ラースロー・モホリ=ナジの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 2歳の時、父が賭け事に失敗し失踪。母の実家へ。父と一度だけの再会。12歳の時、「詩」を書き「文学」を読みだし、ドストエフスキーのような大作家になることを目標にたてる


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はじめに:「光」の造形、「新しい視覚」を予言したモホリ=ナジ

ラースロー・モホリ(モホイ)=ナジといえば、20世紀のモダン建築とモダンデザインの新たな潮流を生み出した「バウハウス」と、亡命先の米国シカゴの「ニュー・バウハウス(現在はイリノイ工科大学に吸収されその理念が受け継がれている)における革新的な教育理念で知られ、20世紀美術界に大きな影響を与えた人物です。「写真」「タイポグラフィー」「インダストリアル・デザイン」のみならず、絵画・彫刻などで、モホリ=ナジはつねにイノベーターでした。自身の著書、バウハウス叢書の1冊『絵画・写真・映画』(1925刊)は、20世紀の科学技術時代の「新しい視覚」を予言するものでした。マン・レイとともに生み出していった光造形の新たな可能性としての「フォトグラム」にみられるような「カメラ」による機械的描写を重視したのは、非物質的素材の「光」がまさに造形要素であり、近代的都市環境とテクノロジー環境、大衆文化のすべてに深くかかわるものだったからでした。
またモホリ=ナジの「写真」(論)は日本にも大きな影響を与えていきます。それは絵画とは異なる写真独自の表現を追求する「新興写真」として、大正末から昭和初期にかけて巻き起こった革新的なうねりとなり、関西の芦屋カメラクラブを刺激し、また『光画』に結実していきます。
今日の情報化時代の芸術を先駆けたモホリ=ナジのアヴァンギャルドなスピリットと造形思考はどこからきたのでしょうか。モホリ=ナジが生まれ育ったハンガリーは、「行動主義」を軸としたアヴァンギャルド運動が盛んでした。それは東欧の近代化の過程で生じたイデオロギーと政治状況を背景に生じたものであり、「行動主義」とは民族自立を意識した文化運動でもあったのです。
幼少期、モホリ=ナジの実父は家族をおいて失踪してしまっています。「モホリ=ナジ」という「姓」はまさにそのことを告げていたのです。モホリ=ナジの「マインド・ツリー(心の樹)」の”根っ子”には何があるのか。少年モホリ=ナジの「心の樹」を成長させてくれた「光」とは何だったのか、一緒にみてみましょう。

ハンガリー南部の小村に暮らすユダヤ人一家のもとに生まれる

ラースロー・モホリ=ナジ(László Moholy-Nagy : 以下、幼少期は名のラースローと表記;、本名は、ヴァイス・ラースロー Weisz László)は、1895年7月20日(〜1946年11月24日)、東欧ハンガリーの首都ブダペストの南方200キロ程にあるバーチ・ボドログ城県(Bács-Bodrog)にあるバーチボルショード村(当時人口2000人程)に生まれています。ちょうどブダペストを南北に縫って流れるドナウ川が、なだからな丘陵の間を南方へ流れ、その河畔近くにつくられたバヤの町の近くの小さな村でした。
現在ハンガリー共和国の国民の95パーセントが、ハンガリー語(マジャル語)を話すマジャル人ハンガリー人)で、1パーセントがドイツ人、その他4パーセントがロマ(ジプシー)他、チェコ人、ウクライナ人、ルーマニア人、クロアチア人、ユダヤ人ですが、モホリ=ナジが誕生した頃には、オーストリア=ハンガリー帝国の一翼だったハンガリー王国は、現在のスロバキアクロアチアセルビアルーマニアの一部にいたるまで膨張し、民族の構成比も現在とはずいぶんと変わっていたようです。ただモホリ=ナジが誕生した一帯は、現ハンガリー国内だったため当時も7割程がマジャル人だったようです。
父ヴァイス・リポートはユダヤ教徒でしたが、村の中でユダヤ教信者は、2000人余りのうち1パーセントの20人もいなかったといいます第二次世界大戦中に、ユダヤ人迫害からほとんどのユダヤ人は米国やイスラエル他に移住していったため、ハンガリー内でのユダヤ人比率はさらに下がることになる)

