Apple共同設立者スティーブ・ウォズニアックの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 小学校4年生の時、贈られた「電子工作キット」で実践的になり、翌年「アマチュア無線」のアイデアに衝撃を受ける


はじめに:愛称は「ウォズの魔法使い」。幼少期に知った「魔法の原理」

スティーブ・ジョブズらとともにアップルの共同設立者となったスティーブ・ウォズニアックをとりあげます。2人はウォズが21歳の時(5歳年下のS.ジョブズはなんと16歳の時)、ヒューレット・パッカードの夏期インターシップで出会い、無料で長距離電話をかけることができる装置(バークレー・ブルー/原型は「ブルー・ボックス」)をつくりだしたり、アタリの「ブロックくずし」の回路の部品減らしをしてます。その数年後、コンピュータ・キットや8ビットCPUのの存在に刺激されたウォズニアックはエンジニアの能力を全開させ、よりシンプルな回路をもったパーソナル・コンピュータを1975年からわずか半年間で製造。それが1976年に登場し、世界をアッと言わしめた「アップル・コンピューター1(Apple 1)」でした。「Apple 2」もほぼ独力で開発するなど、太っちょのウォズニアックは、スティーブ・ジョブズとはまるで正反対の性格を親しまれ、また悪戯好きでもあり皆から「ウォズ」の愛称で呼ばれるようになっていきます。
天才的なコンピュータ・エンジアニは、どのように「ウォズの魔法使い」とも呼ばれる存在にようになっていったのでしょうか。最初から「魔法使い」だったわけではありません。まるで魔法のようにみえる「電気」や「光」のことその原理など、他の子供たちと同様まったく知らなかった幼少期に、その好奇心を満たしてくれる存在がいたのです。ウォズニアック少年は、小さな頃に、そうした「魔法」の原理を知ることができたのでした。ウォズニアックの「マインド・ツリー(心の樹)」は、まさに「魔法」の原理を知ったことで、驚くべき成長をとげていったのです。それではウォズニアック少年がどのように「魔法」の原理を知るようになったのか、一緒に訪ねてみましょう。場所はアメリカの西海岸です。

父に絶対に質問してはならなかったこと。家の中の「秘密」

ステファン・ゲイリー・ウォズニアック(Stephen Gary Wozniak:通称スティーブ・ウォズニアック)は、1950年8月11日、アメリカ・カリフォルニア州のサンノゼに生まれています。サンフランシスコ湾の南側に広がるサンノゼは、シリコン・バレーの首都(Capital of Silicon Valley)として知られ、IT企業が数多く集積している街です。
カリフォルニアより北部のワシントン州出身の父フランシス・ジェイコブ・ウォズニアック(通称ジェリー)は、優秀なエンジニアでした。この父がスティーブ・ウォズニアックの「科学的知性」と「創造性」の実が生る「マインド・ツリー(心の樹)」の急速な成長を促す役割を担うことになります。つまり後にウォズニアックが操るようになった「魔法」の沃土となるわけです。
ティーブの少年期には、父には「科学」や「電気」のことなどなんでも聞くことができたといいます。が、一つだけ聞いてはいけないことがありました。それは父の仕事のことでした。父の仕事のことは、家の中でも「秘密」にされていたのです。1950年代後半からロッキード社で働くようになったこと、そこでミサイルを開発していることだけは知らされていましたが、それ以上のことを聞くことは家族でも禁じられていたのです。その後も詳しく聞く機会もないまま亡くなっているためスティーブは自伝(『アップルを創った怪物』ダイヤモンド社)でも、父の仕事場のことをどうも間違って記憶しているようです。自伝では、スティーブが物心つく4歳頃には、ロサンジェルスのエレクトロニック・データ・システムズ社で働いていたと記していますが、エレクトロニック・データ・システムズ社の創業は1962年で、スティーブが4歳の頃にはまだ存在していません。ちなみにエレクトロニック・データ・システムズ社は設立当初からアウトソーシング・サービスをスタートさせその先駆者的企業だといわれています。創業者は、大統領選(1992年と1996年)に立候補したあのロス・ペロー(元海軍大尉)で、後にスティーブ・ジョブスが創業したNeXTに出資する人物です(孫正義との関係から大統領候補になるまではソフトバンクと提携関係)。

