デビッド・クローネンバーグの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 少年期、アウトサイダーになる要素は何もない理解ある家庭環境だった

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はじめに:クローネンバーグのケースにみるもの

映画界の中でSFホラーのジャンルの鬼才として知られるデビッド・クローネンバーグの「マインド・ツリー(心の樹)」を知ることはかなり興味深いものを覚えることになります。クローネンバーグは、メジャーの商業映画に移行しても、日常世界を刺激し挑発的する一貫した姿勢で、永遠のアウトサーダーであり続け、多くの人からどんなに惨い子供時代を過ごしてかとおもわれていたそうです。ところがこれまで「マインド・ツリー」を制作してきたアーティストや作家たちのなかで、クローネンバーグ程、何事も問題なくハッピーな子供時代を過ごしてきた人はほとんどいません。父も母も理解があり協力的で、平和な家庭につつまれていたのです。「小説」と「科学」が同じくらい好きで、悩んだ挙げ句、入学したトロント大学で科学を専攻した青年が、いったいどのようにして超能力少女を扱った『スキャナーズ』やウィリアム・バロウズの世界観を映像化した『裸のランチ』、ハエと融合してしまった人間を描いた『フライ』、そして死の世界への入口と生の熱量をあつかった『クラッシュ』や『デッドゾーン』『ヴィデオドローム』といった異端の映画を生み出すことになっていったのでしょう。
これは決して映画監督を夢見る人に向けたものでなく(他の「マインド・ツリー」も同じことですが)、子供(人)はいったいどのようにして、どんな体験や影響、そして家族や環境の、幾重もの交差と蓄積の連なりから、何に関心を向け、何者になっていくのか(ならないのか)、人間の興味深い<成長>のあり様に意識がひらいた人に向けたものであります。とくにクローネンバーグのケースでは、ひとりの少年の魂の渇望や変化、相互作用や形成が極めてよくわかります。魂が欲するものは、20代半ば頃に一つのピークを迎えるようなスポーツ選手やクラシックの音楽家ならいざしらず、時代環境の急激な変化のなかそうやすやすと見つけだすことはできない時代にわたしたちは生きています。また、自身の関心事や少年期からの思いを貫くものを「発見」することがいかに大切なことであるか、また困難をともなうものであるか、クローネンバーグのケースがよく伝えてくれると思います。そして少年時代にもった「夢」は、そのまま直線的に保持すればいいのではなく、接点で保持したり、ループを描いたり、他の要素と組み合わせたり、変換(転換)したり、デザインし直したり、別次元に接続させたりすることが充分できることに”気づかれる”とおもいます。

「本」と「音楽」がある環境に育つ

デビッド・クローネンバーグ(David Paul Cronenberg:以下、デビッドと略)は、1943年3月15日、カナダのトロントで生まれています。クローネンバーグ家のあるトロント大学通りとクロフォード通りが交差する界隈は、昔からカナダへの移民が集まってくるエリアでした。今でもトロント方面への新しい移民の多くは必ずそこをめざしてくる場所のようです。
トロントではクローネンバーグ家は中産階級でした。父ミルトン・クローネンバーグはライター(基本的な職分はジャーナリストだったという。編集者をしていた時もあった)をしていました。カナダの雑誌「トゥルー・ディテクティブ」に短篇小説を書いたり、あの「リーダーズ・ダイジェスト」にも寄稿していました。また筋金入りの切手蒐集家で、「トロントテレグラフ」新聞の切手コラム欄に30年にわたって執筆していました。小さな家の壁は本で埋め尽くされていました。家の壁というのは必ず本による壁だったといいます。仕事がらみの読書だけでなくとにかく愛書家でした。
まだ若い頃1920年代後半の世界大恐慌の時には、「教授の書店」という変わった名前の本屋を営んでいたほどでした。1940年代後半から50年代のテレビの時代になっても、本の虫だった父にとってテレビは敵の回し者でなかなか購入しなかったといいます。デビッドは好きな番組「ハウディ・ドゥディ」を観るために、友達の家にいつも行っていました。ただ映画は別で、毎週のように(平日でさえも)映画館に連れて行ってくれたといいます。
本に埋もれた家ではいつも音楽が流れていました。それも生のピアノの音でした。母エステル・サムバーグはピアニストで、コーラスやバレエ団、ダンスのステージで演奏し伴奏していました。あのヌレーエフが稽古に来た時にも伴奏をつけるほどだったのでなかなかの腕前だったようです。少年の頃、デビッドが友達の家に遊びに行った時に驚いたことの一つは、必ずといっていいほど「本」も「音楽」もないことだったといいます。そういう環境がどこかおかしな気がしたといいます。

