マン・レイの「Mind Tree」(3)- 22歳、「マン・レイ」と名乗り出す。勤めていた製図会社の噴射器を自作に応用。30歳の頃、「肖像写真家」を目標にしだす

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22歳の時、「マン・レイ」と名乗り出す。その名前の由来とは

▶(2)からの続き:ニュージャージー・リッジフィールドの自然の中に暮らしていたエマニュエルの絵が、<突然変異>しはじめたのにはもう一つ大きな契機がありました。それはニューヨークで開催された「アーモリー・ショー」(1913年開催)で見た、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアらヨーロッパの前衛美術を目の当たりにしたことでした(それは「291」ギャラリーで見たロダンセザンヌピカソブランクーシの前衛さとはまた異なるものだった)。物議を巻き起こしたデュシャンの「階段を降りる裸体」もそこにありました。
ニュージャージー・リッジフィールドの自然の中に暮らしていた1913年は、エマニュエル(23歳)の「心の樹」が”覚醒”した年になりました。この年、ドンナと入籍しています。名前は前年の1912年にエマニュエル・ラドニツキーから、「マン・レイ」に変じていました。エマニュエル、22歳の時でした。偶然にも「写生」はもうやらない、と決意した年だったようで、「夢」の絵画のシリーズを描きだした年でもありました。
「Man Ray」の名は、本名のEmmanuel Radnitzkyから、名と姓をそれぞれパッチワークの様に取り出し、縮めて、生み出した名前です。「Man-マン」と「Ray-レイ」は、ここでもマン・レイらしく、2つの要素が思いもよらないかたちで”詩的”に組み合わされたものでした。「Ray-レイ」の方は、この前年(1912年)に、反ユダヤの人種差別が蔓延してきたため、弟(マン・レイは4人兄弟の兄、2人の妹がいる)がユダヤ人だと判じにくい姓にしようと提案し、Radnitzkyを縮めて(頭の「Ra」と最後の「y」の間を略して「Ray」にした)、家族全員の姓を「Ray-レイ」にしたのでした。ファーストネームの「Man-マン」の方は、もともと幼少期からエマニュエルは、家族の皆から”Manny"というニックネームで呼ばれていたので、姓が簡潔に「Ray-レイ」となったため、名もそれにあわせるかのように簡潔に”Manny"というニックネームを縮めて、「Man-マン」としたのでした(家族からはその後も以前のまま”Manny"と呼ばれた)。「詩」を沢山読んで語彙に長け、”詩想”豊かだったエマニュエルは、「自身の名前」も名と姓ではなく、一つに合体させ<シングル・ネーム>として詩的に”創作”したのです。「意味」を剥がし、閉め出すデュシャンに対して、思いもよらない2つのものを結びつけ「詩的な意味」を見出し、自身を絶えず挑発しつづけた「マン・レイ」ならではの名付け行為といえます。多くの「セルフ・ポートレイト」を撮っている謎も、自身の”命名”の行為と深く繋がり、また後に「肖像写真家」として意味と価値を見出していくのも無関係とはいえません。

芸術の「影響関係」ということ。自身の作品の「複製写真」を自ら手がけるようになる

「アーモリー・ショー」は、マン・レイにあることに”気づく”またとない契機でした。それは芸術の「影響関係」ということでした。ヨーロッパの前衛芸術ですらお互い影響し合って前にすすんでいる。どの時代にも芸術には「影響関係」が必ずあり、自身の影響の源も、じつは「選択」することができる、そう考えたのです。わたし(拙文の執筆者)の考えでは、その「選択」する行為のうちに、無意識の裡にも「マインド・ツリー(心の樹)」が必ず映しだされるし、逆に言えば「心の樹」こそが「選択」させるはずです。
さて、マン・レイの名前は、ニューヨークで新しい芸術の地平を切り開きつつあったスティーグリッツや知人の画家らを通してじょじょに知られるようになっていました。翌14年には、五番街の老舗画廊で開かれた現代アメリカの画家たちの展覧会に声をかけられ「1914年」という作品と新作を出品。知人のダニエルが五番街に画廊を開くにあたって、その年の秋マン・レイの個展の開催を計画していました。マン・レイはその展覧会カタログと報道用に作品の「複製写真」をプロの写真家に依頼したのですが、作品に対する理解がなければ満足する写真は撮れないと判断。自ら「複製写真」をつくりだすのです。スティーグリッツの「291」で見事な「写真」を見た経験や、この頃、画家でありながら熟達した写真家でもある人たちに出会っていて刺激を受けていたこと、それに困難なことに直面するとそれを征服するまで落ち着かないという自身の気質が、マン・レイを自身の作品の複製写真の制作に向わせたようです。「複製写真」をつくりだすことは、「絵画」と「写真」という、ここでもまた2つのものを結びつけ「詩的な意味」を見出す、マン・レイの「イマジネーション」の発露の一つのかたちでもありました。
そしてマン・レイの噂を聞きつけた詩人であり近代美術の蒐集家のワルター・アレンズバーグが、デュシャンと連れ立ってリッジフィールドのマン・レイ宅にやってきたのはこの頃のことでした。マン・レイはフランス語ができず、デュシャンは英語がままならず、妻のドンナが間に入るものの会話にならなかったので家の前でテニスをしたといいます。

