ファーブルの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- フランス南部中央山塊の寒村に生まれる。3歳の時、祖父の農家に預けられ、<好奇心の芽>が膨らむ。文字が読めない父が町で買ってきた「動物」がのった「絵本」でアルファベットを覚える


1980年代、サントリーウィスキーのCM:ファーブル博士篇

はじめに:虫を愛でる国・日本でのファーブル人気

『昆虫記』とその著者ファーブルの名前は、大人から子供までおそらくほとんどの日本人は聞いたことがあるとおもいます。ところが、ファーブルの知名度は、じつは本国フランスでも日本程でなく、ファーブルが長年暮らした南仏アヴィニョンでもそれは同じだといいます。ちなみにファーブルのウィキペィアをみても、滅多にないことですが英語版のそれよりも日本語版の方が詳細だということが分かります(仏版は現在、日本語版より詳細である)
ファーブルが本国フランスや欧米圏よりも日本で人気があるのには理由があります。「神は世界を創り、悪魔は昆虫を創った」というのが、かねてから西洋の人々が昆虫に対して抱く共通の感覚だったからでした。虫を愛でる国・日本では大人気のカブトムシやクワガタムシも、西洋では悪魔を連想させてしまうのです。遡ればコガネムシも裁判にかけられ有罪とされたことがあったといいます(蜜を生産する蜜蜂とテントウムシだけが良い虫で無罪)
日本人は、大正時代からファーブルの『昆虫記』を読んできたといいますが、『昆虫記』の最初の翻訳者は意外な人物です。無政府主義者大杉栄なのです(大杉は自然科学者・丘浅次郎の弟子で、社会主義者も自然科学の方法を学ぶ必要があるという考えから)大杉栄は獄中、丸善からファーブルの英訳書を持ち込んで、「糞虫スカラベサクレ(フンコロガシ)」の生態に驚嘆し、翻訳に取りかかったといいます(ファーブルの『科学の不思議』を共訳した伊藤野枝とともに、関東大震災直後に憲兵隊により惨殺される。第1巻翻訳後だった)
昆虫の研究は、それまで死んだ標本を研究するのが当たり前でしたが、ファーブルは虫たちの舞台である「自然」と共感し、その<小宇宙>とともに、「生きた」虫を研究することへと、大きく転換させたといわれています。ファーブルは詩人のように、小さな生命に「魂」を感じとることができたからこそ、死んだ虫でなく、「生きた」虫を研究対象にすることができたのです。昆虫・動物.植物の研究だけでなく、生涯、詩を愛し、音楽を愛し(作曲もした)、山に登り、鉱物の研究にもいそしんだ姿は、東北が生んだあの宮沢賢治の魂と木霊(こだま)するものがあります。
虫博士ファーブルが全十巻の大作『昆虫記』にとりかかったのは55歳の時でしたが、ファーブルの虫や動物、植物、自然への関心は幼少期からすでにはじまっていました。ファーブルはどんな環境で、どんな幼少期を過ごしたのか。まずはそこからファーブルの「マインド・ツリー(心の樹)」に迫ってみましょう。

 

「アヴェロンの野生児」が発見された中央山塊の寒村に生まれる

ジャン=アンリ・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre)は、1823年12月21日(〜1945年没)、フランス南部、アヴェロン県サン・レオン(Saint-Léons)という小村に生まれています。南フランスというと、陽光溢れるプロヴァンス地方がすぐに思い出されますが、アヴィニョンやアルルの西方、地中海に面したモンペリエから北北西に100キロ程内陸部に入った所にあるサン・レオン村は、フランス中央山塊の南東部に位置し、冬期は気候が厳しく、やせた土地が多い高原地帯にポツンとある小さな村でした(当時のわずか400人程)。日本人でもこの一帯の山間部に行かれる人は相当に少ないようです。
ただ、この地域のアヴェロン県は、じつは日本でもかなり名が知られた時期がありました。「アヴェロンの野生児(The Wild Boy of Aveyron)」のことを記憶されている方も多いのではないでしょうか。1797年、森の中にいた裸の少年が捕獲され、感覚機能を回復させたり、言語を教え社会性を獲させようとしたが失敗に終わった野生の少年のことです(映画監督フランスワ・トリュフォーが、自ら野生児になって演技した映画『野生の少年』がある。トリュフォーは親から見捨てられ親の希望で少年鑑別所に送られた経験があった)
ファーブルが生まれた時、世話人の許で「アヴェロンの野生児」はまだ生きていました(ファーブル5歳の1828年、推定40歳で死去)。深い森と清らかな水が流れ、ブナやシラカバ、ミズナラやモミの木が生い茂る土地は、「アヴェロンの野生児」が自然の中で暮らしていた自然環境とそれほど遠くはないでしょう。3歳から6歳の間、ファーブルは父の実家がある標高1000メートルもある山間地で過ごしていますが、ファーブルはまるで「マラヴァルの野生児」の如く、ひとりで歩けるようになると自然の中へ入り込んでいき、昆虫や植物と戯れるのでした。

