セルジュ・ゲンズブールの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 皆とはしゃぐこともできず、心はねじれるばかりの初等教育時代。無断欠席の常習犯。13歳でヘビースモーカー。ナボコフの『ロリータ』を読む


映画『スローガン』で共演したS.ゲンズブールジェーン・バーキンバーキン高城剛氏とは一味も二味も違うゲンズブールにひと目惚れ。関係は急速に展開、1968年そのままゴールイン。ときにJ.バーキン20歳、S.ゲンズブール40歳。S.ゲンズブールにとってJ.バーキンは3人目の妻。その娘がシャルロット・ゲンズブール。映像は流れている曲「Je t'aime… moi non plus」が発表された1969年のもの。同年S.ゲンズブールは勢いずき「’69はエロな年 - 69, année érotique」も発表。

はじめに:マロニエの地下茎とデカダンなシンガーソング・ライター

セルジュ・ゲンズブールといえば、ひとまわり若いジェーン・バーキン(当時20歳。ゲンズブール40歳)と、さらにはブリジット・バルドーと不倫しながらデュエットした曲「Je t'aime moi non plus」で知られるデカダンなシンガーソング・ライターです。フレンチロリータの魁(さきがけ)となるフランス・ギャルの『夢見るシャンソン人形』、後に娘シャルロット・ゲンズブールに『デカダンス』や映画『さよならエマニエル夫人』など数多くの意味深でメタファーたっぷりの曲をつくりだし、また20代から端役として映画にも出演し、28歳の時、映画『スローガン』でジェーン・バーキンと共演するなどデカダンなフレンチ・カルチャーにはかかせない存在です。
しかしそのデカダンさは、ゲンズブール自身の「マインド・ツリー(心の樹)」そのものから匂い漂ってくるものなのです。20代後半まではロシア移民だった父と同様、キャバレーやクラブでさえないピアニストをしつつボヘミアンな生活をおくっていたゲンズブールは、生まれながらの臆病さに不満や鬱積が積もり、チェーンスモークと過度の飲酒にはしり、ねじれた作詞にがらがら声となり、それが湿気を好むマロニエの樹の樹肌のうような、奇妙な雰囲気のある風貌をした歌い手になっていきます。
また『墓に唾をかけろ』や『泡沫の日々』を著し、トランペッターにして歌手、辛辣な評論家だったボリス・ヴィアンをレスペクトし、フランス国家「ラ・マルセイエーズ」をレゲエ風にアレンジするなど反体制的な姿勢は、右翼の反感を呼び何度も襲撃されています。
幾多のエピソードだけをみてもセルジュ・ゲンズブールはとことん人生を謳歌したフレンチ・ダンディーにみえてしまいますが、その才能ももともと備わっていたものではありませんでした。ピアノは半泣きで父に仕込まれ、少年時代の学校生活ではひとり浮きまくり気になる女の子にも声をかけれない内向的な性格だったといいます。そうした少年がなにがきっかけでどのようにフレンチ・デカダンスを体現していく人物になっていったのでしょう。それにはパリの街路を彩るマロニエの地下茎のように暗く湿った時間と空間のなかで呼吸していかざるをえなかった時期からはじめざるをえません。

両親はロシアの「10月革命」のあおりから亡命してきたユダヤ

セルジュ・ゲンズブールSerge Gainsbourg:本名はルシアン・ギンズブルグ Lucien Ginsburg;以下、幼少年期はルシアンと表記)は、1928年4月2日、ヴァンセンヌの森の北西に位置するパリ20区にある小さなアパルトマンで生まれています。一家のもともとの姓は、「ギンズブルグ-Ginsburg」(ビート詩人のアレン・ギンズバーグの姓は、Ginsbergで、やはりロシアからのユダヤ移民でした)で、「ゲンズブール-Gainsbourg」は、ルシアン(セルジュの本名)が小学生の時、先生がよく間違って、フランス風に記したことから、ルシアンもそのまま用いるようになったといいます。
ユダヤ系ロシア人だった父ジョセフ・ギンズブルは、フランスに亡命してくる前は、黒海の北側に広がるウクライナ(首都キエフ)の第2の都会ハルキウ(ハルコフ)に住んでいました。亡命を余儀なくされたのは、ロシアで勃発した10月革命(1917年。同年ソヴィエト政権誕生)から、ウクライナで「ウクライナソビエト戦争」(独自の政権を立てたウクライナにロシア側は内戦問題として対立激化)が巻き起った余波からでした。ソビエト・ボリシェビィキ勢力がハルキウを拠点にしたため多くのユダヤ人が追い立てられたのです。
すでに結婚していたジョセフは、1919年に妻オリアを連れてトルコのイスタンブールに向かい、そこを経由してパリに向かったのです。2人にとってパリは芸術の都、自由な異郷と映っていたのです。ピアノが得意だったジョセフは、ピアニストとして生活費を稼ぎだそうと、モンマルトルやモンパルナスに点在する地下キャバレーやミュージックホールに潜り込んでいきました。腕を見込まれBGM的な演奏をまかされたり、酔っぱらいからのリクエスト、キャバレーの歌い手の伴奏をするようになっていきます。時にフランス南西部のビアリッツァや北東部にある町などで住み込みの仕事も引き受けていたようです。演奏をまかされた時は大好きなジャズを奏でていました。同じくロシア系ユダヤ人でニューヨークで生まれたガーシュインの心躍る曲もよく披露していたようです。また東欧系ユダヤ人の音楽として知られるクレズマー(東欧と中東諸国にいにしえから残る民衆のダンス曲、民衆歌を源流にしたもの)も好んで演奏していたといいます。世界情勢からみて今後、祖国には戻れないと判断した2人はフランスに帰化し市民権を取得します。

