マーティン・スコセッシの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 喘息の息子を映画狂の父は映画館に連れて行った。映画のシーンを「絵」に描きはじめる。8歳、一家はリトル・イタリーに舞い戻る

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はじめに

映画『タクシー・ドライバー』、『レイジング・ブル』、『ミーン・ストリート』、『キング・オブ・コメディ』、『最後の誘惑』、『ニューヨーク・ニューヨーク』『グッド・フェローズ』など、マーティン・スコセッシの映画は、どれもスコセッシ自身の個人的なものが反映されています。人はそれを「作家性」がある、と語りますが、前衛的な独立映画運動にくわわっていたスコセッシにとって、映画ならではのパワーを引き出すには、個人的なるものを掘り下げたところに照らし出されるものと”太い根”でつながっていなくてはならないものでした。
スコセッシにとって、”太い根”とは何だったのか。それはイタリア系アメリカ人の精神を辿ることであり、自身の深い宗教的感情を描きだすことでした。それは映画産業に対する挑戦ともなり、スコセッシは大きな代償を払うことにもなります。長い嵐が過ぎ行くと、雲間から新たな光がスコセッシの映画を照らしだしました。そして『最後の誘惑』に対する宗教的な論争も、スコセッシ自身の長年の「救い」への思いは(それは少年時代に遡るマーティンの「司祭」になる夢)、『ミーン・ストリート』などと同様にリトル・イタリーを住処とした自伝的な要素に満ちたものであることが知られることになったのです。
自伝的な要素とは何なのか。スコセッシの映画の記憶を辿りながら、あるいはあらためてスコセッシ映画をご覧になると、ニューヨークのリトル・イタリーのストリートにむくむくと生えたスコセッシの「マインド・ツリー(心の樹)」にきっと気づかされることでしょう。

祖父母ともイタリア・シシリー島からの移民者。リトル・イタリーに住み着く

マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese:本名:Martin Marcantonio Luciano Scorsese;以下、少年・青年期は、マーティンと記す)は、1942年11月17日、米国ニューヨーク州ロングアイランドのクイーンズ区フラッシングに生まれました。ロングアイランドは、マンハッタン東部にあるブルックリンやクイーンズ地区がある大きな島(東西190キロの米国最大の島にして、現在の人口770万人、全米で最も人口密度が高い島)で、ブルックリン区の東側のクイーンズ区フラッシング(Flushing)は、1939年にニューヨーク・ワールド・フェアの開催地で、今日でもヒスパニックからアフリカン、ヨーロッパ、そして中東アジアから東アジアからの移民を先祖にもつ民族多様性(まさに民族の万博状態)をみせているエリアになっています。
1910年前後にイタリアのシシリー島から移民してきた祖父が、住み着いたのはクイーンズのフラッシングではなく、マンハッタン島のロウアー・イースト・サイドでした。祖父はニューヨーク港の造船所で働くようになり、時間があれば手に入れてきた野菜や果物を近隣で売っていたといいます。マーティンの母の父親(母方の祖父)も同じ頃にシシリー島(シチリア島ともいう)から移民してきています。母方の祖父は騎兵でワイン作りに長け、祖母は裁縫を得意にしていました。
マーティン・スコセッシの両親(チャールズとキャサリン)は、2人ともマンハッタン島のロウアー・イースト・サイドにある(後の)リトル・イタリーのエリザベス・ストリートで生まれています。当時からこの界隈は衣料関係の工場や店が軒を並べていました。1936年に聖パトリック旧聖堂で両親は結婚しましたが、その時、父チャールズ・スコセッシはアイロン係(a clothes presser)として、母キャサリンもお針子(a seamstress)として働いていました。まさに2人ともリトル・イタリーならではの職人でした。
結婚後、チャールズは商いをはじめます。アイロン係よりもよい収入を得るためでした。商いは、男性用の衣類の販売でした。この仕事もこの界隈と深くつながっている仕事でした。ユダヤ教安息日には(本人はユダヤ人ではないが)、ガスコンロに火を点けてまわる仕事もしていました。当時まだエリザベス・ストリートにはイタリア人は僅かで、多くはユダヤ人が住んでいたのです。この界隈は、衣料品製造地区(Garment District)と呼ばれていましたが、イタリア系移民が流れ込んで縫製作業を低賃金で請け負うようになる以前は、東欧系ユダヤ人が住み着いて家庭内や小さな作業場でできる仕事として低賃金で縫製の仕事をしていたのです(縫製業者はシンガーミシンを分割払いで購入し移民たちに低賃金で深夜まで働かせていた。マンハッタンで衣料製造が盛んだった背景には、次々とやって来る移民が生きるために低賃金労働者と化したためだった)。無論リトル・イタリーという呼称もまだありませんでした。
マーティンが生まれたのは、エリザベス・ストリートではなく、クイーンズのフラッシングなので、父チャールズはゴミゴミしたロウアー・イースト・サイドから脱出し、なんとか生計を立てようとしていたにちがいありません。

