キース・リチャーズの「Mind Tree」(3)- 少年期、アメリカの西部劇、カウボーイに憧れる。図書館でアメリカについての本をよく借りる

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5歳の時、小学校でマイケル・フィリップ・ジャガーとはじめての出会い

▶(2)からの続き:5歳の時、キースはウェントワース小学校に通いはじめます。そこに同級生として通っていたのがマイケル・フィリップ・ジャガーでした。キースとミック・ジャガーとのはじめての出会いでした。マイケル・ジャガーはキースと話をしたことを覚えているといいます。大人になったら何になりたいか訊ねたというのです。するとキースは、ロイ・ロジャーズみたいになってギターを弾きたいんだと答えたといいます。
しかしキースは最初の頃、学校では一日中精神状態がままならず、ひ弱な”もやし君”のようで、担任の先生に呼び出されては母が学校に向かいキースを連れて帰宅しています。学校に行く時も、母と一緒じゃなければ学校に行かないとダダをこねていたほどでした。今日でも小学校にあがる時にむずがる子供さんはかなりいるかとおもいますが、世界に冠たるキース・リチャーズでさえ小この時期は”フラジャイルな”子供で、その”フラジャイルさ”がどのようにプラスに展開するか、どのような「マインド・イメージ」をつくりだしていくかによって子供はどのようにでも成長するといっていいでしょう。
キースの場合、大勢の子供たちとの共同生活に慣れていなかったのが原因であって、それをもってしてすべてを否定しさるのは愚の骨頂である、ということです。キースは昼食時に例外的に学校近くの叔母の家に行ってもいいことになり、ようやく通学できるようになったそうです。
小学生の頃はキースはかなり小柄で、体つきもぽっちゃりしていて脚は短く(背がするすると伸びはじめたのは、美術学校に入学した16歳の頃だった)、その後のキース・リチャーズを予感させるものは音楽の感性以外はほとんど何もなかったようです。小学校では国語と歴史が好きで、とくに熱心だったのは図画(おもに油絵)でした。制服嫌いだったということは、ローリング・ストーンズの設立者ブライアン・ジョーンズとまったく同じです。そしてキースもいっぷう変わっていることを自慢していました。ピンクや茶、ブルーのシャツを着て登校するようになって、制服嫌いはある程度おさまりました(清潔な服ならばどんな服でもよいということになったようです)。幼い頃は、遊び相手もいず、父とは仲睦まじく、父もキースをかわいがり、2人でサッカーをしたりしていました。

アメリカの西部劇、カウボーイに憧れる。図書館でアメリカについての本をよく借りる

キースが幼ない頃、土曜日の朝に映画会がありました。よくかかっていたのはアメリカの西部劇でした。その映画会にキースはたいてい一人で出掛けていき、西部の荒野を駆け巡るヒーローを見つめ大自然の光景に圧倒されていました。生まれてこのかたキースが見た最高に「野生的(ワイルド)な風景」といいえば、テムズ河畔の湿地帯(ダートフォード・ヒース)だったのです。友達が少なく、ひとりでいる方が好きにみえたその背景には、エキゾティックなアメリカに憧れ、夢見る少年の心が近寄りがたくさせていたのかもしれません。荒野(ウィルダネス)の呼び声がキースに日増しに強く語りかけはじめます。字が読めるようになると、キースはダートフォード図書館にひとり通いはじめアメリカ関係の本を読みあさりだしています。アメリカの音楽が大好きだった母と共通の話題は、アメリカのことでした。
2人には共通のアメリカ人アイドルがいました。映画スターで歌手で、そしてカウボーイでもあったロイ・ロジャーズでした。ロイ・ロジャーズのまねごとがキースの十八番で、夏休みには庭にテントを張って近所の子供たちも誘ってキャンプをし、キースはロイ・ロジャーズになりきりました。

ふだんは一人でいることの方が好きだったキースですが、「キャンプ」だけは別でした。夏休みにリチャード家はワイト島にキャンプに行くことが恒例でしたが、それがキースには待ち遠しかったようで毎年楽しみにしていたといいます。それは「キャンプ」を張るカウボーイへの憧れだったのでしょう。後のローリング・ストーンズの曲作りやレコード製作、世界各地での公演などは、キースにとっては「キャンプ」のようなものだったのかもしれません。ローリング・ストーンズのメンバーは、キースもミックもコアメンバーがとにかくコンサート好きだったということが半世紀もバンドが続いたシンプルな理由の一つだといいます。一人でいることが好きなのに、「キャンプ」が大好き。このキースの性格がバンドに間違いなくプラスにはたらいているはずです。

