ロバート・デ・ニーロの「Mind Tree」(3)- 映画、舞台の端役でも役柄の徹底した調査・研究をつづける。オフ・ブロードウェイの舞台で評価を獲る。キャラクターの各要素が”数学”の問題のように映っていた 


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内気で話すのが苦手、オーディションではパニックに陥る

▶(2)からの続き:オーディション用の<扮装写真>ファイルを編み出したのも、裏返せばデ・ニーロがあまりにも内気だったため、「扮装」せざるをえなかったためだったといえます。その内気さは、深く”内面”を抉(えぐ)り、役柄にあらわし、役柄の人物の秘めた怒りや苦悩、不安感を観客に伝える「役者」(とくに性格俳優)にとって、むしろプラスにはたらくことは世の東西問わず様々に語られます。
デ・ニーロの事実上の映画デビュー作『御婚礼/ザ・ウェディング・パーティ』の監督、あのブライアン・デ・パルマ(なんと、彼もこの映画が長編映画デビュー作だった。この時、ブライアン・デ・パルマはユニヴァーサルの親会社MCAから奨学金を獲て、サラ・ローレンス大学に通っていた。映画は大学の教授と出資者と共同製作・共同監督したもの。映画は2年間お蔵入りだった)は、オーディションにあらわれたデ・ニーロを次のように語っています。「非常に内気で話すのが苦手だったが、何とかうまくやろうと必死だった」と。紙に書かれていたセリフなのに、まったくうまく言えなかったデ・ニーロは、パニックに陥り、部屋から外にでてもう一度入り直し、もの凄いエネルギーでセリフを吐き出したといいます。即興的な撮影、演出方法などあらゆる面から実験的な作品を撮ろうとしていたブライアン・デ・パルマに、デ・ニーロのパニックに陥りながらも、猛然とかつ執拗に成し遂げようとする姿がアピールしたのです。デ・ニーロはオーディションに合格したのです(出演料50ドル)。デ・ニーロ、20歳の時でした。

アクターズ・スタジオの参観メンバーになる。オフ・ブロードウェイで幾つもの端役で出演

映画がお蔵入りしたこともあり、その後、デ・ニーロに出演以来がくることはありませでした。が、21歳の時、デ・ニーロのガールフレンドだったサリー・カークランド(当時アクターズ・スタジオの生徒。後に『スティング』や『プライベート・ベンジャミン』などに出演)が、知り合っていた女優シェリー・ウィンタースと引き合わせたのです。シェリー・ウィンタースは、デ・ニーロの可能性を感じ取り、リー・ストラスバーグアクターズ・スタジオのオーディションを受けるよう促しましたが、デ・ニーロは頑として聞き入れません。ならばとウィンタースは、顔が効いたアクターズ・スタジオに参観メンバーとして出席できるようかけあっています。
デ・ニーロは参観メンバーとしてアクターズ・スタジオのメソッドを観察し、家に戻ればルームシェアをしていたガールフレンドのサリー・カークランドとドラマ仕立て(キッチン・シンク・ドラマ)で何時間でも稽古をつづけたといいます。この時も、デ・ニーロは心の動きや内面の心理の変化に関しては、よく読んでいた手持ちの何十冊ものペーパーバック小説から「インスピレーション」を獲つつ演じていたようです。扮装服で外見をつくりだしても、内面の世界が重要度を減らすことはありませんでした。外ではいたって物静かで自分の意見も決して言わず、個性が薄いように映り、つねに謙虚(その代わり「観察」をしていた)だったデ・ニーロでしたが、家では感情を昂(たかぶ)らせ爆発して繰り返し演技の稽古をするのでした。役作りへの執拗なまでのこだわりが顕著になっていった時期でした。
この頃、デ・ニーロは巡回劇団が催していたチェーホフの『熊』や、『シラノ・ド・ベルジェラック』『欲望という名の電車』などオフ・ブロードウェイの小さな劇場での端役をあちこちでこなしています。

