滝沢(曲亭)馬琴の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 5、6歳の頃、母が物語る「浄瑠璃」「草双紙」の筋を諳んじた。9歳の時、家老の父が死去、一家貧窮へ。14歳、主家から「逃亡」、江戸放浪。俳諧に染まる


南総里見八犬伝』は、関東平野の南方、「安房(千葉)」の国が
ユートピアとして描かれます。
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はじめに:日本初の本格的職業作家だった「滝沢馬琴

滝沢馬琴は、ほぼ原稿料だけで生計を立てることができる、つまり日本初の本格的職業作家とも言われています。筆名は「曲亭馬琴」で、滝沢は本名の姓で、馬琴は10代につけた「俳号」でした。曲亭馬琴の名を広く轟かせることになったのは、大出世作椿説弓張月葛飾北斎・画)で、琉球王国建国の秘史に迫った今で言う「歴史小説」でしたが、その荒唐無稽さは庶民の拍手喝采と絶大な支持を得たのでした。『椿説』フィーバー中の曲亭馬琴の仕事量は凄まじいもので、一年間に60冊以上もの読本を著し(絵師は、北斎や歌川豊国、豊広、栄泉ら一流どころと組むこともあった)、師だった山東京伝をうわまわる超人気作家にのしあがっていったのです。
そうした膨大な読本を生み出していたのは、曲亭馬琴の空想力や想像力がずば抜けていただけではありませんでした。
荒唐無稽さの一方で、馬琴は史実や伝承の考証、中国小説の典拠にことごとくあたり、その研究力や調査力が、想像力を支えていたといわれます。 
江戸・戯作文学の代表作の一つとなる超大作『南総里見八犬伝(98巻106冊)を28年かけて完結した時、馬琴は75歳になっていましたが、その「持続力」もまた驚くべきものでした。「持続力」といえば、馬琴はまた一日も休むことなく精緻な『馬琴日記』を書き残しています。
この「曲亭馬琴」が著したものの奥底には、歴史上の「敗者」天皇家ならば廃帝南北朝なら南朝への想いが貫いていました。それは滝沢家が代々続いてきた武士身分(先祖は三河武士)であったにもかかわらず(貧窮する下級武士に転落)、戯作者、町人となった馬琴の自らを重ね合わせたものだったにちがいありません。
それでは戯作者「曲亭馬琴」の「マインド・ツリー(心の樹)」に少しばかり分け入ってみましょう。馬琴の「心の樹」を通じて、江戸時代の不条理と、そこに生きるしかなかった家族の風景もまた見えてきます。

江戸深川・旗本松平家の「家老」の職は、安定したものではなかった

滝沢馬琴は、明和4年(1767年)、6月9日、江戸深川・松平家屋敷内で生まれています。しばしば下級武士の家に生まれ育ったとありますが、実際には私たちが藤沢周平の時代小説などでイメージするような下級武士然とした武士の家ではありません。主家は深川の旗本・松平家(当主・松平信成の通称は、五代続く鍋五郎)でした。この松平家は、河越(川越)藩7万石の領主になった松平伊豆守信綱(三代将軍家光と四代将軍家綱と二代にわたって幕府老中を務めた)にまで遡る、徳川幕府創建の功臣の家柄だったのです。その松平伊豆守の6男が深川の河越藩下の屋敷に移ったのが、松平信成家のおこりでした。旗本・松平家は千石あったので、大名にも準ずる三千石級の旗本と比べれば落ちるものの、100〜200石が小禄の旗本と言われているので(旗本の9割は500石以下)、まずまずの家格であったようです。
滝沢家は代々、深川の旗本松平家の「家老」で、「殿様」の松平家の家政・財政を切り盛りしていました。滝沢家の子は代々、松平家の屋敷内で生まれたというのも、滝沢家伝にあてがわれた玄関付きの居宅が屋敷内にあったためでした。旗本の家老となれば、たいそうな暮らしぶりを想像しますが、それもじつは私たちに染み込んだイメージで、江戸中期から後期にすすむにつれ、武家の経済が逼迫しはじめ、旗本たちは家臣の譜代たちを「リストラ」しはじめていたのです。雇いの用人や徒士も季節に応じた臨時雇い(今日でいえば一時的な契約スタッフ)をするようになっていたといいます。下層の旗本では、幕府成立後のわずか30年余後にすでに「旗本の貧窮化」が問題視されはじめていますが、いよいよ中級の旗本クラスにも「財政健全化」がまったなしとなってきていました。
最も旗本松平家の「家老」といえども、主家の(上席)用人であり、「殿様」の虫の居所一つで、クビになる立場だったのです。そして実際に、馬琴の父・滝沢興義(おきよし)は、「殿様」松平”鍋五郎”に容赦なくクビを言い渡されているのです。まだ若かった(馬琴がまだ生まれる前で、馬琴の祖父・興吉が家老だった)滝沢興義は、当時の言葉でいえば、「渡り奉公」「渡り用人」となり、後に馬琴の母がいた松沢家に知人の世話で養子に入っています(後に、滝沢興義の代わりに雇い入れた家老が多額の金を横領し、「殿様」”鍋五郎”は非礼を詫び興義を再び招き入れている)。旗本の「家老」は武士としては中級の立場ではあったようですが、いつ何時整理解雇されるかわからない奉公人でもある立場は、一日にして「下級武士」に転落することも現実だったのです。つまり「中級武士」と「下級武士」レベルを行ったり来たりすることが日常的になってきていたのです。馬琴の父が経験した「渡り奉公」「渡り用人」という生活の仕方は、当時かなり一般化しはじめ、馬琴もそうした生活や経済が不安定化した時代に生まれ、幼少期を過ごしたのでした。

