キース・リチャーズの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 歌と踊りが大好きだった母ドリス

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はじめに:

世界最強のバンドでありつづける「ローリング・ストーンズ」は、どのように誕生したか、そしてほとんどのバンドが10年ももたずに解散する中、なぜ最もワイルドの集団のようにみえる「ローリング・ストーンズ」は、半世紀近くもグループを維持することができているのか(ブライアン・ジョーンズは放逐されましたが。BJとMJは、また個別にマインド・ツリーでとりあげます)。その秘密と奇跡は、メンバー一人ひとりの「Mind Tree」のあり様と、成長とプロセス、そして絡み具合にかかっています。
ストーンズのことならおまかせとい方も多いかとおもいますが、「マインド・ツリー(心の樹)」の側面から、探りを入れてみると、また新たな「発見」と「気づき」があるとおもいます。世界屈指のワイルドマン、ストーンズの核のキース・リチャーズとはどんな男なのでしょうか。どんな少年期を送っていたのでしょうか。それを少しばかり知るだけでもストーンズの奇跡がみえてくるように感じられるのです。

幼少期はロンドン空襲の警報のサイレンが鳴りっぱなしだった

キース・リチャーズは、1943年12月18日にイギリス・ケント州の田舎町ダートフォード(ロンドンから約25キロ南東に離れている。ロンドンと港湾都市ドーバーを結ぶ道沿いの谷に発達した町。現在人口8万5000人程)のリヴィングストーン病院で誕生します。このダートフォードは無論、ストーンズの両雄の一方ミック・ジャガーの誕生の地であることは有名ですが、それ以外にポップ・アーチストのピーター・ブレイクの誕生の地でもあり(ビートルズのアルバム「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケット・デザイン)、リンカンシャー州生まれの鉄の女マーガレット・サッチャーが若き頃この地の議会で一時期務めています。

キースが誕生後1年と半年にわたって、そのまだ幼い聴覚を最も悩ませたのは警報のサイレンでした。ロンドンからさほど遠くないダートフォードの地にも、ナチスによるロンドン空襲の余波が襲いかかっていたのです。羊水の中の胎児も外界の音をキャッチしているので、第二次世界大戦ナチス陥落まで、都合2年以上もの間、キースは空襲のサイレンを聞かされていたことになります。そのためストーンズのギタリストとして(またある時期はドラッグカルチャーのシンボルとして)世界を興奮の坩堝に陥れる人物であっても、サイレン音だけには心底、恐怖感を覚えると語っています。
実際、キースが産まれた日もまたサイレンが鳴り響いていました。実際、病院近くで爆弾が炸裂し、キースの父バートも出先で足を負傷し入院しています。戦争終焉後、キースの母ドリスが父の入院している別の病院から家に戻ると、家は木っ端みじんに崩壊していたそうです。周囲の家も全滅だったそうです。

父と母は、宗教のボランティア活動を通じ知り合った

キースの父バート・リチャーズと母ドリスは、ゼネラル・エレクトリック社(GE : トーマス・エジソンが創設したエジソン電気照明会社が会社の母体でアメリカに本社がある)で出会い職場結婚したと一部の伝記本に記されていますが、実のところは2人ともがボランティア活動していたある宗教団体で出会い、戦争がさし迫っていたので周りの者たちが2人が緊密になる前に急がせて籍を入れさせたそうです。そして(電気工だった)父バートは兵役を免れるため兵器部品の生産もしているゼネラル・エレクトリック社で勤務し、一方、どうやらパン工場で働いていたドリスの方は、戦争中は子供を産むと仕事は免除されることになっていたようでドリスは子供を早めにつくることになったといいます。結婚といい、子供といい、すべてが前倒しになってすすんでいったため、後に2人はどうやら性格が不一致だったことに気づかされますが。

育ちはバート・リチャーズがロンドン郊外の労働者階級の町ウォルサム・ストウで、母ドリスがロンドン育ちで、キースが生まれたのが田舎町ダートフォードだったのは、バートが。結婚後、軍隊への召集がかかったバートは妻をロンドンの家に一人残していくことができず、戦火がなるべく及ばない田舎町ダートフォードに住むバートの姉の家の向かいに家を借り、新妻ドリスを住まわせました。キースの「ダートフォード生まれ」にはそうした背景がありました。
結婚後、ドリスはパン工場で働いていましたが父バートは戦後、電球製造会社で職を得(職工長として)たのですが、毎朝5時に起床し、帰宅し夜食をとるとキースの相手をすることなく寝るだけの<姿が見えない父>になっていきます。同社に再就職しています。ゼネラル・エレクトリックといえば戦後は世界最大のコングロマリット、スーパーカンパニーとなりますが戦前、戦中当時はまだ給料は低く、リチャーズ家の生活は決して楽ではなかったといいます。

歌と踊りが大好きだった母ドリス

母ドリスは歌と踊りが大好きな女性でした。ファミリー・パーティーではよく演奏を披露するほどウクレレの演奏が得意でした。ドリスは子供が産まれたらきっと音楽好きになるにちがいないとおもっていたといいます。キースは物心がつく前からドリスの歌うアメリカの歌に反応し、物心ついてからも大好きでありつづけますが、それは母ドリスがいつも好きで聴いていた歌でした。実際、キースが産まれる頃と幼少の頃に母ドリスがいつも聴いていた音楽はアメリカのものばかりで、とくにエラ・フィッツジェラルドとビリー・エクスタインの大ファンでした。2人が勤めていたのが本社がアメリカの会社だったこともあり、いつしかアメリカの歌や文化が好きになっていたのかもしれません。
キース自身の記憶でも幼少期から少年期にかけ、母からアメリカの歌をしょっちゅう聴かされていたといいます。幾多のミュージシャンのなかでも最もワイルドなイメージをもっているキース・リチャーズは(ですら)、家族からの大きなな影響を受けて育ってきたことが一目瞭然でわかるかとおもいます。キースの「マインド・ツリー(心の樹)」は、その家庭環境や生育環境から、比較的わかりやすい種類の方かもしれません。その根っ子から根元、そして幹、枝葉にいたるまでの見事なワイルドな「樹姿」は、幼少期から少年期にかけてたっぷりと栄養を吸収した結果です。その心の樹の姿形を形成するのに重要な役割を果たしたもう一人の人物は母ドリスの父(祖父)のセオドア・オーガスタス(通称ガス)でした。▶(2)に続く