美輪明宏の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 長崎花街「丸山遊郭」近くにあった生家のカフェ「世界」の隣は芝居小屋「南座」、向いには「近江屋楽器店」と「美術骨董屋」 



Art Bird Books Websiteでも、「Mind Tree」を展開中です。http://artbirdbook.com

はじめに:「美輪明宏」の”今生”のはじまりへ

「この世」に咲いた一輪の花が「あの世=天上界」にまでものびたような「マインド・ツリー(心の樹)」をもつ「美輪明宏」。シスターボーイとして、シャンソン歌手として、シンガーソングライター、俳優として、演出家として、また類稀れな一人の「自由人」として、「昭和」から「平成」の世となってもますます華麗なる存在感をましつづけていますが(「昭和」の歌姫、「美空ひばり」よりも美輪明宏は2歳年上)、その存在感があまりにも抜きんでているため、「美輪明宏」はすべてが別格の様に感じられているのではないでしょうか。あの輝きは「天草四郎」の生まれ変わりだから他の人とは違うわよね、と。
平成の世になって自ら語りだした自叙伝(『紫の履歴書』水書房 平成4年刊)からは、その壮絶な半生が明るみにされ、また霊能者としての新たな一面も、その苦悶のなかでの様々な出会いと背景が、『オーラの素顔ー美輪明宏のいきかた』(豊田正義著 講談社 平成20年刊)で明かされました。しかし、両著を読まれた方も、長崎市の繁華街「丸山遊郭」近くにあった生家・カフェ「世界」のすぐ隣が、長崎随一の劇場の「南座」で、その生家の通り向いに「近江屋楽器店」と「美術骨董屋」があって、いつも少年の「耳」と「眼」を楽しませていたことを覚えている方は少ないかもしれません。
天草四郎」の輪廻転生の「魂」を受け継いだ「美輪明宏」といえど、修業の地<今生の世>では、再びイチからはじめなくてはならないようです。何に触れ、何を見、何を聴き、何を読み、何を感じ、何を歌い、何を吸収し、何に絶望し、何を唾棄し、何に希望をもち、また誰と触れ、誰を見、誰に誘われ、誰と会い、誰と語って、誰を語り、そのすべてがひとりの少年を、シャンソン歌手「丸山臣吾」へ、そしてオンリーワンの破格の存在者「美輪明宏」に成らしめたのでしょう。
それでは一緒に長崎「龍馬伝」の如く、「美輪明宏伝」の旅に出てみましょう。坂本龍馬も美輪の生家近くの「丸山遊郭」の常連でした(遊郭を代表する妓楼「引田屋ーひけたや」は「龍馬伝」でもお馴染みに)。丸山臣吾少年が通った海星中学はオランダ坂の上にあり、すぐ近くには臣吾少年もよく訪れたカトリック大浦天主堂やグラバー邸がGoogle Mapを開きながら仮想散歩してみて下さい)、龍馬も何度も通った「思案橋」の向こうの丘には「亀山社中」跡があります。また龍馬が長崎に来た頃にはすでに開放されていた「出島」も目と鼻の先の海側にあります。時空を超えて脳内に<超地図>をつくると以下拙文も、より楽んで読んで頂けるかもしれません。
では、平成の「魂」のナビゲーター(航海士)「美輪明宏」の「マインド・ツリー(心の樹)」の<根底>にできるかぎり潜り込んでみましょう。そこ(底)には、どんな風景が、どんな坂があったのでしょうか。
それでは「メケ・メケ」か「ヨイトマケの唄」を聴きながら。