喘息を患っていたマーティンを映画狂の父は映画館に連れて行った

ちょうど3歳くらいから喘息が酷くなって寝込むことが多くなったので、そんなマーティンを喜ばせようと父は映画に連れて行ってくれました。マーティンが生まれる前の1930年代、父自身、映画狂といえる程、映画館に足を運んでいました。父は生活に余裕のない時でも映画だけは特別で、なんとか捻出してマーティンを連れて出掛けていたのです。父にとっても映画は辛い仕事をいっとき忘れさせてくれるなくてはならない娯楽だったのです。マーティンの映画の一番古い記憶は、歌うカウボーイ、ロイ・ロジャースが登場するカラーの予告編だったといいます。ロジャースが木から馬に飛び乗るシーンやふさ飾りのついた服を鮮明に覚えているといいます。この頃マーティンは、カウボーイが大好きだったので、カウボーイになりたいとおもっていました。
マーティン4歳の時(1948年)、スコセッシ家は近隣のどこよりも早くテレビを購入しています。16インチのRCAビクターでした。父は衣料品地区のコネで安く手に入れたようです。テレビが部屋に入ったことでスコセッシ少年の映画熱が冷めていったのかと思いきや、テレビでは映画館にかからない映画をしょっちゅう放映していました(当時、映画界は新興のテレビ界に映画を売ろうとはしなかったためイギリスの映画がよく放映されていた)。6歳の時に『バグダッタの盗賊』や『四枚の羽根』(監督アレグザンダー・コルダ)や、イタリア映画を流す金曜の夜には、親戚一同テレビの前に陣取ってロベルト・ロッセリーニ監督の『自転車泥棒』や『無防備都市』『戦火のかなた』を皆で泣きながら見ていたそうです。
マーティンは、いろんな映画を見ているうちに、カウボーイから「絵描き」へと夢を成長させていきました。ずっと映画に心奪われてはいたのですが、少年にとって映画それじたいが夢の対象にはならないのがどうもふつうのようです。少年にとってスクリーンに映しだされ視覚で見えるもの、音で聴くものこそが直接、夢の対象になるようで、その後ろにいて製作したり監督したり、カメラを回したり、大道具をつくったり、メイキャップしたりする人の存在にまだ気づくこともなく、直に感覚に訴えないのです。目に見えるものの裏側にある世界を理解することによって、少年少女の「夢」も変容し、かたちを変えていくのです。

映画のスクリーンに映しだされたシーンを帰宅して「絵」に描きはじめる

マーティン少年の場合、スクリーンに映っているカウボーイから、今度はスクリーンに映っているシーンを「絵」にして描きはじめました。映画を見終わった後に、家に帰ってきて映画のシーンを絵に描いていたのです。するとなりたかったカウボーイもその「絵」の中に描き込むことができるようになり、「絵」は少年にとって万能になっていくのです。また映画以外に、新聞に掲載された漫画やマンガ本からヒントを得て自分なりの物語をつくっては絵にしていたといいます。そのうちに空想癖が薄れてきたのか、漫画を丸写しするようになったといいます。興味深いのは、マーティン少年は、映画のシーンでない場合でも、「絵」の画面の比率があってほぼ1対1.33になっていました。その画面比率は、ワイド画面が導入される前の当時の映画の画面比率だったのです。描くのははじめの頃は時代背景もありほとんどが戦争ものでしたが、少し大きくなると古代ローマで凱旋する皇帝を描いたり巨きなスケールの物語も計画し水彩画で描いていったといいます。それは聖書を題材にした大作映画からの影響でした。
それ以降、10歳くらいまではずっと西部劇に熱狂していました。しかし、1940年代後半、父が衣類品の商売に失敗し、結局、父が生まれ育った家とまったく同じブロックにある安いボロアパートに引っ越すことになるのです(マーティンが7、8歳になる1940年代後半まで、スコセッシ家はフラッシングから引っ越し、同クイーンズのコロナという場所に住んでいた。裏庭に樹がある平穏な空気に包まれた地区だった)。もし、父の商売が順調だったら、マーティン少年は穏やかなクイーンズ地区ですくすく成長したにちがいありません。直接出会うことはありませんでしたが、クイーンズ区フラッシング近郊のフォレスト・ヒルズで生まれ育った後に世界的シンガーになるアート・ガーファンクル(1歳年長)も同じクイーンズで少年時代を過ごしていました。
引っ越し先があまりにも狭くボロアパートだったため、マーティンは4、5カ月の間、こちらも荒くれ者が住む界隈にある祖父母の家に預けられています。多感なマーティン少年はこうして独特の空気に包まれたロウアー・イースト・サイドのリトル・イタリーを少年時代以降の住処とするようになっていきます。

