ジャニス・ジョプリンの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 母ドロシーは街に名を轟かすほどのパワフルな声の持ち主、フラッパーで「解放された女性」だった


このインタビューは映画『ジャニス』にも収録されているものです。


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はじめに:伝記本でも、まるでわからないジャニスの幼少期と家庭環境

1970年に27歳の若さで夭折したロックンロール・スター、ジャニス・ジョプリンのことは、少しでも60sカルチャーや音楽に親しんだ人ならば、ほとんどの人が知っている名前だとおもいます。「ジャニスの祈り」など、曲名を知らなくとも何処かで聴いた曲や歌声であったり、そのビートニクな衣装やパワフルな歌唱力は、当時も今も見る者、聴く者を圧倒します。
ところが「ジャニス・ジョプリン」は、どんな人間で、どんな女性であったかとなると、その存在感とパワーの反動か、まるで分からなくなるのがどうやら相場になっているようです。ジャニス自身が生前、自身のことを「テキサスという土地は、反抗的な者には向いていない。いつも悪く思われるだけだから」といった具合にしか語ってこなかったことも原因のようです。くわえてジャニスの伝記本のどれもがとくに少女期とジョプリン・ファミリーのことになると突然信頼性が欠落しはじめ、死後すぐに出版された『ジャニス・ジョプリンー彼女の生涯と時代(Her Life and Times)』(デボラ・ランドウ著 1971年)も、どうやら記述に誤りがあり重版されなかったといいます。
彼女の遺作であり最高傑作と誉れ高いアルバム『パール(真珠)』のライナーノーツでさえも、ジャニス・ジョプリンの生涯については(『ジャニス・ジョプリンー彼女の生涯と時代』と『デイヴィッド・ドルトン著『ジャニス』[1971年]を基礎資料にした記述がある)、両親のこともジョプリン家のことも、ジャニス自身の少女期のことに関しては、ほとんど触れられることはありません。
また、『ジャニス・ジョプリンー禁断のパール』(エリス・アンバーン著 1992年刊行/日本語版 1993年 大栄出版)は、古書として比較的入手しやすい伝記本で、またシンガーになって以降の交際のあった人々へのインタビューも交えたライブで詳細な内容ですが、ジョプリン家へのインタビューが不首尾に終わったため(偶然に妹のローラが姉ジャニスについての本を準備していた)、ジャニスの”根っ子”にあたる部分(とくに家庭環境と両親のこと)に関してはおよそ乏しい内容になっています。恥ずかしがり屋で内気で素行の良かった女の子が、ダーティーな言葉を用いはじめ、母との不和から14歳の時に突然に、「人生は愛とセックスがすべて」と悟り、ジュニア・ハイスクール時代には”させ子ちゃん”になったと(エピソード自体は事実のようです)。音楽への愛好は両親からの影響はあったものの(ただしや賛美歌とクラシック音楽)、ジャニスはほとんどジョプリン家の”突然変異体”だったかのような印象を受けてしまいます。
ローリング・ストーンズのあのブライアン・ジョーンズや、ニルヴァーナカート・コバーンにも、効力があった「マインド・ツリー(心の樹)」の方法も、ついにジャニス・ジョプリンの前では無力だったかと思わせるほどでした。映画『ジャニス』の中のインタビューでも「17歳の時に、レコードを聴いて音楽に興味が湧いてきて、それで歌ってみたら歌えたのよ」と語るばかりのジャニス。しかし苦い過去をもつスターはむしろ過去を封印するのがほとんどです。そのため乏しい資料からエピソードをたよりに幼少期が物語られ、ジャニスのように歌のうまい反抗児が”突然”出現し、そのすべてが謎のまま一種の”伝説”と化すわけです。
ジャニスが手紙を交わした妹ローラの存在がなければ、ジャニスの「マインド・ツリー(心の樹)」は、ほとんど埋もれてしまっていたにちがいありません。また、妹ローラはジャニスの無軌道さの向こう側にある「心の樹」を感じ取っていた唯一の人間でした。妹ローラは、『ジャニス・ジョプリンからの手紙(原題:Love Janis)』(音楽之友社 1994年)のなかで、姉ジャニスが決して一家の”突然変異体”ではなく、ジョプリン家の土壌と環境から育った人物であったことをあかしています。
すっかり前置きが長くなりましたが、それでは一緒にジャニス・ジョプリンの「パール(真珠)」の実を結んだ「心の樹」に近づいていってみましょう。

世界最大の精油施設があるテキサス州ポート・アーサーに誕生

ジャニス・ジョプリンJanis Lyn Joplin)は、1943年1月19日、テキサス州南東部のメキシコ湾と運河でつながるポート・アーサーで生まれています。現在人口6万人弱のこの町は、19世紀半ばにメキシコと米墨戦争をしていた時、その後の南北戦争時には地図にない町でした。19世紀末に町づくりがなされたポート・アーサーは、20世紀初頭に大油田が発見され、ガルフとテキサス・カンパニー(後のテキサコ)が利権を手にし世界最大の精油施設のある土地につくりかえていきます。西部各州への有刺鉄線販売で財をなした後のUSスティールもこの地で起業されたように、カウボーイと牧畜の州テキサスは一変していくのです。ジャニスが誕生した頃も、ゴールデン・フィフティーズの少女時代も、さらにはジャニスが故郷を去ってサンフランシスコで最強のシンガーになった頃も、中東の石油産出が世界最大になった1968年頃までは、ポート・アーサーは、大国アメリカの経済動脈に、地中から”黒い血液(黒い真珠)”を吸い上げ供給し続けていました(テキサスの全石油を出荷する港となった)。

