ルキノ・ヴィスコンティの「Mind Tree」(2)- 少年ルキノにあらわれだした「反抗精神」。4度の家出。20歳に軍学校へ、22歳で馬の調教師、美術商や骨董店に入り浸る
冒頭の映像は、イタリア最高峰の「ミラノ・ゴールド・カップ」(1932年)で、ヴィスコンティが調教した馬が優勝した時のシーン。ルキノ・ヴィスコンティ、26歳の時のこと。
少年ルキノにあらわれだした「反抗精神」。4度の家出
▶(1)からの続き:シェイクスピアやグルドーニを愛読していた少年ルキノに、ヴィスコンティ家の他の兄弟にはみられないある「心性」が生じはじめたのは中学生の頃でした。それは「反抗精神」でした。「反抗精神」は、<自主独立の精神>のコインの裏表です。その精神は「文学」によって涵養されたようです。このころ他の兄弟よりも、あきらかにルキノは文学に熱中していました。「文学」は、教養を積み上げる優れた家庭環境が、家柄に恥じない教育を子供たちにほどこす目的だけの、じつは閉ざされた世界なのではとルキノにおもわせ、ルキノの精神を圧迫するようになってきたのです。少年ルキノの「マインド・ツリー(心の樹)」は、もはや大邸宅の外に伸びはじめていたのでした。そうなれば大邸宅と厳格な家庭教育からの脱出しかありません。最初期のリアリズム映画『郵便配達は2度ベルを鳴らす』や『揺れる大地』が、ブルジョアジーの教養と知性からだけでは決して生じえない映画だったことをみても、ルキノ・ヴィスコンティの辿った道が一様でなかったことがわかります。
15歳頃から少年ルキノは家出を繰り返すようになります(4度の家出)。最初の家出はある女友達を追ってのもので、目的地はローマでした。ところがローマで父が待ち構えていて、上手の父はローマの文化を勉強するようにとルキノを数日間、ローマに泊まらせています。2度目の家出では、修道院の寄宿学校に”幽閉”させ、神父にルキノの「反抗精神」を摘み取らせようとしました。逆にルキノは寄宿生15人を巻き込み集団脱走を計画。見事に脱走。が、学校からは退校処分になり、結果、ルキノは首根っ子を押さえられ父の会社に放り込まれることになってしまいます(上の兄もそこで働いていた)。しかし会社幹部にとっては、反発するだけのルキノは足手まといな存在。ルキノは会社からも脱走したようです。最後の家出は18歳の時でした。精神的にも不安定になり、将来の方向性すら考えることができませんでした。ある意味、日本の歌舞伎界の中心、市川一門宗家に生を受け、「反抗精神」をたぎらせてきた現・市川海老蔵に似ています。最もルキノは7人兄弟の4番目で、海老蔵ほどには重荷を背負うことははなからありませんでしたが。しかしヴィスコンティ家は、日本で言えば歌舞伎座から新劇界、競馬界に音楽界などの創設者であり財政支援者であり、立場は違えど偉大なる文化の継承者であることは同じかもしれません。
20歳、祖国想いの母にすすめられ軍学校へ。ミラノ芸術劇団の小道具係を担当
そんなルキノに軍学校をすすめたのは母でした。母は、祖国への想いが人一倍あり、軍人としてに祖国に尽くすことの意味と義務をルキノに説きました。20歳の時(1926年)、ルキノはミラノ軍管区に入隊します。高等中学校は中退していたため、士官学校への入学はできず、下士官養成のための予備士官学校に通いました。9カ月後、騎兵学校に学びます。近衛騎兵隊に伍長として配属された後、「軍曹」となっています。近衛騎兵隊となれば、当然、馬や馬術に精通する教官がいます。その教官を通じてルキノは馬への関心をもちはじめ、2年後(22歳)、競走馬の調教師になることを決断。同時に軍を除隊します。
ルキノは数頭の馬を買うと調教に明け暮れ、翌年サン・モリッツの冬期競馬に参加。厩舎も設け調教に没頭していきました。調教師として朝3時起きの生活が続くなかでも、ルキノは演劇と文学(美術と音楽も同様に)への関心は抱きつづけていました。否、それどころか一歩踏みだしているのです。調教師になることを決意した同じ年に、ルキノはミラノ芸術劇団(父が財政的援助をして創設された劇団)の旗揚げ公演に小道具係として参加しています。こけら落としの作品は、ゴルドーニの『賢妻』でした。父も自分と同様に息子ルキノの演劇好きは充分に分かっていたので、ルキノに薦め参加させたにちがいありません。
26歳の時、ブルジョア社会を皮肉る演劇脚本を書く
大まかな伝記ではルキノ・ヴィスコンティは、30歳の時に、ココ・シャネルを通じてフランスの映画監督ジャン・ルノワールに出会い、「衣装係」として映画の世界で初めてプロフェッショナルな仕事をし(映画『ピクニック』での衣装係兼見習いとして助監督として6番目にクレジットされた。一つ上のクレジットー5番目の助監督には、後に写真家として世界にその名を轟かせることになるアンリ・カルティエ・ブレッソンがいる)、映画界に入り込んだことになっています。が、もしルノワールが、そしてシャネルが若いルキノ・ヴィスコンティの才能を感じ認めることもなければ、衣装係に就かせることもなかったわけです。なぜ調教師だったルキノが、ルノワール映画の衣装係をつとめることができたのか。調教師として馬をみつづける一方、ミラノ芸術劇団の小道具係を一つの契機として、ルキノの小道具や衣装に対する鑑識眼や美術面の教養が研ぎすまされていったのです。
