フェデリコ・フェリーニの「Mind Tree」(3)-ローマへの旅立ち。母と妹がローマへ。3人で暮らす

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俳優の似顔絵を町の映画館が注文

▶(2)からの続き:フェリーニの似顔絵漫画の噂は、町で唯一の映画館(フルゴール映画館)の支配人にまで届くようになっていました。支配人は映画館の入口のショーウィンドウに飾る俳優の似顔絵をフェリーニに注文してくれたのです。いつも通っていた映画館のショーウィンドウに自分の描いた俳優の似顔絵が飾られたのです。しかもこの頃(16歳の時)、新聞に投稿していたコラム記事「高校2年生」が表彰ものになったのです。このコラムは学校で押しつぶされ家庭では焦燥に駆られた高校生を第三者の目を通して訴えたものでした。フェリーニは絵才さけでなく文才も評価され、すっかり気をよくし、17歳の時、「フェボ」という看板を掲げ、年長の友人デニスと似顔絵描きの店を開きました。似顔絵や黒紙の切り絵の「シルエット」は、バカンスに訪れた客にも好評で、フェリーニは似顔絵描きでお金を稼ぐコツをつかみます。

学校にも反感、初恋にも夢破れ、リミニの町が息苦しくなる

リミニの学生時代の2年間程はフェリーニにとって希望の季節でした。勉強はそっちのけでしたが充実していました。ところが、18歳頃になると、フェリーニの「心の樹」はささくれてきます。さすがに教師のカリカチュアだけでやり過ごすこともできず、学校にますます反感をつのらせ、母の小言にますます苛立つようになります。それに輪をかけ、初恋にも夢破れ、リミニの町はもはや息苦しいばかり。といって町をすぐ出て行くにも先立つものがありません。何を、そうすればいいのか、フェリーニは迷います。似顔絵描きの店「フェボ」はもう閉めています。
コントやポンチ、似顔絵漫画は大好きなフェリーニ。それ以外に心からやりたいことはないし、それが何なのかわからない。しかもお金はない。父はともかくも母からのプレッシャー。さあどうするか。フェリーニは考えます。自分自身を「観察」します。そしてフェリーニは思い立ちました。コントやポンチを描いて新聞に投稿し、自分の絵才をいかしつつお金を得る。似顔絵描きの店で稼げたではないか。何かできるはずだ。「コリエーレ日曜版」の読者のハガキ欄が目に留まったのはこの時でした。「採用されたハガキ一枚につき20リラの謝礼進呈」という触れ込みでした。それ以外にフィレンツェの「420」誌という週刊誌に風刺漫画を書いては送るようになります。

ローマへの旅立ち。母と妹がローマへ。3人で暮らす

年があらたまってすぐの1月4日(19歳の時)、フェリーニはもういてもたってもいられなくなります。不安と希望が交錯しながらローマへの旅立ち。もっとも映画『青春群像』のラストシーンのように、一人旅立ったのではなくボローニャまでは仲間数人と一緒だったようです。映画『フェリーニのローマ』でもローマのテルミニ駅に到着した記憶を思い起こすように再現しています。高校を終えた息子が大学に進学するのかと心配する母イーダは、息子フェリーニに付き添おうとはリミニの家を後にして、妹とローマに出てきます。そして皇帝広場近くに部屋をとり息子フェリーニとともに3人で暮らし始めます。そんな生活ではなんのためのローマ行きなのか分からなくなりますが、イタリアでの母の存在があまりにも大きく、今日でも介護でなくとも幾つになっても母とともに暮らす男子は多いようです。息子フェリーニに聖職者になって欲しい夢を諦めていた母イーダは、少なくとも友人のチッタやモンタナーリのような弁護士になって欲しいと願っていたのです。フェリーニには”偉大なる母”の意をくみ、大学の法学部に登録しますが、意中の仕事はジャーナリストでした。ただそのための方法はまったく分かりませんでした。じつはフェリーニがローマに出てきたのはリミニで偶然知り合ったジャーナリストに背中を押され、ローマで試してみようという気を起こされたといいます。
一方、残された父と弟リッカルドは、リミニの中心部で家具付きのアパートを借りて2人で住むようになります。父は弟に自分の店に連れてゆき得意先回りをさせ商売の勉強をさせています(弟は最終的に会計士になる)。しかしこの時はまだ、テノールの美声の持ち主を自負する弟は歌手か俳優になる夢を捨ててはいませんでした。ほどなくすると弟はしばしばローマにでてきて歌の勉強をしはじめます。あいた時間にチネチッタ(ローマの映画撮影所)にある映画実験センターに通い、映画に端役で出演するようになります。フェリーニは、大学の法学部に登録したものの、ジャーナリストの道を諦めきれず、あちこちの新聞社をあたっては職のあてを探る日々が続きました。

日刊紙「イル・ピッコロ」で編集の仕事に就く

もっともローマにやって来たフェリーニが、意を決して訪れた場所がありました。少年の頃から熱烈な読者だった風刺漫画や短篇小説が満載されたユーモア紙「マルク・アウレリオ」の編集室でした。ところが案内役が、かつてリミニに暮らしていた編集長が在籍する日刊紙「イル・ピッコロ」の方に行けと薦められたのです。じつはその編集長は、フェリーニはかつて何度か絵や文を持ち込んで見てもらったことがあった人物でした。フェリーニは念願のユーモア紙「マルク・アウレリオ」ではなく、日刊紙「イル・ピッコロ」で編集の仕事をはじめます。それまでにある期間を要したため、心配する母はずっとローマにいたのかもしれません。自伝でもこのあたりはよくわからない時期です。幾つかのことが錯綜しているのです。まるでサーカスの出し物のようにローマでフェリーニは弾けます。
商店のウィンドーに絵を描いたり、レストランでお客の似顔絵を一緒に描いたりするようになった画家リナルド・ジェレンと偶然知り合ったのはおそらく一人で生活するようになってからのことでしょう。2人は食堂で無銭飲食したり、勝手気侭なボヘミアン的な生活をおくります。堕落していくような<甘い生活>を送りながらフェリーニは、<夢>と<仕事>とがつながるような場所を夢見ます。フェリーニの「マインド・イメージ」のなかで、その2つがもはや切り離せない「絵」のようになっていることに気づきます。<夢>と<仕事>が完全に一体化する映画の仕事をする前に、フェリーニは日刊紙「イル・ピッコロ」を辞め、憧れだったユーモア紙「マルク・アウレリオ」の編集部で仕事をするようになります。そこはまさに<夢>と<仕事>が臍(へそ)の尾でつながっているような場所でした。
母が故郷に帰り、ようやく母との精神的な臍の尾が切れたと感じたフェリーニには大いに自由を感じますが、その感覚と同時に今まで味わったことのない恐れと孤独を感じはじめます。広い世界に一人ぽっちでほうりだされたような気持ちに陥ってしまいます。祖母の家やサーカスの幻想的な世界にはもう戻れないという気持ちが押し寄せてきました。フェリーニは母に代わって聖母のようにやさしく包んでくれる女性像を求めるようになっていきます。
▶(4)に続く-予定