泉鏡花の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 父は加賀象眼の匠、叔父は宝生流シテ方。母の宝物の「草双紙」美しい絵が大好きに。9歳、母亡くす

はじめに:鏡花幻想のこと

小説『高野聖』『夜叉ケ池』といった近代の幻想文学の先駆者として知られる泉鏡花。『草迷宮』で寺山修司花組芝居を虜にし(映画化と舞台化)、『外科室』『天守物語』は歌舞伎女形坂東玉三郎を動かさずにはおられませんでした(映画化と『高野聖』などの舞台化)。それを見る者は、夢か現(うつつ)ともつかない異界にとりこまれていきました。それらの作品群は、転がる鞠(まり)のようなスクリーンに、鏡花の内奥の光源から映し出されたものでした。泉鏡花の魂の奥の院、その光源(根源)にあるものとは何なのでしょう。その神秘的光源は、鏡花の「マインド・ツリー(心の樹)」を内奥からつねに照らし出し、深々と成長させていったのです。そしてその根元には、「夜叉ケ池」と地下で繋がる妖しい水脈があったのです。
繰り返し「芝居」となった『婦系図』『海神別荘』『湯島詣』『日本橋』などは、陽光では映しだしえない内奥の光が映しだした現世と他界の狭間にある景色でした。『照葉狂言』『歌行燈』『夜行巡査』『化鳥』『薄紅梅』『眉かくしの霊』などもその景色のうちです。
それでは一緒に行燈(あんどん)を掲げて、泉鏡花の心の森に分け入ってみましょう。鏡花の森は、現世と他界の狭間にある森であってみれば、これを機会に、もう一方の手に『高野聖』か『歌行燈』など、なにか携行していった方がよさそうです。

父は加賀象眼の匠、叔父は宝生流シテ方だった

泉鏡花(本名:泉鏡太郎)は、明治6年(1873年)石川県金沢市に生まれています。父・泉清次は象眼(そうがん;象嵌とも)・彫金職人で、工名は「政光」、加賀象眼の匠でした(加賀藩細工方七代目水野源六の弟子にあたる。初代は加賀藩(城主前田侯)草創期に大坂からやってきた象眼技術の名工・水野源次)。泉清次は木工象眼だけでなく、金工象眼も得意としていました。金工象眼の技は、「鏡」にまでふるえるので、「鏡太郎」の名前もそこから付けられたのかもしれません。まさに泉鏡花は、外界ではなく内界に幻視したものを映し出す「鏡」と化していったのです。しかしそこに至るには、父「政光」の巧みのごとく、幾重にも感性と経験、多くの出会いが象眼のように嵌(は)め込まれなくてはならず、また魂が「鏡」のように磨きあげられねば、幻は小説世界に決して像を結ぶことはなかったにちがいありません。
そして、”秘していた”太郎がいよいよ<花>となり(世阿弥の『風姿花伝』の様に)、鏡太郎改め「鏡花」となったのには、叔父(母の弟)の明治時代を代表する能楽師の一人となっていった宝生流シテ方松本金太郎の存在と影響があったとおもわれます。


尾崎紅葉の門下生になろうと、17歳の時、東京に出て初めて訪れた時に持参した小説の題名が「鏡花水月」だったことにちなみ、紅葉が後に「号」として「鏡花」とつけたという説があるが、実際には鏡太郎がもっていた畠芋之助、白水楼など自らつけていた「号」のうちの一つだった。「鏡花水月」という小説は存在せず、その幻の題名から「鏡花」という号だけが残り、浮かびあがってきたのだろうか。となればそれは鏡太郎の心が作用して生み出された「号」にはちがいない)。


とまれ、まず興味深いのは「鏡花」という名前。「鏡」は、父と父方の匠の技と宇宙観、「花」は母と母方の感性と世界観と、二つの世界の神髄が合体した名前になっているではありませんか。ちなみに鏡太郎も叔父の能楽師からその影響を受けたであろう世阿弥は、晩年に鏡花の名前をちょうどひっくり返した『花鏡』をあらわしています。

