美輪明宏の「Mind Tree」(2)- 小学生の時、歌にオルガン、芝居、映画、「美人学校 画」に夢中に。反骨精神の根底にあるもの。前進座・川原崎国太郎の女形に「運命」を感じとる


丸山明宏、27歳の時

人気ブログランキングへ


小学生の時、「音楽」への関心が露に。継母に買ってもらったオルガンに夢中になる

▶(1)からの続き:実母が亡くなってから間もなく、丸山界隈の資産家になっていた寺田家に若い嫁(11歳年下の輝子)がやって来ました。父・作市はこの4人目の妻は贅沢好きで、家族で毎日のようにショッピングや食事にでたといいます。継母は2人の子供をもうけましたが、臣吾たちを疎んじることはなく、洋服や玩具を絶えず買い与えるのです。
西小島町にある佐古国民学校(現在の佐古小学校)に入学する頃には、臣吾の「音楽」への関心は露(あらわ)になってきていました。幼稚園児の頃、臣吾は、突然、踊り出したくなる衝動に駆られたことが何度もあったといいます。そんな時は、誰もいない遊戯室に行ってはどこからか漏れ聞こえる音楽に合わせ、体をくゆらせて踊ると気がすんだことがあったようです。その衝動は、「音楽」の”根っ子”が生えたことの証ともいえるものです。幼少期にこの”根っ子”が育ってないと、後に子供にピアノをやらせようが、せがまれてギターを買い与えようが、ほとんどの場合ものにならないはずです。
臣吾少年は家の前の「近江屋楽器店」で見つけたオルガンが気になって仕方なくなっていました。実母のように可愛いがってくれた継母にオルガンをねだると、同年の男の子のように外で遊ぶのが好きでなかった臣吾のことをよくみていてくれた継母はオルガンを買ってくれたのです。少年臣吾は、自分の部屋にやって来たオルガンを時を忘れて弾くようになっていきました。すると「近江屋楽器店」から流れてくる新しい曲の旋律やメロディーを特に習うことがなくても、自然と弾けるようになっていたのです。同じように歌詞もあっという間に覚えてしまうようになっていたといいます。

ボーイソプラノはすでに丸山町界隈で大評判。「南座」の支配人は我が子の様に臣吾を可愛がった

大人しく外で遊ぶのが好きでなかった臣吾少年でしたが、内に籠りっぱなしの少年ではなく、家の近所や遊郭街へとつながる石畳を歩いていたり、小学校の行き帰りと、臣吾少年はいつでも歌っていたといいます。すでにこの頃からボーイソプラノの美声は石畳だったこともありよく響き、丸山町界隈で知らぬ者はいないほど評判になっていました。よく聞かれた歌は唱歌の「埴生(はにゅう)の宿」だったといいます。
後の「美輪明宏」という大樹冠を形成させるには、「音楽」という早熟な”樹根”だけでは勿論足りません。先述した様に、臣吾少年の家の隣は長崎随一の大劇場兼映画館「南座」だったわけですが、この「南座」の支配人は、臣吾少年を我が子のように可愛がったのです(支配人夫妻には子供がいなかった)。毎日の様にオルガンを弾いていたかと思えば、臣吾少年は毎日の様に劇場に出入りし、支配人夫婦の膝にちょこんと座って阪東妻三郎や松井梅子、原駒子、鈴木澄子、さらに宮城千鶴子(後の宮城まり子長谷川一夫入江たか子三浦環(たまき)錚々たる役者の歌や芸だけでなく(長崎の人は芝居よりも歌が好きで、歌の多い舞台になるとお客の入りが多くなった。臣吾少年は女チャンバラ芸をする原駒子が着ていた綺麗な着物に憧れる)、グレタ・ガルボマレーネ・ディートリッヒら美しい映画女優が登場する映画を観ていたのです。映画としては、『マタ・ハリ』『椿姫』『モロッコ』『女だけの都』『ブロンド・ヴィーナス』といった映画だったといいます。