週末父は息子を職場に連れて行った。「電気」のことなど図を描いて原理から説明してくれた

とにかく子供の頃の記憶は、生まれ故郷のベイエリアにあるサンノゼではなくロザンジェルスで、父はまだいろんな会社に勤めていたようです。この頃は、週末になると父はスティーブをちょくちょく仕事場に連れて行っていっています。スティーブは仕事場にあるいろんな電子部品で遊んでいたといいます。スティーブの記憶では、その頃父はモニター上のオシロスコープの波形を安定化させる作業をしていたといいます。父が会社で会社の仲間だけでなくその家族の集まる前で、開発した装置(ボール盤)のデモンストレーションをしたのもこの頃のようです。
まだ小さなスティーブが、父に「科学」や「電気」のことろいろいろ質問するようになった契機は、父の職場への興味や家の中に転がっていた電子部品に対する素朴な疑問からでした。「これは何?」とスティーブは父を質問ぜめにします。それは抵抗器であったりしても、原子や電子、中性子、陽子のことに話はおよび、物質の根源や原理、そしてそれらがどう物質を構成しているか、電線の中を電子がどうのように流れるか、といった「魔法の原理」を何日にも渡り、時に何週間もかけてわかりやすい図を描いてまるでキャッチボールをするように教えてくれたのです。それからようやく「抵抗」についても説明してくれるのです。これは後の「魔法」の構築に有効なものとなっていきます。また電球が「光る」仕組みを知りたくなった時も(8歳頃)、父は「光」のことから説明してくれました。そしてトーマス・エジソンがどうやって電球を発明したのかも説明してくれたのです。

6歳で鉱石ラジオをつくる。父との話の接点はいつも「エレクトロニクス」だった

r:#0000CC;">6歳の時、スティーブは、父に教えられながらも初めて鉱石ラジオをつくっています(端を削った1セント銅貨を電線をつなぎ、その銅貨に別のイヤホーンの電線を触れさせる)。すると目に見えないどこかからか小さな声が聴こえてきたのです。スティーブにとってはまさに「魔法」そのものでした。友達に鉱石ラジオのことを話してもチンプンカンプンで誰も何も分かりません。鉱石ラジオづくりは同世代の子が誰も分からないことにチャレンジしてみようという気持ちに初めてなったきっかけとなったのです。
ティーブと父が「交感」すること、盛り上がる内容はいつも「エレクトロニクス」だったといいます。父の話を聞き、質問し、理解し、やり方を見て、一緒に作業するのです。父もスティーブの反応と吸収力が早いので、じょじょに高度なことや、理解に必要な「数学」(「魔法の基礎と定理」)のことも説明するようになっていったようです。結果、少年スティーブが興味の向くまま家で覚えていったのは、「エンジニアリング」のことだったのです。「エンジニアリング」は、数学とエレクトロニクスを組み合わせたものなのです。そしてこの「エンジニアリング」こそが、後に「アップル・コンピュータ」をつくりだす「魔法」の杖だったのです。
ただこの頃はまだ将来エンジニアになろうとは、イメージすることはなかったといいます。将来何をやろう、何になろうと、という「夢」などまだ持ち得ない年頃です。無論、子供によっては「夢」につながっていく知識や感性を幼いながらに蓄積したり体験したりしている時期にあたります。スティーブ・ウォズニアックのケースはまさにその過程がよくあらわれているといえます。そしてそれが彼の大きな「マインド・ツリー(心の樹)」の樹幹になっていくことを目の当たりにするはずです。
少年少女時代の「夢」を実現してしまうような子供たちの多くのケースでは、おそらく「夢」を持つようになる前(その「夢」すらも、スポーツなど身体を使う仕事以外は、一直線にということはほとんどなく、つねに「ゆれ」動き、他の関心や要素と絡まり合い、時代状況や生育環境に影響されながら「変容」していく)に、小さな「マインド・ツリー」が身体のうちに必ず芽吹いているはずなのです。そうした「マインド・ツリー」にしっかりつながっていない「夢」はつねに「徒(あだ)夢」であり、またそうなる運命にあるのです。「夢」の実現とは、「マインド・ツリー(心の樹)」に咲く、大きな「実」であり大輪の「花」なのです。
よく最近の子供には「夢」がない、「夢」が失われたといわれますが、簡単に言えば、「夢」をえがくようになる少年少女期、青年期以前に、「マインド・ツリー(心の樹)」が充分に生育していないために生じる事態なのです。そしてこの「夢」とは、その国の社会経済システムと深くかかわり、近代社会が成立し、「イエ」ではなく「個人」を基本とする社会が生まれでて初めて、個々人の心のうちにひろく抱かれるものなのです。以前あるテレビ番組でネパールの子供たちが「夢」について質問された時、誰も応えることができなかったシーンが印象的でした。つまり「夢」をもつことの”意味”そのことじたいが分からないため応えられなかったのです。日本もかつては「下駄屋の息子は下駄屋」で、下駄屋の息子が工業大学に行き、広告会社に入社し、そうかと思えば写真家になる(荒木経惟の場合)ことなど考えられなかったわけです(つねに例外はありましたが)。しかしネパールの子供たちは「夢」というものを知らなくてもネパールという土と空の下で成長していきます。それは子供たちの”魂”そのものと(人と自然)環境との相互作用が「心の樹」の”養分”になっているからです。この「マインド・ツリー(心の樹)」は、決して過剰な幼児教育を是とするものではありません。子供たちがもつそれぞれの”魂”と(人と自然)環境との豊かな相互作用こそが重要であり、問題は成長する身体と同様、その”魂”を虐待し無視することの悪意であり鈍感さなのです。

