種田山頭火の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 山口・防府の大地主だった種田家。父の遊蕩三昧、女遊びで、母はノイローゼになり自殺。中学時代、俳句に熱中、「文芸同人雑誌」を発行


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はじめに:郷土からもがれた”根っ子”。型破りの俳句を生みつづけた「漂泊の生涯」

俳人種田山頭火には、「漂泊の生涯」という表現がよくついてまわります。わずかながら聞いた覚えもある「分け入っても分け入っても青い山」や「後ろ姿のしぐれてゆくか」といった季語も定型もない俳句は、どんな「漂泊」の人生から生まれたのか。そのじつ山頭火の生き様は、日本中を「漂泊」していたという以外、ほとんど知らないままでした(少なくとも私自身)。
じつは「マインド・ツリー(心の樹)」をつくりだしていく作業の一つは、こうしたなぜか知っているようでいて、どうやらまったく知らなかった(つまり「作品」の上でしか知らない)人物たちに近接していくことにあります。同時に、気になった人物(それぞれに言葉にはしえないような何らかの理由がある)の内面世界を、とくに「幼少期」の体験や環境を知ることは、単なる作品理解、人物理解を超えて、”自分”という存在への「謎」に跳ね返ってくるはずです。地球上の誰かが、「鏡」になってくれ、”自分”への<問い>を激励し促してくれるのです。
種田山頭火は、「定住」するしかなくなった私たち「昭和・平成人」が封印してしまったような、”漂泊する人生”を想起させてくれます。かつて映画『男はつらいよ』の”フーテンの寅さん”に皆がそれぞれに映し出していた熱い心も、その一端だったにちがいありません。ちなみに故渥美清さんは、人に見せなかった私生活では、種田山頭火や尾崎放哉らの俳句もよく詠んでいて、自身も熱烈な「俳人(俳号は「風天」)だったといいます(渥美清演じる種田山頭火のドキュメンタリーが企画されたことがあったが、最終段階で企画は不成立)。
当初、山頭火は五七五調の定型の俳句を詠っていましたが、31歳の時、萩原井泉水に師事し、季題も定型もない「自由律俳句」を開始しています。34歳の時に種田家は破産し、山頭火は妻子とともに熊本に至り、古本屋「雅楽多—ガラクタ」を開業しています。弟と父の自殺、妻との離婚。個人雑誌『郷土』を創刊していた山頭火の「心の樹」の”根っ子”は郷土からもがれていきます。客観的写生をしていた俳句が、内面の実感を重んじる「自由律」に突きすすんだのも、故郷からもがれるようにして漂泊しはじめた山頭火の「心の樹」そのもののあらわれだったのです。
漂泊中、山頭火が僧衣に頭陀袋をさげた雲水姿をしていたのは一応曹洞宗に属していたからでしたが、実際には限りなく「フリー」に近い雲水だったといいます。
最初の自選句集『草木塔』の頭には、次の句がありました。
 「松はみな枝垂れて南無観世音」
それでは、「行乞(ぎょうこつ)流転」の旅を続け、酒をあびつつ型破りの俳句を詠みつづけた俳人山頭火の”根源”へと辿ってみましょう。30代半ばまでこだわった「郷土」には何があったのか、山頭火は何を体験し、何を内面に映し出していたのでしょう。

1キロ先の駅まで自分の土地を歩いていけた大地主の種田家

種田山頭火(本名:種田正一)は、明治15年(1882年)12月3日、山口県佐波郡西佐波令村(現・防府市八王子)に生まれています。佐波郡山口県南部に位置し、西に佐波川が流れ、南方からは周防灘(瀬戸内海)の潮の香が漂ってくる長閑な土地でした(現在は、三陽本線と三陽自動車道にはさまれたエリア)。生家のすぐ裏手には、「日本三大天神」の防府天満宮(最も古い天満宮。他は太宰府天満宮と京都の北野天満宮がありますが、学問の神様となる菅原道真が九州へ流転する手前の宿泊の地でした。後に山頭火は、九州に至り(34歳)、一時「古本屋」(後に額縁店)を営んだことがありましたが、おそらくは防府天満宮と地続きだった(住所は同じ宮市)大地主の許に生まれた山頭火の脳裏に、九州に流された学問の神様・菅原道真公のことが薄くとも潜在していたにちがいありません。
生家の種田家は、8百坪の土地持ちの庄屋で「大種田」と呼ばれていました。防府天満宮とは逆の南方にあった三田尻駅までの1キロ余を他人の土地を踏まずに行けたといわれます。広い土地には、大きな母屋に土蔵、納屋が軒を連ね、あちこちに黒松などの大樹が茂っていたといいます。

