてつくした藤井将監(元禄9年、1696年没)と言われています。藤井姓が江戸中期にいつの間にか(理由は定かでなく)宮澤姓(宮沢賢治の「宮沢」は、本来は「宮澤」表記。本名も宮澤賢治になっている)になったようで、江戸中期、はじめて宮澤姓を名乗った宮澤右八が起こしたのは呉服屋でした。使用人も多く雇うほど呉服屋は繁盛し、その子供の2代目の時、「土子金持ち」と呼ばれ栄華を誇ったと言い伝えられていますが、商家としての家風としては慎ましく地味だったようです。3代目は、勤勉だった2代目とちがい(宮澤家でも栄華は3代で一旦終わっている)、奔放で華美に流れ店は衰退。南部藩の頻繁な御用金徴収にも懲り、暖簾を下ろしてしまうのです。2代目の二男は別の呉服店に養子に出され、三男は堅物な人で親孝行者でしたが、気が小さい少年でした。それが賢治の祖父・宮澤喜助でした。
宮澤喜助は、新渡戸稲造の祖父もくわわっていた青森県三本木の開拓に、伯父らとともに経理として同行しています。喜助は初代の様に勤勉で質実剛健に生きたため宮澤家は復興しはじめます。この喜助が賢治の父・政次郎が継ぐことになる質・古着商をはじめています(分家の際、喜助の長兄から僅かな資財を譲り受けはじめた)。財産を蓄えた頃には、朝顔ラッパの蓄音機を購入し、越路太夫や呂昇のレコードを聞き、浄瑠璃本を買い揃え、義太夫に凝りだしていました。何よりも魚が大好物で「おれの儲けた財産だ、おれの好きなものを食わせないということあるか」と文句をよく言い、魚料理を知らない賢治の母イチを大いに困らせたようです。この喜助の妻・関キン(南部藩勘定奉行頭の関七郎が祖)は、11人あった子供のなかで最も慎み深い性格で言葉も少なでした。馬から落ち腰を痛め、晩年はひたすら念仏を唱えていたといいます。
母方は、花巻銀行から花巻温泉、岩手軽便鉄道などの設立に参画
一方、母方の宮澤で(鍛冶町宮澤家)の祖の宮澤孝作(1831年没)は優れた棟梁で、手がけた神社仏閣は現在もあちこちに残されています(花巻文化財指定の鳥谷ケ崎神社円城寺門など)。この宮澤家に婿養子として入った弥兵衛は、文房具や塗物を扱う雑貨商「宮澤屋」を開業、その誠実な人柄で商いは軌道に乗り、田畑ももつようになります。その孫の宮澤善治が町の人々から「宮善」(宮澤屋を指すが)と呼ばれる大人物となります。善治は、賢治と同様、虚弱体質でしたが胆力・気力があり、時代の動きに敏感で、タバコや塩(専売法以降、指定を受け販路拡張した)、砂糖、ガソリンも扱いはじめ、そのことごとくが当ります。慶応義塾理財科を卒業した善治の次男が進言した近代的経営のノウハウを取り入れて多角経営に取り組み、花巻銀行から花巻温泉、さらには岩手軽便鉄道などの設立に参画します(善治の次男は花巻農学校の県立昇格に尽力)。
賢治が言うように(知人への手紙中)母方の実家・宮澤家は、まさに花巻一円の<財閥(賢治は”社会的被告”とすら表現している)>だったのです(また善治は町会議員を40年余り勤めあげ、その儲けっぷりを表に出さず生活も質素倹約を旨とし、多額の公共の寄付をおこなったという)。この善治の三男は釜石でタバコ専売店を開業していますが、賢治は度々その地を訪れ、三男が所有するヴァイオリンを弾いたり注文したレコードを届けたりと、2人の間には気兼ねのない関係がつづいたといいます。
家業以外にも情報に通じ株式投資で財を成した父
賢治の宗教心や仕事観に大きな影響(作用も反作用も)を与えた人物の一人はなんといっても父・政次郎(まさじろう)です。ところが宮澤政次郎と賢治は、かなり資質も気質も異なります(「マインド・ツリー(心の樹)」的に言えば、”樹相”がことなる)。それでも賢治は政次郎の子として、政次郎の影響圏にありました。資質が異なる子供が、その親からどの様に、どんなかたちで影響を受けるのか、また屈折し反発しだすのか、そして複雑な心理的関係が時に、またとない果実を産みだすことがある、その”想定外”の果実を賢治は生み落としたのです。最もそのプロセスにおいては、親の方も子の方もそう容易には生来の地図を描くことは叶いません。なぜなら2人の関係以外からも影響や刺激が送られ、状況は転位し、新たな目標が付け加えられるからです。