「額」大嫌いだった。「転写」した形体を切り、直感で抜き並べていった

五番街のダニエル画廊での個展(1914年)では、マン・レイの意欲と変貌が、作品タイトルと展示方法となってあらわれだしています。作品名は「二次元の研究」「解釈」「発明」で、まさに後の「マン・レイ」の世界を予感させるもので、展示も「額装」を”ひどく嫌っていた”(マン・レイの言葉)マン・レイらしく、工夫して壁面とフラットになるように展示してありました。しかし絵は売れず、批評は非難ばかり(スティーグリッツや何人かを除き、この頃からそれを見た者にはほとんど理解不可能になっていた)、ところが個展終了後に蒐集家から6点(2000ドル)の購入申し込みがあったのです。
マン・レイはドンナとともにニューヨーク・レキシントン通り沿いに移り住みます。狭いアトリエで、様々な色の紙にスケッチしたり「転写」したり、ついでその形体を切り抜き、その紙の断片をひとつづきに並べたり、並べ変えたり試行錯誤を繰り返しています。そのうちの一つ形体が「綱渡芸人の影」に似ていると直感したり(作品「女綱渡師」となる)、「出会い」「伝説」「卓上壜」「管弦楽団」「とんぼ」「長距離電話」というタイトルをつけたりしています。その連作のタイトルを『回転扉』とし、蝶番を取り付け、回転させて連作を見れるようにしています。
デュシャンの影響もあったのでしょう。この頃、デュシャンもはや絵を描くことを放棄していて、チェスをやるかモーターで回る奇妙な機械(ガラス板に螺旋が描かれている)を制作しているかどちらかといった状況でした。マン・レイが操作過程を<記録>しようとしましたが装置が暴走しガラス板は砕けてしまっています(デュシャンは再度制作)。

