ロバート・キャパの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 母は祖父一族から「不屈の精神」を受け継ぎ、ヨーロッパ放浪の旅をした父は「魅力」と「機知(ウィット)」の大切さを子供たちに教えた。家庭内にあった「長く続いた大戦闘」

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はじめに:前衛芸術家ジョルジュ・ケペシュから無期限で貸与された最初のカメラ

20世紀に世界でも最も著名な戦場フォトグラファー(War Photographer, Combat Photographer)、フォトジャーナリストの一人に数えられたロバート・キャパ。スペイン内戦から日中戦争第二次世界大戦第一次中東戦争第一次インドシナ戦争と5つの戦争に飛び込んで戦場を撮影。スペイン内戦での「崩れ落ちる兵士」や「ノルマンディー上陸作戦」のでオマハ・ビーチでのあの迫真の手ぶれ写真は、「戦争の20世紀」を象徴する写真であり、「写真」にそれほど興味がない人でもどこかで見ているはずです。戦後には、アンリ・カルティエ-ブレッソンらと、フリーランス・フォトグラファーのエージェンシー「マグナム」を結成しています。キャパの名刺代わりともなったこうした「戦場写真」や「マグナム」を軸に頼りすぎてキャパをみてしまうと、それらの写真ととともに、あまりにも颯爽とした男前のキャパ像に”占領”されてしまうのではないでしょうか。
そもそもキャパが「写真」に最初に関心をもったのは、好きになった3歳年上のお姉さん(大きな同じアパートメントの同じ階に住んでいた弁護士の娘さん)が、コダック・ブローニーを持ってブダペストの街や郊外の写真を撮るために出掛けるのに、一緒にのこのこ付いていくようになった時(12歳の時)で、その5、6年後に、キャパが初めて手にした「カメラ(6×9型折畳み式フォクトレンダー」は、そのお姉さんの最も親しい友人になっていた前衛芸術家のジョルジュ・ケペシュから無期限で貸与されたものでした。その間にキャパは、学校のキャンパスでなくデモ行進に参加したり、街のカフェに集まり、カシャークやケペシュからハンガリーの前衛芸術と左翼的政治観、社会参加型の芸術思想を貪欲に吸収していただけでなく、ドイツやロシアの前衛的映画や時の書物もおおいに読み込んでいました。「カメラ」を手にした時には、キャパの「心の樹」はすでに、家庭的価値観もブルジョアジー的価値観もすっかり喪失していました。後は奇々怪々とした時代の閃光と崩れる瞬間を透徹な眼で記録していくばかりになっていたのです。
その一方、ひりひりするような戦場に身を晒しつづけたキャパだったが、幼少期からじつは不器用で(それが愛嬌にもなったという)、バイクも自動車もうまく乗れなかったといいます。実際、運転免許の実地試験に3度も失敗し、バイクも少しスピードをだすとカーブを曲がりきることができず塀にぶつかっていたといいます。
いったいそんなキャパは、どんな「心の樹」を生やしていたのでしょう。そのあり様が世界的な戦場フォトグラファーを生み出したはずなのです。戦争写真家としての存在が先にあったわけではないからです。また優れた戦場フォトグラファーは世界に数多くいますが、「キャパ」にあって、独特のジェントルマンばりの「魅力」と「機知=ウィット」はいつから備わったのでしょう。後年の映画女優イングリッド・バーグマンとのロマンスも「キャパ」ならではのものです。ピカソマティスといった芸術家たち、ハンフリー・ボガードジーン・ケリージョン・ヒューストンら映画俳優や映画監督たちのスナップ写真を撮っていたキャパ、「映画」への関心を深めていったキャパも、キャパの「マインド・ツリー(心の樹)」の重要な幹であり枝葉といっても過言でありません。
それではキャパの「マインド・ツリー(心の樹)」を訪ねてみましょう。キャパが誕生して1年もたたないうちに、誕生の地、ハンガリーブダペストは、戦場の地第一次世界大戦と化しています。「三つ子の魂」の3歳の時にも、まだ戦渦はおさまっていませんでした。キャパは煙硝の匂いが漂うなか、成長していきます。

