ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 先祖は南米諸国の独立にかかわった偉人・軍人たち


はじめに

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに南米の軍人の末裔として生まれ落ちたボルヘス少年が、<迷宮>をうたった世界的大作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスとなっていく過程は極めて興味深いものがあります。ボルヘスは少年期に、父の眼の治療のために訪れていたヨーロッパ滞在(8年にわたった)を終え帰郷した時、故郷アルゼンチンの何の変哲もない街角が、<迷宮>への入口となることを「発見」します。その<迷宮>には、円環的時間が流れ、不死の時間形式や有限を無限にするからくりがあることに気づいていきます。そしてボルヘスが至ったのは、歴史上の人物と虚構の人物(歴史と伝説すらも)を混交させ<現実と夢を交錯する方法>だったのです。
ボルヘスのその人の「マインド・ツリー(心の樹)」は、「有限」でありますが、それは「無限」であります。またブエノスアイレスに生きたその「心の樹」は、「現実」にありましたが、「夢」でもありました。宇宙の歴史のごとく、周期的に回帰する「魂の樹」でもありました。ボルヘスは自身の「魂の樹」を探訪するため、ほとんどが軍人だった眷属(けんぞく)たちや、街のガウチョたち、インディオたちの物語に分けいっていきました。そして生まれて半世紀余たった頃、ボルヘスの名が世界に知れ渡った頃には、自身の「視力」は衰え、見えなくなっていたのです。「魂の眼」で世界と宇宙を見はじめたボルヘスの「心の樹」を一緒に感じてみましょう。ボルヘスの「心の樹」を知った後、『永遠の歴史』『不死の人』『伝奇集』などボルヘスの著作に描き込まれた、見えないものが、同じく私たちの「心の眼」によって少しづつ「見えてくる」ようになってくるにちがいありません。

先祖は南米諸国の独立にかかわった偉人・軍人たち

ボルヘス家は、南アメリカの「迷宮」のような歴史そのものがあらわれているといっても過言ではありません。ボルヘスの母レオノル・アセベドの祖父イシドロ・スアレスボルヘス家の先祖の中で最も勇敢で偉大な戦士で、1800年前後の南米の諸国(ペルー、チリ、ウルグアイ)の独立をかけた戦いにすべて参加しているほどです。ペルーとコロンビアに属する騎兵隊を指揮し、歴史に残る「ペルーの戦い」を仕掛け、独立を呼び込んだ人物でした。まさに後のチェ・ゲバラを彷彿とさせるような人物です。またアルゼンチン国内では独裁者ロサスに対抗する中央集権派でした(なんとイシドロ・スアレスはロサスのまた従兄弟でした)。このイシドロ・スアレスウルグアイに住み、その地の土地の貴族の娘と結婚します。その娘の親戚にはアルゼンチンを解放したサン・マルティン将軍とともに戦い、後にブエノスアイレスの知事になったミゲル・ソレルという軍人がいました。それ以外にも母の親族には各州合同会議の議長を務めアルゼンチン連邦の独立を宣言したフランシスコ・デ・ラプリーダもいます。まさにボルヘス家の先祖一族で、アルゼンチンの19世紀を語れるほどなのです。
またボルヘスの祖父のフランシスコ・ボルヘス大佐は、ブエノスアイレス州の辺境守備隊の総司令官でした。そのボルヘス大佐がエントレオーレス州の首都パラナが、ガウチョの義勇兵の反乱軍に包囲された時、町の連隊を指揮している様子を屋上から目撃していたのが、ボルヘスの祖母フランシス・ハズラムでした。2人は駆けつけた政府の救護隊を囲む晩餐会で出会い、恋に落ちたといいます。祖父ボルヘスはアルゼンチンで初めてレミントン・ライフル銃が用いられた1874年の内乱で、その銃の弾を受けて41歳で死去しています。
晩餐会で祖父と踊った祖母フランシス・ハズラムはイングランド中部ノーザンブリア人が根を張ったスタッフォードシャーに生まれています。その祖母がアルゼンチンに行くきっかけになったのは鉄道馬車の誕生でした。アルゼンチンに初めて鉄道馬車をもたらしたのは、祖母の姉の夫でユダヤ系イタリア人の技師ホルヘ・スワレスでした(後に鉄道馬車事業は失敗)。その結果、姉夫婦はアルゼンチンに定住するようになり、イギリスにいた妹のフランシスを呼んだのでした。鉄道や船は、多くの人々を定住から移住へと誘ったのです。
ボルヘスの父ホルヘ・ギリュルモ・ボルヘスが得意とした英語は、イギリスからやって来た祖母フランシスから受け継がれたものでした。弁護士だった父が、外国語教師養成所の師範学校に勤め(心理学の教師)、ウィリアム・ジェイムズを英語で講義していたのもその家系の反映でした。また祖母は90歳で亡くなるまで大変な読書家で知られ、アーノルド・ベネットやゴールズワージ、H.G.ウェルズが好みだったようです。ボルヘスはこの読書家の祖母フランシスから大きな影響を受けています。インディオの酋長の話や辺境地域の出来事は、後年「戦士と囚われ女の物語」に描かれました。