まずは父・政次郎に接近してみましょう。政次郎は若い頃から宮澤一族の家風をうけ、勤勉で堅実な性格だったといいます。中学生頃から家業の仕事を助け、商いを知り任されるようになると、関西や四国にまで買い出しに出かけ安くて小綺麗な衣類を大量に買い付け、時代にあった商売のコツを掴んでいきます。情報の収集や研究にかけては人後に落ちず、景気上昇を引き起こした第一次世界大戦中に果敢に株式投資をおこない、財を成しています。後に「自分は仏教を知らなかったら三井、三菱くらいの財産はつくれただろう」と語り、積極的に店舗を拡張するなど時勢に応じて経営の転換を計る才覚をもっていました。店舗経営を近代的実業に切り換える目論みと準備もあり、それを長男の賢治に期待していたようです(結局、次男の静六が家業を継ぎ、大正15年に金物・電動機具商に転じている)。
それでも「仏教」が宮澤家の生活軸になっていた。”慈母”としての母の存在
父・政次郎は実務家、理財家の一方、つねに研鑽につとめる求道者でした。朝夕の勤行が宮澤家のリズムとなり、日常生活もとっぷりと「仏教」に則った生活だったといいます(宮澤家一族の始祖で浄土真宗の門徒だった藤井将監以来、200年余つがれた濃密な信仰空間があった)。幼子だった賢治の子守唄は、政次郎の姉ヤギが唄える親鸞の『正信偈(しょうしんげ)』や『白骨の御文章(はっこつのおふみ)』でした(賢治3歳の頃にこれらのお経を暗誦。当時はそうした子供はあちこちにいた)。祖母のキンの口からも年がら年中、「南無阿弥陀仏」の称名が絶えることはありませんでした。
また政次郎が法友数人と「我信念講話」の研修会を組織したのは、賢治3歳の時のことでした(1899年)。なんと最初の2年は盛岡高等農林学校の先生から農業についての話を皆で伺っていたといいますが、参加者は宮澤一族はじめ教育者や知識人ばかりで農民はいなかったこともあり、以降宗教論と人生修養を目的とした会になります。じつは政次郎が求道心を深めた背景には、賢治が妹トシを失ったように、大きな理由があったのです。1903年(明治36年)に27歳だった弟・治三郎を亡くしていたのです(この治三郎が「賢治」の命名者で、三陸大津波の惨状の写真を撮っていたのが賢治のこの叔父だった)。政次郎は大沢温泉で催す夏期仏教講習会の世話人となり、仏教書の購入など費用の一切をまかないます。小学校にあがったばかりの少年賢治はこの講習会に父に付き従って毎回の様に出、暁烏敏(あけがらすはや)師や近角常観らの話に熱心に聴き入り、とくに暁烏敏師に寄り添って離れなかったといいます。暁烏敏師は近代仏教の先覚者・清沢満之の許で勉学を重ねた高弟で(日露戦争中の東北大飢饉の際に慰問行脚している)、当時雑誌「精神界」を編集。政次郎はその雑誌の熱心な読者でした。暁烏敏は念仏唱歌を教えたり賢治ら子供たちと角力を一緒にとって交わっています。宮澤家の裏庭には小屋があり(政次郎の蔵書が収められていた)、賢治ら子供たちはしょっちゅう小屋に入っては仏教書などの「読書」をしていたといいます(清沢満之門下の研鑽は、キリスト教古典からヘーゲルまで、一仏教一宗派にとどまらなかったことを考えれば、賢治が小屋で読んだものは仏教書に限らなかったはず)。賢治の弟の静六も外祖母の家でお菓子が出された時に、”煩悩”がおこるといって食べなかったといい、魚料理狂いの祖父とちがって兄弟そろってどれほど仏教が心の基盤になっていたか物語っています(堅物的ではなかったにしろ賢治もおおいにベジタリアンではあった)。