「長く続いた大戦闘」は家庭内にあった

ロバート・キャパRobert Capa 本名:エンドレ・エルネー・フリードマン、 Endre Ernő Friedmann;幼少期〜青年期にかけて、ファーストネームのエンドレと主に表記)は、1913年10月22日、ハンガリーの首都ブダペストに生まれています。翌年に第一次世界大戦が勃発し、ハンガリーも深く戦争に巻き込まれたたため、キャパの幼年期もまた、戦争とともにありました。打ち続く戦争と、混乱する政治状況、内に抱える民族問題が、キャパの”心の根”をハンガリーの地に降ろすことなく、つねに外部へと突き動かす要因になっていきました。
キャパの”心根”は、10代半ばになると、同じような感性と考えをもった者たちへと伸び、繋がっていきます。それらは驚くほど深い「同志意識」となり、「友情」となり、ベルリンでもパリでもスペインでも、つねに「助け合う」関係になっていったのです。裏を返せば、キャパの”心根”を降ろす場所は、すでに「家庭」にすらなくなっていたのです。後にキャパをして、「長く続いた大戦闘」と言わしめたのは、スペイン内戦でも第一次中東戦争でもなく、「家庭内」にあったのです。それは父デジューと母ユリアとの絶え間のない小競り合いと衝突のことでした。
両親の主戦場は、「ファッション・サロン」でした。母ユリアは、ブダペストのペスト側の高級店や瀟酒なアパートメントが居並ぶエリアに構えるほどのやり手経営者でした。父デジュー・フリードマンは、そのサロンの共同所有者で主任裁縫師でしたが、とにかくデジューは遊び好き(とくにカード遊び)で自由人で、あれこれ口実をもうけては仕事場から早く抜け出すことばかり考えていたといいます。どんなに忙しくても夜遅くまで戻ってこない無責任さに母ユリアはいつも腹を立てていました。
興味深いことに、戦場フォトグラファー「ロバート・キャパ」の気質と個性は、仕事や家庭内でぶつかりあってしまう父デジューと母ユリアの両極の資質を受け継いでいると言われています。ゆえに「ロバート・キャパ」の内部は、その両極の気質がつねにぶつかり合い、せめぎ合うもう一つの”バトル・フィールド(戦場)”になっていたのです(『キャパーその青春』リチャード・ウィーラン著 文藝春秋 1988年刊)
ロバート・キャパ」が両親から受け継いだものとは何だったのか。まずはフリードマン家の実質的な”家長”だった母ユリアから何を獲、何を継いだのかみてみます。

母ユリアは祖父一族から「不屈の精神」を受け継いでいた

「キャパ」の母となるユリア・ヘンリエッタ・ベルコヴィッチは、ハンガリーの北側に位置する現在のスロバキアの東端ウクライナまで僅か5キロ程)の小さな村に生まれました1888年。当時でいえばハンガリーの国境内にあったカルパト・ルテニア地方のナジ・カポシュで、不在地主貴族が所有する土地に労働に就く小作農が多く、迷信深いローマ・カトリック教徒がほとんどでした。ユリアの父ヘルマン・ベルコヴィッチ(キャパの母方の祖父)はそこで靴屋を営んでいましたが、「不屈の精神」がベルコヴィッチ一家の資質であり、すべての子供たちに受け継がれていったといいます。長男は、ペストにある大学にすすみ、第一次世界大戦中、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍の将校となります(父と異なり、1000年余にわたってハンガリー王国の主要民族であり続けたとマジャル人と同化しようと、非ユダヤ的なバルトシュという姓にファミリーネームを変えている)。また父ヘルマンは娘たちにも強い意志をもって生き抜かせようと都会に出て手に職をつけさせようと促しました。ユリア12歳の時(1900年)、ドレス・メーカーに奉公に出ています。
この仕事を通じて出会ったのが「キャパ」の父となるデジュー・ダーヴィッド・フリードマンでした。デジューはハンサムで、手入れされた口髭、趣味のいいスーツを身に纏い、まるで英国の魅力的なジェントルマンのようだったといいます。ユリアの父ヘルマンも知的な容貌をしたハンサムな男性で、デジューの容貌に田舎に住む父の面影を見たにちがいありません。

