ブライアン・ジョーンズの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 6歳、母からピアノを習いはじめる。少年期にでき上がった「耳」と型破りな遊び感覚

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バンドリーダーだった頃のブライアン・ジョーンズの覇気ある姿

はじめに

ローリング・ストーンズを語る時、つねに陰のように語り継がれるもう一人のミュージシャンがいます。それが「ザ・ローリング・ストーンズ」の命名者であり、バンドの創始者であり、バンドリーダーだったブライアン・ジョーンズであることはよく知られています。オリジナル曲を手がけるミック・ジャガーキース・リチャーズにバンドの重心や露出がシフトすると、ブライアン・ジョーンズは次第に孤立し、ストーンズからはじき出される存在と化していきます。ジャン=リック・ゴダールストーンズのリコーディング風景を撮影したドキュメンタリー的映画『ワン・プラス・ワン/Sympathy for the Devil』(1968)は、ブライアン・ジョーンズが突然死去(1969年)する前年に撮影されていますが、その映像の中でもブライアン・ジョーンズの存在感がほとんど無くなっています。またもう1本の映画『ブライアン・ジョーンズストーンズから消えた男』(2005年・スティーブン・ウーリー監督)は、10年の歳月をリサーチに費やしたといってる割に、ブライアン・ジョーンズの極端な一面しか扱っていないため逆にこの映画は観る者を洗脳してしまっています。他殺説という”真実”を売りにした裏で、ブライアン・ジョーンズの「心の樹」をほとんど葬り去った映画です。
1960年代のイコンとして象徴されたブライアン・ジョーンズの短い人生は、本人のパーソナリティやメンタリティと同様、予想以上に複雑です。27歳で亡くなったブライアン・ジョーンズの「マインド・イメージ」に見えていたものはどんな風景だったのでしょう。映画ではまったく描かれていない少年ブライアンの心の内で起こったこと、そして親や友達から「理由なき反抗」と映ったものとは何だったのでしょうか。キースやミックとはまるで異なるバンド創設までの背景に、ストーンズからの放擲の”真実”が映しだされてきます。

プライドが高く、たしなみや体面を重んじた生まれ故郷チェルトナム

ブライアン・ジョーンズ(Lewis Brian Hopkin Jones:ルイス・ブライアン・ホプキン・ジョーンズ)は、1942年2月28日に、ロンドンから西方150キロ(中間地点にはオックスフォードの町がある)にあるチェルトナムのレイヴンズウッド(鴉の森)に生まれました。チェルトナムは、18世紀に鉱泉が発見され以降、王族や貴族たちの保有地として知られた土地で、あわせて彼らの娯楽としての競馬場も早くから設けられています。チェルトナムは白いファサードをもつ優美なネオクラシカルジョージアン・スタイルに近似するリージェンシー・スタイル(19世紀初頭の摂政時代の建築様式:幾何学的に並んだ窓や白いドリス式の柱、女神像の彫刻などがよくみられる)の建物が多く残っています。
この摂政時代といえばジョージ4世で、彼の友人に洒落者で広く知られ男性モード界の権化となったジョージ・ブライアン・ブランメル(ロンドン生まれの平民出身。通称:ボー・ブランメル。ネクタイをつけたりフルレングスのスラックスにダークスーツといった現代の男性のスーツのコンセプトを打ち立てる)がいました。ボー・ブランメルのミドルネームは、”ブライアン”で、制服嫌いで洒落者だったブライアン・ジョーンズとどこか相通じるものを感じます。ブライアン・ジョーンズは、サイケデリックでスウィングする1960年代の”ボー・ブランメル”だったのかもしれません。
このチェルトナムの住民たちのプライドは高く、市の条例で道路にはパーキングメーターはなく、繁る樹木が通りに木陰をつくり、また住民は日々たしなみに余念がなく、お茶を飲む時には小指を立ててしまう、そんな土地柄です(ブライアンも三つ子の魂の譬えのように無意識のうちに地がでていることがしばしばあったといいます)。チェルトナムは、キース・リチャードとミック・ジャガーが幼年・少年期を過ごしたダートフォース以上に、「ブライアン・ジョーンズ」の形成に影響を与えたようです。たしなみの良さ、体面のよさ、ちゃんとした教育を受けることは、各家庭の気風というよりチェルトナムの伝統的環境が住民の性質や気質をつくりだしていたといっても過言ではありません。
ブライアンも幼な心ながら、どう振る舞うと両親が喜び、愛を注ぎこんでもらえるか感じとっていました。そして小学生も半ば頃になると、そうした振る舞いのすべてはチェルトナム地域社会に受け入れられ、その一員として認めてもらうための約束事なのだということを覚えたといいます。ところが10代の初めの頃から、ブライアンはそうしたチェルトナムの空気に嫌気がさし反抗しはじめます(まわりからは「理由なき反抗」に映った)。
そうした社会的環境とその環境の小宇宙である「家庭」への反逆心と、クリエイティブな(少年期は他人と違うことをやったり、他人からみえる自己のイメージを変える)行動と、その2つの意識がスパイラルとなって先を争うように突き進んでいったのでしょう。

