オノ・ヨーコの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 父・小野英輔は銀行家に転身する前、ピアニスト。母方は日本銀行界の重鎮・安田善三郎

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はじめに:「イマジン」のこと

アーティストであり、ミュージシャンであり、平和活動家であり、ジョン・レノンのパートナーであったオノ・ヨーコ。21世紀にターンした頃、半世紀も前の彼女の活動が再浮上し、「オノ・ヨーコ」をとらえる動きがありました。日本からの離反、ニューヨークでの「フルクサス」のコンセプチュアル・アートジョン・レノンとの出会いと結婚、そして「ベッド・イン」など共同戦線としてのアクティビティ、ミュージシャン、平和活動家として、そのすべてをつらぬいているもの、それが「イマジン(想像してごらん)」です。ジョン・レノンの名曲『Imagine』もその影響圏内にあることはよく知られています。
なぜ「イマジン」が、ヨーコの魂の内に満ち溢れ、彼女の人生をつらぬく重要なコンセプトになっていったのでしょう。それはアーティストとしての単なるアイデアというのではなく、少女期から芽生えていた鬱積した思いを解き放つ「方法」であり、また息苦しく嘘に満ちたブルジョア家系から自身を離陸させ、同時にアート作品を生みだすためのクリエイティブな「方法」でもありました。オノ・ヨーコの「マインド・ツリー(心の樹)」は、まさに「Imagine=想像」されるリアルな樹であり、生まれ落ちた土壌から自立していくための「方法の樹」だったのです。
それではどんな「心の樹」がヨーコのなかに立ち上がっていったか、まずはヨーコが”根”を生やす以前の土壌と、幼少期からみてみましょう。

母方の祖父は、日本の4大銀行の中枢の重鎮、安田善三郎

オノ・ヨーコ(本名:小野洋子)は、1933年に東京に生まれます。オノ・ヨーコの家系については、父が米国にある日本の銀行の要職に就いていた銀行家であり、鎌倉やジョン・レノンとの写真がよく知られる軽井沢に別荘があることは人口の膾炙(かいしゃ)していますが、皆さんのオノ・ヨーコに対する家系や幼少期のイメージも、おそらくその辺りから大雑把につくられているのではないでしょうか。実際それは事実でもあります。が、少し立ち入ってみるとその向こうに、ただならない大きな事実と風景がみえてきます。あの太宰治の青森の名家・津島家など足元にも及ぶべくもない驚くべき血筋の家柄のご息女であったことにあらためて気づくことになります。それ以外にも幾つかの事柄はどこかで知り及んでいたはずなのに、おそらくジョン・レノンの妻(最初の夫は現代音楽家一柳慧で、ジョン・レノンは3番目の夫)で、長い間、陰の存在であったことが、オノ・ヨーコの過去や彼女の「心の樹(マインド・ツリー)」を気づかなくさせてしまっていたかもしれません。
父・小野英輔は、当時、横浜正金銀行(現在の東京三菱UFJ銀行)の銀行家で、洋子の誕生前にサンフランシスコ支店の副頭取の職に就くため渡米していました。洋子を産むため東京に残った母の磯子の旧姓・安田で、祖父の安田善三郎貴族院議員でした(日本の四大財閥の一つ安田財閥創始者安田善次郎の長女と結婚し婿養子に入り善三郎と名前を改名)。善三郎は、安田財閥の中核組織の安田銀行(旧富士銀行、現みずほ銀行)の総裁になり、関連する30余の会社・銀行を掌握した金融界の重鎮にまでのぼりつめた人物でした。
後に創始者の善次郎(1838年越中富山に生まれる。日本橋人形町で玩具屋を開いた後、鰹節などの海産物商を兼ねた両替商として安田商店を開業。42歳の時、安田銀行を開業。明治維新の通貨変動時に幕府の両替商で巨額の利益を獲る。帝国ホテル設立発起人でもある。また東大紛争で全学共闘会議が立て籠った有名な「安田講堂」は安田善次郎の匿名の寄付で建設されている。善次郎は後に神奈川大磯の別邸で右翼に暗殺された)と確執し、安田財閥から離れています。
ちなみに安田善三郎の三男とされる千代之助は、生後すぐに歌舞伎界の片岡仁左衛門の養子となり13代目片岡仁左衛門として活躍、後に人間国宝になっています。

