スタンダールの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 故郷グルノーブルの中心の広場に植えられた「自由の樹」と祖父の影響。心を開くことができなかった弁護士の父と子。7歳、母の突然の死


スタンダールが生まれたグルノーブルの町。アルプスを眺望できるこの自然溢れる町の中心地に、1783年に生まれている
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はじめに:欲望過となり、矛盾に陥り、意識が休まらなくなった近代人の魁として

小説『赤と黒』『パルムの僧院』『恋愛論』などで知られ、世界の若者に大きな刺激を与えたフランスの作家スタンダール。多くの人が若い頃に一度は彼の小説を手にしたことがあるにちがいありません。あらためてスタンダールに触れてみると、かなり興味深い事実に気づかされます。まずはそれらの小説が書かれた時代ですが、日本で言えばペリーの黒船来航より以前で、江戸時代の天保の大飢饉1832年大塩平八郎の乱(1837年)の頃なのです。五代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』を、葛飾北斎が「画狂老人」の号で、『富嶽百景』を描いていた頃でもありました。ということは、スタンダール(本名:アンリ・ベール)が生まれたのはさらに遡ることになります。西暦1800年代より前、1783年が誕生の年でした。
本国のフランスで言えば、ヴィクトル・ユーゴーが描いたジャン・ヴァルジャンが活躍する『レ・ミゼラブル1862年刊。フランス革命以降の王政復古、七月革命に至る18年間が背景)よりもかなり前のこと。バルザッ(『人間喜劇』)クやユーゴーフローベール(『ボヴァリー夫人』)、英国のディケンズ(自伝的要素が強い『デイヴィッド・コパーフィールド』、『二都物語』)らで知られる「リアリズム小説(写実的小説)」以前のことなのです。それでいながら、わたしたちはそんなに旧い時代の作品だとはそれほど思わずに読んでいる。
何かが決定的に新しいのです。ユーゴーの『レ・ミゼラブル』が「大河ドラマ小説」だとすれば、『パルムの僧院』などは「大河私小説」とでも呼びたくなるほどなのです。じつはそれはなかなか有り難いことなのです。たとえばNHK大河ドラマ龍馬伝』で重要なナレーションも兼ねた岩崎弥太郎を例にとると、その岩崎弥太郎自身が、龍馬の脱藩から江戸遊学での出来事、海援隊に土佐商会、英国と長州の下関戦争など、自身の直接体験や見聞を軸に、さらには自己検討や自己の意識の秘密をさぐりつつ、弥太郎自身の冒険や恋、夢を物語る「小説」を描ききる、そんなイメージなのです。スタンダール(アンリ・ベール)は、実際に、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の「ロシア遠征」や「ワーテルローの戦い」を体験しています。たんに小説の舞台背景に憧れるナポレオンや「フランス革命」を配したわけではないのです。
そして、スタンダールの小説がそれほど旧い時代に書かれたものとおもえないのは、出世や地位、財産、愛や幸福、限りない夢を追い求めはじめた19世紀近代人や20世紀現代人のそれを先取りしたためだったといわれます。欲望の数が多くなればなるほど生活は矛盾し、意識もますます安まらなくなっていく。そうした近代人のうごめく欲望からくる矛盾と意識の破綻が「黙示」されているともいえるのです。『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルの意識が分裂しているようにみえるのは、わたしたちを魁(さきがけ)る存在だったからだともいえます。
いったいスタンダールの「マインド・ツリー(心の樹)」は、どうやって生まれたのでしょう。それはスタンダールが生まれる前、祖父がグルノーブルの町の中心にある広場に植えた「自由の樹」からはじまったといっても過言ではありません。「自由の樹」とは何だったのでしょう。それではまずフランス・グルノーブルの町に舞い降りてみましょう。

19世紀後半以降、冬の美しさが「発見」された地方小都市グルノーブル

スタンダール(Stendhal 本名:マリー - アンリ・ベール Marie-Henri Beyle)は、1783年1月23日(〜1842年3月23日没)、フランスのグルノーブル(Grenoble 人口約15万人) のジャン - ジャック・ルソー通りで生まれています(当時のヴィユー - ジェジュイット通り。スタンダール誕生の5年前に書簡体の恋愛小説『新エロイーズ』を著したルソーが滞在。青年期にスタンダールは仕事の機会に乗じ、スイス・ジュネーブにあるルソーの生家を訪ねている)グルノーブルは、自転車のロードレースの「ツール・ド・フランス」のアルプスラウンドと呼ばれる山岳コースの起点に度々なっている街としても知られる他、日本のサッカーファンには、サッカープレイヤーの松井大輔が所属し活躍した「ASサンテティエンヌ」がある街としても知られているはずです。
スタンダールが生まれた頃はグルノーブルは、フランスの酷い地方都市の典型だったようです。実際当時のガイドブックなるものにも、悪臭が酷く耐えられず、家々は不潔でども通路も公共のゴミ置場と化し、素晴らしいのは自然だけと記されていたようです。実際、北方のアルプス山脈へとつながるシャルトルーズ山塊に上れば高度差1000メートルの谷間にグルノーブルの町を、ヨーロッパ・アルプスの最高峰モンブラン(4811メートル)の白い頂を眺望でき、後にこの地で冬期オリンピックが開かれているほどです(札幌冬期オリンピック大会の前の1968年開催)。またその記録映画として『白い恋人たち(監督クロード・ルルーシュフランシス・レイがメインテーマ作曲)が世界的にヒットしています。

