サム・ペキンパーの「Mind Tree」(2)-「乗馬」と「音楽」がペキンパー一家の伝統。内向的な性格から喧嘩っ早い性格に


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「乗馬」と「音楽」がペキンパー一家の伝統だった

▶(<ペキンパー・マウンテン>の麓にひろがる大農場「エンジェル農場」で、サムは兄デニーと一緒にカウボーイごっこをして遊びまくりました。ペキンパー一家は誰もが「馬」に乗れ、祖父デンヴァー・チャーチは、兄デニーとサムに乗馬を教え込んでいます(しかしロデオショーに出場した時、サムはそれがいかに難しいものか肌身で理解します。つまり乗馬のセンスはあまりなかったわけです)。祖父は乗馬だけでなく「銃」を敬う気持ちも教え込みます。それらは牧場の牛飼いの仕事の必須でもあったのです。
またペキンパー家の大人たちは、一家の伝統にならって「音楽」も子供たちに親しませました。子供も皆、何らかの楽器を習わなくてはなりません。サムは最初ピアノを習いましたが向いてなかったのかトランペットに転向。結局、兄ともども音楽的な才能が無いことがはっきりし、それが最後となりペキンパー家の音楽への情熱は次第に冷めていったようです。一家から音楽家を輩出しようという夢が一族にはあったようです。

喧嘩っぱやい性格になり、軍人学校にほうりこまれる

かなり痩せてガリガリ(体重は50キロ代)だったサムでしたが、『聖書』を日常的に読む家庭環境で育ったため、学校に上がる前から読書の習慣が身についていました。『聖書』は最初から最後まで何度も読んでいて、とくに「審判の書」や「ソロモンの歌」は部分的にすべて暗記していました。読書はエドガー・ライス・バローズメルヴィルの『白鯨』まで幅広く読書していました。ロデオや音楽がだめでも、サムはきっと法律の道に向っていってくれると両親はおもったにちがいありません。しかしいつも読書ばかりしていて、内向的なサムを案じ、父デビッドはもっと広い生の世界に触れさせるように、サムを連れ出しては狩猟の手ほどきをしばしばしています。
サムは『聖書』を学び、読書の習慣もあり、父や祖父たちからの薫陶で野外生活で必要なことは身につけたにもかからわず、学校ではどちらかといえば落ち着きのない生徒になっていきました。学校では勉強もでき、積極的で活動的な少年だったのですが、負けず嫌いでエネルギーがありあまり過ぎたのか、学校でフットボール部に所属し、校外では乱痴気騒ぎに明け暮れるようになります。両親はサムを別の高校に転校させています。転校してもサムの喧嘩っぱやい性格は変わらず結局フレズノ高校に戻されます。業を煮やした両親はサムの人生に軌道修正を施そうと、高校時代の最後の一年間(ハイスクール4年生)、サムを軍人学校にほりこみます。サンフランシスコ北部にあるサン・ラファエル・ミリタリー・アカデミーでもサムは、勉強にある程度は集中するようになったものの、たった一年の間に、その軍人学校の歴史上最多の罰点を獲てしまうほどでした。

ペキンパー家では父は「ボス」で、「ボス」と呼んでいた

そんなサムにとっても、ペキンパー家では父は「ボス」でした。兄弟が長じてからも父は厳しく子供に接し、少しでも道を踏み外したことをしでかすと大目玉を食らったといいます。兄もサムも、父のことを敬意と愛情をこめ「ボス」と呼んでいました。サムは「ボス」から「法」について学んでいます。「ボス」は法を、罰するためのものではなく、教え諭すためのものだと考えていました。少年犯罪をいかに減らすかに心を砕き、投獄するのをよしとしませんでした。16歳の時、サムはある強姦裁判を傍聴させられます。一つの事件でもいかに込み入ったものであるかということ、真実を明らかにして秩序を守るとはどういうことかを父は自分の仕事を通して教えました。また、欲しいものは自分の手でつかめという信念の持ち主で、その気持ちで考え行動していればある日突然素晴らしいことが起こるものなのだと。
父は人道的な弁護士として地元で名がとおっている人物で、30年代の不況時に、支払いができない人は現金の代わりに牛乳や洗濯で支払いを済ませたといいます。映画「昼下がりの決闘」に登場する『聖書』の引用が口癖の老保安官に、サムの父の面影が投影されているといわれています。
兄が大学の法学部を卒業し、フレズノの地方検事事務所ではたらき始めると、家庭内や夕食の席でも法律に関することが話題に上ることが多くなりました。サムはそうした話から、真実がいかに曖昧模糊とし不確かなものであるあるかを吸収していきます。判事と弁護士のいる家庭で育つということは、「単純な真実」というものはこの世に存在しないということを知る、ということなのです。

