ジャニス・ジョプリンの「Mind Tree」(2)- ジャニスが生まれる前、ダンス音楽にのって店のテーブルの上で踊りまくっていた母。父は家族を引き連れて毎週末、公共図書館に通った 

ジャニスが生まれる前、ダンス音楽にのって、お店のテーブルの上に乗って踊りまくっていた母

▶(1)からの続き:ついにドロシー一家(ジャニス・ジョプリンの実家のイースト家)は崩壊。母とドロシーの妹ミミが、アマリロを離れポート・アーサーのドロシーとセスの所に向ったのでした。ドロシーとセス2人は、皆で暮らせるようにと町外れの煉瓦づくりの家(ベッドルームが2部屋あったが小さな家だった)をなんとか購入します。経済的余裕はこれでさらになくなったドロシーは鬱積を晴らすかのようにダンス音楽を流す店が並ぶヴィントンの町に行った時には、テーブルの上に乗って踊り狂うのでした。その時、お腹の中には、ジャニスの命が宿っていたのです。
夫となり父となったセスは、この頃テキサコで日夜、石油缶をつくっていました。ジャニスが誕生した1943年1月にはF.ルーズベルト大統領と英国チャーチル首相がモロッコカサブランカで、ドイツ軍が占拠するシチリア島とイタリア本土上陸作戦を協議し、枢軸国が無条件降伏をするまで戦い抜くことを宣言しています(カサブランカ会談)。ちなみにこの頃、日本軍はオーストラリア北部を空襲する一方、ガダルカナルの激戦で撤退を余儀なくされています。
戦争の激化で、石油缶工場に勤めるセスたちは忙殺されていました。セスが家にいない分だけ、音楽好きな母と、祖母と叔母に囲まれてジャニスは育っていったのです。母ドロシーは仕事を辞めていたため、子育てはすべて母の裁量でした。

幼い頃からジャニスを教会に連れて行った。賛美歌を歌うことが大好きに

保育園にいきはじめたジャニスがこの頃すでに教会に行くことが大好きになっていたのも、幼い頃から母ドロシーがジャニスをファースト・クリスチャン教会に連れて行っていたためでした。ジャニスは賛美歌を歌うことが大好きになっていました。母はジャニスのためにとアップライト・ピアノを購入し、弾き方を教えだしています。ジャニスが夜寝るまで繰り返し歌っていたのはその時に母に教えてもらった童謡でした。
ところがこのアップライト・ピアノでひと騒動が起こってしまったのです。仕事で疲れ切った父が癒される音楽は、ルービンスタインが弾くショパンだったので、母娘のにぎやかな大演奏会がじょじょに我慢の限界に達してしまったのです。伝記『ジャニス・ジョプリンー禁断のパール』では、母が甲状腺の手術を受けた際に、病院の担当医が声帯と関連する神経を誤って切断し大好きな賛美歌を歌うことはできなくなってしまったので(聖歌隊も辞めていた)、父が悲しみのあまりピアノを売り払った、と書かれていますが、妹ローラによれば事情は少し異なっていました。父の小言に、言い争いが続くのを避けるために母自身がピアノを売ったようなのです。それは母が自身の両親の不和を悲しい思いでみてきたことからくる判断でした。「夫とは絶対に喧嘩をしない」これが結婚当時のドロシーの決意だったのです。ドロシーはその後、2度流産し、ジャニスが生まれて6年後に妹ローラが生まれています(その4年後弟マイケル生まれる)。
家族が増え、ポート・アーサー郊外の牧草地に面した閑静な場所に引っ越した時は(ベッドルームが3つある素敵な大きな家に入居)、友達と離れてしまうだけでなく、教会にも行けなくなると言ってり泣きじゃくったといいます(最も大人からすれば近か場での引っ越しでしたが)。引っ越し先のグリフィング・パークは、この一帯が土壌豊かであることを宣伝するためにつくられた実験農場でした(ジャガイモ、オレンジ、豆類、レモンなど)。農場近くには薔薇、ユーカリ、椰子の樹、フジの花が美しく咲き誇っていました。父母は家の周りにツツジクチナシを、通りから玄関につづく小径に毎年のようにちがう花を植え、裏庭には野菜畑をもうけました。家の中もお金をかけるのではなく、想像力をかけて木枠を芸術作品のようにしたてあげたりしていました。

