ロバート・デ・ニーロの「Mind Tree」(2)- ハイスクールは1学期で中退。ストリート・ギャングに(成りきれず)。19歳の時、編み出したオーディション用の<扮装写真>ファイル 

口下手だが創造には妥協しない父デ・ニーロ・シニアの資質

▶(1)からの続き:デ・ニーロの口下手であるにもかかわらず創造性には妥協することを知らない資質は、父デ・ニーロ・シニアのものでした。デ・ニーロ・シニアは、画家ハンス・ホフマンのアートスクールから一人立ちして以降も、なかなか軌道にのらず経済的には困窮し続けていました(それまでの経験上、高い評価が得られるはずだと思っていたのでヘタに作品を売らなかった)。ヴィレッジのアパートメントの屋根裏部屋で身をやつしほとんどその日暮らしの状況だったようです。詩情から旅に誘われれば、お金もなく納屋や石炭貯蔵小屋を見つけて潜り込み、時にテントを張って寝泊まりしながら、何十何百にものぼる詩をつむぎだすのです。その多くは憧れの女優グレタ・ガルボに捧げられたものでした(後に自費出版)。ロバート8歳の頃は、グリニッチ・ヴィレッジのバー(Becker's Bar)でウエイターをして糊口をしのいでいます。その時に出会った劇作家テネシー・ウィリアムズのアドバイスから芸術の都パリに行くことを決心し旅立ちます。4年後に帰国して以降は、さらに芸術に打ち込み、家具や衣服もほとんどなくなり(人生にまつわるものは不必要になった)、純粋にしてあてどない芸術行為に身を捧げていったといいます。その芸術観は、「絵画は愛を形にする」というピカソの考えの木霊(こだま)でした。

10歳の、演技のワークショップの青年クラスに参加

少年ロバートは、なんとも偶然にも母がタイピストで働いていたマリー・レイ=ピスカーターの演技ワークショップに通うようになったわけですが、それも母が絵画だけでなく広く芸術活動に関心を抱いていたことから生じた「シンクロニシティ(偶然の一致)」だったにちがいありません。母は自分の給料の一部と引き換えに、息子ロバートをワークショップに通わせます。
よく母親は、娘や息子を周りの子供たちも通っているからと見栄でピアノ教室や英会話教室などお稽古ごとに通わせたりしますが、子供自身が継続的に興味の芽を見せていないかぎりはほとんど無駄か子供にとっては苦痛になるばかりです。子供たちが継続的に興味を示していることは、それ以前に両親や環境との相互作用があり、また親がそのシグナルをしっかりキャッチしていることが肝要なのです。自分の興味や見栄で子供たちを一方的にお稽古ごとに通わせたりすることは子供たちを徒に混乱させるだけです。英語が好きになる”きっかけ”になるだろうと気を回すならば、それ以前に日常の家庭生活のコミュニケーションのなかで興味が向くように気を回すべきなのです。後は子供たちから生じてくる興味の芽をキャッチして方向を示してあげればいいのです。もっとも父も母も英語の勉強を毛嫌いし、自分たちができなかったので子供たちには得意になって欲しいという願いはほとんど潰れるものです。それでもよく行き交う親類や従兄弟たち近所の友達関係、また両親の外国文化(音楽や映画など)への熱い思いが別の回路で無意識的にも継続的に示されていれば、子供の「心の樹」に言語学習能力の不思議と芽ぶくものです。そうした関心空間がまったく欠如している場合、外国語を勉強のために勉強するという行為は、「心の樹」に自然と芽吹くことはなく、苦痛しか子供たちに与えないでしょう。勉強のための勉強は、やがて「燃え尽き症候群」となって全身にあらわれるのです。
少年ロバートがドラマのワークショップに通いはじめたのは、10歳(小学生5年生から6年生の頃にあたる)の時でした。クラスは土曜日の青年クラスだったといいます。そして13歳の時、ロバートは突然ワークショップに顔をみせなくなってしまうのです。