5、6歳の頃、「浄瑠璃」や「草双紙」「俳句」を諳んじはじめる

馬琴の幼名は、倉蔵(くらぞう)でした。倉蔵は幼い頃から相当の腕白坊主だったといいます。馬術にも秀でた剛胆な面もあった父も、その腕白さには肝を冷やすこと度々だったようです。何をやらかすか分からない気性で、兄を敬うこともせず、兄にくってかかるだけでなく、意地っ張りで、それでいて執着心の強い性格だったといいます。腕白かと思えばその一方、「記憶力」に優れ、早くから文字を覚えはじめています。「草双紙(くさぞうし)」をぽつぽつ拾い読みして楽しんでいたといいます。次第に母が物語る「浄瑠璃」や「草双紙」などの筋を諳(そら)んじることができるようになっていったのです。5、6歳になると、倉蔵は母が日頃よく読んでいた「絵双紙」(浮世双紙の類)を手にすれば、飽くことなく次から次へと読んでいたといいます。
「草双紙」や「絵双紙」だけでなく、「俳句」も次から次へと暗誦していったといいます。そのきっかけは、父が催していた俳席で、幼な心に父の傍らで読まれる俳句をいつも聴いていたのでした。父は可蝶という俳号をもつ「俳諧に遊ぶ人」でもあったのです。そうして鋭気を養うと、今度は儒書に親しみ、兵書の『孫子』『呉死子』『司馬法』『三略』『六韜(りくとう)』なども学んでいました。それらは父の座右の書でもあったのです。武具や刀剣への関心もひとしおで、馬琴兄弟は父から厳格な武士道的訓練も受けていました。父は兄弟たちを深川門前の儒者小柴長雄の私塾へ通わせています(『四書五経』の講義などがあった)。倉蔵がその私塾へ通いはじめたのは、7歳の時でした。兄たちに連れられ通ったようです。

9歳の時、父が突然、死去。主家の冷淡な仕打ちで、一家は一気に貧窮しはじめる

9歳の時、父が突然、大量に吐血し病に倒れ、死去してしまったのです(父51歳没)。朝酒をよくするようになっていたことが原因だったようです。滝沢家に暗雲が垂れ込めます。主家松平家は亡くなった父の棒禄を直ちに停止。長男が家督を相続しますが、17歳だったこともあり給禄が激減してしまうのです。しかも滝沢家の居宅も強引に取りあげられ一家は小さな宿所に移されてしまったのです。「下級武士」まっしぐらでした。主家の冷淡な仕打ちに、母お門は激しく怒りをあらわしています(母38歳の時)
結局、長男も給禄を取り上げられ、翌年、兄は松平家を去り、従兄の家に世話になった後に、大旗本・戸田大学忠諏(ただとも)の用心として仕えはじめます。今度は次兄が、長男の代わりに無給同然で使われることを察知した母は、次兄を滝沢家から離れさせ、養子入りさせたのです。主君の傍若無人な仕打ちに対する母の返り討ちでした。その結果、家督を継ぐものは倉蔵(馬琴)ばかりとなったのでした。主家は最低限の給禄を与え、「殿様」松平”鍋五郎”の孫の童小姓として倉蔵を出仕させたのです。
母は下の妹2人を連れて戸田家の邸内の小宅に移っていったため、倉蔵は一人っきり松平家邸内にある次の間で暮らすようになります。寝る場所は畳廊下で、人が枕元をつねに通り過ぎていくような状況だったといいます。その間も、時間があれば浄瑠璃や草双紙を読みふけり、好きな「俳諧」に遊んでいます。