生家は長崎の花街「丸山遊郭」へ通じる通りにあった

美輪明宏(本名:寺田臣吾。「丸山臣吾」の名は、母の実家の跡継ぎに養子に出されたため)は、1935年(昭和10年)5月15日、長崎県長崎市本石灰町長崎電鉄思案橋」近く。かつて「丸山遊郭」があった丸山町に隣接)に誕生しています。多くの人が、美輪明宏の出身地が、九州・長崎であることは知ってられるとおもいますが、長崎市中のどこかは『紫の履歴書』を読まれた方も意外と覚えておられないかもしれません。年配の男性なら、長崎と言えば、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ花街「丸山遊郭(最大で芸者屋100軒程、芸妓1500人余いたとされる)近辺なのではないか、だから本名の苗字が「丸山」なんだろう、と突っ込む方がいるかもしれませんが、事実、前半部分はおよそ当っています。
「丸山遊郭」は、1958年(昭和33年)まで、1642年から300年以上も続いた一大遊郭で、実際、明宏少年の生家があった通りをすすめば目と鼻の先にあったのです。また本名の苗字が「丸山」なのは、母ムメの実家に養子に出されたためで(母の本名は、丸山ムメ)、養子に出される前の本名はじつは「丸山」でなく「寺田」だったのです(『オーラの素顔』)。なぜ養子に出されたかと言えば、実家の家業の風呂屋の跡継ぎの男の子を確保するためでした。ただ生活していたのは、以前と同様カフェ「世界」で、その寺田家の兄弟のなかでも(明宏は5人兄弟の次男)、次男だった明宏だけ姓が「丸山」に変わったのでした。しかし、母の実家の風呂屋は、投下された原爆の爆心地近くで(現在の長崎県平和公園近く)、跡形も無くなくなってしまったのです。風呂屋もある意味、水商売(美輪自身、自著の中で自分は「水商売」のなかで育ったと語っている。両親が始めたカフェ「世界」のことをさしているが)なので、ひょっとしてかつては、花街丸山町となんらかの関係があったかもしれません。明宏少年の生母となる丸山ムメの持って生まれた「女傑」ぶりからすれば、丸山家がたんに風呂屋を営んでいた家柄だったとは考えられないからです。

今でいう「クラブ」のようだった生家のカフェ「世界」。母は気風のよい「女将」として長崎中に知れ渡っていた

寺田臣吾が生まれたのは、思案橋を渡っていよいよ丸山遊郭のある賑やかな界隈へ入った所にある、カフェ「世界」でした。長崎にやって来る、オランダ、ポルトガルイスパニア(スペイン)、オロシア(ロシア)、英国・米国、朝鮮、支那(中国)といった世界各地の人々と、彼らとともに流れ込んでくるその食文化や風俗が混在した長崎を反映させた如きの店名をもったカフェが、寺田臣吾の生家だったのです。そして臣吾自身も、後に「美輪明宏」となり、生地の日本を含めた「世界」の素晴らしい歌や文化の体現者となるのです。「美輪明宏」が、日本に”限定”されない高水準の感性と美意識をもつようになったのは、江戸時代唯一、唯一海外(オランダ)に開かれていた「出島」からわずか1キロの所の生まれ育った臣吾少年の「マインド・ツリー(心の樹)」にとっては、極めて自然な流れだったにちがいありません。裏手のオランダ坂を上れば洋館が立ち並び、麓には浦上天主堂が建っていました。そんな異国情緒溢れる坂道だらけの長崎の地形を這うかのように、臣吾少年の「心の樹」の”根っ子”は知らず知らずのうちに縦横無尽に張り巡らされていったのでしょう。
さて、カフェ「世界」とはどんな所だったのでしょうか。内装は西洋風で(後年の美輪明宏自身の東京の自宅の内装もまた西洋風)、カウンター席とボックス席が設けられ、30人程もいた女給たちが入れ替わり立ち代わり大勢のお客さんを相手をしていたといいます。当時のカフェは今のそれとは異なり、カウンター席はバー、ボックス席は女給たちがお客さんにつくキャバレーにこそ近かったようで、今で言えば華やかな「クラブ」に近いサーヴィスを売りにしていたようです。その女給たちを束ね、時に柄の悪いチンピラたちに啖呵を切っていたのが、「女傑」と言われた寺田ムネ、寺田(丸山)臣吾の母だったのです。「世界」という店名のごとく、長崎は出島を通じ、江戸時代には唯一「世界」に開かれた町であり、昭和に入ってからもその異国情緒さは際立っていました。