「ならず者」が跋扈するパレルモの記憶

南米の大作家ボルヘス(Jorge Luis Borges)は、突然、アルゼンチンに産声をあげたわけでなく、南米のアルゼンチン辺りに”根づいて”いった家系の一房から、ぷるりと実がなった感じとも言えます。1899年8月24日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの中心部にある母方の(父方ではなく)祖父の小さな家に、その実であるホルヘ・ルイス・ボルヘスは生まれ落ちました。ブエノスアイレスの北方には広大な原っぱがひろがっていましたが、生後まもなくボルヘスはそのなかのパレルモ(現在は緑多い住宅地)に移り住んでいます。このパレルモこそが、後にボルヘスの短篇のあちこちに登場する「ならず者」が跋扈(ばっこ)する町、ナイフさばきの達人や礼儀正しいが貧しい者が暮らす町でした。父は息子に間もなく消えてなくなるので軍服や兵士の姿、旗や僧侶をしっかり目に焼き付けておきなさいと諭(さと)したといいますが、多くは後々まで姿を変えて残りました(消えてしまったのは、ボルヘスが失明したためでしたが、記憶の中に存在するようになります)。また隣人には最初のアルゼンチンの詩人エバリスト・カリエゴが住んでいたのは偶然なのでしょうか。パレルモの卑俗さは、詩人カリエゴに、そして少年ボルヘスに、文学のエキスと、文学の世界への入口を与えます。

文学は、弁護士で心理学教師だった父の影響

文学の世界へのもう一つの入口は、父でした。父はシェリー、キーツやスウィンバーンに心酔する一方で、東方情緒の濃い文学、たとえばエドワード・ウィリアム・レーン(英国の東洋学者で『千夜一夜物語』の翻訳者)やバートンらの著作も読んでいました。ボルヘスに「言葉は伝達の手段だけでなく、魔力を持つ記号であり音楽である」と詩の力を啓示したのも父でした。後にボルヘスが英語で詩の朗読をすると母はその声が父にそっくりだと証言しています。胎内にいた頃に、父が声を出して詩を朗読していたはずです。息子ボルヘスへの影響は、1899年8月24日に誕生する前からすでにあったのです。
また父は心理学の教師でもあり、バークリーやヒューム、ウィリアム・ジェイムズの著作などを通じて心理学や哲学・形而上学の手ほどきをししてくれています。観念論やゼノンの逆説も父から習っています。この父が、ボルヘス一族を彩る軍人の家系を押しとどめたのでした。父の兄まで海軍の将校で、一族は、父は例外として、再びボルヘス少年も軍人になるだろうとおもっていたようです。
ところがボルヘス少年は虚弱体質でした。幼くして近眼を発症、眼鏡をかけ家の中にこもりがちで、妹と一緒に「キロス君」や「風車君」といった空想上の仲間をつくりあげて遊んでいる風で、軍人には向かないことは誰の目にもあきらかだったようです。ボルヘス自身も幼くして自分は軍人にはならないだろうという感覚があったそうです。けれども家の中でじっとしている”本の虫”であることに顔向けができない忸怩たる思いも感じていました。誕生日に贈られる沢山のプレゼントは、ボルヘス少年を気恥ずかしさでいっぱいにしたそうです。しかもその気恥ずかしさは30歳過ぎても続き、自分が誕生日に祝ってもらうような価値のある人間だとは思えず逃げ出したくなったといいます。

母から受け継いだ、人に対する寛容や人の長所を見いだすこと

父から英語を学んでいた母レオノルは、次第に英語の本に親しみ原書で読むようになっていました。後にホーソンメルヴィルヴァージニア・ウルフ、フォークナーの短編、ハーバート・リードの美術論などを翻訳しています。父の死後には、ウィリアム・サロイアンの『人間喜劇』を翻訳し表彰されるほどの翻訳家になっています。ボルヘスは「文学生活を密かに効果的に育んだのは実は母だった」とも述懐している。ボルヘスは母レオノルから文学面以上に、人に対する寛容や人の長所を見いだすこと、良き人付き合いの術を受け継いだといいます。

数千冊の本があった父の書棚と、父方の家系の文学的伝統

しかしボルヘス家の家系は、実際には軍人ばかりだったわけではなく、ボルヘスもそれほど肩身を狭く感じる必要もなかったようにおもう。父がそうだったように、父方の家系にはたっぷり文学的伝統があったのです。父の大叔父ラフィヌールは、アルゼンチン最初の詩人の一人でした。父の母方の祖父はアルゼンチン初の英字新聞「サザン・クロス(南十字星)」のエディターでした(この人物エドワード・ハズラムは当時の革新的な眼科手術を受け医学誌に掲載されたが、彼の眼の疾病は遺伝性のもので息子、そして孫のボルヘスにまで遺伝した)。また父自身も読書の達人だけでなく、アルゼンチンのエントレリーオス地方の歴史を扱った小説『首領』やソネット集を書いて出版しています。フィッツジェラルドの『オマル・ハイヤーム』は翻訳しています。
父の書棚は、まさに父方の家系の文学的伝統で埋め尽くされていました。大きな部屋全体にガラス張りの棚が全面に置かれ、少なくとも5000〜6000冊もの本が隙もなくつまっていました。19世紀初頭、ブエノスアイレスのどんな本屋でもなかなかお目にかけない本棚だったはずです。ボルヘス自身、人生で最も重要だったのは、「父の倉庫」と答えています。ボルヘス少年が「父の倉庫」から取り出して最初に読んだ本はマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』でした。2冊目もマーク・トウェインの『へこたれるもんか』だったといいます。ウェルズの『月世界旅行』やスティーブンソンの『宝島』あたりがそれに続き、エドガー・アラン・ポールイス・キャロル、グリム『童話集』、ディケンズロングフェロー撰集、『ドン・キホーテ』、『千夜一夜物語』へとなだれこんでいきました。ボルヘス少年にとってそれはまさに「知の狩猟」ともいえるものでした。ちなみに多くは英語の原書で読み、『ドン・キホーテ』はスペイン語で読んでいたといいます。▶(2)に続く