コンスタンチン・スタニスラフスキーの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 実家は織物業で大成功したブルジョアジーだったが、父はリアリズム文学の祖ゴーゴリ好きで私生児を妻にした。家庭での子供たちの学習方法の一つが「即興劇」だった 

はじめに:「スタニスラフスキー」という名前は、俳優としての芸名に過ぎなかった

演劇界で「スタニスラフスキー・システム」と言えば、ニューヨークのアクターズ・スタジオが採用しているリアリティを重視した俳優育成理論「メソッド演技法」のバックボーンになったものとして、知らぬ者はいない俳優教育法となっていますが、それを考案した「スタニスラフスキー」とはどんな人物だったか、またどうして独自の演技メソッドを生み出さなくてはならなかったのかは、それほど広くは知られていないようです。また事実スタニスラフスキーその人の半生は、謎に包まれてもいるといわれています。
事実、「スタニスラフスキー」という名前じたい、本名ではありません。それは、ロシアでは依然、農奴の如く社会的立場が低かった職業俳優をめざしていること両親に秘密にするためにもちいだした芸名(stage name)でした。とはいってもスタニスラフスキーの実家「アレクセーエフ家」は、モスクワの商人階級の代表格(新興ブルジョアジー)で、オペラや演劇、音楽など19世紀半ばに花開いたロシア芸術を教養にし、子供たちにも劇場に出入りさせたり、兄弟たちで演劇サークルをつくって、大邸宅に設けられた「家族劇場」(なんと300人の席数があり、下北沢スズナリ劇場やこまばアゴラ劇場よりもはるかに大きく、席数386の本多劇場より少し小さい)で上演していたのです。少年スタニスラフスキーは当初たどたどしく内気な少年俳優だったのです。
後にスタニスラフスキーは、モスクワ芸術座を共同設立し、チェーホフやゴーリキ作品をロシアで初めて演出していきます。スタニスラフスキー自身、俳優でもありました。その頃に自身の演技力をつけるために、酔いどれやジプシーの占い師に偽装して真似てみたり、他の俳優の演技技術の真似、即興稽古など様々な役づくりの実験と失敗の繰り返しています。先達の演技方法にくわえて、自信の<自己分析>の習慣と批評的観察眼が、後に「スタニスラフスキー・システム」と呼ばれる演技メソッドを生み出していったようです。
役柄の内面からくる人物に真実性(リアリズム)をもたらす「スタニスラフスキー・システム」とは、スタニスラフスキー自身の「マインド・ツリー(心の樹)」の成長の反映でもあったのです。自然でリアリスティックな演技とは、役の「身体化」とは、イサドラ・ダンカンから受けた衝撃、実験演劇をすすめたメイエルホリドとのこと、そしてロシア革命との関連と挫折など緊迫した状況がスタニスラフスキーに襲いかかります。
ではこれからスタニスラフスキーの「心の樹」の”根っ子”と”土壌”からみていきましょう。「演劇」が欧米の文化の核の一つであり続けた理由の一端もみえてくるかもしれません。「演劇」とは何なんでしょう。スタニスラフスキーにとって<創造的意思>に深くかかわっているもののようです。


ちなみにアクターズ・スタジオとは、エリア・カザンら劇団「グループ・シアター」のメンバーが1947年創設。もともと「グループ・シアター」を結成した張本人リー・ストラスバーグが5年後に運営責任者として参加、以降1982年、ストラスバーグが亡くなるまで31年間君臨した。現在はハーヴェイ・カイテルアル・パチーノら3人が共同学長で、TV放映されている「Inside the Actors' Studio」のインタビュアー、ジェームズ・リプトン(James Lipton)は副学長を務める。「Inside the Actors' Studio」の収録は、マンハッタンにあるPace Universityのキャンパスで収録されている。Pace UniversityのMFA-Masters of Fine Artsは、Actors' Studio公認の芸術修士「the Actors' Studio MFA Program」がある。カリフォルニアにActors' Studio唯一の公認ブランチとして、the Actors' Studio Westがある。

