マーク・ボランの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)-マンガやお伽噺の”登場人物”になりきって夢中になる 


世界が大きく変転した1968年、彗星のようにあらわれ、パンク・ムーブメントが頂点に達っした1977年、30歳目前にして彗星のように逝ってしまったマーク・ボラングラム・ロックを切り開いた「T-Rex」のヴォーカルでギタリストだったマーク・ボラン自身は、自分のつくりだす音楽を「コズミック・ロック(Cosmic Rock)」と呼んでいました。それはマーク一流の「想像力」と「空想癖」が豊かに入り交じった「ネバーランド」に流れる音楽でした。デビュー・アルバム「ティラノザウルス・レックス登場」(1968年)は、現実の若者ではなく、『ナルニア国物語』の中の住人に捧げられたものでした。パリで5カ月間、魔法使いと一緒に住み、魔法をマスターしたという話も、「ネバーランド」ならではの物語です。
1960年初頭のモッズ・ムーブメントを先取りするほどファッションやメイクに敏感だったのも、幼い頃からマークが空想してつくりあげた「ネバーランド」の”スター”だったからでした。その世界に住み、そちらこそリアルな世界となれば、ボブ・ディランの詩も”超現実的な詩”と映り、<魔法使い>でもある自分が、皆に歌で魔法をかけることの方が、”現実的”だとおもえたにちがいありません。とにかくマークは奇々怪々です。マーク・ボランとはいったいどんな地球人だったのか、それとも本当に”宇宙からの使者(あるいは魔法使い)”だったのか、一緒にマーク・ボランの「マインド・ツリー(心の樹)」をのぞいてみましょう。

4代が暮らしたイースト・ロンドン。ユダヤ人コミュニティで育つ

マーク・ボラン(本名:マーク・フェルド Mark Feld)は、1947年9月30日、イースト・ロンドンのハックニー病院で誕生し ます。父シメオン・フェルド(通称シド)はトラック運転手でした。マーク(以降、ファーストネームで略記)が生まれ育ったのはイースト・ロンドンに位置するハックネイ。そしてイースト・ロンドンは、フェルド一家4代が住み暮らした場所でした。最初にこの地にやって来たのはマークの曾祖父で、ロシアで起こった「ポグロムユダヤ人迫害)」を逃れてやって来ています。流入してきたユダヤ人たちは寄り集まりコミュニティをつくり、マークの曾祖父もそのコミュニティのなかで暮らしていたといわれています。イースト・ロンドンにあるマークの生家は、4路線の地下鉄が乗り入れるリヴァプール・ストリート駅から5つ目のレクトリー・ロード駅近くにあります。この駅周辺は、マークが生まれ育った頃とはまったく環境が変わり、ロンドン近郊でおこなわれた多くの再開発計画に組み込まれなかったため、都市型の荒廃にみまわれているようです。

両親、貧困の中で新婚生活。子供は居間が寝室代わり

第二次世界大戦が終焉した年、1945年に父シドは、フィリスと結婚しています。2人が新婚生活をスタートさせたのは、ヴィクトリア朝後期に建てられたネズミが出没するほどの古いアパートメント(ゴシック・スタイルの飾りがついていた)、給湯設備もそなわっていませんでした。あまりに狭かったため、生まれた子供たちは居間を寝室代わりにしていました。後のロックスター、マーク・ボランも当時のことが深く記憶されているはずです。イースト・ロンドンにやって来たユダヤ人たちは、もともと貧困の中に暮らしていた者が多く、ほとんどが身ひとつで流れ込んできていました。フェルド家のように曾祖父から父シドまで2世代たっても貧困のままだったユダヤ人は数多く存在していました(当時、ナチスホロコーストもあれば、ナチスによるロンドン空襲もあった)。マーク・ボランポーランド系のロシア人の血を引くユダヤ人だったのです。

マンガやお伽噺、ラジオの放送劇が大好きだった。”登場人物”になりきって夢中になる

マークは後年、自身、労働者階級出身だったとよく語っていました。しばしばロックンローラーは、そのワイルドさを強調するためあえて強調したり自分の出身階級を偽ったりするものですが、マークの場合、労働者階級の中でも下層の方だったかもしれませんんが、50年代になるとイギリスの経済ももちなおしフェルド一家も戦後の惨めさからは抜け出していたようです。
5歳の時(1952年)、マークはノース・ロンドンにある古いノースウォルド・プライマリー・スクール(初等学校)に入学しています。石造りの門がある幾多の歴史をとおり抜けてきた古い学校でした。マークは学校生活にもすぐにとけこみ、友達にも人気のある陽気で愉快な少年だったといいます。マークは頭は良かったのですが、成績に反映されることはありませんでした。母の印象もマークは兄とちがって普通の子供じゃないとこの頃には強く確信を抱いていたそうです。音楽好きが高じるとますます成績は悪化していきましたが、母フィリスはマークを理解していました。
兄ハリーによれば、マークはマンガやお伽噺、ラジオの放送劇など、「想像力」を刺激するものが大好きで、本であれ劇であれ(後に映画も)、その中の登場人物になりきって遊ぶのに夢中になっていたそうです。大戦前後はとくに娯楽にことかくのがふつうだった時代、新たに目にするもの耳にするものはほとんどの子供にとって好奇の対象だったとおもわれますが、マークの場合は、その中の”登場人物”になりきって夢中になって遊びつづけることができる、という際立った感性があったようです。このことは、後のマーク・ボランの「マインド・ツリー(心の樹)」を形づくる感性や人間のタイプ=「種(しゅ)」のようなものがすでにこの時期にあらわれていたととらえることも可能かもしれません。

モンスタームービー、西部劇とSFがお気に入りだった

そうしたマークの資質に、感性を刺激する「音楽」と想像力を刺激する「映画」が、くわわります。小学生の半ば頃には(1950年代半ば)、マークは「猿人ジョー・ヤング」や怪奇映画の「オペラの怪人」など、モンスタームービーに登場するキャラクターが大好きになります。全般的には、B級感覚の西部劇とSFがお気に入りでした。すでに類い稀な「想像力」を持っていたマークにとって、「自分はスターになるのだ」ということもおそらくマークの旺盛な「想像力」が生み出した所産だったことでしょう。飛び抜けた「感性」だけでは、地元では歌が大好きで演奏がうまい少年だけで終わってしまったかもしれません。
ちょっと不思議な感覚は、マークが後に「僕は生まれた時から大きく眼を見開き、あらゆることに耳を傾け、読めるものは全部読んだよ。僕は誰からも影響を受けなかった」と語ったり、「自由はお金によってのみ手に入れられるものだと感じていた。突然、雨が降ってきてバスに乗りたくなってもお金がなけりゃダメなのさ。自由とお金はいつも一緒にあるものなのさ」というマークのお金に対する言葉、それに後に大物マネージャーに突然電話をかけ「僕は、過去にないくらいにビッグなロック・スターになるから、有能なマネージャーが必要なんだ」という売り込みの言葉は、単なる旺盛な「想像力」とも言えない感覚です。「僕は30歳の誕生日を迎える前に死ぬと思います」という予感も併せて感じると、まるで未来から自分を眺めているような気さえしてきます。自身が歌った「銀河系よりの使者」だったかのように。マークには自身の「マインド・ツリー(心の樹)」が見えていたというのでしょうか。一つだけ確実にわかることは、バンド名につけた「ティラノザウルス・レックス」は、未来から眺めれば、「絶滅」したことがわかっている、ということです。▶(2)に続く