カフェ「世界」のハイカラで粋な女将の艶姿は、長崎に轟き、とにかく着倒れの長崎のシンボルの様なその姿は、昭和初期に日本で流行った「昭和モダン」(和洋折衷)スタイルをさらに斬新にしたものだったといいます(美しい夜会巻の髪にスペイン櫛、サンゴのイヤリング、夜桜と篝火模様の黒サテンの着物に黒のハイヒール、手にはレースの扇)。政治家や軍人、名士たちが言い寄ってきてからは、なんと目玉の部分にダイヤモンドを嵌め込んだドクロの指輪に、女郎蜘蛛をえがいた着物を”魔除け”にしていたほどでした(『オーラの顔』)。ハイカラで粋な艶姿は、なんとも後の「美輪明宏」を彷彿とさせることでしょう。しかしナイチンゲールに身を捧げようとしていた女性が(後述)、掌を返したように時代の流行の先をゆくような衣装に身を包めるものなのでしょうか。かつて長崎の丸山遊女は「江戸の気風(きっぷ)、京の器量、長崎の衣装」と言われていたほど、彼女たちの「衣装」の華やかさは群を抜いていたといわれています。丸山ムメの家系の何処かにそうした”着倒れ”の女性がいたと推測してしまうのはこのためです。

女将になる前、母は大阪赤十字病院で婦長をしていた

さらに驚くべきは、丸山ムメはカフェの女将になる直前、つまり寺田作市と出会う前までは、大阪赤十字病院で婦長をしていたのです。長崎出身だった丸山ムメは、長崎の女学校を卒業後、憧れていたナイチンゲールのようになろうと大阪に出て看護婦になっています。しかし、西洋人のように彫りが深いその瞳と胸の内には、「曾根崎心中」近松門左衛門に登場する大阪新地・天満屋の遊女「お初」のような一途な炎が燃えさかっていたのです。
後に臣吾少年の父になる一人の男性が患者として大阪赤十字病院に通院しはじめる少し前、一途な炎の先は、ある陸軍の青年将校で、結婚の約束までしていました。どうも大阪に出たのはその彼を追ってのようです。家族に反対されたムメは、裸足で逃げ出し夜行列車で大阪まで彼に会いに行ったといいます。ところが彼は婚約を解消したいとムメに伝え、一人東京に向かってしまうのです。彼は「昭和」という時代に一撃をくらわすことになるある重大事件にかかわっていたということです。それは「二・二六事件(「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、1483名の青年将校が、昭和11年に決起)でした。この直後に、通院中の作市からの猛烈なアプローチにほだされ(家族はまたも猛反対)、看護婦を辞める、辞めないの話になっていったようです。そして青年将校からの連絡はないまま(結局それから4、5年後に二・二六事件」が起こり、事件とのかかわりが分かったようです)、丸山ムメは身籠るのです(昭和8年に長男誕生。その2年後に次男の臣吾が誕生している)。この頃の状況は、前記の両著でもよく分かりませんが、丸山ムメは看護婦を辞める一大決心をし入籍し、2人の故郷である長崎に帰郷したようです。

養子に出されていた父は、神戸の繁華街のプレイボーイになる

大阪赤十字病院に通院しはじめた男「寺田作市」が、故郷の長崎を離れ、大阪にいたのは、実家が貧しく養えず、神戸の(裕福な?)家に養子に出されたためでした。ハンサムボーイだった作市はいつしか神戸の繁華街きってのプレイボーイとなり、大島紬を着流し、半ズボンを履き(当時の流行の先端)、「曾根崎心中」の舞台ともなった花街・大阪新地で芸者遊びに興じていたといいます。羽振りもよかった作市を女性たちがほっておくわけがありません。丸山ムメと出会う前に二度結婚しています(子供もいた)。芸者に現(うつつ)を抜かしていた作市にとっても、赤十字病院の美しい婦長は天使のように見えたことでしょう。しかしその天使は、巷(ちまた)の芸者をも越える「女傑」だったことはいつ知ったのでしょうか。それを見抜いたからこそ作市は、長崎一の歓楽街に店を出そうともちかけた可能性もあります。帰郷した2人は、さっそく長崎一の歓楽街にカフェ「世界」を出店するのです。

生家のカフェの隣にあった芝居小屋「南座」。物心つく頃には大劇場に改築

ハンサムで歌舞(かぶ)いて、気風(きっぷ)がよい両親の遺伝子を受け継いだ臣吾少年が、後に「丸山臣吾」としてデビューし、華やかなステージを繰り広げる「美輪明宏」になるには、プレイボーイの父とハイカラな母の両遺伝子だけではまだまだ足らず、生家のカフェ「世界」の環境に加え、さらに別のエレメントが幾つも「運命」のように折り重なる必要がありました。
ここでも驚かされるのが、臣吾少年の生家になったカフェ「世界」の隣に建っていたのは、長崎を代表する芝居小屋「南座」だったことを『紫の履歴書』を読んだ方のどれぐらいが覚えてられるでしょうか。東京で言えば、かつての「新宿コマ劇場」や「歌舞伎座」の隣、京都なら「南座」、大阪なら「なんばグランド花月劇場」、名古屋なら『御園座』の隣に生家があったという感じで、いくら長崎のことと言えどかなり稀なケースにはちがいありません。