おませで利発な女の子で、近所では遊びのリーダーだった

ジャニスはこうした両親のもとで成長していったのです。この頃に出版された『スポック博士の育児書』(ベンジャミン・スポック著 1946年)を読んだ母の世代は、親の考えや行動、努力が子供の発達に大きな影響を与えることを知るようになっていました。父はエンジニアのセンスを活かして裏庭に回転ブランコやシーソー、綱渡りまでも自前でつくってジャニスたちをめいっぱい楽しませています(技能は異なるにしろジョニー・デップや映画監督のジェイムズ・キャメロンの父、そしてR.ストーンズブライアン・ジョーンズの父もエンジニアでしたが、ジャニスの父のように子供たちの遊戯をこんなにも自前でこしらえるエンジニアの父はかなり少数派でしょう)。
伝記『ジャニス・ジョプリンー禁断のパール』で語られるように恥ずかしがり屋で内気な女の子というより、元気いっぱいで、利発でおませな女の子に育っていきました。理想的な周囲の環境もジャニスの心の”球根”をたっぷり成長させるのにうってつけでした。その心の”球根”は、ジャニスのおませさだけでなく、頑固さや我武者らに何かに挑戦する意欲を生み出すタンクなのです(父がつくっていた石油缶のようにジャニスの心底には、エネルギーを貯蔵し放出する”球根”が沢山できたような感じでしょうか。後の爆発するようなシャウトはその一つ一つの”球根”が支えたかもしれません)。人見知りすることなく、他の子供を遊びに巻き込み、遊びの面では近隣の子供たちのリーダー格になっていきました。隣家の男の子の蛇のコレクションを持ち出して、死んだ大蛇の頭に紐をつけ道路に這っているようにみさせてドライバーを叫ばせる遊びをしたのもジャニスでした。
またジャニスは”即興”で面白いお話をひねり出し皆を笑わせたり、話しながら演じたりすることも得意で、しかも上手だったといいます。お手製の芝居を家の庭で何度もやったりしたといいます。パフォーマーとしての才能の芽がすでにこの頃には出ていたようです。

父は家族を引き連れて毎週、公共図書館に通った

遊びにかけては人後に落ちない少女ジャニスでしたが、ジョプリン家内ではじつはかなり知的な空気のなかで育てられていました。『ジャニス・ジョプリンからの手紙』を著した6歳下の妹ローラはかなりの高等教育を受け博士号ももっている才女です。背景も環境もまったく異なりますが、例えて言えば、ビート(北野)たけしと工学博士の兄・北野大がいる北野家とよく似ているかもしれません。北野武も教育熱心だった母の容赦のないつっこみで成績は優秀になり(とくに算数と図画工作)、TVで難解な数学を解く「マス北野」の原型はすでに小学校時代からあったように。そしておそらくは映画と絵画の才の源流は、その得意だった”図画工作”で、漫才師としての顔と才能は、反発心と悪戯好きと、止め処もない脳力の裏返し(そのため毒舌化する)だったにちがいありません。
さて、ジョプリン家にとって「図書館」は、毎週末に”家族総出”で出かける場所でした。他の家族が週末に遊園地に行ったりや川遊びやバーベキュー、あるいは教会に出向きお祈りをする代わりに「図書館」通いが、ジョプリン家の週末の”家族行事”だったのです。ローマ様式の円柱に支えられ石段の上にずっしりと聳える町で唯一の公共図書館は、少女ジャニスにとって知の殿堂であり、真理と価値の祭壇のように映ったといいます。「図書館」は、ジョプリン家にとってもう一つの「教会」といってもいいような存在となるのです(母の声帯の問題もあり賛美歌が歌えなくなったことも一因)。