父の奏でるピアノをいつもうっとり聴いていたが、父のピアノのレッスンは嫌だった

ルシアンが生まれた頃には、家にはアップライト・ピアノが置いてあり、父が音楽を奏ではじめるとルシアンは近に寄って来て、うっとりとして聴いていたといいます。そして自分でも見よう見まねで鍵盤を叩くようになっていきました。家の中での幼い頃の遊びは、乱暴な鍵盤叩きでした。それでも性格は内気だったといいます。父は重そうな瞼や耳や鼻のかたちなど自分の身体の特徴を受けついだ幼いルシアンにピアノを教え込みだします。しかしいったんはじまると父のレッスンは厳しく、ルシアンはいつも半泣きになって練習していました。父はショパンスカルラッティを教えていたのです。くわえて音楽の理論も教え込もうとしたので、ルシアンにとってピアノ弾きは楽しさよりもつらいものになっていきました。
けれどもピアノ弾きとしての腕前はみるみる上達し、存在感の薄かった初等教育時代ではピアノの上手な男の子として知られるようになるのです。ギャバジンのレインコートを着はじめたのはこの初等教育時代からだったといいます。ところが父の仕事で転校が多く、元来の引っ込み思案の性格では学校生活にうまく溶け込むことはできませんでした(6歳の時には父の仕事の関係で、フランスの植民地となったアフリカのアルジェリアに行っている)。帰国後、父はマクシム(パリで最高のクラブの一つ)で割のいい仕事を得ることができ、シャプタール通り11番地の4階にある広いアパルトマンに暮らすようになりました。フレンチ・ジャズの牙城となるホット・クラブ・ド・パリも比較的近くにああり、10代の時、ルシアンは当地で、ギタリストのジャンゴ・ラインハルトの「ジプシー・ジャズ」を聴いています。ビリー・ホリデーを生で見たのは足繁く通うようになっていたブルー・ノートでした。

皆とはしゃぐこともできず、心はねじれるばかりの初等教育時代。無断欠席の常習犯に

初等教育時代、ルシアンはまんべんなくほとんどの課目でよい成績でした。音楽のほかにとくに作文と絵は秀でていたといいます。でも大嫌いなものがありました。それは授業でおこなわれるディベートでした。ルシアンは引っ込み思案だったこともあり、ディベートにくわわってことさら意見を言うのが大の苦手で、大嫌いだったといいます。またルシアンという女の子っぽい名前だということで、からかわれてさえない喧嘩をしたりしています。そしてじょじょに無断欠席を繰り返すようになり、ついに常習犯になっていくのです。威圧的な学校教育にはうんざりだったのです(竹の鞭がうなるなかクラス全員で九九を暗唱など)。その頃に万引きをしてつかまってもいます。
異性を意識するようになったのは8歳の時で、他の男の子よりも早くその面ではませていました。綺麗な女の子に夢中になってしまったルシアンはポカンと彼女ばかり見つめてばかりで、彼女がこちらを向けば心は薔薇色にそまったのですが、ここでも内気な性格が禍いし声をかけることもできなかったといいます。しかも当時ルシアンはクラスではウキまくっていて校庭ではうろつくばかりのことも多く、皆ではしゃぐことはまずなかったといいます。皆が大笑いしている時に取り残されないようにひとりだけ静かに微笑みを浮かべている少年。そんな同級生を「観察」ばかりしている少年。心はねじれるだけねじれる。母ゆずりの肉感的な口許は閉じられたまま。表情はますます乏しくなる。まさにカフカの少年時代のようにまるで「透明人間」になったかのように。それが後に世紀のダンディーとなる男の少年時代の姿だったのです。