祖父の祖父は路上でえんどう豆売り。祖父はモスクワの「岩崎弥太郎」だった

コンスタンチン・スタニスラフスキー(英語表記 Konstantin Stanislavski 洗礼名:コンスタンチン・セルゲーエヴィッチ・アレクセーエフ)は、1863年1月5日、ロシアの大都モスクワの中心地にほど近い一角(「赤の広場」から北東へ徒歩で30分程)に生まれています。その界隈はお洒落なエリアとしても知られ、なかでもアレクセーエフ家の大邸宅は劇場のようにどっしりとした構えの建物でした(実際、一歩中に入ると間口の広い正面階段が続いていた)。しかしアレクセーエフ家は、もともと大富豪ではなく、スタニスラフスキーの祖父の祖父にあたるペトロフはヤロスタヴリ地方の農奴だったといわれています。18世紀前半に路上でえんどう豆を売ってお金を稼いだようです。商売感覚に長けていたのでしょう。250キロ程離れたモスクワへ出向き、猛烈に商売に精をだし、22歳には商人としてかなり成功を収めるまでになっています(行政長官の登録をえ、商人階級と認められる)。さしずめ日本でいえば岩崎弥太郎のようなのし上がり人生を、まさに絵に描いたような人物だったようです。
祖父の祖父ペトロフの息子セミョーンも商売感覚に長け、当時の花形産業の織物業界の事情通になり、金・銀糸に特化して扱いだしています。金・銀糸は聖職衣や宮廷服だけでなく、軍服にも需要が高まっていて、市場の相場価格が高まっていた時期でした。「アレクセーエフ」とはアレクセイの息子という意味にしかすぎませんでしたが、セミョーン・アレクセーエフは民間人として例外的に名字をもつことができたのです。

父はリアリズム文学の祖ゴーゴリ好きで、混血で私生児を妻にした

商売や相場しか眼中になかったアレクセーエフ家でしたが、スタニスラフスキーの祖父にあたるウラジミール・アレクセーエフの頃になってようやく、「芸術」が家の中に入りこんできました。芸術的感覚をもち教養の高い女性エレイザヴェータがアレクセーエフ家に加わったのです。また時代背景としても新興ブルジョワジーの社会的立場上、「教養」が重視されだしていました。一家が営む工場に隣接して建てられた大邸宅は、「産業」と「芸術」を合体させようと目論んだものだったようです。それはスタニスラフスキーの父セルゲイ・ウラジーミロヴィッチ・アレクセーエフ(1836年生まれ)の代になって、予想外のかたちで実現していくことになるのでした。実業面ではセルゲイは祖父から仕事を吸収し取締役会長になっていますが、芸術面ではとりわけ文学を好み、文芸雑誌を定期購読するようになっていました。なかでも作家ゴーゴリがお気に入りでした。ゴーゴリドストエフスキーにも大きな影響を与えることになる『外套』や『死せる魂』の作者で、下層階級の人々や小役人を主人公に立てていました。
このロシア・リアリズム文学の祖ともいわれるゴーゴリ好きの父が大胆におこなったのは、フランス人混血で、私生児の女性エリザヴェータを妻に迎えいれることでした。アレクセーエフ家は息子の蛮行に大騒ぎになりました。エリザヴェータは富裕な商人ワシーリー・アブラーモヴィッチ・ヤーコヴレフ(ヤーコヴレフ家は冬宮前にアレクサンドル一世の記念碑を建てたことで知られる)と、無名で才能も乏しいフランス人女優マリー・ヴァルレエの間にできた子供でした。エリザヴェータの名付け親は、アレクサンドリンスキー劇場所属の俳優ソスニツキーでした。しかし売れない女優にとって2人の子供の養育は並大抵でなく、実母マリーは姉とエリザヴェータ(11歳の時)を捨てるようにして身を隠してしまいました。モスクワで権勢を誇る家系の娘と再婚した父セルゲイは、継母の実家に子供たちを引き取ってもらい、エリザヴェータはそこで成長しています。そして夫となるセルゲイと出会ったのでした。

幼少時は、身体も弱く線病質で病気がちだったが、7歳頃から身体が丈夫になる

セルゲイとエリザヴェータはうまくいかないという周りの危惧をよそに、お互い支えあう理想的な夫婦となっていきました。私生児といってもエリザヴェータはロシア語だけでなく実母の母国語フランス語もでき、ロシア文学以上にフランス文学を愛読していました。また継母の実家でピアニストとしての腕も磨いていたのです。エリザヴェータの母親似の激しい気性は、夫に対してではなく、子供たちの躾に発揮されたようです。
2人の間には、10人の子供が生まれ、うち9人が成長しています。スタニスラフスキーは第二子でした(本名:コンスタンチン・セルゲーエヴィッチ・アレクセーエフ;以降、幼少年・青年期にかけ、「コンスタンチン」と表記)。幼い頃コンスタンチンは、身体も弱く線病質で病気がち、性格も内気で、自分の部屋では元気でしたが大人の前にでるとたちまちひっこみ思案になったようです。躾の厳しい母にの前でいつもびくびくしていたといいます。母は、大人のパーティにも物怖じせず人前で詩を朗読をしピアノも上手な兄ウラジミールと妹アンナがお気に入りで、コンスタンチンは次第にピアノのレッスンも詩作も心が入らなくなっていきます。心は凝(しこ)り強情さがあらわれるようになり、感性の源泉だった母が圧迫的になっていったようです。そんなコンスタンチンを支えてくれたのが父でした。7歳の頃、父が購入した郊外の土地で、夏の間そこで乗馬やボート遊びをするにつれ、少年の丈夫な身体ができあがっていきました。モスクワの街の堅い路面や邸宅でなく、ロシアの豊穣な大地が少年コンスタンチンの”心根”を生き生きさせ、健康を回復させました。踊りやフェンシングのレッスンが、後の「俳優」コンスタンチン・スタニスラフスキーの基礎となっていったようです。というのも身体を活発に動かす「劇」が、アレクセーエフ家の教育の中心にあったため、活動的な心身がなくてはならなかったのです。

