シド・ヴィシャスの「Mind Tree」(3)- ハイスピードで自身のファッションをつくり変えていく


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「ザ・ハイウェイ・マン」という作者名で、いろんな絵を描く

▶(2)からの続き:ハクニー・テクニカル・カレッジで2年目になると、シドはアートの才能を伸ばしはじめています。線描絵、スケッチ、水彩画、それに色鉛筆の上から水彩でウォッシュをかけたダリ風の絵、さらに漫画、写真を加工した作品、楽器(サックス)の絵などを、「ザ・ハイウェイ・マン」という作者名で、授業はさぼりながらも気の向くままにつくっていましたが、静物画を描くことにオブジェクション(反論)します。「どうして静物画を描かなくちゃならないのか、さっぱりわからないと」。バカでどうしようもないと思っていた講師が、まずは正確に描けるようになって、それから自由にやればいいと、シドに諭しますがシドには効果はありません。楽器を習う時と同じで、シドは基礎を学ぶのが耐えられないと感じてしまうのです。
結果2年の時、学校を辞めましたが、学校の休憩室にはしょっちゅう姿を現していました。まだ友人のライドンはキャンパスにいたので、スクールはシドの社交場でした。ほとんどの学生が肩まで髪を伸ばしていた長髪の時代に、短く髪をツンツンに逆立て、黒一色のいでたちで、学生たちの間では、「スパイキー・ジョン」(ツンツンのジョン)という渾名(あだな)で通っていました。目立っていたというより、珍しいタイプだったようです。まだこの頃は、デビッド・ボウイロキシー・ミュージックが好みで、ピンク・フロイドシド・バレットの話すらしていたといいます。

くるくる変わる名前。家を追い出される

しかしこの渾名「スパイキー・ジョン」は、まもなく「シド・ヴィシャス」となります。シドはあたかも日本の魚の「出世魚」の代表格ブリが4通りに呼称されるように(ワカシ→イナダ→サワラ→ブリ)、サイモン・リッチー→ジョン・ベヴァリー→ザ・ハイウェイ・マン/スパイキー・ジョン→シド・ヴィシャスと4変化していきます。実際に、見た目もファッションもその4段階に沿って大きく変化するのでした。それはシドの内面のヴォイスに応えるものでありましたが、同時にその時代に感応したものをファッションで応えたものでもありました。そのためスパイキー・ジョン→シド・ヴィシャスは、シドの周りの者が勝手につけた渾名であり呼び名だったのです。愛する母だけは、ずっとシドのことを「サイモン」と呼んでいましたが、少年期にファミリー・ネームが変えられたこともあり、変名はそれほど気にしなかったようです。スクールで描いた絵に自らつけたアーチスト名は、「ザ・ハイウェイ・マン」でした。
また「シド・ヴィシャス」と名をつけたジョン・ライドン本人も、マルコム・マクラーレンによって「ジョニー・ロットン」と勢いのあるネームをつけられています。ジョン・ライドンは、ふつうにしているとかなりシャイで、内気で、物静かだったので、マクラーレンがその性格を打ち破るようにとアーチスト・ネームをつけたわけです。対するシドは何に対してもビビらない、いつも気になるものがあればやる気まんまんで手を出していくタイプでした。性格は違っても自分の考えや信条は自分でつくりだしていくこと、そして社会に対しては、”くそっ!”、”むかつくぜっ!”という感覚はまったく共有していました。いわゆる”波長”があったわけです。

狭いからと家を追い出されたシド

この頃、クイーンズブリッジ・ロードの薄暗いフラットに住んでいて、母子2人して一緒のソファーに座って腕に針を射してスピードをうっているのがよく目撃されています。後のクラッシュのギタリストのキース・レヴィンら何人もその一人でした。18歳(1975年)の秋からシドは家を後にします。公営フラットで2人で暮らすにはあまりに狭苦しかったのです。他の選択枝もなかった母アンはシドに自分でねぐらを探すように追い出してしまいます。
シドはまもなくお洒落なブティックが並ぶヒース・ストリートの奥のうらぶれたニュー・コートに居場所を見つけます。そこはバーバラという30代の女性が、宿無しの若者たちに解放していた空き部屋がありました。バーバラはシドのよき理解者になりますが、この頃シドはかなりいってしまっていて時に猫の首を締め上げたり、暗い夜道で飛び出しナイフで老女を襲い金品を巻き上げたこともあったともいわれています。それ以外はドラッグと夜通しのパーティーがつづいていた時期だったようで、「セックス・ピストルズ」前夜はやはりふつうではなかったことがみてとれます。
シドがジョン・ライドンが働いていたトッテナム・コート・ロードの高級家具店ヒールズの最上階にある健康食品のレストランで、キッチンの掃除をして働いていたのもこの頃でした。父とコンクリートを敷く仕事をしていたジョン・ライドンも、シドと同じように家を追い出され、靴工場で働き(すぐ辞める)、新しく見つけた働き場所でした。気のあうジョン・ライドンとの仕事は楽しかったようで、仕事を終えた後に2人で残り物の食べ物をすべてたいらげ朝まで大騒ぎしていました。

ハイスピードで自身のファッションをつくり変えていく

アメリカのアンダーグラウンド・バンド、ラモーンズ(1974年結成。CBGBの常連に)のファースト・アルバムを購入(1976年春発売)したシドのギアが切り替ります。ラモーンズサウンドは、60年代のガレージ・バンドの音と、ストレートなロックン・ロールを<ハイスピードで化合>したもので、「ザ・ハイウェイ・マン」のエンジンをゆさぶりました。ラモーンズのベーシストのディー・ディー・ラモーンがシドのヒーローとなあります。シドがラモーンズの虜になったもう一つの理由は、彼らのファッション・センスでした。サングラスと黒の皮ジャン、破れたタイトなジーンズ。「ザ・ハイウェイ・マン」=シドは、まさにハイスピードで自身のファッションをつくり変えていきました。
シドの魂を震い立たせるのは、外界にあるものを白いキャンバスに静物画や水彩画として描き出すことになく、<自身がキャンバス>となることだったのです。その<キャンバス>は、つねに自分の魂と身体が鼓動する生身のキャンバスなのです。そんなキャンパスそのものと化したような自分が、周囲から切り取られた生気のない白いキャンバスに向って静物画を描こうにも、「分けがわからなくなる」のは当然といえば当然でしょう。
自らキャンバスと化した「ザ・ハイウェイ・マン」は、もの凄い速度で耳にできるほとんどのパンクのギグに出掛けていくようになります。1976年7月に催されたラモーンズのイギリス・ツアーもシドは当然、押し掛けています。このラモーンズのツアーはイギリスの若手ミュージシャンたちに大きな影響を与えたツアーでした。またセックス・ピストルズ=ヴァイオレンスとなったのは、それより3カ月前の1976年4月、シドがヴィヴィアン・ウエストウッドと一緒にセックス・ピストルズのギグに行った際の出来事(シドがヴィヴィアンの席を断りもなく座った男をチェーンで叩きのめした流血事件)で決定的になっていました。「ザ・ハイウェイ・マン」は、サウンドとヴァイオレンスを身につけ「シド・ビシャス」に変換していきます。▶(4)に続く-近日up予定