勤めていた製図会社のエア・ポンプ付き噴射器で吹き付けて作品をつくる

マン・レイの「心の樹」は、もはや伝統的な美術の枠から飛び出していました。ニューヨーク・アンデパンダン展(デュシャンが男子用小便器に『泉』とタイトルをつけ提出し、展示されず委員を辞退し物議を醸した展覧会。1917年開催)に、「女綱渡師」を提出し、ついでダニエル画廊に、観客に冷笑されることになる「自画像」を展示しました(電気のベルと押しボタンを付け、中央に絵具で手形を署名)。マン・レイは自分自身を「発見」しはじめていました。以前に描いた絵は過去のものとなり幾つかを壊しています。まだこの頃、製図デザイナーの非常勤の仕事をしていてそれが唯一の収入源でした。マン・レイ、27歳になっていました。お金も底をつきだし、5番街と6番街の間に安アパートを見つけてドンナと住みだしています(何かを制作する場所もないほど狭く、数ドル追加して屋根裏部屋を仕事部屋にあてた)。もはやマン・レイは、伝統的画家がもっている絵具もイーゼルも、絵筆もパレットも鉛筆も手元にはありませんでした(この時期、家賃が安い場所といえば、画家やボヘミアンの溜まり場グリニッジ・ヴィレッジでしたが、マン・レイはその雰囲気が好きになれずこの頃は避けている)。
さらなる「インスピレーション」がやってきました。その「インスピレーション」の種は、マン・レイがまだ席を置いていた製図会社にあったのです。形体の正確な輪郭を描く時に、ステンシル(刷込み型)を切り抜いて吹き付けしてはいけない部分を保護し、あっという間に仕上げることができるエア・ポンプ付き噴射器がそれでした。マン・レイはこの「商業美術」でよく使われていた噴射器と方法を自身の作品に応用できるのではと直感したのです。少年の頃、砲をつくって導火線を発火させ、鼠を筒に入れて発射させた悪戯好きをどこか彷彿とさせるような実験精神が頭をもたげたのです。勤務時間後に会社にひとり残って実験を繰り返しすマン・レイ。妻ドンナに帰宅時間が遅いと小言を言われつづけたマン・レイ。ならばとアパートの屋根裏部屋に圧搾空気ボンベを取り付け、噴射器を会社から持ち帰って制作を続けたのでした。ボール紙に吹き付けたそれは「写真」に似た質感になっただけでなく、画面に触れずに作品をつくるその過程は、ぞくぞくするものだったといいます。この制作過程が、自然の写生とはまったくちがい、純粋に<大脳的な行為>だったことがマン・レイを充足させていくのです(一連の作品は「アエログラフ」と呼ばれた)。
作品は、見知っている室内の光景や裸婦のイメージから、抽象的な型になっていきました。するとでき上がったものがより<神秘的>にみえ、マン・レイはさらにのめり込んでいきます。マン・レイが高い「詩的感性」(少年時代から「詩」の本を読むのが大好きだった)の持ち主だったことで、抽象的な型に象徴的作用がはたらき、<神秘>が生じやすくなったにちがいありません。外側からひとの手をほとんど借りることなく(絵画と比較して)、形が忽然と形成されるこの感覚は、後の「レイヨグラフ」(印画紙の上にものを置き”感光”させる)にぐんと近づくことになります。噴射器を吹き付けたマン・レイの作品は、商業美術の道具を用いて制作し、美術の価値を貶めていると非難の声が巻き起こりました(作品は一点も売れず)。しかしもはやマン・レイは、美術の伝統的な軌道の中に体(てい)よくおさまろうとは考えていませんでした。すでにマン・レイは、デュシャン宅で『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』のガラスを用いた作品を目撃しています。さらに「写真」は将来、美術にとって代わるだろう、というデュシャンの予言。それはマン・レイの予感と響き合い、絵画や美学的なものから自身を「自由」にしなくては次にすすめないという考えに逢着していくのです。革新的なサウンドをつくりだそうとしていた音楽家エドガー・ヴァレーズ(後に"organised sound"の発明者にして、エレクトロニック・ミュージックの父と言われるようになる)や、工業化したアメリカを描きアメリカの未来派のアーティスト、ジョセフ・ステラは、デュシャンとともにつねにアパートに訪ねてくる間柄になっていました。マン・レイの「心の樹」は、伝統の柵(さく)に囲まれた安泰とした場所に生える樹ではなくなっていたのです。

「肖像写真家」が目標になる。「見本帖」をつくりはじめる

デュシャンの作品「埃の飼育」(あるいは「埃の成長」というタイトル)を撮影したのは、「ソシエテ・アノニム(株式会社)」にかかわり、その宣伝写真の準備としてのものでした。デュシャンマン・レイに、近代美術館(資金提供と設立提案者キャサリン・ドライアー)の副総裁にならないか打診してきたのです。マン・レイが「匿名協会(アノニマスソサエティ)」の意味と勘違いして提案した「ソシエテ・アノニム」をデュシャンが気に入り設立構想が動きだします。副総裁の仕事は五番街近くに用意されたスペースの内部装飾と寄付申込者を獲得するための宣伝活動、そして蒐集作品のカタログ用写真撮影でした。デュシャンの部屋には裸電球が一つあるだけで、作品の上には埃がたまっていました。マン・レイにはそれがものすごく<神秘的>にみえたといいます。この<神秘性>は、マン・レイの「心の樹」と触れた時に、”発光”するかのように生じるようです。カメラを三脚に固定し1時間露光してでき上がったネガは申し分のないもので、マン・レイはこの時にどんな撮影の仕事でもうまくやる自信をもつことができたと語っています。
そしてこの頃、妻のドンナと別れ話が出(マン・レイが家に連れてきた男と恋仲に)、製図会社にも辞表を提出し、もはや今までと同じ生活ができなくなった時、マン・レイはあることをしはじめています。アトリエ(アパート)に訪ねてきた人をつぎつぎに「写真機」で撮り始めたのです。アトリエに人を招待するのも「肖像写真」のモデルになってもらうためでした。そのうちの一人が、後にパリ・モンパルナッソスでマン・レイの暗室アシスタントになるベレニス・アボットでした(8年余後、ベレニス・アボットマン・レイに紹介され写真家ウジェーヌ・アジェに出会い、彼の写真の虜になります)。マン・レイは撮りためた「肖像写真」をスティーグリッツに見せ意見を聞いています(直近に催される写真展への出品を助言)。見本のアルバムがほどなくしてできあがりました。それはこれから「肖像写真(ポートレイト)」を撮っていくための「見本帖」だったのです。「肖像写真家」になることが、マン・レイの目標となったのです。30歳の頃でした。▶(4)に続く-未

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