ヨーロッパを放浪の旅をした父デジューは、「魅力」と「機知」の大切さを子供たちに教えた

しかし実際には、デジュー・フリードマンは、”ジェントルマン気取り”だっただけで、貧しいユダヤ商人の息子でした。”ジェントルマン気取り”は、デジューにとっては、「旅」の如き人生を生き抜く上で、「魅力」的であることがいかに大切であるかの実践だったのです。その実践の果実が、まさにユリアとの結婚でもありました。
デジュー・フリードマンは、ユリアより8歳年上で、1880年ハンガリーの西トランシルヴァニア・チュチャの小さな村で生まれています(現在はルーマニア領)。貧しさのため学校教育はほとんどまともに受けていません。恐らくろくに着る物もなかったはずです。手先が器用だったのか、衣類に興味を持っていたのでしょう。小さな頃からブダペストにある婦人服の仕立て屋に奉公に出されています。そして長い奉公が明けると、10代の末に、パリに出、パリの空気を堪能し、ロンドンに渡るなどヨーロッパを放浪しています。放浪の間、デジューは旅をしながらフランス語と英語の会話(文法ではなく!)をものにし、旅から知恵や知的素養を身につけていったのです。それはまさに後の「ロバート・キャパ」にも受け継がれていく能力でした。
デジューは子供たちに、旅先で、また旅を続けるために、いかに自分の「魅力」を放ち、「機知」を繰り出したか、といった話をよくしていたといいます。「魅力」と「機知=ウィット」。これもまさに「ロバート・キャパ」の人生を彩ることになった重要な要素だったことはよく知られています。

母は、指が1本多く生えて生まれたエンドレに、特別な「徴候」を感じ取った

ともに衣装づくりを技術と才をもった2人は結婚すると、ドナウ川からもそう遠くない、ブダペストの流行発信地ベルヴァーロシュ界隈にある市役所通りに、婦人用の注文服のサロンを開きました。2人の思惑は当りました。2人の合作の魅力的なデザイン、仕立てのよさは、ペストの富裕層や実業家、知的職業人の夫人たちだけでなく、旧城のあるブダ側の政府の役人や貴族の夫人たちの目をも惹き付けたのです。2人は何度も一緒にウィーンに行き、流行の服をチェックしては型紙を買い求めたり、良い注文服づくりにかけては惜しみない努力をはらった賜物でした。裁断師や仮縫い係、縫い子たちが短期間の間に20人にまでふくれあがっていたといいます。2人はサロン近くにある瀟酒で大きな3階建てアパートメントの中に移り住み、まさに新興ブルジョアジーの仲間入りをはたすまでになっていたのです。


ちなみにブダペストは、ドナウ川を挟んで、西側の政治・軍事の要所であり、かつてのハンガリー王国を偲ばせるブダ城に聖堂が建ち、裕福なドイツ人や封建貴族が住んでいたブダと(歴史的には別にオーブダという旧いエリアがあった)、対してドナウ河の東側に位置し、商業と経済の拠点であり、カルヴァン派ユダヤ人の中産階級、一般市民の生活が営まれてきたペシュト(ペスト)に分断されていました。西暦1000年にキリスト教に改宗し建国されたマジャル人による最初のハンガリー王国の重要都市はペシュトだったものの、13世紀半ばのモンゴル侵入以降は、ブダが王宮所在地・首都になり、後にオスマン帝国侵略時にも中心地となりペシュトは荒廃したり、ドナウ川の氾濫で何度も水没した歴史があります。ハプスブルク家時代になった18世紀には首都としての行政組織が今度はペシュトに移され、以降ペシュトの街は急速に発展。ハンガリーの国の成立と経緯、その後の歴史の複雑さと同様、両都市の歴史も想像以上に複雑です。1873年にブダとペシュトの両都市は合併していますが、20世紀の初頭には、政府の役人や貴族の夫人たちがドナウ川を渡って、フリードマン家の「サロン」にやって来ているように、歴史の名残りは一様でないものの留めていました。