ただルキノの人生はまっしぐらに突き進んでいったわけではありませんでした。調教師としての2年目、スポーツカーを運転中、自らの不注意で父の運転手を死なせてしまう事故を起こしています。ルキノは社交を断ちサハラ砂漠に放浪の旅に出、モンテカッシーノ修道院(聖ベネディクトスが西暦529年に創設。修道院制度の源流に位置する世界最古の修道院)に自ら身を入れ込んでいます。ヴィスコンティ家のみならずイタリア貴族階級は文化遺産としての信仰観を受け継いでいますが、生き残ったルキノはこの体験から、内面世界と死生観を濃密にしていったようです(神秘主義に強く関心をもち霊媒師を招くことがあった父のように、ルキノも人間よりもおおきな神秘的な力の存在、神ーそれはカトリックにおける神ではなくーを信じていると語っている)。
それから3年後の26歳の頃(1930年)、ルキノは短いながらも演劇脚本『告白ゲームー一幕物のグロテスク劇』を書いています。友人リヴィオの協力を得て書き上げられたこの習作的脚本は、自身その一員として内側から観察してきたブルジョア社会を皮肉に暴露的に表現したものでした。父は財産や特権を驕ることがあってはいけないとルキノに諭(さと)していましたが、社会経験をつみだした鋭い観察者ルキノにみえた光景は父とは同じではありませんでした。この年、イタリアで最も権威のあるミラノ・ゴールド・カップで、ルキノが調教した馬が優勝しています。しかし、その2年後、持ち馬を少しづつ手放しはじめています(35歳の時、厩舎を閉める。調教師としての仕事は実質的には7年、29歳頃まで)。
パリでコクトーやA.ジッド、ディートリッヒ、シャネルらと知り合う。ソヴィエト映画からの刺激
その一方、ルキノは親戚や友人に招かれ、1930年代初頭のパリに遊んでいます。暗雲がたれ込みだす前のパリで、ルキノは芸術家や知識人たちと出会い、競走馬を買い付けに通っていた時のように、再び舞踏会に出、バレエやオペラのレセプションやパーティーとフランス社交界にまじわっています。ジャン・コクトーの映画『詩人の血』やマン・レイやルイス・ブニュエルらのアヴァンギャルド映画のパトロンとして知られるシャルル・ド・ノアイユ侯爵夫妻と知り合い、映画の虜になっていたコクトー本人やアンドレ・ジッド、音楽家のクルト・ワイル、そしてマレーネ・ディートリッヒ、ココ・シャネルらと親しくなったのもこの頃でした。
パリにはイタリアではまだ見ることがなかったアヴァンギャルド映画をスクリーンにかける小さな映画館があり、ルキノはソヴィエト映画(エイゼンシュタイン、プドフキン、ニコライ・エックら)を数多く観、刺激を受けています。このパリでの体験が、ルキノの「マインド・ツリー(心の樹)」に強烈な刺激を与え、活性化させたのです。いくら成功したとしても自身には焼き付け刀的だった調教師の仕事が急速に色褪せていきました。ルキノ自身にとっては馬の調教は、不安定だった自身を何も見えない将来に接ぎ木したものにしか過ぎなかったのです(じつはヴィスコンティの祖父はイタリアン・ジョッキー・クラブの創設者だったので、ルキノにとって調教師や競走馬の買い付けもまたファミリー・ビジネスの延長のようなものだったのです)。「映画」はルキノの「心の樹」の樹脈を勢いづかせました。それは社会の現実と芸術の世界の接点として、また優れた伝達手段として、くわえてルキノが吸収してきた「文学」よりもリアリティを追求できる可能性を感じさせたのです。ルキノは「映画」に急接近していきました。
20代後半から、美術商や骨董店に入り浸る。映画の「装置家」としての自分を夢見る
20代後半からルキノは、美術商や骨董店に入り浸りはじめています。ちょうどブルジョア旧家の屋根裏に押しやられ眠っていた額縁やら花瓶、ガラス工芸品などが骨董市場に出回りだしていた頃でした。ローマやフィレンツェの骨董店もルキノの守備範囲だったといいます。ルキノは一方の足でブルジョア世界からは遁走しようとしましたが、もう一方の足で旧きブルジョアを飾った家具や美術品・骨董品にのめり込んでいったのです。
長期間ルキノの住居となったヴィア・サラリア邸(父が擬ルネッサンス調に建てた邸宅)には、ルキノ好みの美術品や骨董品、家具などで埋めつくされました(ただルキノの愛好品や趣味はよく変わり、買い入れた物も翌年にはまた売られたといいます)。「乱雑なものが好きで、好きなものはみなごちゃまぜにする。趣味と判断でごちゃまぜにできる。あちこちに贅沢にものが散らばっているのが好きなのだ」というルキノ自身の感覚は、「好きなものは趣味と判断でみなごちゃまぜにできる『映画』」に発揮されようとは、この時期ルキノにはまだ見通せませんでした。ただ、ルキノは、演劇と同様に「映画」にも強く惹かれはじめている自分に気づき、映画の中で用いられる「装置」(大道具・小道具・舞台美術)に、自身の関心と知識を活かせると考えはじめていました。「映画監督」は眼中になく、「装置家」としての自分を夢見はじめていたのでした。▶(3)に続く-未