父の遊蕩三昧、女遊びで、母はノイローゼに

家は三代で一変するといわれますが、まさに種田家の場合、祖父・治郎衛門から孫の山頭火の三代で、大地主からものの見事に無一文となります。漂泊の俳人種田山頭火の句は、この「種田家」の事情を知ることなしに知りえることはありませんし、種田山頭火の「マインド・ツリー(心の樹)」もまた、11歳の春まで、宮市のこの土地に深く”根”を張っていたのでした(家の一大事で、後に山頭火の心身は根こそぎ東京に移されたかのようでしたが、神経衰弱に陥った山頭火は、再びその”根”を郷土に下ろすことになる)
いったい「大種田」の家に何が起こったのか。まず祖父・治郎衛門が早死に、父の種田竹治郎がわずか16歳の時に莫大な家督を相続しています。役場の助役に就いていた頃には、すでに地元・宮市の料亭・五雲閣に入り浸りはじめ(地主たちの社交場だった)、上客の遊蕩三昧、女遊びが派手になっていったのです。美人の妻をもらっても女遊びは止まることなく、妾(めかけ)を2、3人いつもかかえていたといいます(竹治郎は24歳の時、20歳の清水フサと結婚。長女フク、「山頭火」となる長男・正一、その後に3人の子をもうけている)。
田地永代売買の禁が解かれ、地租改正もおこなわれ、地主は地租を現金で納めなくてはならなくなるなど、地主にとっても波乱含みの時代でしたが、いったん火がついた父の遊蕩三昧、女遊びは止むどころか、仕事を通じて政友会伊藤博文が1900年に組織)と縁ができ魑魅魍魎の政治に手をだし、家計に飛び火するようになります。竹治郎が選挙運動に奔走しだすと、料亭の勘定も莫大になり、妾問題に加え家計も乱れ、妻フサは絶えきれずついにノイローゼに。種田家は負のスパイラルに突入します。そんな妻フサをさらに疎んじ、竹治郎は家に寄り付かなくなっていったのです。

「一家の不幸は母の自殺からはじまった」

少年山頭火、11歳の春の時のことです。少年山頭火は一生涯、脳裏から決して離れることのない「光景」を見てしまったのです。それは井戸に身を投げて自殺した母の姿でした。井戸から土間へと引き上げられた母の姿。親戚の者が引き離すまで少年山頭火は泣きじゃくってすがりついていました。母の突然の死後、少年山頭火の「心の樹」は、”根っ子”がざっくり切断されたような感じになったにちがいありません。少年山頭火は学校を欠席するようになります。小学校時代を通じ、平均すると3日に1日も学校を休んでいますが、母の自殺以降にかなりまとまった日数、学校を休んでいたようです。 
50歳を過ぎた時、山頭火は自叙伝を書くならば、「一家の不幸は母の自殺からはじまる」と冒頭に書かかなくてはならない、と語っています(現実に自叙伝が書かれることはなかった)。突然の嫁の死で、5人の子供の世話をまかされた祖母のツルは、「業やれ、業やれ」と口癖のように言っていたのを少年山頭火は聞いています。それは悲しいあきらめの気持ちを意味するものでした。一番下の子はまだ3歳で、翌年、山頭火の弟が養嗣子(ようしし)に出され、そのまた翌年には末弟が5歳で亡くなっています。母と弟たちとの相次ぐ別離、少年山頭火を、人間存在の哀しみで満たし、その哀しみは少年の心の内奥に深く深く折り重なっていったのです。種田家が哀しみのなか崩れようとしているのに、父・竹治郎の遊蕩生活はなんら変わることはなく、あまっさえ一人の妾を家に引き入れるのです。

中学時代、俳句に熱中。「文芸同人雑誌」を発行

母の死から3年後、14歳になった少年山頭火は、私立周陽学舎(当時は中学校。現在は周防高校となっている)に入学明治29年。成績はつねに上位にあったといいます。そしてこの中学時代に、少年山頭火は「俳句」に熱中しはじめ、学友たちと「文芸同人雑誌」を発行しはじめるのです。それは俳句を詠む仲間たちがそれぞれ持ち寄った原稿を綴じたもので、一種の回覧雑誌でした。少年山頭火の「俳句」づくりは中学時代にかなり本格化しはじめていたようです。
周陽学舎を首席で卒業した山頭火は、山口県下随一の名門校・山口尋常中学に編入することになります。この名門中学は、後に総理大臣となる岸信介佐藤栄作兄弟や安部晋太郎を輩出しただけでなく、山頭火が入学する10年余前には国木田独歩(千葉県生まれだが、司法省の役人だった父の度重なる転任で山口にも住んでいた)が、また25歳年後には詩人中原中也も学んでいます(ホンダF1の初代監督・中村良夫や、『定年ゴジラ』や『ビタミンF』の作家重松清も出身者)編入者だった少年山頭火は大人しくしているだけで、学友たちとあまり交わることができず、週末になると学校のある山口市から実家までいつも帰っていました。このことからも少年山頭火の心は、いまだ郷土の辺りを巡っていたようです。山頭火は故郷に、切断された「心の樹」—失われた「幻肢」のいうなものを感じていたのかもしれません。
最終学年の時でした。少年山頭火は学校のある山口市内の永楽座で、「国民教育論」と題された演説会を聞いています。それは早稲田大学の初代学長になる高田早苗(さなえ)の演説会でした(文部省告示で明治35年に大学部が開設されることに。高田早苗は大学設立の基金を募るために各地を回っていた)。この演説会が、少年山頭火の方向定まらなかった「心の樹」を鼓舞したのです。”偉い人”になれという、幼少期から山頭火の心の裡に埋め込まれた教訓と方向が一つになったのです。
そして少年山頭火が中学を卒業した春に、父・竹治郎が、妾と入籍しています(妾は、母フサが亡くなった後に種田家で生活していたという。この妾以外にも家を一軒買い与えていた別の女性がいた)。その入籍は、生まれた女児を私生児にしないためのもので、少年山頭火の父への嫌悪を決定的なものにしました。種田家内部に「新たな家族」が生まれてしまったのです。父から、そして「家」から離れるしかありません。少年山頭火は上京を決意します。
▶(2)に続く-未
・参考書籍:『山頭火—漂泊の生涯』(村上護著 春陽堂)/『種田山頭火』(新潮日本文学アルバム)/『山頭火—徹底追跡』(志村有弘編 勉誠出版)/『種田山頭火—行乞記』(作家の自伝35 日本図書センター)ほか

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