3歳の時、祖父の農家に預けられる。寒い日には、羊を抱いて寝た

土地の言葉でノアラック(高原の小さな村)と呼ばれていた生地サン・レオン村は、石灰質の山地をえぐって流れるミューズ川からせり上がった斜面につくられ、谷の頂には15世紀に建てられた古城がありました。石造りのファーブル家も古城の下の階段状になった斜面に建ち、土地も石灰質でライ麦、オート麦などしかつくれない小さな痩せた土壌があるばかりだったといいます。聞こえてくるのはせせらぎの音と小鳥の囀りのみの静かな村で、谷底には澄んだミューズ川が森の間を流れていました(ファーブルは『昆虫記』第10巻で、「懐かしい小川よ…貴いお前こそ、私の心に最初に印象づけられた聖なる詩なのだ」と記している)。巡礼の通り道になっていて市が立つ日だけは、近隣から人々が集ってきたといいます。
ジャン=アンリ(・ファーブル)が生まれて2年後に弟フレデリックが生まれます。幼な子を2人抱えて生活することは難しいと考えた若いファーブル夫婦は、兄のジャン=アンリをサン・レオン村から40キロ程離れたマラヴァルに住む父方の祖父母の家に預けます。祖父母の家は広い土地を持つ農家で、羊や牛を飼い、親戚や小作人、その子供たちも一緒に暮らしていました。祖父は仔牛が生まれると市に売りに行き、祖母は牛の乳を絞りバターやチーズをつくっています。
ファーブルは3歳から6歳まで、「物心がつく」時期を、この父方の祖父母の農家で過ごしています。寒い冬の日には、ファーブルは家の家畜小屋に潜りこんで羊を抱いて寝ていました(厳しい寒さの時には、大人たちも羊を抱いて寝たという)。周りは、エニシダの密生する畑、シダの葉の茂った林、キイチゴの赤い実がなり、聞こえてくるのはブナの木靴の音や、羊の番人がツゲの樹でつくられた笛で奏でる素朴なメロディーでした。
祖父はガリア人のように長い髪を肩に垂らし、藁を敷いた木靴をポコリポコリと音をたてて歩き、厳しい環境が気質をかたちづくったのか、いつも険しい顔つきをし冗談一つ言わない人だったようです。文字は読めなかったようで、一生に一度も本を読んだこともなく、村以外の世界は仔牛を売りに行く市しかほとんど知らなかったようです。周りの農民たちもほとんどが読み書きはできませんでした。

ファーブルの<好奇心の芽>が膨らんだ祖父が暮らすマラヴァルの地

祖母は話し好きで、毎晩夕食後、糸車を回して糸を紡ぎながら子供たちにいろんなお話をしてくれました。ひとりであちこち歩き回るようになると、ファーブルは「ちょうどモンシロチョウがキャベツの方へ飛んでいくように、わたしは虫の鳴く音をたどってどこまでも歩いていった」と『思い出の記』のなかで書いているように、自然の中へと入りこんでいくのでした。チョウの翅(はね)やオサマムシの翅をじっとながめるのだ。水の底の生命のこと、石をぱっくり割ってみると石の中に生命の形がでてきたりした。夕陽が沈めば、キリギリスの音を聞き分け、音の正体を想像したりしました。マラヴァルの地は、ファーブルの「森羅万象」への<好奇心の芽>が膨らんだ場所となったのです。
ファーブルの伝記作者G.W.ルグロは、自然に対するファーブルの鋭い観察と注意力は、親から受け継いだものではなく、もって生まれたものだと語っています。確かに、両親も、父方の祖父母も、母方の祖父母も、自然の中に住み暮らしていましたが、誰もファーブル少年のように鋭い観察と注意力を持つ者はいなかったようです。「森羅万象」が、「自然」が、ひとりの少年に生まれながらに備わっていた鋭い感受性に刺激を与え、引っぱり出したのでしょうか。ファーブルの弟子で友だった伝記作者G.W.ルグロの語るように、それは「もって生まれたもの」なのでしょうか。確かに、サン・レオンやマラヴァルの地の様に、”百花繚乱”の如き豊かな「自然」がなくては、ファーブル少年の昆虫や動物、植物、鉱石など「森羅万象」にわたる関心も観察眼も育たなかったことは間違いのないことでしょう。
「森羅万象」が、鋭い感受性の培養になり、その土壌になったことは間違いないこととおもわれますが、「森羅万象」に深く包まれれば、「もって生まれた」鋭い観察と注意力は開花する、という捉え方には大いに疑問が残ります。ここで思い出して頂きたいのは、「アヴェロンの野生児」のことです。このヴィクトールと名付けられた野生児は、間違いなくファーブル少年以上に、「森羅万象」の懐深く育っています。ところが野生児ヴィクトールには、ファーブル少年のような鋭い観察と注意力を伴った好奇心が溢れでることはなかった。それは鋭い観察と注意力を生まれながらに「もっていて」、野生児ヴィクトールは生まれながらに「もっていなかった」ということになるのでしょうか。