浄瑠璃本」を多読。14歳の時、主家から「逃亡」する。俳諧に染まる

11、12歳までに、倉蔵少年は、当時読むことができうる「浄瑠璃本」はことごとく読み終えていたといいます(さらりと読むだけでなく”熟読”していた)。大量の「草双紙」はもちろん、父の蔵書の「兵書」「儒書」に加え、「軍書」「実録」の類に至るまで乱読しています。それもただ読み漁るのではなく、自身の名のように、記憶に「蔵」するような読みだったと後に語っています。
松平邸内の遠侍になり、主家の愚鈍な幼君の相手役にされたことで、反発心が”マグマ”のように溜まっていきます。倉蔵少年にとって、堪え難いことだったのです。少年倉蔵が、荷物を風呂敷に包んで家を飛び出したのは、14歳の冬の日のことでした。その時、障子紙に「木がしらに 思いたちたり 神の供」という句を書きなぐっています。要するに、少年倉蔵は、松平家を「逃亡」したのです。この時代、主家を逃亡した者は、「渡り奉公」は難しくとも、「渡り用人」としてなんとか生きていけるようになっていましたが、別様に言えば、もし「渡り用人」として受け入れられなければ、もはや「用無し」として、下級武士の「浪人」になるしかありませんでした。家老の子としては、「堕ちる」ところまで落ちるというイメージでしょうか。
家出に驚いた心優しい兄は、弟を迎え入れ、翌年の冬に、戸田家に徒士(かち)として仕えさせています。当初、足軽の槍かつぎの役割を倉蔵は反発し受け入れませんでしたが母に叱られ、いやいや仕えています。この頃、少年倉蔵の心は俳諧に染まっていました。徒士の職に抵抗感を感じ、反発したりしています。行動は次第に抑制を欠き、素行も不良となり、「あぶれ者」予備軍と化し、反抗的若者=「無頼人」になっていったといいます。それは一心に燃えたいものがあったがためでした。この頃に左七郎と改名していた倉蔵は、和漢の書を濫読しています。「弔鶯(うぐいすをとむろう)の辞』など俳諧を読んだのは、15歳の時のことでした。自己の境遇を鳥籠に入れられた鶯に見立てたのでしょうか。倉蔵改め少年左七郎は、はちきれんばかりのエネルギーをかかえながら、籠に入れられた鶯のような暮らしをつづけるしかありませんでした。最も少年左七郎の体もぐんぐん大きくなり(六尺=180センチ)、肥満していもいたので、周りからは(鳥は鳥でも)相撲取り(鳥)になれと囃し立てられたようです。
また戸田家に徒士として仕えている間にも、叔父の誘いで、小石川療養所勤めの官医(山本宗洪)に入門したり、駿河(黒沢右仲)に行っては「論孟」を学んだり、再び叔父の家にあって医術をのべ2年間程学んでいます。が、医術は少年倉蔵の「マインド・ツリー(心の樹)」にその関心の”芽”も"根”もまったくなく、倉蔵のように物覚えがよい者でも、あえなく撃沈(挫折)しています。

俳人になった兄の連衆の会に遊ぶ。17歳、「馬琴」の「俳号」をもつ

少年左七郎が、「俳諧」に深く遊ぶようになったのは、まずは父の、次いで長兄の影響でした。長兄(興旨-おきむね)は、俳人・越谷吾山(こしがやごさん)に入門し、東岡舎羅文という俳号をもつ俳人となっていました。この越谷吾山は、諸国の方言を集め編集した『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』を刊行した文化人だったことは、おそらく後に馬琴(36歳の時)が、『俳諧歳時記』(近世の歳時記の決定版とも言われる)を一人で編集してつくりあげてしまったことにおそらく木霊(こだま)しています。
東岡舎羅文(長兄)は、下層武士だけからなる俳諧を詠み合う連衆(れんじゅ)の会の中心人物として催しています。もちろん少年左七郎も何度も俳席に加わり多いに楽しんでいます。そこに希望の光を見たようです。越谷吾山の撰集になる『東海藻』には、「馬琴」という<俳号>で、「長兄よりも1句多い3句が掲載されています。少年左七郎(馬琴)、17歳の時でした。ここに「馬琴」の名がはじめて登場したのでした。
18歳の時、元服した左七郎は「興邦」と名乗ります。興邦は、<俳号>の「馬琴」だけでなく、「亭々亭」という<雅号>や「山梁貫淵」という<狂名>も名乗るようになっていきます。

多くの書物を「筆写」するも、江戸市中を放浪

巨漢にして、素行も放埒の興邦(馬琴)を兄は押しとどめることはできなくなります。戸田家の出仕を辞めたことは、「世を渡る」術を失ったことでもありました。興邦(馬琴)は、無頼の徒となって江戸市中を放浪するようになっていきますが、その胸には「馬琴」「亭々亭」「山梁貫淵」という「号」が宿っていました。興邦(馬琴)は、当面俳友たちの家をねぐらにし、多くの書物を「筆写」していきます。「筆写」は江戸時代の読書方法であり、筆写することで精読もでき、その書物を自分で所蔵することもできるのです。興邦は、筆写したものを他の書物と交換したり、「写本」として売り暮らしの足しにもしたようです。
黄表紙や洒落本・滑稽絵本・図案集・美人画集など八面六臂に著し、版元蔦屋重三郎に目をかけられ、戯作者として江戸の通俗文壇の綺羅星となっていた山東京伝(馬琴と同じく深川出身)の門を叩くのはこれより5年後のことでした。翌19歳の時でした。一家を死にもの狂いで支えてきた母が病に倒れます。その時、興邦(馬琴)は、居所を転々とし放浪生活を送っていたため、兄妹に看守られながらも衰弱していく母の病状を興邦だけが知らないままでした。
▶(2)に続く-未
・参照書籍:『滝沢馬琴—百年以降の知音を俟つ』(高田衛ミネルヴァ書房 2006刊)/『滝沢馬琴』(麻生磯次吉川弘文館 2006刊)

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