グルノーブルの中心にある広場に植えられた「自由の樹」

遡る200年余前に、グルノーブルの中心にあるグルネット広場(「市民公園」とも呼ばれた)に、「自由の樹」が植えられました。スタンダールが生まれる少し前だったようです。広場のすぐ近くに、スタンダールの母方の祖父アンリ・ガニョンが住んでいました。フランスではじめて種痘を実施した先駆者にして、貧民からは金をとらない名医として知られた祖父は、まさに「自由の樹」の守護聖人的な存在でした。祖父の住居の脇には地下水の水汲み場があり、あちこちから女中たちが水を汲みに来ていました。ガニョン家はグルノーブルの水をも司る存在だったようです。自身ヴォルテールを尊敬し、博物学者のリンネやプリニウスの研究を伝え、グルノーブルの市立図書館とアカデミー・デルフィナルの創立者の一人として名を連ねていました。「フランス革命」後にフランス各地方都市に設立される中央学校(エコール・セントラル)の設立委員をもつとめたほどの知識人でした。
スタンダールの家は、この祖父の家から目と鼻の先にあり、幼少時から祖父の家によく遊びに行っていました。温厚な祖父アンリ・ガニョンは、同じファースト・ネームが付けられた孫アンリ・ベールを可愛がり、天文学のことから植物のこと、そして本の世界をアンリに語り伝えていったのです。毎日2度花に水やりをする祖父を見習って水やりしている最中に、祖父から聞かされたのはスウェーデン博物学者にして植物学者リンネや、古代ローマ博物学プリニウスのことだったといいます。
広場に植えられた「自由の樹」は、町の企画事につねに名をつらねていた祖父のアイデアだったにちがいありません。「自由」とは、近代市民主義を生んだ「フランス革命」が掲げた「自由・平等・友愛」に直結していく思考でした(「フランス革命」以前、王権が神聖だった時代に「自由」は多くの人の口にのぼる言葉だった)。少年アンリ・ベールの「マインド・ツリー(心の樹)」は、祖父アンリ・ガニョンを通して、グルネット広場に植わった「自由の樹」につながっていったのです。

弁護士だった父。心を開くことができなかった父と子。7歳、愛する母の突然の死

対して、高等法院の弁護士だった父シュリュバン・ベールとベール家は、アンリ・ベールにとって早く脱出するべき人物であり場所でした。スタンダールの自伝『アンリ・ブリュラールの日記』には、「たぶん、偶然一緒になったふたりの人間で、父とわたしほど根っから反感を抱き合う者はこれまでいなかっただろう」と記しているほどです。ゆえに少年アンリに「自由」への希望とその処方箋を早く書かせることになったというのです。狭量な心はからでてくるのは小言と叱責の言葉しかなかったと。ところがどうも反目する思いは、まったく少年アンリの一方的なものだったらしいのです。父の威圧的であまりにも毅然とした態度ともの言いが、ドフィネ人(フランス南部に続く農夫の血を受け継ぐ人々)であり、一族の血を受け継ぎ同じ気質(自分の内面に入り込まれるのを極端に嫌う)をもったアンリをハリネズミ状態にしたようです。お互い本心を隠し、心を開くことができない似た者同士だったというのが本当のところのようです。同年の友人と遊ばせてくれず、祖父の家以外は家に幽閉されていたという自虐的感覚は、農夫のそれで、家を出て冒険の旅をしようとおもった瞬間に、お金のことを考え、再び内(家)に籠ってしまう気質となってあらわれます。
父も父で、祖父がガニョンが好意からアンリに与えた本にまでケチをつけ、頑迷な神父の家庭教師を雇い入れ、祖父の影響を薄れさせようとしたかのようです。祖父はその家庭教師に間違っていると判明したプトレマイオスの天文体系をアンリに教えることに異議をとなえています(神父の家庭教師は、教会が承認していると答えるのみ)。こうした出来事からみれば、父は気質にくわえて旧い価値体系に固執し高圧的で陰気なタイプでもあったようです。


父シュリュバン・ベールを別の側面からみると、シュリュバンは若い時分から10人もの姉妹の生計の面倒をみなくてはならず(内、4人は修道院に入れている)、後にグルノーブル市助役、市長代理になっても、一方で土地の売買を繰り返したり羊の飼育や街路整備事業にまで手を突っ込んでいたといいます。幾つもの事業は失敗に終わり、結果借金を残して亡くなっています。アンリは母の死後、5年余にして、ようやく父の思い、”心根”を理解できるようになったと語っています。