母は、子供たちも「想像力」を摘みとらないよう玩具一つ一つに注意を怠らなかった

子供たちがじょじょに大きくなり文字も読めるようになるにつれて、ジョプリン家の中心は、「音楽」から「本」に移っていったようです(それでもジョプリン家から音楽がなくなることはなく、母はまるで個人レッスンをするかのように、歌詞の発音や横隔膜の使い方などを子供たちに注文をつけたりしている)。実際に「本」を読むことと、自分自身でものを考えることが、ジョプリン家を特徴づけていきました。両親は子供たちに自分の意見をもつことの大切さを教え、「ジャニスはどう思うのかね?」と、子供たちに訊ねるのでした。ジャニス家で特徴的なのは、子供たちに自身の意見をもつことだけでなく、自分から皆で話す”話題を持ち出す”ようにうながしたことでした。夕飯時には両親と子供たちが持ち出した話題をもとに、皆が考えて意見を言い合ったといいます。
母は子供たちが幼い頃からだけでなく、小学校に入ってからも子供たちの玩具に気をつかっています。子供たちが自ら工夫して遊べ、「想像力」を刺激する玩具だけが、母の基準をパスしてようやくジョプリン家の玩具の仲間入りをはたしたのです。それらはモノポリーボードゲーム、ティンカートーイ、ブロック、クレヨンと絵の具と紙、小枝と人形などでした。自動式の玩具は、「想像力」を摘み取ってしまう危惧からいっさい買い与えませんでした。父も、勤めていた工場から処分古紙が出れば、ダンボール箱いっぱいにつめて家に持ち帰ったりしています。

母は子供たちに目標をたてて、それを達成するための方法を考えるようにさとした。ジョプリン家の心構え

母は子供たちがなんにせよチャレンジすることをよく誉めたといいます。大きくなるにつれ学校にまつわる瑣事(さじ)が多くなり気が散るなかでいい加減にやりだすと、母はすべきことをちゃんとできるまで集中してやるように教え、また「目標」を立て、それを達成するための「方法」を考えるようによくさとしたといいます。それは母の経験からきた教えでもあったのです。祖母は裁縫を通して、母にそうした”心構え”と”姿勢”を教えていたのでした。ジョプリン家には、そうした”心構えと姿勢の遺伝子”が継承されていたのです。ただジャニスにとって母は時にあまりにも厳し過ぎると感じることもあったようです。そのことで父にグチをこぼしても、父も集中して最後までやり抜くべきという母の姿勢の見方でとりつく島がありません。
「絵」に興味を抱くようになったジャニスを応援したのも母でした。母は世界一級の絵画が満載された美術書を何冊も買い込んできただけでなく、ジャニスを町一番の絵の先生のもと個人レッスンを受けさせています。
こうしたジョプリン家の”心構えと姿勢”は、じょじょに学校でジャニスを”浮く”存在にしていきました。それはジャニスの発する言葉や発音からはじまったようです。両親はテキサスの北部からやって来たので(テキサス州はなんとフランスの国土よりも広い)、テキサス南部の方言が馴染まず、好きでなく、子供たちが崩した「発音」で話すようになるのを嫌ったのです。ジャニスにもきちんとした発音をするように口煩いくらいに教え込みます。それがクラスで「ヤンキー!」と悪態をつかれるようになり、とくに女の子たちから疎んじられだしたのです。また小学3、4年生の頃からジャニスは必ずズボンを履くようになっていました。この時期、小さな女の子がズボンを履くようなことはかなり珍しかったといいます(母はそれを子供の意見、自己表現として尊重していた)。
そして5、6年の頃から、少女ジャニスに変化があらわれだします。「ヤンキー!」とからかわれていたジャニスが、汚いジョークを言うようになったのです。他の子供やその親たちはあのジャニスがと驚いたといいます。けれどもこのことは両親はまるで知らないことでした。
▶(3)に続く-未

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