父・小野英輔は銀行家に転身する前、ピアニストだった

アーティストとしてのオノ・ヨーコの”根っ子”の突端は、良きにつけ悪しきにつけ、芸術に関心をはらっていた父・母にあったといえるでしょう。父・小野英輔は銀行家に転身する前はもともとピアニストでした。父の尊敬する音楽家は、バッハとベートーヴェン、そしてブラームスの3B(3人の頭文字から)で、この3大家が父・小野英輔の音楽のすべてでした。ヨーコも幼い頃にピアノのレッスンをはじめさせられていますが、父・英輔が尊敬する3Bの音楽家が演奏カリキュラムのほとんどすべてをしめていました。父・英輔はそれを聴いて満足だったといいます。また、母・磯子も音楽を趣味にしていましたが、父とは真逆で、伝統的な和楽器を好みました。7つか8つもの和楽器を奏すことができたといいます。
ここで興味深いのは、ヨーコはニューヨーク郊外のサラ・ローレンス大学(かつて『ラディカルな意思のスタイル』や『写真論』で知られる米国最高の女性知識人スーザン・ソンターグや、舞踏家でモダンダンスの開拓者マーサ・グレアム、マルグリッド・ユルスナールが教員をしていた人文系・舞台芸術で著名な女子大学。1966年より男女共学。女優ジェシカ・ハーパー、作家アリス・ウォーカー、写真家スーザン・メイゼラスやリンダ・マッカートニら多くの著名人を輩出)をドロップアウトした後、自己流でピアノの練習は続けていましたが、ヨーコの世界がリフレクションしているジョン・レノンの『Imagine』には、楽器はピアノしか用いられていません。ピアノはヨーコが幼少期から最初は半ば強制的でああったもののなれ親しんだ楽器でした。ヨーコは後に父の小野家とも母の安田家とも離反していきますが、ピアニストだった父の小野家とはなんらかのかたちで縁は続いていたようです。ヨーコは父が褒めるような知的な女性に憧れていたと後に語っているので精神的にもつながっていたようです。ジョン・レノンが軽井沢に滞在した時に、泊まったのは万平ホテルと、小野家の軽井沢にある小さな別荘だったのです。鎌倉にある母方の安田家の方には足を向けていません。そして母が奏することのできた和楽器をヨーコが親しむことはありませんでした。ジョンの『Imagine』の伴奏楽器はピアノである必要がありましたし、またピアノの音色から生まれてきた曲だったということもできるでしょう。最もその伴奏の簡潔さは、ヨーコが幼少に特訓させられた3Bの音楽家たちのそれではなく、音符がアート作品に<変換>していくジョン・ケージの実験的音楽セオリーこそが反映しているといっても過言ではないはずです。