父は航空工学のエンジニアで、母はピアノの先生だった

生粋のウェールズ人(チェルトナムウェールズに近いイングランド西方に位置する。ウェールズケルト系住民で、イングランド人に同化されなかった。赤い竜はウェールズのシンボル)だった父ルイスは、チェルトナム最大の会社で後にロールスロイスに買収されるダウディ社の航空工学のエンジニアでした。第二次世界大戦時は、英国の主要基地の一つブリストルの軍事基地にある戦闘機や飛行機のエンジン工場で働いていました。ドイツ空軍はブリストルを爆撃する際には必ずチェルトナム上空を飛行していくため、母はいつもブライアンを連れて防空壕に隠れていたといいます。キース・リチャードが空襲のサイレンが耳にこびりついているのに対し、1年半以上年上のブライアンは戦争の体験はまったく覚えていないといいます(むしろブライアンの方が年齢的に多少とも記憶していてもおかしくないが)。記憶に残っているのは、ぶち猫のローレイダーと遊んでいた記憶だけと語っています。
母ルイザ・ベアトリスはピアノの先生でした。父もピアノを趣味にしていて日曜日には教会でオルガンを弾いていました。その教会で2人は合唱団を率いていて、ジョーンズ家で週に2度練習するほど音楽が家に満ちていました。ジョーンズ家もチェルトナムの家らしく出窓がある白壁の二階建てで、玄関の扉まわりにレンガの縁取りがある伝統的な家でした。
ブライアンが3歳の時、1歳年下の妹パメラが白血病で亡くなります。ドイツ軍の攻撃がまだやんでいなかったこともありジョーンズ家は俄に不穏な空気に包まれます。終戦後、間もなくして妹バーバラが生まれますが、ブライアンはクループというジフテリア性の喉頭炎(呼吸困難になる)に罹り(咳込んで寝つくこともよくあった)、以降慢性的な喘息持ちになります。27歳で亡くなるまでベントリン噴霧器を生涯手放せなくなります。ストーンズ時代は、ストレスが高じると罹る神経性の喘息になっていました。

ストーンズ結成後も、実家に戻ると少年時に遊んだミニチュア機関車を走らせた

幼少期、父はブライアンが欲しがる玩具のことをいつも気にかけていました。ブライアンは機関車や飛行機、自動車などの乗り物の模型をつくるのが大好きでした。父は木製のおもちゃのバスをブライアンのためにつくると、ブライアンのお気に入りになり、いつも絨毯の上で押して遊ぶようになりました。また部屋の中でレールをぐるりと組んで、直流電流変圧器を使ったミニチュアの電気機関車を走らせて遊んでいました。後にローリング・ストーンズを結成してからも家に戻る時があれば、ブライアンは少年に戻って必ず木製のバスやミニチュアの機関車を走らせて遊んだといいます。また鉄道の展覧会に行き真近で巨大な蒸気機関車を見るのも大好きでした。ブライアンは家に戻ると、スケッチブック見てきた蒸気機関車の細部までするすると精密に描いていったといいます。視覚の方でも記憶力が驚くほどよかったようです。
ジョーンズ家の前には樹木が繁る広場があり遊び場になっていました。腕白だったブライアンが駆け回っているうちに急に咳込みだすと仲間からひとり離れて咳が回復するのを待たなくてはなりませんでした。その間いつも大きな樹にもたれかかって皆が遊ぶ様子をみていたといいます。そのため否応無くひとりで過ごす時間も多くなる時があり、それがブライアンに「夢想家」の要素と強い感受性を与えることになったようです。

6歳からピアノを習いはじめる。少年期にでき上がった「耳」

音楽一家だったブライアン家では、子供たちにとって音楽はいつも聴こえてくるものであり、空気や光と同じくらいに意識しなくてもあるものでした。戦後3年がたち、ブライアンが6歳になった時、ブライアンはピアノを習いはじめています。母からは演奏と音楽のセオリー、そして譜面を初見するだけで弾くことを学びます。楽譜を読み込む練習は14歳までつづきました。
同じ年、学校の音楽教師のもとでピアノのレッスンを受けるようになっていますが、母から楽譜の読み方を習っていたので飲み込みが早かっただけでなく、ブライアンは感覚で自在にバリエーションをつくりだして教師を驚かせています。教えるそばから楽譜をつくり変えていってしまうので教師は教える立場になかったほどでした。その自由闊達な才能に父はブライアンはクラシックの音楽家をめざすのかもしれないとおもったといいます12歳からはクラリネットもはじめています。妹のバーバラもピアノとヴァイオリンを習っています(バーバラは後に一流のピアノとヴァイオリン奏者になっている)。とにかくこの少年期にでき上がった「耳」があったことが、あらゆる局面でブライアンの人生の契機となり武器となります。後にブライアンがさまざまな楽器にチャレンジし、あっという間にものにすることができたのも、この「耳」があったからに他なりません。

型破りな遊び感覚。火をつけて炎上までさせた交通事故ごっこ

ピアノに遊び学んだブライアンですが、その一方、ブライアンの遊び方には別の顔がありました。子供はよく自分が遊ぶ玩具を使って交通事故ごっこ(衝突させたり、落下させたり)をするものですが、ブライアンのそれは異様なまでに型破りでした。家から持ちだしてきたオーブンの天板の上に衝突させたプラモデルをのせて、マッチで火をつけて爆発し炎上する様子を再現して楽しむのでした。
またブライアン自身、戦争の記憶はまったくないと語っていましたが、燃え上がる戦闘機や自動車などを無意識のうちに見ていたのかもしれません。ともあれ日曜日に聖歌隊の白い衣装をまとって合唱し、ピアノを奏していたブライアンには、すでにスリルと興奮をともなった危なっかしい感性が胚胎していたのです。
▶(2)に続く