18歳の時、海兵隊に入隊。幹部候補生学校

どの学校でも手を焼くほどの問題児だったサムが、道を踏み外すことなくすすめたのは、「ボス」や家族の教えや存在でした。軍人学校卒業後、18歳の時、海兵隊に入隊(1943年)。当時、近くに大学がある場合、軍務の妨げにならない限りは適性のある海兵隊員はそこで大学の授業を受けることができるという戦時特権を利用し、サムはアリゾナ州立大学とルイジアナ州立大学教育学部で幾つもの授業を受講しています(最終的には数学か工学で学位が取れるところまでに)。つづいて軍事適性テストで好成績を修め、軍人学校を卒業している経歴がものをいい、ノース・カロライナ州キャンプ・ルジューンの幹部候補生学校に行きます。ところがニューヨークの空軍情報局にいた兄と休暇で飲み交わし、キャンプ・ルジューンに帰る列車に乗り遅れ一発で幹部候補生学校を落第してしまいます。サムの同学年度の卒業生は7割近くが戦死したので、もし列車に乗り遅れなければ、『ワイルド・バンチ』などの名作はこの世に生まれなかったかもしれません。

サムが人生のなかで「最も長い数秒間」として記憶される事件は、軍隊で派遣された中国で起きました。サムは学校を落第しましたが、1945年夏、太平洋戦線の中国に赴任します。8月に広島と長崎に原爆が落とされ戦闘に加わることのないまま終戦を迎えたのですが、軍用列車に乗車中、共産党員による攻撃を受けた時、荷役作業員(クーリー)が弾に当たって死ぬのを見ました。意外やサムにとって忘れらない瞬間は米国西部でなく大戦中の中国だったのです。また派遣先の北京にいる間、中国語を覚え禅にも関心をもつようになります。アウトローと西部劇の印象ばかりが強いサムですが、20歳の頃は東洋の田舎の風景や暮らし方、それに子供たちや女性たちにすっかり魅了され、ある中国人女性と結婚したくて除隊を願い出てすらいます(海兵隊から却下された)。

終戦後、大学で知り合った彼女の影響から「演劇」に興味が向くようになる、そして「演出」へ向う

太平洋戦争が終結した翌年、ペキンパー21歳の時(1946年)、地元に戻りフレズノ大学に入学します。キャンパスでマリー・セランドという女性と知り合い打ち解けます。マリーは演劇を専攻していて、女優志望でした。翌年2人は学生結婚しています。ペキンパーはこのマリーの影響で「演劇」に興味をもつようになっていきます。少年時代には内向的な文学少年だったのでその素養は”心根”に準備されていたにちがいありません。ハイスクールでも一時、舞台で役をもらって演じたことがったようです。また中国に派遣され、かつての級友たちの多くが戦死し、世界を見る心眼に大きな変化があったにちがいありません。
そして演劇に関心が深まるにつれ、「演出」が面白くなっていきます。サムの「マインド・イメージ」が一気にひろがりをみせます。まさに魂が目覚めたという感じだったようです。後のペキンパーの映画を知っているわたしたちからすれば、ペキンパーはがこの時、目覚めたのが「劇作」ではなく「演出」だったのはなかなか興味深いものがあります。「演出」は脚本を分析し解釈すること、そして自分なりに再構成すること。つねに批評的に取り組むことになるのですから。▶(3)に続く予定