前進座の川原崎国太郎の美しい女形ぶりに、「運命」を感じ取った

そのなかでも後の「美輪明宏」を予感させるものを少年臣吾は瞼に焼き付けていました。前進座の川原崎国太郎の見事な女形ぶりでした。川原崎国太郎は、「鳴神」の雲絶間姫(くもたえまひめ)などを美しい衣装を着て女形で演じていたのです。「何か運命的なものを感じました」と後に美輪自身語っています(『紫の履歴書』)。
しかし、なんという芸術的環境でしょうか。後に「丸山臣吾」に声を掛け芝居の舞台(『毛皮のマリー』)に引き出した寺山修司(13歳の時)も、母が福岡の米軍ベースキャンプに働きに出たため、青森市内の叔父の家に預けられましたが、そこは「歌舞伎座」という名を持つ映画館だったことはよく知られています。臣吾少年の場合、まだ小学生の分際で、ふつうならばおよそ観ることも叶わない、存在すら知らない芝居や映画を存分に観、全身で感じ取っているのです。
小学校1年生の学芸会はその早熟な感性をアウトプットするまたとない機会になったようです。臣吾少年は父の背広にネクタイを締め、皮鞄と帽子を被り、演目の「小さなお医者さん」で演じ踊り、歌まで歌い一番大きな拍手をもらっています。担任の先生に誉められ、上級生の組と一緒に大村にある海軍航空隊の慰問演芸にも参加しここでも拍手喝采。少年臣吾は大勢の人の前で歌い演じることに”根”っから好きだということに気づくのです。
そこに加えて、少年臣吾の内なる「眼=”芽”」は、おそらくは継母が購読していたであろう雑誌などをとおして、竹久夢二高畠華宵(たかばたけかしょう)、寺島紫明らが描く「美人画」や「叙情画」にもぞっこんとなっていました(ちゃんと見るようになったのは中学に入って絵を本格的に描きはじめ、父が大枚をはたいて購入してくれた画集からだった)。そして「絵」に関しても、父が営むカフェ「世界」に絵描き志望のボーイに絵の手ほどきをしてもらっています。結局、描きだしたのはよく見ていた「美人画」だったのです。と同時に、日本美人に熱を上げながらも、継母からもらった青いドレスを着た金髪の大きな「フランス人形」は少年臣吾の大切な宝物でした。

最初は、耽美的な芸術世界への没頭は、花街や水商売からの「逃避」だった

『紫の履歴書』美輪明宏著 水書坊)によれば、少年臣吾がさまざまな芸術世界ーとくに耽美的世界に没頭していったのは、子供ながらに「逃避」だったと懐古しています。実家のカフェ「世界」での水商売で巻き起こる女給たちとお客との醜い駆け引きや諍い、さらには2階の自室の窓を開けば見えてしまう遊郭の部屋での男女の欲望、家の裏手にある娼館の前に立つ顔に白粉(おしろい)を塗った妖艶な娘たち(身を売られた女の性)の切なさに、感受性豊かな少年臣吾は「女の地獄」を感じとっていたのです。独りで空想の世界に戯れる耽美的世界への「逃避」は、水商売と花街の世界からの「逃避」でもあったかもしれませんが、それは折り紙的な「変換」だったにちがいありません。孤独癖に陥りがちな耽美世界だけではない、「身を変じる=(変身)」ことができる舞台芸術にも同時に耽溺していたことが少年臣吾の”変換率”をさらにあげたのでした。