何人かの家庭教師と女中、お付きの人に囲まれた生活。いつも「悪夢」にうなされる夢

ヨーコ2歳の時(1935年)、母とともに父のいるサンフランシスコに渡米します。サンフランシスコには大きなピアノがありすでにヨーコの第一の遊び道具でした(そうさせられてもいた)。その翌年、弟の啓輔が誕生。4歳の時(1937年)、次第に日米間の緊張が走りはじめるなか母はヨーコを連れて帰国します。ヨーコが5〜6歳の頃、母方(安田家)の所有になる広大な鎌倉の別荘で一人だけポツンと暮らすことになります。母は東京で、さまざまな交際に明け暮れしていたのです(子供や家事のことより何より社交が大好きだった)。最も何人かの女中と何人かの家庭教師(『聖書』を読み聞かせる先生と、外人のピアノ教師)、さらにヨーコのお付きの人がいましたが。まさに大河ドラマの「篤姫」その人のような暮らしです。お付きの人はヨーコに仏教を教えていました。キリスト教と仏教と両方の宗教を子供に教えるとはまさに日本的といってもいいでしょう。しかし、ヨーコの記憶では、楽しいひと時もあったようですが、幼い頃は夜の暗闇が怖く、いつも「悪夢」にうなされてばかりだったといいます。とくに戦前では大きな屋敷は、闇があちこち口をあけているようで、幼い少女にとって父も母もいない暗い空間は、「恐怖心」しかもたらさなかったようです。
6歳の時(1939年)、学習院初等科に入学します。翌1940年、今度はニューヨーク支店に移った父のもとへ母・弟とともに渡米。現地でロング・アイランドのパブリック・スクールに通うことになります。1年間余通った(8歳の時)1941年、太平洋戦争が勃発すると、再び母はヨーコと弟を連れて帰国しました。ヨーコは東京のキリスト教系の小学校・啓明学園(自由主義神学を教える。1940年、海外暮らしをしてきた三井家の子供たちのために、港区赤坂台にあった三井高維私邸を校舎として設立される)に転入することになります。ニューヨークで仕事に明け暮れていた父は、1942年からベトナムハノイに移り、日本軍の活動を支援する「戦時銀行 Wartime bank」の支店長(manager)として勤務します。

12歳の時、東京大空襲で焼け野原になった東京の姿を見たヨーコ

1945年3月、ヨーコの「マインド・ツリー(心の樹)」に強烈な記憶が焼き付けられます。それは東京大空襲で一面焼け野原になった東京の姿でした。この時のあまりにも強烈な記憶が、後のヨーコに「Peace(平和)」というコンセプト・イメージの原型をもたらしたといっても過言ではありません。その思いの強度は、父が非常時ながら日本軍の活動を支援する「戦時銀行」の支店長として戦争を遂行する立場にいたことも無意識のうちにはたらいていたかもしれません。
東京大空襲の後、母とヨーコたちは地方の農村へ疎開しています。この時期、生徒たちは先生や年長者の命令に従う習いのなか、ヨーコのはっきりものを言う性格は、地方の生徒からバタ臭い(アメリカナイズされている)と嫌われました。クラスでも溶け込めずいつねに孤立してしまっていました。いつも弟の後に隠れるようにしていたといいます。そして、逃げ出すようにして誰もいない建物に入りこみ、よく寝転がっては天井にぽっかり空いた穴から広い空を眺めていたといいます。後にその大空が「想像力の王国」につながっていきます。「想像」の翼さえひろげることができれば、孤立する心を解き放つことができたのです。

戦後間もなく、ヨーコ13歳の時(1946年)、学習院中等科に再入学。今上天皇(現在の天皇)や三島由紀夫も在学していました。今上天皇とは同級生でした。ヨーコは英語と国語の成績が飛び抜けてよかったといいます。こうしたことは簡単にすますこともできますが、学習院初等科に入学し、米国のパブリック・スクールに通った後、日本でキリスト教系の小学校・啓明学園で自由主義に触れ、その直後に空襲による焼け野原を体験し、地方の疎開中にはバタ臭いとからかわれ、戦後に皇室の子息も学ぶ学習院に入学し同じ空気を吸って勉学したことは、ヨーコに”二股の幹”のような感情を与えないとは、誰もいえないでしょう。ヨーコは幼少時に、「聖書」と「仏教書」の両方を同時に学ばされていたがゆえか、両極に引き裂かれるようなやわな心ではなかったはずです。”二股の幹”の下は、暗闇の「恐怖心」におののきつつも無意識のうちに気丈で丈夫な幹と根が支えていたにちがいありません。ゆえにヨーコは、「英語」と「国語」の両方の成績が拮抗するように優秀だったわけです。逆に言えば、どちらからも「はみだし」てしまい、落ち着いてそれ以外の科目を学習することができなかったため、「言葉」だけに意識が向ってしまった結果ともいえます。▶(2)に続く-近日up