自叙伝『紫の履歴書』には、すぐ隣は「茶碗蒸し屋」でその隣が芝居小屋という記述と、すぐ隣が「南座」だったという、両記述がでてきます。が、これは小学生の頃、「芝居小屋」が改築され、大きな劇場兼映画館(敷地190坪、座席数2000程)に改築になった際に、もともと隣接していた「茶碗蒸し屋」が芝居小屋の拡張にともない壊され、敷地面積が大きくなった大劇場に生まれ変わったようです(物心ついた頃に、臣吾少年は生家と劇場の間の狭い通路にいらなくなった玩具を捨てていたという記述がある)。新宿紀伊国屋ホールで座席数400程、京都四条「南座」で総座席数1078、東京の旧歌舞伎座(現在新築中)で総座席数1867なので、どれほど立派な大劇場兼映画館に生まれ変わったかわかろうかとおもいます(現在は長崎千日劇場に名称変更:長崎市丸山町1-8)


幼少期にあった「南座」は、入口脇に幟が立ち、金の留め金の額に嵌め込まれた演(だ)し物の絵が掲げられた、古き良き時代のひと回り小さな芝居小屋だったようで、板の間敷きの入口で下足番のおじさんに履物を渡し木札をもらい受け、幕前のお囃子(はやし)に心を浮き立たせながら、観客席を升目に仕切った通り板を渡って畳敷きの観客席につく、という昔ながらの小屋の様子が描かれています。この頃でも「南座」は長崎一の芝居小屋として知られていて、ドサ廻り芝居からレビューや歌舞伎、坂東妻三郎ら千両役者や流行歌手もこの舞台で演じ歌っていたといいます(『紫の履歴書』)

生家の向かいには「楽器店」と「美術骨董屋」があった

臣吾少年の生家の廻りは、劇場だけではありません。路地をへだててカフェ「世界」の向かいにあったのは、「近江屋楽器店」、その隣には「美術骨董屋」も軒を並べていたのです(美輪明宏の美術好きは”古今東西”知られているところ)! 「近江屋楽器店」の店先に置かれた蓄音機からは、クラシック音楽や流行歌を一日中流れつづけ(小学校にあがった臣吾少年はこの楽器店でオルガンをねだって買ってもらっている)、「美術骨董屋」が店先に飾りつけた趣味の良い出物は、臣吾少年の目を自然に楽しませていたようです。
なんという生育環境でしょう。偶然というには余りにもできすぎているほどの、臣吾少年の「運命」を予見させるような環境ではありませんか。逆に考えれば、「美輪明宏」にして、「天草四郎」の魂を継いでいるというスピリチュアルな内的状態が全面的に開花したとしても(このことは後年に複数のある霊能者から指摘されたこと)、はたして今日のオンリーワン的存在の歌手にして俳優の「美輪明宏」になったのかどうか。自分の両親は”自らが選んで”生まれてきた、という”霊界の真実”からすれば、こうした「環境」すらも天上界(美輪に対する三島由紀夫の絶賛の言葉「天上界の美」)から見通して生まれてきたが如きです。


そして「女将」としてかなりのやり手だった母ムメは、料亭「手古奈」も出店しています。臣吾ら子供たちを子守りにまかせ料亭の女将として精を出していた時、ムメは中耳炎を悪化させ頭部を膿み、病に倒れてしまうのです。さらに病床に伏している時に、今度は料亭が火事にみまわれ、救出された母は子供たちの将来を心配しながら息を引き取ってしまったのです。臣吾少年、2歳の時のことでした。その後、戦争の暗雲とともに、寺田家にもさらに暗雲が垂れ込めてゆくです。▶(2)に続く

紫の履歴書
紫の履歴書美輪 明宏

水書坊 2007-03
売り上げランキング : 30011


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

オーラの素顔 美輪明宏のいきかた
オーラの素顔 美輪明宏のいきかた豊田 正義

講談社 2008-06-11
売り上げランキング : 165390


Amazonで詳しく見る
by G-Tools