学校の仲間や徒党に加わろうとしないキースの性格

10歳の頃には、憧れだったアメリカへの思いは、行きたいという強い欲求となってきました。カリフォルニアに移住した叔母がキースにアメリカの地図を送ってきたのです。カウボーイのように馬に乗るというキースの夢が現実味を帯びてきたように感じられました。いつも話がアメリカのことばかりになり、キースは生まれたイギリスのことよりもアメリカのことの方が詳しくなっていた程です。
その翌年(11歳の時)、キースを待っていたのは、アメリカ行きでもなんでもなく、ダートフォードの町の反対側への引っ越しでした。これにはさすがにキースもへこむしかありません。ただでさえ少ない友達とも離ればなれになってしまいました。引っ越し先は新しいプロジェクトで建てられた公営住宅で、まだ半分は空いたままで、アメリカへの思いを抱いたままキースはひとりぼっちになってしまいます。新しい学校のダートフォード・テクニカル・スクールでは、生徒の誰もが徒党を組むのが当たり前になっていて、どの仲間や徒党にも入ろうとしないキースを誰も快くおもわなかったといいます。またサッカー発祥の地イギリス生まれの男の子は、誰もがサッカー好きですが(一応キースもサッカーも好きだったが)、キースは学校のサッカーチームに入れないほどヘタくそでした。仲間や徒党にも、サッカーチームにも入れないキースにとって、アメリカへの思いや音楽は、何よりも大切なことでした(キースのこの頃も学校の外では聖歌隊に所属していますが、他のスポーツ少年たちからするとかなり変わったことに映っていたことでしょう。キースはわざわざそのことを話したりはしなかったでしょう)。

13歳、キース、聖歌隊をやめる。プレスリーをはじめて知る

13歳の時に、キースはボーイスカウトに友達と入団したことがありました。ボーイスカウトのイベントには、必ずキャンプ・ファイアがありました。キャンプ好きのキースなら、ボーイスカウトの集団的行動もうまくできるようになるのではと両親が考えたのかもしれません。ところが、キースが気に入ったのは、キャンプ・ファイアのまわりでソーセージを焼くことだけだったといいます。キャンプ・ファイアといえど、いちいち指示されて行動することが我慢できなかったのです。キースは何でもすぐに飽きてしまう、忍耐力がまるでない、と父に思われてしまったようです。
同じ年(13歳、1956年)、声変わりに合わせたようにキースの「マインド・ツリー(心の樹)」が一気に変成します。ソプラノ担当だった聖歌隊を去ったまさにこの年、エルヴィス・プレスリーをはじめて聴いたのです。従兄弟(いとこ)のケイがキースにプレスリーのアルバムを聴かせたのです。1956年といえば、プレスリーは「ハートブレイク・ホテル」や「ハウント・ドッグ」「タブ・ミー・テンダー」などリリースする曲が何カ月も全米でナンバーワンになっていった年にちょうどあたります。もっともこの年、キースが聴いたのは、英国で最初にリリースされたプレスリーのレコードでしたが(サン・スタジオ時代のセッションで、ヒット曲のカバーものだった)、それでも聖歌隊の音階にチューニングされつづけていたキースにとって、「なんてアナーキーなんだ!」というのが最初の印象だったといいます。そして「I'm Left, You're Right」や「She's Gone」という曲で聴こえるギター・ソロが、もの凄く<神秘的>に感じたのです。キースは従姉からプレスリーのヒット・アルバムを譲ってもらって聴いていると、とんでもない新しい曲がリリースされました。それがプレスリー6枚目のシングル(RCAに移っての第一弾シングル)「ハートブレイク・ホテル」です。つづいて「ハウント・ドッグ」と、どんどんリリースされるエネルギッシュでノリのいいプレスリーサウンドにキースは夢中になります。
ある伝記では、プレスリーに夢中になったこの年、キースは初めてギターを手にしたと記(しる)されています。すでにわたしたちはキースは幼少期から少年期にかけ祖父のガスやガスに連れられて行ったロンドンの楽器店で、気になったギターを手にし祖父に教えられコードを少し弾いていたことがあったことを知っています。「同級生がギターを弾いていたのを羨ましくなり、借りて弾いてみたら少し弾けたのでギターがたまらず欲しくなってしまった」という話の中で興味深いのは、同級生のギターを借りて弾いてみたら<少し弾けた>という件(くだり)です。まったくはじめての人は、コードをまったく知らなければ、少しも弾けない可能性の方が高い(それでも少しも弾けないのにたまらず欲しくなった、ということもあろう)のに、キースは<少し弾けた>のです。祖父のガスと過ごした日々の記憶が全身に蘇ってきたのかもしれません。とにかく<少し弾けた>という事実は、聖歌隊を去っていたキースにとって予想以上に大きなことでした。

初めてのギターは、母が月賦で購入してくれた安いギターだった

ただ、この頃、リチャーズ家には簡単にギターを買えるほどゆとりはありません。公営住宅に引っ越したのも経済的な負担を減らすためでした。母ドリスはキースがどれだけギターに真剣なのか訊ね、本気なのか確かめてみました。そして安いギター(7ポンド)でしたが”何でも揃う”ダートフォードの生協で月賦で購入し、キースに買い与えました。
学校での友達つき合いが苦手になっていたり、この頃のスポーツで得意なのは長距離競走だけだったというように、自分ひとりで楽しむ術を身につけていたキースは、ほとんど外出することなくギターの習得に打ち込みることができたのです。未来のギタリスト(ミュージシャンたち)にとって重要な要素の一つは、こうした時期に猛烈な練習を、孤独に思うことなく日々、情熱のカーブを描いていけることができるか、その耐久力とメンタリティにあるようです。▶(4)に続く-未