少年期、アウトサイダーになる要素はなにもなかった家庭環境

小学校にあがる前、5歳の時に、仲の良い女の子の友達がいて本当にいつも一緒にいたといいます。男の子の友達と野球やフットボールをやっている時間よりも長い時間をその子と過ごしていたといい、この時期によく子供が感じる不安感や恐れを感じることなくやり過ごしています。アウトサイダーだと後年言われるようになる要素はまったく見いだせません。両親もデビッドのことをよく見守っていて、デビッドが興味を示したものを察知すると、すぐに反応を示したといいます。科学に興味をもった時、父は微生物関係の本をすぐさま20冊もデビッドの手元に持ってきたという。ある時、鱗翅類学者になると言い出したときがあり、そんな専門的な領域の関心でも父は関係書籍を何冊も持ってきたといいます。
またクラシックギターが面白そうだと言い出すと、今度は母がギターをどこからか持ってきて手渡されました。その日以降、デビッドはギターを11年近く弾いていました。けれども、ギターは自分が本当にやりたいものじゃないと分かって止めてしまうと、母は悲しんだ顔をみせていたといいます。父も母もデビッドがどんな方向に向かいどんな仕事に向いているのか、つねに関心を向けていてくれたことは、デビッドが結婚し子供をもつまではそれほど分からなかったといいます。子供をもった親になってようやく父がすぐにデビッドが興味をもった分野の本をどっさり持ってきてくれたことや、母がギターをいつも教えてくれたことの意味がはっきりとわかったといいます。

アウトサイダーと言われるデビッド・クローネンバーグの子供時代は、他人が勝手に予想するものと違い、逆に幸せなものだったといいます。家族はどんなことでも本当によく話し合ったし理解しあっていたといいます。ありがちな父と母とどちらかと距離ができ顔を合わすこともなくなるとか、放任しっぱなしにするとか、親がつねに子供を支配下におきたがるとか、親同士がいつも諍っているとか、そうしたことはまったくなかったといいます。作家やアーティストになる家庭環境としてはむしろ珍しいほど問題のない家庭環境です。デビッド・リンチの家庭環境に何処か似ているものがあるようです。映画界きっての異端児、アウトサイダーとも言われる人物の少年時代は、ものの見事に問題のない家庭で育っていたわけです。異端児の芽は本当になかったかというと、じつは父がライターであり愛読家だったことが、デビッドに色濃く影響し、この世には悪夢的で奇妙な世界があることを読書を通じて知ることになります。

小学生時代からウィリアム・バロウズらの小説に興味。10歳の時、小説を書く

デビッドは10歳にも満たない頃から(ということは日本でいえば小学校4、5年生の頃か)、アンダーグラウンドの小説に興味をもちはじめているからです。とくにウィリアム・バロウズウラジミール・ナボコフの世界観にかなり夢中になっています。さらにヘンリー・ミラーやT.S.エリオットが北米に紹介するアンダーグラウンド作家たちも気になっていたようであれこれ読んでいたといいますから、その面はかなりませた少年だったようです。10歳の時、処女作を書いています。わずか3ページものの作品でしたが、デビッドにとっては小説だったといいます。そして次第に書くことはデビッドにとって自然な行為になっていくのです。
少年の頃は、デビッドは動物好きで、動物たちと自分とは感情的にわかりあえる存在だと感じていたので、大人になると獣医になってもっと動物たちとかかわるようになるとおもっていたといいます。ところが牛の人工授精の話に違和感を抱き、その世界への関心は薄れていきます。それと反比例するように物を「書く」ことへの興味が高まっていきました。父がいつも書いている姿を見ていたことや、そうして書いたものが雑誌に掲載されている様子を肌身で感じていたのです。父の姿を通し、また印刷物を通し、かなり早くから書くことに憧れがあったといいます。
この頃から早々とプロの物書きが用立てる「ライターズ・ダイジェスト」を読むようになったのも書くことへの憧れのあらわれでした。デビッドは幾つもの短篇小説を書きだすと雑誌に投稿するようになります。16歳の時、「マガジン・オブ・ファンタジー・アンド・サイエンス・フィクション」の編集者から「掲載一歩手前だ」という激励の手紙をもらったのですが、ちょうどその頃、デビッドの内である変化(もう一つの大きな関心)が生じていました。もっともその変化も、バロウズナボコフと同様、読書体験からもたらされたものだったため、デビッドは大学に入学して1年目にして、現実を知り、自身に問いかけ、軌道修正を迫られます(科学と文学の習得にはまるで異なる道を辿らなくてはならず、書籍を読み齧っている時に受けるものとはまったく異なっていた)。

アイザック・アシモフから影響を受け、「科学」に関心が向きだす

その変化とは、「科学」への関心でした。短篇小説を書いている間も、デビッドは「科学」のことが気にかかるようになります。それはデビッドが愛読するようになっていたアイザック・アシモフから受けた影響でした。デビッドはアシモフをおおいに尊敬し、自分はまずは科学者になるべきだという思いに駆られはじめていたのです。「知識の体系化」と「発見と探求の方法」はデビッドの好奇心を刺激しました。この頃は、この「小説」と「科学」との勉強を両方を同時並行的に行っていたといいます。アシモフのように両方からめながら一度にできるのではないかという甘い思いからでした。ハイスクールの科学と英語の先生は、ともにデビッドの好奇心と才能にめをかけてくれていました。卒業が近づいてくるとデビッドは、科学は人からしっかり教わる必要があるが、書くことは教わるものではないと考え、まず科学を専攻しようと決断します。そのため「マガジン・オブ・ファンタジー・アンド・サイエンス・フィクション」の編集者から励ましの手紙をもらっていたにもかかわらず、大学入学までの間、突然、小説を書くことを辞めてしまっていたのです。▶(2)に続く