女の子にもてた父は、マリワナをやったり遊び人だったが、一人で読書するタイプでもあった

ジョプリン一族は、父セス・ジョプリンと母ドロシーが一緒にこの新興の町にやって来るまで、石油とはまったく関係のない暮らしをしていました。セスもドロシーもともに、もともと同じテキサス州の北部にあるアマリロ(Amarillo)の出身でした。アマリロと言えば、ルート66も通り、牧畜と文化で栄えた町として有名な街です。1972年のことになりますが、アンディ・ウォーホルのファクトリーでスナップ撮影していたスティーブン・ショアが、友人を連れ立って旅に出たその目的地がアマリロでした。じつはジャニス・ジョプリンの快活で破天荒ぶりの目にしえない根先は、セスとドロシーのアマリロ時代につながっているといっても過言ではないのです。伝記本でよく記されている父と母の慎ましさと厳格さは、世界大恐慌の余波が続いているポート・アーサー時代のもので、父と母の本来の姿が隠れてしまっているのです。
まず父セスのアマリロ時代をのぞいてみましょう。セスはハイスクール時代には、最も美しい青い瞳をもち女の子うけしていたセスは、イカしたフェードラ帽をかぶり車で学校の周りを走り女の子に声をかけ(「スロー・レース」と言う男の子間で流行った競技でセスはいつも一番だったという)、カレッジ・パーティ用のジンを自宅のバスタブで製造したり、まだ広く出回っていなかったマリワナもやっていました。その一方、ひどく人見知りだった一面があり、若い頃一時期野原に建てられた小さな小屋に住んでいたといいます。一人で過ごす時には、知的好奇心も高かったセスは読書をしていたといいます。ずいぶんと若い頃、最初に自分で稼いだお金で買ったのは、『マーク・トウェイン全集』と『エドガー・アラン・ポー全集』だったといいます。
世界大恐慌の余波がつづく1930年代、セスはカレッジ卒業寸前で経済的な問題から退学し職を求めますが、それもままならずガソリンスタンドで働いていたといいます(当時のテキサスの失業率25パーセント)。この頃に、ジャニスの母となるドロシーとクリスマスのブラインド・デートで出会っています。

母ドロシーは街に名を轟かすほどのパワフルな声の持ち主。「解放された女性」だった

母となるドロシーはセス以上に、アマリロ時代は青春を謳歌していました。ドロシーは若い頃から教会の聖歌隊で賛美歌を歌っていただけでなく(伝記ではふつうこの記述のみ)、街の人から「テキサスのリリー・ポンス(オペラのソプラノ歌手)」とネーミングされるほど澄んだパワフルな声の持ち主だったのです。アマリロの様々な場所(教会、結婚式場、クラブなど)で彼女の声を聴くことができたといいます。ハイスクール時代にはアマリロ市が企画制作したチャリティ・ミュージカルの主役に抜擢され、担当したブロードウェイの演出家もその才能を認めたほどででした。カレッジの奨学金を得ることがきたのもその歌唱力への評価からでした。
テキサス・クリスチャン・ユニヴァーシティに入学したドロシーでしたが、音楽の才能を伸ばすには適した場所でなく(音楽担当者は一人だけでそれもオペラ教育だけ)、1年でドロシーはアマリロに戻ります。時は、フラッパーがもてはやされた1930年代(フラッパー出現の背景には女性の社会進出、自立への希求があったといわれる)。ドロシーもこの時期、長い髪を切りボブ・スタイルにし、煙草をふかすようになっています。ジャニスとはまた別の姿の「解放された女性」だったのです! これはジャニス・ジョプリンのおそらくすべての伝記本に描かれていない事実で、60sに最も解放された女性に映ったジャニスは、母の”再現”だったともいえるのです。そのため教育者で厳格な母だったと語られる反面、ジャニスの個性を見守り、女の子がズボンを履くことはなかったその時代に自由に履かせたのも、かつて母自身が時代に先んじた「解放された女性」の一人だったからだったようです。
さてドロシーはその勢いのまま地元のラジオ局KGNCでちょっとした仕事の口をみつけ、「音楽」が流されていないことにくってかかり、そのことでドロシーは地元アマリロで、若い女性を代表する「自由人」とみられるようになります。「音楽」に「自由人」、ここでも出会うのは「ジャニス・ジョプリン」と切っても切り離せない「音楽」であり「自由というイメージ」です。またドロシーはダンスが大好きで陽気な店によく出いりしていたといいますが、そうしたドロシーの行為のすべてが頑迷な両親と衝突してしまうのです。母ドロシーと親との関係もまた、ジャニスと両親との関係で”再現”されてしまうのは運命なのでしょうか。
ドロシーがアマリロを捨てるようにセスとポート・アーサーへ行ったのも、家族のいざこざを避けたいためでもありました。後にジャニスも家族や学校での不和から逃れるようにテキサスを後にして西海岸に向います。面白いもので、ドロシーが家族の軋轢に苦しむなか、一人になるためアマリロの地元の図書館に通ってドストエフスキートルストイを読んでいたことが、夫となるセスの読書好きの性格とつながっていくのです(2人ともお互い娘ジャニスのように光と影のコントラストが濃いタイプだ)。賑やかなダンスクラブにセスを連れていったドロシーは、セスが店の雰囲気になじめないでいることを察知し、静かな場所でデートを重ねるようになっていきます(今日ならこうした2人はきっと縁がなかったことになるにちがいありません)。その時の話題は、哲学的なことやお互いが読んでいた文学のことだったといいます。しかしドロシーのパワフルな歌唱力がそのまま途切れることはありませんでした。▶(2)に続く


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