ジョニー・デップの「Mind Tree」(3)- 15歳の時、両親離婚。ドラッグ、自傷行為とタトゥー


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一年間、部屋に閉じこもってギターを独学で学んでいく

▶(2)からの続き:12歳の時、初めてギターを手にしたジョニーはそれから1年、部屋に閉じこもりっぱなしになります。部屋の中で1年中レコードをかけ、聴いては自己流でギターの弾き方を習得していたのです。ジョニー自身、自分の思春期のある時期は、完全に部屋に閉じこもってギターを鳴らしながら過ぎていったといっています。当時の家族の姿はほとんど覚えていないといいます。この年から煙草を吸い始めています。またサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読みふけったのもこの年だったようです。
1年程部屋ごもりをした後、ジョニーは家を出、小さなグランジロックのバンドにくわわりギターを弾き始めました。バンド名は「フレイム」。皆で「フレイム」と書いたTシャツを着てやっていましたが、翌年からは無地のシャツを着るようになり、やがて母のクローゼットから洋服を拝借するように。ベルベット地のフレンチスリーブのシャツにサッカー地のベルボトムだった。映画『エド・ウッド』で見せた女装も、この時の経験から以外と難なくこなせたのかもしれません。
13歳の年(1976年12月)、セックス・ピストルズテームズ・テレビ局の番組「トゥデイ」に登場し、ジョニーは衝撃を受けます。学校を卒業したらガソリンスタンドの店員になるしかないな、思っていたジョニーに「ロック・スター」になる夢が沸き上がってきました。この年、ドラッグを体験しはじめ、一気にのめりこみ、またピックアップ・トラックの荷台で、4歳年上の少女を相手に童貞を失ってします。とにかくこの時期は何かにいつも腹を立てていて、自己嫌悪に陥り、自身惨めだったと振り返っています。

15歳の時、両親が離婚。母の下に一人だけ残る

15歳の時、両親が離婚します。マイアミにきても続いていたいがみ合いから(DV。父の家庭内暴力もあったようだ)予期されたことだったとはいえ、ジョニーの心には予想以上にこたえたようです。「誰がどちらの親につくのだろう」と、兄弟間でひそかに話していたことが現実になります。9歳上の兄と2歳上の姉はこの時、すでにそれぞれが家を後にしていたので、母のもとに残ったのは結局ジョニーだけで、自然母を支えなければならないと思うようになったといいます。父は一番上の姉デボラを連れて家を出ていきました。母は離婚は2度目のことだったこともあり、心身ともに深く傷つき病んでしまいました。家族にとってものすごいショックなことで耐えれそうになかったといいます。そのため兄弟たちは団結してできるだけのことをするようになったといいます。一方でジョニーは父母とも2人ともかけがえのない存在であり、どちらの親に対しても誠実であろうとおもったといいます。

同じく家庭崩壊した友人と車の中で一緒に過ごす

しかし、ジョニーの心の奥底に深く根をおろした不安感はぬぐいさることはできませんでした。両親が離婚すると学校ではますます自分ははみだし者だと思うようになったといいます。また不思議なもので、逆に息苦しかった「家庭に居場所」をみつけられるようになったともいいます。けれども馴染むこともなくなっていた学校での成績はさらに落ち始めていきます。ちょうどこの頃、親友のサル・ジェンコの家庭も崩壊し、サルは独り家を出て67年製シボレーのインパラの後部座席で寝泊まりしはじめていました。ジョニーは孤独なサルをほおっておけず、一緒にカーラジオを聴き、ギターを弾き、ビールを飲んで、一緒に夜を明かしたりしています。インパラの後部座席をジョニーはこの時期、「我が家」と呼んでいたほどでした。「我が家」には食べ物はなにもなく、食料は近くのセブンイレブンからくすねてきたサンドイッチで空腹を満たしたといいます。

自傷行為とタトゥー

その一方、ジョニーはトラウマに直面するようになっていました。カミソリで腕を切るようになっていたのです。自傷行為は精神的な動揺、疎外感、情緒不安定さのあらわれで決して女性特有の行為ではないことが精神医学の分野でわかってきています。その行為はタトゥーに出会った時になくなりましたが、その代わりにタトゥーのアートに異常なまでに執着するようになります。最初のタトゥーは母親ベティ・スーでした(左腕にハートマークに囲まれは母ベティが彫ってある)。右の二の腕にはインディアンの酋長の頭部が掘ってあり、自身がチェロキー族の血筋であることが刻印されています。最終的には14個を数えるまでになっています。ジョニーは身体の傷やタトゥーは自身の日記帳のようだともいう。傷跡はどこに書かれた見出しだとも。