母は、加賀藩お抱えの江戸詰め能楽師の娘

もう少し「花」の方をみてみましょう。母・鈴は、加賀藩(前田侯)お抱えの江戸詰め能楽師・中田万三郎豊喜の娘です。そのため生まれは金沢でなく、江戸でした。中田家の8人の子供のうち、能楽の葛野(かどの)流・太鼓を引き継いだのは兄の惣之助でしたが、明治10年に40歳で死去、父豊喜もその4年後に亡くなっているので能楽師としての中田家はそこで途絶えます。幕末まで中田家は加賀藩から年40両を支給されていたといいますが、生活は安定したものではなく、3男の金太郎は養子に出されています(養子先の主が亡くなったため、その後に松本家に14歳の時、松本家に再度出されています)。この金太郎が、後に明治時代を代表する能楽師の一人となる宝生流シテ方松本金太郎でした。松本金太郎泉鏡花からすれば母の兄、つまり伯父にあたります。明治維新が起こり、ほとんどの能楽師は突然貧窮に落ちてしまいます。そのため加賀城主前田侯が彼らを金沢に引き取ったのでした。中田家のこの帰還が、泉鏡花をこの世に生みおとす運命をひらいたのです。その時14歳になった鈴も、初めて金沢に入ることになります。その鈴のことを知った泉家に同居していたある女性が、鏡太郎の父となる清次と顔を合わせるようにとりなしたといいます。それが2人の馴れ初めとなり、泉清次29歳の時、17歳となった中田鈴と縁結びしたのでした。

2歳半頃の城の天守閣の記憶。母の宝物の「草双紙」の表紙の美しい絵が大好きに

鏡花の最も古い記憶は、2歳半ころのもので、両親に連れられ向山(卯辰山)に遊び、その頂から城の天守閣と金沢の全景を眺望をした時のものだったといいます。その夢か現の幻想的景色は、深く鏡太郎の「マインド・ツリー(心の樹)」の根底に潜んだようです。泉鏡花の書いた最後の小説「縷紅新草」では、自ら卯辰山(旧向山)の丘陵から眺望した故郷の光景が描かれました。まさに「初心の花」のごとくに、生まれて最初の記憶が、最後の光景となり、小説家としてそれを映し込んだのでした。そして『天守物語』もまたその時に見た城の天守閣の記憶を強く反映したものにちがいありません。
城の天守と古都・金沢の幻想美の記憶は、3、4歳にかけてたのしんだ「草双紙」の美しい絵が折り重なり強化されていったようです。「草双紙」にはいろんな種類のものがあり、そのどれもが綺麗な絵が表紙に描かれていました。
それは母の宝物で、金沢に来た時に雛の本箱におさめて大切にもってきたものでした。母は『白縫物語』や『大和文庫』『時代かがみ』などを、箱から取り出して綺麗に並べると、眼を輝かせる鏡太郎に絵解きをして聞かせたりしたそうです。まだ文字を読むことのできない鏡太郎でしたが、美しい絵を見たいがために、自ら「草双紙」を箱から引っぱりだしては表紙をずらりと並べて母に絵解きをせがんだといいます。鏡太郎がその後、美しい「絵」をずっと好んだのは、間違いなく幼少の頃にせっした「草双紙」の影響といえるでしょう(鏡花作品の挿絵は鏑木清方、装幀は小村 雪岱)。それは『風姿花伝』に言う、「初心の花」、後々まで貫く原体験だったのです。
またある時は、母がしばしばひらいていた「江戸大節用」(当時の通俗的な百科事典)も鏡太郎の興味を引きました。さすがにまだ百科事典を読むには幼く、いろんな「挿絵」が載っていたためでした。鏡太郎は、「草双紙」や「江戸大節用」の絵をみては、薄く漉いた紙に口絵や挿絵を透かして写したり(透き写し)して遊んでいたといいます。それは絵が好きな様子の鏡太郎を見込んで、象眼・彫金師の仕事を継がせようとした父が、「絵」の基本を教えるためすすんで描かせていたようです。父自ら描いて真似るように描かせていた蘭や竹といったモチーフは象眼でもちいるそれでした。