そんななか、2番目の赤ん坊(エンドレ; 愛称はバンディ:後のキャパ)が生まれます。生まれた胎児は、黒い髪の毛をたっぷり生やし、指が1本余計に生えていたことで(手術によって除去される)、ユリアは、それをこの子が将来ふつうでない人生を送る「徴候」と感じたといいます。それに丸々と太り、活発で、黒い大きな瞳を持ち、顔色がやや浅黒いジプシーの子のような雰囲気。可愛いらしく利発に育っていったエンドレをユリアは溺愛しました。
ところが、エンドレが生まれた翌年、第一次世界大戦が勃発し、ハンガリーも一気に戦争に巻き込まれて行きました。それでありながらサロンは忙しく、ユリアは日曜以外、ほとんどの時間を仕事にとられ、子供たちはメイド(兼家庭教師)にまかされるばかりになりました。幼少期にエンドレはメイドから、ドイツ語の会話を教えられています(ドイツ語は、ブダペストの「ブダ」側の世界の言語で、「ペシュト(ペスト)」側は日常語としてハンガリー語が話された。教養あるハンガリー人にとって当時ドイツ語は学ぶべき言語とされた)。この言語学習が、後にエンドレがベルリンの学校に入る上である程度まで役立つことになります。

戦渦で機転を効かして食料を調達してきた母の「不屈の精神」

長引く戦争で、ブダペストは飢餓状態に陥ったなかでも、ユリアが受け継いできた「不屈の精神」が発揮されました。生地を大量に袋に詰め込み、早朝に家を出て、生地と交換に袋いっぱいの食料を手に入れてくるのでした。後にキャパは、どんなに酷い戦渦に見舞われた場所であっても、入手不可能と思われる品物を調達してくると、いつも友人たちを驚かせ感心さたのは、母ユリアが大戦下でもみせた「不屈の精神」と体験を後に聞き及んで学んだからだったともいわれています。それに「魅力」と「機知」を巧みに扱う父の教訓がくわわったため、「ロバート・キャパ」の戦場や戦渦の町での機転は、人後に及ばないものがあったのです。
1917年になるとブダペストルーマニア軍に占領され、反動的なハンガリー人と手を結び、反ユダヤ主義的な政策をとったため、ユダヤ人に対するテロ行為が頻発。エンドレも外出できなくなります。ユダヤ人を標的にした残虐行為は地方では続きましたがブダペストでは数週間で沈静化したため、6歳になったエンドレはエヴァンゲリクス小学校に入学します。ユダヤ教会からラビが来てヘブライ語ユダヤ教の教義を説くほどに、宗派にとらわれない名門スクールでした。エンドレは、ヘブライ語ユダヤ教の勉強はおろそかなまま、4年生を修了した時に、同じく宗派にとらわれていないギムナジウム(必須のラテン語、数学や、ドイツ・ハンガリーギリシア文学、歴史・哲学など8年制のみっちりしたカリキュラムで知られる)に入学しています。最初の1年目は、数学と幾何製図で落第したように、後も他の課目も優秀な成績を修めることなく、良と可ばかりだったといいます(「優」が無いということ)
ギムナジウムに入学した頃から、母は「サロン」の仕事で忙殺され、父は自由人で口喧しく言うこともなく、エンドレはまったくの放任状態になっていたのです。学校の終業のベルが鳴ればエンドレはいつも友達と町に繰り出すようになっていました。電車の後部につかまる無賃乗車は当たり前で、あちこちで見知らぬ人にギャグのように悪さをして学校と家での憂さを晴らすようになっていたのです。それから2年後、12歳になったエンドレは、同じアパートメントの同じ階に暮らしている3人姉妹の存在が気になってきました。彼女たちは弁護士の娘で、成り上がりブルジョアジーフリードマン家とは階層が異なるだけでなく、街で遊びまわってきて帰宅するため髪はぼさぼさで服も汚れていたエンドレに、彼女たちの母は娘たちが近づかないように気をもんでいました。エンドレは3人姉妹の中で波長が合う子がいることを発見したのです。エーヴァ・ベシュニューというエンドレより3歳年上の子でした。エーヴァは厳格なギムナジウムで勉強するよりも、「写真」を撮ることに熱心だったのです。
▶(2)に続く
参考書籍『キャパーその青春』リチャード・ウィーラン著 沢木耕太郎訳 文藝春秋社 1988年刊『ちょっとピンぼけ』トバート・キャパ ダヴィッド社 1985年版

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