小脇に本を抱えるストリート・ギャングに。結果、ギャングにもなりきれず

ワークショップに出向かなくなった少年ロバートが学校生活に生き甲斐を見出したかといえば、それもありませでした。逆に無断欠席がどんどん増えていったのです。母はドラマのワークショップもドロップアウトし、学校生活からもドロップアウトしてしまった息子ロバートをなんとか立ち直らせようと、進歩的な学風で知られる私立学校に転入させました。母の焦りは分かる気もしますがこうなるといくら進歩的な学風といえ、転入で子供が瞬く間に見違えるように変化することはまずありえないでしょう。逆効果になる場合もあります。デ・ニーロ少年の場合、すでに地元のストリート・ギャングと付き合うようになっていたのです。渾(あだな)は、「ボビー・ミルク」でした。痩せて青白い表情からつけられたニックネームでした。
ところが少年ロバートは、ストリート・ギャングにしてはあまりにも内気で、タフ・ガイとはほど遠く、仲間はしばしば突然姿を消したりする「ボビー・ミルク」を探しに行くはめになったようです。ようやく見つけると「ボビー・ミルク」は、独り本を読んでいるのです。「ボビー・ミルク」は、いつも小脇に本を抱えていたのでした。少年ロバートは、学校にもワークショップだけでなく、ストリート・ギャングにも属することはできなかったのです。
映画『ミーン・ストリート』(1973年 監督マーティン・スコセッシ)はまさに少年ロバートがうろついていたニューヨークの路上で撮影されていたのですが、そこに映されたデ・ニーロの表情や姿には、少年ロバートを彷彿とさせるものはまったくなかったようです。

16歳の時、デニス・ホッパー主演の舞台『マンディンゴ』に魅了される

後にデ・ニーロの偶像(アイドル)となるマーロン・ブランドモンゴメリー・クリフト、そしてジェイムズ・ディーンは、1950年代初頭、映画スターになる前に皆ブロードウェイで脚光を浴びていました。ジェイムズ・ディーンは、1952年にはオフ・ブロードウェイにかかったカフカの小説『変身』の舞台化作品にし出演したり、映画『エデンの東』で主演する前に数多くのTVシリーズに出演しています。ジェームズ・ディーンがニューヨーク時代に住んでいたのはデ・ニーロの家があるグリニッジ・ヴィレッジ界隈でした。デ・ニーロ少年が、ドラマのワークショップに通うようになった10歳の年に、ジェームズ・ディーンアクターズ・スタジオに出いりして演技を学んでいたのです(1953年のこと。実際には独自の演技感をすでに持っていたためアクターズ・スタジオのメソッドはたいして吸収していないといわています。授業ではただ座って見ているだけだったとも)。
ハイスクールに通うようになった少年ロバートでしたが、ここでも学校生活は馴染むことはありませんでした。少年ロバートはわずか1学期だけ通っただけで中退しています。学校での勉強をよそに、少年ロバートが惹き付けられていたものがあったのです。それは「演劇」でした。10歳から3年間余、ドラマのワークショップに通っていた時には、「演劇」はほとんど観ていなかったようです。ワークショップでの演技の先には、「演劇」ではなく友達とよく観に行っていた「映画」があったようです。
少年ロバートは、16歳になっていました。少年ロバートが観て魅了された舞台で、主役をはっていたのはデニス・ホッパーでした。演劇に関心を向けたきっかけは、若きデニス・ホッパーが主演した舞台『マンディンゴ(Mandingo)』(カイル・オンストット作。奴隷牧場を運営する一家の栄光と没落の話。1975年映画化;監督リチャード・フライシャー)でした。デニス・ホッパーは、ジェームズ・ディーン亡き後、”ジェームズ・ディーン”を継ぐスターとして期待を寄せられていました。なぜ少年ロバートが映画館でなく劇場に足を運ぶようになったのか。グリニッジ・ヴィレッジという環境もさることながら、じつは14歳頃から少年ロバートは、ステラ・アドラー・コンサヴァトリー・アクティングに所属し、演技の勉強をはじめていたのです。今度は初心者クラスに入り、その姿勢は真剣なものだったといいます。