アンリにとって冷たい存在だった父の埋め合わせしたのが明るく陽気な性格の母アンリエットでした。魅力的な母はアンリに愛を注ぎ、アンリも母を深く愛していました。2人の関係は家族の中で独占的なもので、母への接吻の最中、父は邪魔者だったというほど、まさに男児の「エディプス・コンプレックス」の典型でした。が、アンリ7歳の時、身重の母が産科医の不手際で突然亡くなってしまうのです。少年アンリの心はあまりの悲痛からはりさけんばかりとなります。父もまた、寝室に閉じこもってしまったといいます。母が死の直前、子供たちの世話をたくした母の妹セラフィーは、母とまったく異なる性格で(アンリはこの叔母のことを女悪魔と記した。イエズス会修道女だった)、父と結託するようにアンリを締めあげにかかったといいます。母の死から7年後、この陰険で口うるさいだけの叔母が亡くなった時、少年アンリは神に感謝したといいます。

学校にいるかぎり陰鬱な家から「自由」になれた

13歳になった少年アンリは、祖父が設立委員の一人だった中央学校に入学します(1796年)。ところが入学後間もなくしてアンリは級友たちとうまく友達になれないことに気づきます。彼等はアンリには利己的すぎ粗雑に映り、逆に彼等にはアンリは気どってぎこちなく変な奴だと映ったのです。が、アンリにとって級友たちとうまくいかなくても、学校にいるかぎり陰鬱な家から「自由」になれたことの方が歓びでした。それに学校は祖父がアンリに種付けした「自由の樹」を芽吹かせたのです。人文科学に加え、多くの時間を自然科学と数学にあて、また神話と旧い倫理学に代え18世紀に生まれた感覚論哲学をの授業は、少年アンリにとってきわめて有効な「知的形成環境」となったのです。シェークスピアからゲーテ、ポープ、ゴルドーニ、オシアンらの世界に接し、デッサンの先生は授業の範囲を超えて絵画史を展開しましたスタンダールは後に『イタリア絵画史』を著している。これがまたスタンダールの気象と結びついた自分の考えをそのまま映し出したもので一般的な絵画史とは似ても似つかないものだった)
とくに数学は当初理解がすすまなかったアンリでしたが、家で個人教授を雇って(後に小説『赤と黒』の中に登場することになる幾何学者のガブリエル・グロ。父には内緒だったようで大伯母が高い授業料を払った)、数式の意味するものが分かってくると数学が一気に伸びはじめたのです(第3学年では一等賞獲得)。この「数学」が、家とグルノーブルから去るための手段となっていくのです。

同じく「数学」が得意だった憧れのナポレオン。大伯母が形成した少年アンリの「精神」

興味深いことにアンリが憧れたナポレオン(アンリより14歳年上の1769年生まれ)も10歳に入学した陸軍の学校で、「数学」は抜群の成績でした。パリの陸軍士官学校では、フランスでも伝統があり人気があった騎兵科ではなく砲兵科を選択しています。数学的思考法は、騎兵の人海戦術でなく、大砲をもちいた戦術に理を感じさせたようです。一方のアンリは、得意な「数学力」を懐刀に、後に陸軍の主計官補となり、経理畑の官僚の道をすすみ、帝室財務監査官にまで昇進していきます。最も、スタンダール研究者によれば、アンリ・ベールは「数学」に特段の才能があったのでは決してなく、代数などから引用した表現やそこから生まれる<イメージ力>にこそ優れていたといいます。青年時代にアンリが夢中になって創作していた戯曲は、後の『赤と黒』や『パルムの僧院』とまったく異なり、抽象的に合理的な戯曲創作の原理にのっとり、冷静に明晰に、まさに「数学的」に組み立てていったものだったといわれています。
知性の面で少年アンリを早熟させた祖父の家には、もう一人、少年アンリに大きな影響を与えることになる人物が暮らしていました。祖父アンリ・ガニョンの姉エリザベットでした(当時60歳代)。つねに高貴な気品を漂わせていたエリザベットですが、驚くほどの「スペイン気質」だったといいます。つまりあらゆる「妥協の拒否」にくわえ、下品に振る舞うブルジョアたちに対する「嫌悪」、そしてナポレオン・ボナパルトのように偉大な行為や誇り高い感情への「憧憬」を抱いていたのです。まさにその気質は、スタンダールが後に著した『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレル、『パルムの僧院』のファブリス・デル・ドンゴとなってあらわれでるものでした。スタンダールは、『アンリ・ブリュラールの日記』の中で、大伯母エリザベットこそが、幼少期の自分の精神を形成した、と語っています。少年アンリの気質と「自由」を希求する魂、それに「スペイン気質」のスピリット、明晰な「数学的方法」が合流していった先は、自己の意識を心理分析にかけ、「定理」を導きだし(『恋愛論』)、<自己の正体>を見極めることだったのです(『赤と黒』『パルムの僧院』)
▶(2)に続く-未
参考書籍『スタンダールの生涯』ヴィクトール・デル・リット著 法政大学出版社/『スタンダールの復活』岡田直次著 NHKブックス


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