歌と芝居、綺麗な色の衣服が禁止された世界

その一方、昭和16年(1941)、臣吾が小学校にあがった頃から、自室から見える街の風景が一変しはじめていたのを少年臣吾も感じ取っていました。遊郭に出入りする客は減り出し、石畳の通りも閑古鳥が鳴く日が日増しに多くなっていたのです。当然、カフェ「世界」に立ち寄るお客も激減しだします。そして日本が太平洋戦争に突入すると、内務省はジャズを敵性音楽として禁止し(1943年)、次いで流行歌も禁止、「近江屋楽器店」で流されるのは軍歌だけになっていきました。少年臣吾も通りで好きな歌を自由に歌えなくなります。童謡まで検閲され、軍歌を歌うように子供に押し付けてきたのです。「南座」にも芝居内容を監視する憲兵が出入りし、音楽や映画もそのほとんどが権力によって威嚇的に禁止されていったのです。その光景を目の当たりにした少年臣吾の内で、生涯つづく強烈な「反骨精神」が醸成されていきました。
後の衣装華やかな「美輪明宏」の”根底”にある、ある光景があります。それは女子挺身隊の朝の点呼の時に起こった悲惨な光景でした。セーラー服に下はもんぺ姿、鉢巻きをして整列している一人の女学生の襟元にわずかにのぞくカラフルな下着に気づいた軍人は、下着を脱がせ髪を掴んで引きづり殴りつけたのです(1週間後に死亡)。無論、このことは「美輪明宏」の戦争反対発言の”根底”にもある一つの光景でもあるのです。

美輪明宏」の”根底”にある光景。10歳の時、長崎に原子爆弾が投下される

敗戦の半年前、継母が丹毒を悪化させ亡くなります。継母は実子以上に、臣吾たちのことを心配して逝きました。その日から半年後の1945年8月9日、「美輪明宏」の精神世界の深奥に、最も「悲惨な光景」が刻印されるのです。10歳になる少年臣吾は2階の自室で「万寿姫」の絵を描いていました。ピカッ、という凄まじい光につづいて、窓や屋根瓦が吹き飛び、1階のカフェのガラスが粉々にふっ飛び、崩れる壁。耳をつんざく轟音。原子爆弾(ファットマン)だった。家から4キロ弱にある浦上天主堂近くが爆心地でした。その近くに臣吾少年が事実上、養子になっていた丸山家(実母の実家)がありました。臣吾少年は実母が亡くなって以降もその家によく遊びに行っていたのです。臣吾は気が気ではありません。長崎の街は燃え続けていたのです。1週間後、屍骸と黒こげに焼けただれた皮膚をした人たちで埋め尽くされた凄惨な地獄絵のなか、少年臣吾は可愛がってくれた丸山家の祖父・祖母を探しに向っています。一帯は焼け野原になっていました(当時の長崎市の人口24万人のうち7万4000人死亡)。全員亡くなっていました。『紫の履歴書』の中にこの時の様子が生々しく描かれています。そして臣吾自身、この時放射能に汚染され、後のある時期髪の毛が抜け落ちてしまったといいます。

映画で主題曲を歌う、同世代の加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受ける

もう一つ少年臣吾を驚かせたことがありました。大騒ぎになっていた上陸してきた鬼(米兵)を真近で見た時のことです。男の子は鬼に食べられると言われていたのに、彼等は子供たちを抱き上げ頭をなでて優しく接し(反撃を食わないよう武器を持たず士官学校出のジェントルマンがあえて選ばれたという)、男なのに美しい彩りの衣類を着ていたのです。少年臣吾は、日本の大人たち、軍人たちにずっと騙されていたことを感じとったのです。最初の反抗は、髪の毛をあえて伸ばしたことでした。元軍人の体操教師に髪を掴まれ怒鳴られ、学校からも足が遠のきはじめたのです。
南座」で憂さを晴らしていた時でした(小学生は映画鑑賞は禁じられていた時代)。『僕の父さん』古川ロッパ主演)という映画がかかっていて、少年臣吾は映画の中で主題曲などを歌う加賀美一郎(昭和8年生まれ。臣吾より2歳年上)少年の美しいボーイソプラノに衝撃を受けたといいます。少年臣吾はその日から1週間毎日「南座」通いをし、何曲もの歌詞を聞いて書き取りすべて覚えきるのでした。映画の上映も終わり、仕方なく学校へ行き一人廊下で、覚えた歌を歌っていた時でした。以前担任だった小幡先生がその映画を観ていたようで、学校を無断で休んでの映画鑑賞がバレてしまったのです。小幡先生は臣吾を音楽室へ連れ込むと、ピアノを弾き映画の主題曲を歌わせると、放課後、教員室に来るように臣吾に伝えたのでした。小学生だった少年臣吾に大きな転機が訪れます。
▶(3)に続く-未