イースト・ヴィレッジのオフ・ブロードウェイの舞台で評価を獲る。

22歳の時、マルセル・カルネ監督の『マンハッタンの哀愁』(1965年)に端役で出演していますが、この時期は舞台へ集中していきます。同じ年、オフ・ブロードウェイのある舞台のオーディションに合格します。アンディ・ウォーホリのファクトリーで名を成していくキャンディ・ダーリングが出演した「Glamour, Glory and Gold」というオフ・ブロードウェイ劇の脚本を書いたトランスジェンダーのジャッキー・カーティスの次回作「Vain Victory」のオーディションでした(East VillageのLa Mamaで上演。East Village Drug Starsが出演。すぐ後に若かりしパティ・スミスが役者として出演した「Femme Fatale」の脚本も書いている。この時ジャッキー・カーティスは若干18歳、デ・ニーロよりも4歳若い才能だった)。そうした極めつけのヴィレッジの連中をさしおいて、デ・ニーロは5人ものキャラクターを演じ切った才能ある新人として一部の劇評でかなりの評価を受けています。この年(1968年)、ウォーホル・ファクトリーの監督ポール・モリッシーは、ジャッキー・カーティスとキャンディー・ダーリンをキャスティングした映画『Flesh』を製作しています。デ・ニーロはオフ・ブロードウェイのメッカ、イースト・ヴィレッジで頭角をあらわし、デニス・ホッパーらを通じドキュメンタリックな実験映画に向ったウォーホル・ファクトリーの圏内に充分入りこむ”名声”を獲たのですが、デ・ニーロの「マインド・ツリー(心の樹)」にはポップなアイコンの実は似つかわしくなかったのです。ウォーホルからしてもステージ上とはうってかわって地味なデ・ニーロに<ポップスター性>を感じることはなかったということです。
イースト・ヴィレッジでの一時の名声から逃れるようにデ・ニーロは、自身の「ルーツ」に向き合おうとします。デ・ニーロは飛べるだけの旅費を貯め、アイルランドとイタリアへの放浪の旅に出ます。最初、祖父母の故郷アイルランドに向かい、次いでヨーロッパに渡るとヒッチハイクで曾祖父母の故郷イタリア・ナポリ近くあるカンポバッソ県フェラッツァーノ(Ferrazzano)に向っています。4カ月の旅でした。

キャラクターの各要素が”数学”の問題のように映っていた

1960年代後半にピークを迎えるカウンターカルチャーやヒッピー文化は、映画の都ハリウッドにも激震を走らせていました。極めつけは、1969年に公開されたデニス・ホッパーピーター・フォンダが主演した映画『イージー・ライダー』の衝撃的なヒットでした。この頃から、従来のハリウッド映画手法とは異なる自主製作のインディペンデント映画の作品が増えだし、映画を取り巻く環境が様変わりしていきます。『ゴッドファーザー(F.フォード・コッポラ監督)は、そうした変化を引き入れながらハリウッドがつくりだした最初のメジャー映画だともいわれています(『ゴッドファーザー Part 2』には、デ・ニーロも登場することになる)
そうした新たな潮流にいた監督の一人が、すでにデ・ニーロの秘めた才を感じとっていました。再びブライアン・デ・パルマは、デ・ニーロ(25歳)に声を掛けます。『ブルーマンハッタン2/黄昏のニューヨーク』(1968年)と、2年後の『ブルーマンハッタン/哀愁の摩天楼』に出演します(『ブルーマンハッタン1』のプロデューサーのランソホフはロマン・ポランスキーに『吸血鬼』(ポランスキーの妻になるシャロン・テート出演するパロディー満載のホラー映画)を監督させてもいたことからも、「時代の水脈」をキャッチするのに長けた人物だったようです)。どちらも低予算映画でしたが、セックスやバイオレンスもふくめ時代の空気をまさに「鏡」のように映しだしたものでした。デ・ニーロはのぞき趣味の青年の役でしたが、内に籠(こも)った暴力を爆発させる人間を演じさせたら、デ・ニーロの右に出る者はいないだろうと一部の批評家たちをうならせています。
自身の演技についてはほとんど語ることのないデ・ニーロは、この頃次のように語っています。
「キャラクターの各要素が”数学”の問題のように映る。その答えがスクリーンに映し出されたキャラクターなんだ」
デ・ニーロは、スクリーン上の「解」を導きだすため、方程式の数値や「数式」そのものをあれこれ当てはめるように、コンマ幾つまでキャラクターを生み出しているメモリを動かすことができるのです(例えば、扮装面でいえば映画『ミーン・ストリート』の主人公ジョニー・ボーイが被る帽子の種類やツバの傾け方、ネクタイの柄や結び方などからはじまり、今で言えば緻密な3Dモデリングでキャラクターの外面をつくりあげながら、内面もそれに相対して併行してつくりだしていくことになるわけです)
別様に言えば、役柄というレンガを一つ一つ積み重ねていくレンガ職人ともいえます。デ・ニーロにとって俳優は、カリスマ性とセックス・シンボルとしてのスターではなく、「職人」となって生み出されるものだったのです。創造性には妥協することを知らないこの資質と気性は、まさに父親ゆずりでした。
何かを「創造」する時にこそ、デ・ニーロの「心の樹」の全てが動員され、スクリーン上の「解」として、驚くべきキャラクターの「個性」となって映しだされるわけです。まさにそこがデ・ニーロにとって人生をかけた「問題」であり、一般的にいわれる自分の「個性」については、デ・ニーロが全力をあげて取り組むような対象にならないのです(つまり、そうした場合の「個性」はすでに備わっているものであり、「問題」として取り組むものとして措定できないのです)