三国志』や『水滸伝』を読み出す。姫が登場する艶麗な世界の虜に

7歳になると、東馬場養成小学校に入学します(後に尾崎紅葉の門下生となる徳田秋声は同じ小学校の1年上級にいたが、上京するまで交流はなかった)。小学校では鏡太郎は優秀でした。が、極度の近視で(まだ眼鏡はかけていない)、黒板の文字が見えなかったため、仕方なく授業内容をすべて暗記していたといいます。記憶力がもの凄くよかったようです。
文字が読めるようになると、鏡太郎は『三国志』や『水滸伝』『難波戦記』などを読みはじめています。けれども父はそうした本の世界よりも前に、論語孟子を修学してほしかったため、鏡太郎がそうした本を読んでいるとおおいに怒った押入れに入れられたといいます。鏡太郎にとって幼い日々に「草双紙」に遊んだことが読む本の傾向になってあらわれていたのです。若菜姫が登場する艶容、艶麗な世界の魅力に虜になった鏡太郎にとって、論語孟子は馬耳東風でした。一方、母や伯父、町の人から北国の自然が生んだ怪奇的な伝説や物語をたんまりと聴かされていたようです。銀世界の闇の底から滲みでてくるその神秘は、永く鏡花の心に宿り後の鏡花作品の温床になっていきました。

9歳、母を亡くす。生涯にわたる深い傷跡となり、鏡花文学の大きな主題となる

鏡太郎9歳の時(明治15年)、人生の決定的な転換点をむかえます。母が28歳にして夭折してしまったのです。天然痘、あるいは産褥熱(産後の熱性疾患)が原因だったといわれています。理不尽な突然の母の死。長女の他賀も(当時5歳)だけでなく、生まれたばかりの嬰児の次女も養子に出され、泉家は分裂していったのです。鏡太郎の「心の樹」には、心根”にまでたっする大きく深い裂け目が生涯残ることになります。その闇につながる深い裂け目が、鏡花文学の大きなテーマになっていくのです。美しい<母なるもの>のこの世での回復と「母性思慕」でした。
そして母は、鏡太郎少年の原初の記憶にある卯辰山の森に葬られました。卯辰山の丘陵は泉家の墓があったのです(後に卯辰山の墓地は公園となり、泉家の墓地は東京雑司ヶ谷霊園に移された)。原初の記憶の場所は、母が眠る場所ともなり、原初の光景と母の記憶は、”根源”で溶け合い分ち難くなります。


翌年、父は鏡太郎を連れて、松任(現・白山市。金沢から南西は12キロ小松市方面)の日蓮宗の古刹・行善寺にある摩耶夫人(まやぶにん)像に詣でます。摩耶夫人とは釈迦の母(仏母)で、ルンビニー苑で、無憂樹(あるいは娑羅双樹)の枝を掴もうとした(あるいは掴んだ)時に右脇から釈迦を産み落とした後にすぐに亡くなったといわれています(摩耶夫人像の右袖の下が女性器のように赤くぱっくり割れてそこから釈尊が誕生しようとしている)。父は信心深い人で物見遊山よりもお寺詣りをよくする人で、行善寺にも何度も詣でています。鏡太郎は摩耶夫人像に母を幻視するようになっていったようです(鏡花フェミニズムの原型)。後に泉鏡花は、仏師に摩耶夫人像を彫らせています(懐手に赤ん坊の釈迦を抱いている約25センチの小さな像)。執筆の時には、つねに摩耶夫人像を傍に置いていました。
母の面影は、母に似た他の美しい女性たちにも転移していきました。近所の湯浅時計店の娘しげ(初期作品「一之巻」や「照葉狂言」のなかにその面影が映し出されているといわれる)や、祖母の実家の目細家の女てる(何度も鏡花の小説のモデルになった女性)、さらには後に鏡太郎が通うようになった真愛学校の校長の娘のミス・ポートルがその転移先でした。
しかし、絶対に転移しない女性がいました。それは母の死の翌年に、泉家に同居しはじめた女性サクでした。母より8歳年上の義母サクに対しては、鏡太郎は激しく嫌悪しています。繊細な気質の鏡太郎にとって、母の代わりとしての女性が家にいることに耐えられなかったのです。鏡太郎の反発は強く、父はサクと離縁します(後に別の女性と再々婚している)。母の妹のお金だけは、鏡太郎にとって母の代わりの存在として認めることができたのです。▶(2)に続く

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