父が町で買ってきた「動物」の名前がのった「絵本」がもたらしたもの

ファーブルの「マインド・ツリー」に取りかかって数週間が過ぎ、いったん途切れかかった時、「しかし、私は生を探索している」という原題の『ファーブルの庭』マルティン・アウアー著 NHK出版)に出会ったのです。読みすすむうちに驚くべきことが分かってきました。ファーブル少年は学校に行きはじめても(6歳の時、両親の住むサン=レオンに戻されている)、読み書きをなかなか習おうとしなかったといいます。読み書きの入門本を与えても、中に書かれた文字よりも表紙に描かれた鳩の「絵」に心が惹かれるばかり(この頃、すでに村の学校に行っていたが野外授業の方が好きで、それ以上に昆虫を捕まえるのが大好きだった)
ある日、自分も名前以外の読み書きができない父が、私塾に通っても文字をまったく覚えようとしない息子に、これでは自分と同じに文盲になってしまうと危惧し町に出た時にあるものを購入しています。大判の色刷りの「絵本」でした(金銭的に負担にならないくらい安い絵本だった)。村で見るいろいろな動物の名前の頭文字をつかって、「アルファベット」を教えてくれるという内容のものでした。父は息子が動物好きで、息子がすでに名前も知っている動物がたくさん載っているので、これならきっと興味も引くし覚え易いとおもったのでしょう。たとえば、「A」は、ロバの「Ȃne - アーヌ」、「B」は牛で「Boeuf - ブーフ」、「C」はあひるで「Canard - キャナール」というように。まさにどんピシャでした(「Z」ではじまるこぶ牛「Zebu」など異国の馴染みのまったくない動物は、ずっと子音が慣れない状態が続いたが)。父は数日の間、自分もあまり分からないのに息子が読めるように手助けしています。そして私塾で使われていた鳩の絵の表紙の本も数日のうちに読めるようになるのです。ファーブルは後に語っています。「いまならこの突然の進歩を説明することができる。示唆に富んだ絵が、私をいろいろな動物と引きあわせてくれ、私の生まれつきの素質と合致したのだ」と。
つまり、生まれながらに「もっている」資質があったとしても、もしそれだけだったならば決して資質は伸びていかない、ということです。その資質が、「何ものか」と”合致”(ファーブルの言葉)した、幸運にも”出会った”時にはじめて、「進歩」したり、突然のびはじめるのです。

家畜のブタやヒヨコが入りこんでくる教室だった

両親の暮らすサン・レオンに戻ったファーブル少年が通った学校とは、ファーブル少年は名付け親でもあった村の教父ピエール・リカールの住まいも兼ねた私塾でした(義務教育前で村にはまだ学校はなかった。このリカール氏が、父にかけあいファーブルに教育を受けさせるようにサン・レオン村に連れ戻させたという。祖父の家があるマラヴェルには教育を受ける場所はまったくなかった)。教父リカールは村の教員であり、鐘楼の鐘つきをし、塔時計のネジを巻き、古城の財産管理人となり、理髪師であり、聖歌隊の歌い手もつとめていた人でした。こうしたいろんな仕事の合間にも、子供たちに手伝ってもらい林檎の摘み取りやカラスムギの取り入れ、その後に子供たちにフランス語の初歩的な綴り方を教えるといった感じでした(この当時、子供たちは農家の労働者で、誰もが私塾に通うことはなかった)。教室は豚小屋や鶏小屋とつながっていたため、家畜のブタ、雌鳥、ヒヨコが入ってくるような動物たちとつながった空間で、ファーブルはアルファベットを覚えるより窓から外の世界をずっと眺めるているのが大好きだったようです。


ファーブルがまだ子供の頃、フランス語は北部の「オイル語」と南部の「オック語」におおきく大別されていて、「オック語」もさらにトゥールーズプロヴァンスなど幾つもの方言に別れていました。19世紀には首都パリのある北部の「オイル語」が主流となり、フランス語が統一されていきます。ファーブルが育ったサン=レオンやマラヴァルでは南部「オック語」のラングドック方言が土地の言葉として日常的に話されていて、国語としての「フランス語」は外国語のように学校で習うものだった。(『博物学の巨人 アンリ・ファーブル』奥本大三郎集英社新書


私塾が休みの時は、牧場や野原に虫や小鳥を探しに出かけたりしています。林の奥で甘い香りをはなつシダのなかで、うっとりとした時を過ごすと、えもいわれぬ幸福感に包まれたといいます。ファーブルら村の子供たちのお気に入りの場所の一つは、皆が”テル”と呼んでいた大きな菩提樹の下で、隠れんぼなど格好の遊び場になっていました。その老樹の向かいに一年に一度村の市が立ち、珍しいものが市に並び、ファーブル少年は丘陵の向こう側に大きな「世界」があることを感じ取っていきます。
土地の所有権がなかった父はおもうように仕事をすることができませんでしたが(母は手袋づくりの内職をしていた)、ファーブルのアルファベットの勉強がどんどんすすんだ褒美に、ラ・フォンテーヌの『寓話集』を贈っています。キツネやカラスなどお喋りをする動物の話は、ファーブルの内面の「心の樹」に、再び見事にマッチしたのです。ファーブルの感性がさらに広がると同時に、本を「読む力」も急速に増していったのでした。
▶(2)に続く-未

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