フリーダ・カーロの「Mind Tree」(2)- 父はたえずフリーダの知的好奇心を刺激しつづけた/写真スタジオの蔵書


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「棒足フリーダ」とからかわれ、内向的に

▶(1)からの続き:小児麻痺から萎えた右足の機能を回復させるため、父はフリーダに、足を使うように木登りやボート漕ぎ、ボール遊ぶにはじまり、水泳やサッカーだけでなく、ボクシングやレスリングまでいろんなスポーツをさせました。けれども右足は棒のように痩せたままで、細いふくらはぎに何枚もの靴下を履いたりしましたが、かつて日本では野口英世が火傷をおい「手ん棒」とからかわれたように、フリーダは「棒足フリーダ」とからかわれ、除け者にすらされたこともあったようです。学校でそのことでからかわれるようになり心が傷つきはじめます。その反動で、フリーダは内向的になったと後に語っています。
父は6人の娘の中でフリーダが、<内省的性格>と<鋭い感性>を受け継いでいるとみていたので、てんかんの持病があった自身と同じようにひっそり苦しんでいるフリーダを、なんとか支えようとします。ほとんど感情を表に出さない父でしたが、フリーダといる時だけは別で「リベール・フリーダ」とドイツ語で語りかけるのでした。フリーダは娘のうちで一番知的だで自分に似ているというのが口癖だったといいます。

父はたえずフリーダの知的好奇心を刺激しつづけた。写真スタジオの蔵書

父はそんなフリーダの知的好奇心を刺激するかのように花や植物、石や貝、動物や鳥、昆虫など自然のものへの関心を高めさせます。しばしば一緒に公園に行けば、父が水彩画を描いている間(父はプライベートではアマチュア画家だった)、フリーダは珍しい植物を採集し、持ち帰って顕微鏡で覗いたり、図鑑で調べたりするのだった。こうした緻密な作業は、フリーダが若い頃、苦手だっただけに、後の絵画にあらわれてくるようになる緻密な作業や凝り性は、直接教えられた(父譲りの)ものともいえます。2人は、フリーダが大事故にあってからも関係は緊密で、カメラの使い方や現像・着色の技法を伝授したり、メキシコ芸術やメキシコ考古学への関心をたえず深めあったりしたことは、大きな財産になっていきます。とくに後のフリーダの絵にみられるようになる細やかで緻密な筆使いは、父からならった写真修正からくるものだったといわれます。

この頃にはすでに父は再び写真の仕事に戻っていて(以前の様に時の政府委嘱の撮影とはいかなくなります。写真スタジオは以前勤めていた宝石店の2階)、一日をまるで規則に則るように過ごしだしていました。スタジオには、仕事場や写真装置類、暗室以外に、ゲーテやシラーなど数多くのドイツ語の原書などを揃えた書庫がありました。この蔵書は何度もフリーダにだけ貸し与えられています。机の上には父が親愛ショーペンハウエルの写真が飾られてあったのをフリーダはしっかり見ています。父はある日、「哲学は人間を思慮深くし、義務を果たすための助けになる」とフリーダに語ったそうです。父は毎晩決まった時間に戻り、家族に礼儀正しく挨拶すると、ドイツ製ピアノのある部屋にきまって1時間こもるのだ。独り静かにベートーベンやヨハン・シュトラウスを聴いたりピアノを弾いたりし、妻が付き添い独り黙して夕食をとると、再びピアノに向かい、1日の最後は読書をして寝るというのが日課だったといいます。

フリーダの肖像画は、父のぎこちない「肖像写真」の影響があらわれている

父はその性格から、仕事柄スタジオで肖像写真を撮る時は、どこかぎこちなく形式ばる風にしか撮れなかったそうです。その感覚は、フリーダが描く肖像画にもあらわれているといわれています。フリーダも父が制作した人物撮影が多いカレンダー写真と自分の肖像画が似ていると語っています。ただ父は目に見える人や現実の風景を撮影したけれど、フリーダは「マインド・イメージ」(心に浮かぶもの)を描いたのだと。アマチュア画家だった父の影響(その絵は静物画と農村の風景画で、緻密で写実的なもの)はまったくあらわれませんでした。フリーダは父の写真と絵画の両方を見ているはずなのに、不思議なことに「写真」からだけ影響を受けたわけです。それは自己を見つめる内省的なフリーダのスピリット、「マインド・イメージ」に合ったためでした。
じつはフリーダと父の関係は、フリーダの病気以降、さらに深くなっていったといいます。それは父も10代後半に転倒して脳にダメージを受け、それ以降てんかんの発作があらわれるようになっていたからで、夜中就寝前や写真撮影で戸外に出る時、突然てんかんを起こして(1カ月半ごとに起こる持病)卒倒する父に、フリーダはアルコールやエーテルを嗅がせていました。少女フリーダにとって父は「謎の存在で、かわいそうな人であり、よき理解者であり、最高の模範」だったと語っています。周りからはつねに自制し寡黙な男ととらえられた父は、フリーダにはおだやかな人と映ったといいます。
13、4歳になってくると、フリーダは再び、向こっ気が強く、バイタリティあるお転婆娘に戻ってきます。髪は黒髪、額で真横に切りそろえられた男の子風オカッパ頭で、コヨアカン中を青いオーバーオールを羽織って、男の子たちとスリルいっぱいに自転車を飛ばしている姿は、ブルジョワ家庭の母親たちの噂の種になっていました。いつも背にかついでいたのは男の子用のナップザック(中には教科書やノート以外に、いつもスケッチ帖やドライフラワーや絵具や父の蔵書、それに蝶がはいっていたという)でした。

15歳、メキシコ最高の教育機関の国立予科高等学校に入学

15歳のとき(1922年)、フリーダはこの世代のメキシコ最高の教育機関の国立予科高等学校(メキシコ国立大学の付属高等学校)に入学します。フリーダの知性と感性は、父や一族から直接的に血のように流れ来たもの以外は、当時のメキシコの活気と情熱、文化や教育体制や学校の風潮がフリーダを育む母体(マトリックス)となります。フリーダは家族のいるコヨアカンの生活からメキシコ市の中心地へと、トロリー電車で1時間かけて通いました(3年後に悲劇の衝突事故となるトロリー電車です。その時フリーダはバスに乗っていましたが)。母は当時の母親なりの理由で(予科高等学校は男子ばかりであまりに危険な場所だと)反対しましたが、父は若い頃挫折した学問への途を娘に託しました。フリーダが入学した当時、女性の入学が認められたばかりの時で、全生徒数約2000人の内女性は35人だけだったといいます。そこでフリーダはメキシコ中から集まってくる前途有望な男子生徒と同じく知的専門職をめざして学問を学ぶことになります(5年後に医学部への進学が可能となるコースをこの時すでに選択している)。
ところがフリーダの悪戯好きとスリル好きは、ここでも発揮されることになります。父から継いだ内省的なスピリットは、文学グループ「コンテムポラネオス」に加わることで維持されたようです(ディエゴ・リベーラの2番目の妻評論家のホルヘ・クエスタや後に著名な詩人となるカルロス・ペリィセールと親友になっている)。また政治色の強いサークル「マイストロス」にも顔をだしていましたが、最もフリーダのお転婆な性格と機転、”反逆的姿勢”を心から楽しむことができたのは、「カチュチャス」(全員帽子を被り、男子7人と女子2人)というグループでの活動でした。▶(3)に続く