映画、舞台の端役でも、役柄の徹底した調査・研究をつづけた

ハリウッドのB級映画製作の帝王ロジャー・コーマンにデ・ニーロを引き合わせたのは、アクターズ・スタジオにデ・ニーロを参観させた女優シェリー・ウィンタースでした。デ・ニーロをテストしたコーマンは、デ・ニーロに、モルヒネ中毒で殺されるサディスティックな人物の役を与えました。映画は『血まみれギャング・ママ』というコーマン流B級映画だったにもかかわらず(しかもコーマンの早撮りは有名で、1週間から長くても3週間で撮影終了)、デ・ニーロは、映画の舞台となるアーカンソー州にまで、地元の訛(なま)りとしゃべり方を記録するためテープレコーダーとノートを持って一人向ったのでした。地元の訛りやアクセントを完璧にマスターし、短期間で13キロも痩せ、本当の薬物中毒患者のようになってロケ現場にあらわれたデ・ニーロに、コーマンらは度肝を抜かれます。演じる役に関する徹底的なアプローチは、カリスマ性とセクシーアピールで観客を虜にするハリウッド・スターには必要のない作業だったのです(どこが舞台、ロケ地であろうと、その土地の訛りやアクセントで喋り方を変えたハリウッド・スターはまずいなかった)。いつも決まってこき下ろされる役まわりだったコーマンB級映画でしたが、デ・ニーロの演技には批評家たちも注目せざるをえませんでした。
ここから一気に映画界に進出したかといえばまるで逆で、デ・ニーロは再び舞台に立つようになります。映画界と演劇界に通じたシェリー・ウィンタース(すっかりデ・ニーロの庇護者的存在になっていた)のアドバイスでした。26歳から2年間、デ・ニーロは、シアター・カンパニー・オブ・ボストンのレパートリー・シーズンに参加しています。シェリー・ウィンタースの庇護から離れようとしていたデ・ニーロでしたが、彼女が企画するニューヨークでの舞台に呼び戻されてもいます。他に、ブロードウェイではありませんでしたが、レパートリー・シアターが上演した『KOOL-AID』(モロフスキー作/リンカーン・センター)、名門アメリカン・プレイス・シアターのステージにも上っています。
28歳の年は、再び映画の端役の年でした。ニューヨークのマフィアを主人公にした3本目の映画『まっすぐ射てなかったギャング』(1971年)では、『ゴッドファーザー』出演のため役を降りたアル・パチーノが演じるはずだった役をまかされるようになります。役柄はイタリアから来たギャング。しかもロケ地はニューヨークのリトル・イタリーです。デ・ニーロの血が騒ぎます。デ・ニーロは、イタリア訛りの英語をマスターしただけでなく、イタリアの下層階級の殺し屋のアクセントを身につけるために、テープレコーダーと扮装するための数枚の服を持参しイタリア南部に飛んで調査したのです。この時も映画はまったく評判にならなかったものの、デ・ニーロの演技だけは高評価を受けることになったのです。その年の終わりには、批評家からだけでなく、映画監督からも「ロバート・デ・ニーロ」の名と存在は、認知されるようになっていましたた(大手の映画会社の賃金台帳に名前が載る)

28歳、少年の時以来、マーティン・スコセッシとの久しぶりの出会い

同年1971年(デ・ニーロ、28歳)のクリスマスの夜。デ・ニーロの人生を大きく左右する重要な出来事が起こります。作家のジェイ・コックスのクリスマス・パーティで、マーティン・スコセッシと久しぶりに出会ったのです。少年の頃リトル・イタリーのストリートで会って以来のことでした。デ・ニーロはスコセッシが映画監督への道にすすんでいたことは知らず(長編劇場映画はまだ1本も撮っていなかった)、スコセッシの方もデ・ニーロの近況も知らず、出演した映画もまったく観ていませんでした。
2人の間で、ある映画のことが交わされました。それはまだ映画になる前の企画段階のもので、スコセッシが実現しようとしていたものでした。映画『ミーン・ストリート』でした。ロケ地は、2人が少年期を過ごしたリトル・イタリーの路上。セットでつくられたものでなく、リトル・イタリーのまさにストリートそのものをステージに、ドキュメンタリータッチで、リトル・イタリーの若者そのものをリアルに表現しようとした映画でした。2人で執念のように取り組むことになる問題作『タクシー・ドライバー』(1976年公開)は、お互いにとってもこの『ミーン・ストリート』が大きな礎石となったのです。
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