一方、母シュトレン・カロリンはギリシャ正教徒でしたが、カトリック教を信仰する者が9割以上だった土地で、ギリシャ正教徒はわずか10人程だったといいます。2人とも民族的にも宗教的にも極めて少数派でした。肥沃な土壌を生み出した青きドナウの河畔は、父ヴァイス・リポートのジューイッシュ・ハンガリアンの一家にとっては、しっかりとした”根”を張る土壌ではありませんでした。

2歳の時、父が賭け事に失敗し、失踪。「モホリ=ナジ」の姓の由来とは

ラースロー(モホリ=ナジ)には、兄と二人の弟と妹の5人兄妹がいましたが、後に弟の一人と妹は夭折しています。ラースロー2歳の時、一家に非運がおとずれます。父が失踪してしまったのです。原因は賭け事に失敗したためのようですが、どんな理由にせよ、母と子供たちの生活環境は激変していきます。母は子供たちを連れ、東方に100キロ程のモホル村にある実家に移り住みます。兄弟は離ればなれになってしまいます。兄はドイツに住む親戚に預けられることになってしまうのです。このモホル村(Mohol)は、ラースローにとって事実上の出身地、故郷になってゆくのですハンガリー王国時代にハンガリー領だったモホル村はその後、ユーゴスラビア領へ、現在はセルビア領となり激動の時代を迎えることに)。後にラースローは、この故郷の村の名称「Mohol」を姓に入れることになります。「モホリ=ナジ」(モホリとは「モホル村の出身」という意味。この姓の詳細は後述)とは、実際の生まれ故郷ではないものの、幼少期を過ごしたモホル村の「ナジ」という意味なのです。
では、「ナジ」とは何なのでしょう。ラースローの本名は、ヴァイス・ラースロー Weisz László なのです。じつはモホル村へ移住した時、ラースローは、本名の「ヴァイス・ラースロー」から、「ナジ・ヴァイス・ラースロー」へと名前を変えています。父の姓ヴァイス(Weisz)に加え付けられたこの「ナジ(Nagy)」とは、失踪した父に代わって後見人となった母方の叔父ナジ・グスタフの姓だったのです。父の姓ヴァイスをまだ落としていなかったのは、失踪した父が近いうちに戻ってくる、その時のためにと母や親族が考えたのかも知れません。ラースローは14歳になるまで、「ナジ・ヴァイス・ラースロー」と名乗っていきます。

自伝的小説『出会い』の中で書いた、一度だけの父との出会い

モホル村の母の実家に住んでいた時、母が弟を怒った時に「父親のような浮浪者になりたいのか」という言葉を聞いたラースローは、弟とともに心から驚いたと、23歳の時に書いた自伝的短篇小説『出会い』(『ハンガリーアヴァンギャルド—MAとモホイ=ナジ』内に翻訳掲載あり/井口◉乃著 彩流社のなかで語っています。その言葉を聞いてからというもの、父は浮浪者だったと勝手に思い込んでしまっていたことや、母と祖母が一度たりとも父のことを話したことがなかったことに触れています。また心が不安定になった母は、急速に宗教に傾いていったようです。ラースローはもの心がつく頃には、自分を守ってくれる母に強い愛情をもつようになります。
そしてある日のことでした。父から突然手紙がきたのです(子供たちを呼び戻すと書かれてあったという)。子供たちだけがレストランで会うことになります。別れる前、父が子供たちにどんな本が好きか訊ねていることからも、父がどうやら「本」が好きだったことが推測されます。後に兄弟それぞれに「本」が送り届けられたといいます。この自伝的小説では、その後、父が再び現れていません。母と堪忍袋の緒が切れている祖母には様々な事情から会うことはできなかったようです。