マールイ劇場の俳優やボリショイ劇場の踊り子たちが訪れるようになる

セルゲイとエリザヴェータにとって芸術に囲まれた暮らしは何より大切でした。19世紀半ば、ロシアではオペラ、音楽、演劇、バレエ、文学、美術であらゆる領域で、世界屈指の斬新な芸術が花盛りとなっていました。アレクセーエフ家のような大ブルジョアジーは、もはや産業的世界よりも芸術的世界のなかに暮らしはじめていたのです。そしてアレクセーエフ家は、「文学と音楽の夕べ」を催す名に恥じない一家として認知されるようになり、マールイ劇場の俳優からボリショイ劇場の踊り子や音楽家、作家たちが頻繁に訪問するようになりました。実際、まわりに人を惹き付ける魅力がアレクセーエフ夫妻に備わっていたといいます。またコンスタンチンの従兄弟にあたる鉄道王となったサッワ・マモントフは、芸術の新機軸を打ち出していたオペラ(そして演劇)製作に巨費を投じるほど夢中になっていました。アレクセーエフ家の子供たちはこうした芸術的環境のもとで育ったのでした。

子供たちの家庭での学習方法にとりいれられた「即興劇」

アレクセーエフ家は、子供たちを”アレクセーエフ家流”に成長させたいというおもいから、自宅で教育させています(身体づくりのために家に体育館もつくらせた)。スイス人の家庭教師、スウェーデン人の音楽教師、フランス語教師(家ではフランス語がかわされ、5歳からフランス語文法の学習がすすめられた)、数学の教師らがそれぞれ雇われ、踊りのレッスンには、ボリショイ劇団員が呼ばれるほどでした。そして19歳の女性家庭教師パプーシャが、子供たちの学習方法に「即興劇」を提案し、アレクセーエフ家に導入したのです。
即興劇のテーマには、歴史上の出来事や歴史的人物を選び、それを役柄として体験させることによって、子供たちから無闇な不安や恐怖感を取り除かせ、勇気をもたせたのです。この方法はアレクセーエフ家のなかで大当たりし、コンスタンチンら子供たちの方から、特別な日に皆で何かを演じて家族を喜ばせたいと言い出すほどでした。そして芝居「四季」の稽古が大人たちに極秘ですすめられ、郊外の土地にあった廃屋に舞台をこしらえして演じたのでした。少年コンスタンチンは、冬の役で(別名「森の役」)を演じています。戸惑いのなかの演技だったようですが、「劇」は少年コンスタンチンの心を他の何よりもとらえたのでした。そして「劇」以外にも、コンスタンチンは「サーカス」や「バレエ」も大好きになり、身体で表現することの面白さと可能性を「発見」したのでした。
学校に通っていなかったコンスタンチンには、学校の友達というものはありえませでしたが、ひとりだけ親友ができました。ロシア語家庭教師の息子フェージャでした。フェージャはピアノやヴァイオリンに長けていただけでなく、詩作もうまく高い感性がありました。後にコンスタンチン・スタニスラフスキーがアマチュアの演劇グループを結成した際に、共に演劇グループを引っ張ったのはこのフェージャでした。▶(2)に続く-未

人気ブログランキングへ


芸術におけるわが生涯〈上〉 (岩波文庫)
芸術におけるわが生涯〈上〉 (岩波文庫)スタニスラフスキー 蔵原 惟人

岩波書店 2008-05-16
売り上げランキング : 373091


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

スタニスラフスキー伝 1863‐1938
スタニスラフスキー伝 1863‐1938ジーン ベネディティ Jean Benedetti

晶文社 1997-08
売り上げランキング : 941362


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

スタニスラフスキー入門
スタニスラフスキー入門ジーン ベネディティ Jean Benedetti

而立書房 2008-07
売り上げランキング : 286095


Amazonで詳しく見る
by G-Tools