ステラ・アドラーが指導するスタジオに通いだしていた

デ・ニーロ少年はこのステラ・アドラーのスタジオに通いだした頃に、役作りの面で対立しています。ステラ・アドラーは、スタニスラフスキーの演技の方法論をニューヨークにもたらした人物の一人ですが、その演技メソッドは同じくスタニスラフスキーの演技論を実践するリー・ストラスバーグアクターズ・スタジオと同様、心の奥深くにある記憶や心理を表面化させることになるので、幼少期の潜在化している記憶や心理を抉(えぐ)るメソッドは人によっては深刻な事態を引き起こす恐れがあったのです。デ・ニーロ少年の場合も、大人になっても幼少期のことは絶対に語らないことからも、思い出したくない辛い体験た記憶に満ちていたにちがいありません。辛いことを忘れ、別の存在になりきって演じることができるとおもっていた矢先だっただけに、反発したのかもしれません。最初に演技に目覚めた『オズの魔法使』の”臆病者”のライオンを演じた時には、わざわざ辛かったことをひっぱりだして演じることもなかったでしょう。しかしステラ・アドラーのメソッドでは、思い出したくもない記憶や心理を呼び起こさなくてはならないのです。


アクターズ・スタジオで演技メソッドを学ぶ者、または出身者のなかには、無意識的に蓋をしてあったであろう記憶や心の奥深くまで探求させるため精神的にアンバランスに陥る者も少なからずいるようです。内面からキャラクターをつくりだしていくため、そのキャラクターが「心の樹」をのっとり棲みつき、抜け切らなくなり、自身を見失い悩み苦しむことも。それほどに徹底的に役をつくりあげることはみずから危険な心理状態を生み出すことにもなるのです。


ところが、ステラ・アドラーのメソッドには、リー・ストラスバーグアクターズ・スタジオとは異なる方法論が組み込まれていました。<外部(外観)>から役作りをする方法でした。まさに映画『レイジング・ブル』で本物のボクサーのように体を徹底的に絞り上げたかとおもうと引退後のボクサーを演じるため20キロも太らせたり、『タクシー・ドライバー』のモヒカン刈りなど、役に成りきるために<外部(外観)>からつくりあげていったことがすぐに思い出されます。脚本家が役に与えた情報をキャラクターを分析しつくりあげていく際の梃(てこ)にしていく。この方法は、父譲りの妥協しない徹底する資質にはまったといえるかもしれません。ただそこに辿りつくまでに3年程ようしているようです。

19歳の時、編み出したオーディション用の<扮装写真>ファイル

デ・ニーロはこの方法を実践するため服や帽子などを買い揃えていきます。そしてこの時期まだ誰もやっていないような売り込みの方法を編み出していきました。役柄を外からつくりあげるといっても、まず役がなければどうしようもありません。デ・ニーロはさまざまに<扮装>をして何十枚もの写真をつくり、それをオーディション用のファイルに貼り込んだのです。そのうちの何枚かはまったくデ・ニーロに見えなかったほどだったといいます。19歳にして、80歳の老人に扮した写真もあったそうです。内気で極端なアガリ症のデ・ニーロゆえの入念な準備だったともいえます。そしてデ・ニーロは業界紙のオーディションの日程をチェックしていったのです。
ちなみに、ステラ・アドラーは以前アクターズ・スタジオでも教えていました。そのためアクターズ・スタジオ内でも、誰の指導方法が正しいのかと論争になった経緯があります。どちらの方法もメソッド方式でしたが、リー・ストラスバーグは、ステラ・アドラースタニスラフスキーの教えを誤って解釈していると非難。一方、ステラ・アドラーは父ジェイコブ・アドラースタニスラフスキーから直接伝授されたセオリーをベースにした独自のチャート・システムによっているメソッドだと反論、お互い譲ることはなかったといいます。
▶(3)に続く

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