小学校4年生の時、贈られた「電子工作キット」で実践的になる

さて、一方の母(専業主婦。ベイエリアに住む子を持つ母のほとんどはこの当時専業主婦として家を守る役割を担っていた)も、スティーブが小学校3年生の時、学校の計算カードの授業のための掛け算の練習によくつきあったりしています。そのかいもあって担当の先生も女の子たちよりもデキのいいスティーブを賞讃し、自分は算数が得意なんだと、初めておもったといいます。4年生の時にも、担任の先生が科学工作のことで、「科学をよく知っている頭の良い子だ」といつも褒めてくれました。スティーブはさらにもっと勉強してやろうという気持ちになっていったのです。そして「もっと勉強してやろう」「つねに一番になろう」と強くおもうようになり、勉強にも励むようになったといいます。
小学校4年生の時、「科学」が得意になったのにはもう一つ契機がありました。クリスマス・プレゼントにスイッチや電線、電球などがいっぱい詰まっている「電子工作キット」がそれでした。小さな「魔法」を自分で工作することができるようになったのです。すでに父から指南を受けていた「電気」や「科学」に加えて、その実際を実験できる「電子工作(魔法)キット」のお陰で、近所の電気少年の仲間内でスティーブが一番詳しくなっていったのでした。
7歳の時(小学校2年)、一家は父の転職でロサンジェルスから再び生まれ故郷のベイエリアに引っ越しています。シリコン・バレーのほぼ中央に位置するサンタクララの近くのサニーベールという場所でした。その近隣は勃興するIT企業のエンジニアたちが多く住むようになり、スティーブの学校の友達の多くが「電気少年」だったのです(電気少年仲間が11、2人いた)。「電気少年」たちの溜まり場は、近くにあった電気屋でした。「電子工作キット」効果は抜群で、少年スティーブは仲間の家6軒を結ぶインターホンを設計するまでになっています。

少年科学者が主人公の冒険小説にハマる。小学校5年生、「アマチュア無線」のアイデアに衝撃を受ける

またこの頃にはスティーブは、夜更かしして毎晩のように本を読んでいたといいます。一番熱心になったのは少年向け冒険小説「トム・スイフト・ジュニア」のシリーズでした。10代でありながら自分の会社をもち、ラボでいろんなものをつくる科学者兼エンジニアでした。地球に危機が迫ると潜水艦や宇宙船、プラズマフィールドや何でも動かす万能物質をつくりだす少年に、スティーブは心から憧れるようになります。母が部屋の電気を消す夜9時以降も窓から射し込む街灯の明かりで続きを読んでいたといいます。
小学校5年生の時に読んだ『真夜中のSOS』という本が、スティーブの心をさらにときめかせます。登場する主人公たちが皆がアマチュア無線家でした。別の町や遠くの州にいる人と話をすることができる「アイデア」にスティーブは驚きます。しかも車や電車や飛行機で行くよりも格段の安さで。少年スティーブは本の付録に記されていた「アマチュア無線家になる方法」を実践していくのです。じつはこの時の驚きこそ、後のタダで長距離電話ができるフリーキング装置「バークレーブルー(ブルーボックスのウォズ版)」をスティーブ・ジョブズとつくったり(21歳の時。スティーブ・ジョブズはまだ16歳)、インターネットの原型となったタイムシェアリングシステム「アーパネット」に向かわせることになったといわれています。まだこの当時、さすがの他の電気少年たちもこの「アイデア」にピンとこなかったといいます。▶(2)に続く


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