どちらかといえば色白でひ弱な、大人しい性格の少年だった賢治だとみられていましたが、父・政次郎はそんな賢治の裡に、奔放な天馬の様な気質を見抜いていて、地上につなぎとめるためにつねに手綱をとってきたこと、そして「早熟児だったが、仏教を知らなかったら始末におえない遊蕩児になったろう」とも語っています。
父・政次郎は、賢治4歳の年(明治33年-1900年)、26歳にして育英会理事に選任されている。33歳にして町会議員に当選、以降4期勤める。また学務委員、育英会理事、人事調停委員、借地借家調停委員、民生委員、司法委員など町の様々な公的活動を歴任、藍綬褒賞も受けている町の有力者だった。賢治との確執からくる厳格な父親像とは裏腹に、公的活動では穏和な姿勢で町民に耳を傾け、皆が納得するまでじっくり話し合ったという。子供たちに対して厳しかったのは、家庭内の厳格さが一家の秩序を保つはずだという時代感覚にくわえ、身を飾るよりも心を磨けという精神主義の過剰からだった。母のイチが娘トシのために着物をつくろうとしても、つくらせてもらえず、イチは自ら養蚕を育て、自分で繭を売り、生地を用意し娘たちのために着物をこしらえたという。
母イチの花巻弁の声音は、<音楽>か<歌>の様だった
母イチは、魚にうるさい祖父喜助や、我が侭な精神主義者・政次郎に対する気苦労から心臓病や神経症に長年苦しみますが、情け深く、心に春風のようなゆとりをもつような生来の気質で、明るい笑顔でひとに接するひとでした。イチのその気質は、イチの母・徳(賢治の祖母)のそれを受け継いだといわれ、2人とも自然なユーモア感覚の持ち主でひとの心をほぐすのでした。イチは政次郎に嫁ぐ前は、英語や洋裁を習いに香梅舎という女塾に通い、新たしくモダンな感覚も持ち合わせていたようです。その感覚は賢治にも影響したようで、トマト(観賞用だったトマトを率先して食べた一人が賢治)やらチューリップ(岩手県で最初にチューリップをつくったのは賢治だという。賢治は岩手県に珍しい花を植えだした張本人)、ビスケットにレコードコンサート、シャープペンシルから外国語など賢治はモダンなものを得意そうに食べたり使ったりする心性がありました。
そしてそれ以上に、母イチから賢治に継がれたのは身体そのものが<楽器>となったかのような張りのある立派なバリトン風な声音そのものであり、読経で鍛えた朗々としてシンフォニックな歌声でした。実際、賢治の朗読を聞いた人たちは、「音楽」の様であり「芝居(時に浅草オペラ風)」の様だったと記憶しています。母イチの声音がまた素晴らしく、花巻弁で喋ると、美しいソプラノでまるで<音楽>か<歌>の様に聞こえたと伝えられているのです。賢治ら子供たちは幼い頃から母のそれじたい<音楽>の様な声音で、「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」といつも聞かされていたのでした。それは母が賢治に伝えた生きる上での<楽譜>だったのです。賢治ら子供たちにとって母は、厳父に対する”慈母”でありつづけたのでした。
▶(2)に続く
・参照書籍:『宮澤賢治年譜』(堀尾青史編 筑摩書房 1991年)/『年表作家読本・宮澤賢治』(山内修編 河出書房新社 1989年)/『兄のトランク』(宮沢清六著 ちくま文庫 1991年)/『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著 ネスコ・文藝春秋 1995年)/『宮澤賢治の生涯—石と土への夢』(宮城一男著 筑摩書房 1980年)/『新潮日本文学アルバム 宮澤賢治』(1984年)/『デクノボーになりたい 私の宮澤賢治』(山折哲雄著 小学館 2005年)/『チェロと宮澤賢治』(横田昭一郎著 音楽之友社 1998年)他
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