画家になるぼんやりとした「夢」。モンマルトル近くにあったアパルトマン

同じユダヤ人のS.スピルバーグ少年のように内弁慶で家では王様ということもありませんでした。双子の妹リリアンヌともあまり遊ぶこともなく、心から打ち解けることはなかったといいます。この頃、じつはルシアンは、うっすらとでしたが「夢」を抱きだしていたのです。音楽家ではなく、画家になる「夢」でした。そのことは親にはいえなかったといいます。どうも幼少期に親との関係があまりよくない子供は、親の影響を受けつつも親の仕事を自分の「夢」にはしないようなのです。むしろ反感を持ち、その代わりに家の外の環境から影響を受けるケースがあります。俳優のロバート・デ・ニーロの場合、両親とも才能のある画家でしたが、デ・ニーロ少年は芝居や映画、そして役者へと関心を寄せていきました。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジはなといっても演劇と映画がある刺激的なエリアだったのです。よるべなくストリートをほっつき歩けば、必ず芝居や映画のポスターや看板が目に入ってきたはずなのです。
じつは最初に住んでいた小さなアパルトマンの部屋の壁には、マティスセザンヌルノワールヴラマンクの複製画が掛けられていました(父ジョセフは絵画への関心も深かった)。幼いルシアンはそれらの絵を毎日、目にしていたにちがいありません。そしてもう少し大きくなって学校でも家でも居心地がよくなかったルシアンは、ストリートへ歩んでいったはずです。「パリ9区」にあるアパルトマンが立つシャプタール通りを曲がればフォンテーヌ通り、そこを抜ければすぐにモンマルトルの丘に出るのです。モンマルトルといえば、家の壁に掛っていたマティスルノワールら大勢の芸術家が集った一帯としてあまりにも有名です。丘のあちこちにキャンバスを立てかけた光景がみられたことでしょう。戸外の日常的環境が、今日とは比べものにならないほど絵画は身近にありました。学校でも家でも「心の樹」が、窮屈さを感じていれば、絵画がその慰めになるのはむしろ当然の成り行きかもしれません。
ただその頃、苦労の絶えなかった両親がルシアンに就いて欲しかった職業は、医者や弁護士などエリート階級の職業だったのです。両親は皆から尊敬されるそうした職業についてしばしば子供たちに語ってきかせたといいます。そのため気持ちが内攻するルシアンは、画家への「夢」のことなど絶対に口に出して言うことはできなかったのです。

13歳でヘビースモーカーに。ナボコフの『ロリータ』を読む

12歳の時(1940年)、ヒトラーがフランスを侵略しはじめ、フランスに暮らすユダヤ人7万人を根こそぎにする計画がもちあがってきます。その動きを察知した父ジョセフは、ノルマンディーのディナールという小さな町に家族を避難させます。母オリアの実弟は実際ゲシュタポに連行されています(パリ近郊のドランシーにある強制収容所に送られた後、アウシュビッツに移送される)。ノルマンディーも安全な場所でなくなりパリに戻ります。中学校にゲシュタポが入った時、ルシアンは森に隠れています。1942年になると父はフランス中南部でピアノを演奏して再び暮らしだしています。交渉術に長けた父は書類を偽造し国内を自由に移動できたのです。翌年に母オリアとルシアンたちも合流しリモージュ市に住みはじめます。
13歳の時にはルシアンはすでにヘビースモーカーになっていました(20歳頃には強烈なジタンを1日5箱空けていた)。有名な酒癖もすでにこの年からはじまっています。過度の飲酒で意識喪失も体験しています。ただセックスに関する話だけは誇張か嘘八百でした。内気さがそう早く解消されることはありませんでしたが人見知りは克服しだしています。この頃読んだのがナボコフの『ロリータ』でした。ルシアンの妄想癖に拍車がかかっていきます。じつは両親もまたナボコフの作品を耽読していました。家の書棚に『ロリータ』があったかは不明ですが、ボードレールからランボーサルトルらを好んで読んでいたのです。
じつはアパルトマンを出て、モンマルトルの丘に向ってフォンテーヌ通りを300メートルほど行ったところにあの「ムーラン・ルージュ」があるのです。想像力が豊かなルシアンが早熟にならないわけがありません。ルシアンの「マインド・ツリー(心の樹)」の根先は、「パリ9区」やモンマルトルの丘がある「パリ18区」、その股の間にあるような「ムーラン・ルージュ」に這い、ボードレールランボーが歩いたパリのストリート、モンパルナスのジタンの紫煙の中、そして父ジョセフがピアノを弾いていた地下キャバレーやミュージックホール、ホット・クラブ・ド・パリのステージにと、それこそパリの葉脈のような裏通りの如くに時空を超えてつらなっているのです。
▶(2)に続く

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