キース・リチャーズの「マインド・ツリー(心の樹)」(2)- 2歳の時から、完璧な音程で歌が歌えた。祖父はダンス・オーケストラでギター等をプレイ


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祖父ガスはダンス・オーケストラで、バイオリンやギターを弾いていた

▶(1)からの続き:
祖父のガスこそ、幼いキースの「心の樹」の”根っ子”を太く肥やした人物でした。キース少年にとってロンドンは、祖父ガスのいる場所であり、音楽に満ちた場所でした。母はロンドンの祖父の家にキースを連れて行きました。そこは母ドリスが音楽好きになった場所であり、ドリスの音楽好きは父の影響でした。つまりは母の家系がキース・リチャーズの音楽の”根”と音楽的感性と能力をかたちづくったといえます。母とその父(母方の祖父)からの2人からの「音楽」の影響は、間違いなく1人からの影響よりも強く深くなります。映画『パイレーツ・オブ・カビリアン』への出演を誘い込んだジョニー・デップの場合と似ています。ジョニー・デップの場合、母の感性と音楽への理解、チェロキー・インディアンだった母方の祖父からの包まれるような影響、そしてゴスペル・ソングとパフォーマンスがうまかった牧師の叔父からの影響が、ジョニー・デップの音楽的感性と人生観に大きく映しだされています。
祖父ガスは、昼間は薬局や生地裁断工場に勤めていましたが夜になるとすっかりミュージシャンに変身していました。土曜の夜にはアメリカ軍基地内(そのためキース少年はガスのステージでのプレイを一度も見ていない。母ドリスはガスの音楽の趣味を引き継ぎ、キースがまた引き継いだわけだが)で催されたダンス・バンドのオーケストラの一員だったガスは、ギターとサックスかヴァイオリンをプレイしていたといいます。ガスは第一次大戦中にマスタード・ガスで喉をやられ得意だったサックス一本からヴァイオリンやギターも弾けるようにしていました(ガスは2本の弦を同時に押さえるダブル・ブレイクス奏法にたけてクラシック界のヴァイオリン奏者の天才メニューインと連合軍のための慰問活動でなんとデュオで共演したこともあったといいます。その時、メニューインはおそらく20代後半で、世界レベルで一級品なので、祖父ガスの腕前もかなりのものだったことがうかがえます。キースが幼少の頃に接していたのは相当ハイレベルな演奏であり楽器であったにちがいありません。軍の慰問活動も一級の人たちがよく駆り出されます)。
幼少のキースは祖父の家に連れて行かれると、部屋の隅に立てかけてあるギターのそばに行っては弦を叩いて、ボロンボロンと音を出して喜んでいたといいます。もっともキースが来たらギターを触れるように出してあったのはすべて祖父の計らいで、ふだんはギターケースにしまわれてありました。とにかく祖父の部屋には、ギターだけでなくピアノ、サックスもあり、キース少年にとって音楽博物館といった感じだったようです。

ロンドンの楽器店で、祖父からコードを教わる=音楽人生の出発点

むろん祖父の「音楽博物館」は死んだ楽器たちではなく、楽器は生きた音楽を奏でるもので、祖父はそれを孫のキースに感じてもらおうと、ドリスが姉妹たちと話し込んでいる間、(犬の散歩と偽って、実際犬を連れて)こっそりキースをロンドンに連れ出しました。トラファルガーとチャリング・クロスの間にある古本屋や楽器屋が軒をつらねる有名な場所に、ガスの友人が営む楽器屋があったのです。ガスはそこで友人といろんな話をしたり、弦楽器を弾いたりしていました。キースは分解されたヴァイオリンやギターを目を丸くして見たにちがいありません。祖父はキースにギターを抱えさせると、CやE、Aマイナー・コードの形に指を置かせ弾かせたのでした。キースは後に、この「場所」から自身の音楽人生が始まったんだ、と語っています。祖父はキースに楽器屋に行ったことは男と男の内緒の話だ、口止めさせていたといいます。
また祖父ガスは音楽をずっと楽しんできたせいか精神的にも若く、悪口を言っても後で大笑いするキースのユーモアのセンスと”波長”が合い、年齢は離れていても”馬が合った”間柄だったといいます。ユーモアのセンスも乏しく、音楽にも”聞く耳”をもたなかった父の前では、キースはなぜか強張(こわば)ってしまい自然な態度でいられなかったといいます。ところが祖父ガスの前だと自然体でふるまうことができたといいます。精神的な鉾は、必ずしもDNAだけで決まるものでないことはリチャーズ家のケースからでもよくわかります。パティ・スミス一家の場合も、父が工場労働者(途中から夜勤)でしたが、好奇心があり読書をしたり、パティがつくりだしたお話を演じるのを両親は一緒に楽しんでくれていたのです。しかし、リチャーズ家の場合は、ほとんど父は存在しなくなる以上に萎縮させるだけの存在になってしまうのだ(1965年からキースは父に会うこと自体、事実上なくなっている)。職場結婚ならお互いの性格や趣味も知り理解し合って結婚する場合が多いはずで、宗教活動のボランティアでの出会いだったために信仰心は近いものがあっても日常的な趣味や性格は、戦時下という事情も手伝ってよくは知らずに一緒になってしまったようです。

2歳の時から、完璧な音程で歌が歌えた

キースは、わずか2歳の時から完璧な音程で歌が歌えたといいます。おそらく「完全音階」か、それに近い音感覚ができあがっていたにちがいありません。皆で歌う時、母ドリスが多少ともくずして歌うと、「ちがう」とすぐにずれた音階を指摘していたといいます。また歌詞を完璧に覚えるのも早かったようで、クリスマスのパーティの場などでも皆にせがまれるとキースはすぐに好きな歌を歌いだす子供でした。荒くれ者やギターのイメージばかりのキースですが、少年期はなんといっても「歌」でした。レコードやラジオから流れる歌に合わせて歌うのがキースは大好きだったのです。
キースのパーソナリティは、無口だった父の性格もある程度受け継いだようですが、母方の要素の方が圧倒的に大きく影響しておたようです。なにせ母は7人姉妹で、キース少年は母の実家へ行くと女系家族の中ただひとりの男の子だったのです(キースは母の実家のある通りを「セブン・シスターズ通り」と呼んでいた)。そして「セブン・シスターズ通り」を歩く度に、キース少年は、自分はここじゃ特別な存在だと意識するようになったといいます。家ではひとりっ子でしたが、女系家族の中で男の子が一人だったことが、繊細なのにあまり涙をみせない「自尊心」を醸成させたのかもしれません。その「自尊心」はさらに高まり、「世界は自分を中心に回っている」という感覚(幼い子供は多かれ少なかれそう感じますが、キースの場合かなりの間つづいた)と自覚にまでいたっています。
しかも歌のうまかったキースは聖歌隊に入ると頭角をさらにあらわし、遠征に連れて行かれたり合唱コンクールに出場したりした後、ウェストミンスター寺院で白い祭服を身にまとってハレユヤを歌うことがゆるされる3人に選ばれたのです。キースはソプラノ担当でした。またこちらも誉れ高いロイヤル・アルバート・ホールでもステージに立って拍手喝采を浴びています。キースはそのままいけば類い稀なシンガーになっていたかもしれません。ところが大概はソプラノ担当は13歳で声変わりし、お役御免になります。キースもまた同じでした。▶(3)に続く