叔父が住むハンガリー第2の都市セゲドに移り住む。12歳の時から「詩」を書きだす

少年ラースロー10歳の時、後見人でもある叔父ナジ・グスタフが住んでいるセゲド市に移り住んでいます。母と弟も一緒でした。セゲド(Szeged)は、ハンガリーの南端にあり、現在の国境でルーマニアセルビア・モンテネグロまで僅かの所にあるハンガリー第二の都市でした(中欧を代表する国立セゲド大学やミラノの大聖堂に次ぐヨーロッパ最大級のパイプ・オルガンがあることで知られる)。そしてなんとも興味深いことに、このセゲド市には、『視覚的人間』を著し(1924年刊)、それを早々に読んだセルゲイ・エイゼシュタイン(『戦艦ポチョムキン』を監督したのは1925年。同映画で「モンタージュ理論」を確立)やプドフキンらに絶大な影響を与えることになった映画評論家で作家ベーラ・バラージュが生まれ育っています(モホリ=ナジよりも11歳年上のベーラ・バラージュもまたユダヤ人家庭に生まれている。ちなみにバルトークが作曲したオペラ『青髭公の城』の原作者は、このベーラ・バラージュ)
セゲドに移り住み、ギムナジウムに通いだした2年後(12歳の時)、ラースローは、「詩」を書きはじめています。不安と孤独から”自ら”救いだしてくれるのは、ラースローにとって「詩」しかなかったようです。ギムナジウムではお決まりのラテン語ギリシア語、歴史、文学、数学、音楽などを学んでいますが1年目から成績は極めて優秀で、(家の事情を考慮されてなのか、その優秀さゆえか)授業料を免除されてたようです。それ以外の10代半ばの多感な頃のことはあまりわかっていませんが、15歳の時、再び改名しています。名前から父の姓「ヴァイス」が取り去られ、「ナジ・ラースロー」となります。子供たちの前に姿を一度だけ現した父が、再びいつ現れるとも知れず、その年まで父の姓を名前に入れていたのでしょうが、ついに決断を下さざるをえなくなったのでしょう(父はアメリカに渡米していた)
16歳の時、雑誌に自作の詩がはじめて掲載されています。ナジ・ラースローは、不安な日々がつづくなか、「詩」や「文学」に心を傾けていきます。そしてその年、ドストエフスキーのような大作家になることを目標にたてたといいます。今度は自己を実現への強い欲求が、不安感と孤独をぬぐってくれるのでした。翌年、地元の新聞『セゲド日報』に深い憂鬱に沈みながらも耐え忍び、自分に愛情を注いでくれる母をうたった詩が掲載されています。その中で「—幸せの港は 私たちの前には 決して現れなかった—」という一文がありますが、すでに過去形になっています。父の姓「ヴァイス」を消したラースローは、「ナジ・ラースロー」となり、過去を振り切り、憂鬱と苦悩を乗り越えようとしていました。

◉名前表記について:
ラースロー・モホリ=ナジ(László Moholy-Nagy)の本名は、「ヴァイス・ラースロー Weisz László」です。 モホイ=ナジの表記もある。モホリ=ナジとモホイ=ナジの2つの表記が存在するのは、現地マジャル(ハンガリー)語表記と英米・ヨーロッパ式の名前表記によるもの。Moholyの「ly」は、通常現地のマジャル語の発音は「イ」となるため、ハンガリーでは「モホイ=ナジ」と呼ばれる。「モホリ」となったのは、ベルリンで活動するようになりドイツ語流に「イ」ではなく「リ」と発音するようになったようだ。ただその場合、ドイツ語読みだと、「ナジ」も「ナギ」となるようで、「モホリ=ナギ」となる。ハンガリー語表記では、日本語と同様、名前の姓が最初にくるので、Moholy-Nagy László と、現地読みの場合は、「モホイ=ナジ・ラースロー」の表記が正しく、わざわざヨーロッパ式に名を先にもってきて表記する場合のLászló Moholy-Nagyでは、「ラースロー・モホリ=ナジ」の発音と表記が正しいことになる。マジャル(ハンガリー)語からダイレクトで翻訳するケースは、当該研究者以外なかなかないため、ベルリンで大いに活躍するようになって以降の、また慣用的にその表記が聞き慣れている、つまり英語読みの László Moholy-Nagy—ラースロー・モホリ=ナジでよいかとおもわれる。参考資料として大いに参考させて頂いた『ハンガリーアヴァンギャルド—MAとモホイ=ナジ』の著者で中欧アヴァンギャルド芸術の第一人者・井口◉乃は、現地での表記と発音を採用されているので、「モホイ=ナジ」としている。また本名のWeisz Lászlóのハンガリー語読みでは「ヴェイス・ラースロー 」のようですが、ドイツ語の発音では、「ヴァイス」となり、その場合は、「ラースロー・ヴァイス」となる。

▶(2)に続く-未
参照書籍:『ハンガリーアヴァンギャルドとモホイ=ナジ』(井口◉乃著 彩流社 2000年刊)/『絵画・写真・映画』(モホリ=ナジ著 バウハウス叢書)/『アヴァンギャルド宣言ー中東欧のモダニズム』(井口◉乃+圀府寺司編 三元社 2005年刊)

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