ロック・バンド「ザ・キッズ」結成。トーキング・ヘッズイギー・ポップらの前座に

ジョニーはギターにいれこみます。バッド・ボーイズというバンドや他のバンドにも参加し人前でギターを弾きだします。最終的に「ザ・キッズ」というバンドを音楽仲間たちと結成し、お互い成功することを誓い合います。友人サルもバンドに同行し照明技師やコンサート会場の設営スタッフとして働くようになりました。サルは後に、ジョニーがハリウッドのサンセットストリップにつくったナイトクラブ「ザ・ヴァイパー」のマネージャーを務めることになります。
高校を中退したジョニーにとって「ザ・キッズ」は救世主でした。パーティーや催し物で一回につき25ドルで演奏するようになります。ジョニーもバンド仲間も懸命に練習を重ね、口こみで「ザ・キッズ」の評判もあがっていきました。そしてロック・クラブで名を知られるようになると、B52sやトーキング・ヘッズ、そしてイギー・ポップなどトップバンドのオープニングアクトを(大物ミュージシャンのステージともなれば前座でも2、3バンドあり)つとめるまでになります。「ザ・キッズ」は南フロリダで3年以上演奏を続けていきます。
この時期、ジョニーは、5歳年上のロリ・アン・アリソンと出会って、その2カ月後に結婚を誓い合うようになります。ロリ・アン・アリソンは「ザ・キッズ」のメンバーの姉で、彼女もミュージシャンをめざしていました。

フロリダで3年のバンド活動の後、ロサンジェルス

20歳の時、転機がきます。1983年、ハリウッドのライブハウス「ザ・パレス」の出演契約をになうエージェントに声を掛けられたのです。ジョニーとメンバーはハリウッド行きを決断します。バンドをビッグにするために、レコード会社と契約をとりつけるために。ジョニー自身、その時ロサンジェルスで成り上がるのは時間の問題で、すべてうまくいくとおもっていたといいます。とにかくジョニーの魂をドライブさせていたのは、ジャック・ケルアックの自由奔放さと音楽による冒険でした。ロサンジェルス行きはジョニーの『路上』でした。
ところがタトゥーとイヤリング、破れたジーンズで、ロサンジェルスに乗り込んだジョニーを待っていたのは、予想をはるかに越えた激烈な競争だったのです。サンフランシスコやシアトル、はてはシカゴからトップを張るオープニングアクト・バンドも流れこんでいて、「ザ・キッズ」は波に飲み込まれてしまいます。「ザ・キッズ」は数百ものバンドのサバイバルゲームに生き残れるバンドか、そうでないかは自ずからはっきりしてきたといいます。バンドとしての力量は突出していない、ということが。フロリダとちがって前座での存在感もまったくありませでした。
パンク・ムーブメントからすでに6、7年たち、髪を逆立て、破れたジーンズに、激しいステージングとパンク・パフォーマンスは、すでにあちこちで既視感のあるものでした。この頃、西海岸の北部シアトル近郊にアバディーンでは行き場所を失っていたカート・コバーンニルヴァーナ)が、図書館に日参し、「時計仕掛けのオレンジ」の著者アンソニー・バージェスブコウスキー、劇作家ベケットの作品を次々に読破しながら、ノートに曲を書きつけていました。さまざまな音楽が流れ込んでいたシアトルでは、パンク・ムーブメント以降の新たな動きーグランジ・ムーブメントが胎動しはじめていたのです。

ロスでの熾烈なバンド競争。20歳で結婚。建設現場やガソリンスタンドで働く

ロサンジェルスではビリー・アイドルの前座もつとめるようになりますが、音楽の仕事はまったく安定せず、バンドの求心力も薄れていきました。ロリ・アン・アリソンと結婚していたジョニーは2人で暮らしていくために、建設現場やガソリンスタンドで働きだします。妻ロリ・アンもメイクアップの仕事をしはじめます。機械工やスクリーン印刷の職人などの職を転々としたジョニーは、電話セールスの仕事をしはじめます。それは電話を使った商品(文房具など)の押し売りで、買う気が無い客をまるめこんで週100ドル稼げたといいます。これが初めて「演技」をするようになった仕事だったと、後年ジョニーがよく引き合いにだす仕事となりました。
夜には、ロスではウケないバンドネーム「ザ・キッズ」を「シックス・ガン・メソッド」に改名し、再び皆で演奏を続けてはいました。その状況が妻との口論に。結局、結婚生活は2年で破綻(平和的終結)。が、この結婚の解消が、ジョニーにとんでもない人生を呼び込ませるのです。妻が仕事先でメイクアップをしていた若者の一人は、ニコラス・コッポラ(ケイジ)でした。このニコラス・ケイジがロリ・アンの新恋人となってジョニーの前にあらわれることになります。▶(4)へ続く-未