リトル・イタリーの規律や掟と、「司祭」になりたい夢

当時、イタリア系アメリカ人たちは、歴史的にはマルベリー・ストリートを中心に、北方のハウストン・ストリートから南方のキャナル・ストリートに接するチャイナタウンの間のわずか10ブロックほどの間に身を寄せ合うように住んでいました。ストリートで言えば、スコセッシ一家が住むエリザベス・ストリートと、マルベリー・ストリート、それにモット・ストリートの3つのストリートがブロックの中心だったといいます(現在、かつての北限のハウストン・ストリートは、NoLIta=North of Little Italy:リトル・イタリーの北と呼称され、イタリア人が住むエリアではなくなっている。また、隣接するチャイナ・タウンとともにアメリカ合衆国国家歴史登録財の歴史地区に指定されている)。
肩を寄せ合うように住んでいたリトル・イタリーの中ではあっても、ストリートやブロックが異なると顔見知りにはなっても付き合いはまるでなかったといいます。まるで見えない境界線が引かれているように、お互い打ち解けるようなことはありませんでした。というのもスコセッシ一家が住むエリザベス・ストリートは、シシリー系の移民が占め、他のストリートは他の島やイタリア本土からやって来ていたためでした。各々歴史的に自分たちの規律や掟(おきて)が定められていたため、ニューヨークの警察や政治家すら手出しできなかったといいます。
その規律や掟がどれほど住人たちの世界や空間を支配していたかといえば、たとえばマーティン自身、ニューヨーク大学に入るまでの20年弱の間で、ロウアー・ウエスト・サイド(グリニッチ・ヴィレッジの西側)にはたったの一度しか行ったことがなかったほどだったといいます。あちこち冒険したくなる少年時代でもあってもです。後にマーティンが撮った映画『ミーン・ストリート』には、リトル・イタリーのストリートのリアルな様子が映し出されています。マーティン・スコセッシの初期の映画の<ルーツ>は、リトル・イタリーのストリートとコミュニティにあります。リトル・イタリーは、マフィアと教会によって治められていましたが、マフィアや街のゴロツキたちも司祭には帽子を軽く取って挨拶をおくっていました。彼らも祝福が必要だったからです。
カトリックの小学校に通いはじめていたマーティン少年は、8、9歳の時、司祭に憧れ、司祭になりたいと思うようになります。学校の行事の一環で初めて聖パトリック聖堂のミサに出席し、荘厳な儀式や古い賛美歌にすっかり心をうたれたのです。それだけでなく、「救い」について、子供心に一生懸命あれこれ考えるようになります。その時の自分なりの方法は、「司祭」になることだったのです。その思いは、20歳過ぎに映画を撮りだす時までつづいていたのです。後に困難を伴いながらイエスを主人公にした映画『最後の誘惑』(1988年)を撮影したのも、少年の頃から「救い」について考えてきた「心の樹」を表に出し、かたちを与えるためだったようです。

映画館に連れていってくれた若い司祭が人生の模範になる

じつは11歳の時に、リトル・イタリーにやって来た別の若い司祭の存在が、うぶなマーティン少年の「心の樹」を大きく揺らしたことが、後の映画監督「マーティン・スコセッシ」誕生につながる重要な刺激になっています。若い司祭は、マーティンたちに映画の『波止場』(マーロン・ブランド主演)を見せに映画館に連れて行ったのです。司祭はこうした映画こそつくられるべき映画だと考えていたのです。映画『波止場』を見るマーティンの心の中で、「救い」への関心と「映画」が作用し合い、シグナルを出し合い、融合点を感じとっていったのです。マーティンにとって映画は好きな「絵」を描くための素材的な要素がありましたが、それが「映画」そのものの関心へと比重が高まっていったのです。すでにすっかり映画狂少年だったマーティンにとって、「映画」はたんに観るだけのものでなく、自身の興味を注ぎ入れることができるものかも知れないという思いが、うっすらと「マインド・イメージ」のなかにあらわれだしたのです。
マーティンが「司祭」になりたいと思っていた頃、すでにマーティンの心の中に「映画」の数多くのシーンや「音楽」が映り込んでいました。1950年代初頭(マーティン8、9歳)、テレビで「百万ドルの映画」という番組が放映されだしています。この番組は同じ映画を夜の2回(土・日は3回)放映し、マーティンは同じ映画をよく繰り返し見て家族を苛立たせていました。とくに『ホフマン物語』の画面には我を忘れるほど見つめていました。『ホフマン物語』は、マーティンの細胞レベルにまで映像感覚と音楽が入り込み、後年になっても毎日どこかで映像や音楽が必ず脳裏をかすめるといいます。映画『レイジング・ブル』や『ニューヨーク・ニューヨーク』にも、この『ホフマン物語』の記憶の中のシーンが映し出され、映画『タクシー・ドライバー』のロバート・デ・ニーロの目のクローズアップ・シーンも、『ホフマン物語』の主人公の目が反映されているのです(毎秒36コマか48コマによる撮影。スローモーション効果)。
テレビの映画放映によって、またその繰り返し効果で、数多(あまた)のシーンや音楽が<転写>されていったマーティンの「マインド・イメージ」のそれこそ「司祭者」となれば、映画製作の第一歩となるわけですが、最初の16ミリ映画『君みたいな素敵な娘がこんな所で何してるの?』(1963)を製作し監督するまでには、まだ12年程、自身の”根っ子”のリトル・イタリーを舞台にした『ミーン・ストリート』を製作するまでには、まだたっぷり22年程かかることになります。それほど映画製作は「マインド・ツリー(心の樹)」の充実を要求するといえます。▶(2)に続く