谷崎潤一郎の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 米相場を印刷し売り出した銀座の「谷崎活版所」に誕生。母は「美人絵双紙」番附けの「大関」。「女系」の谷崎家


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はじめに:自らの「文学」と「美学」の来歴を幼少期に帰した谷崎

『刺青』『卍』『鍵』『痴人の愛』といった性や官能を耽美的に描いた大胆なモチーフ、『春琴抄』『細雪』の妖しくも美しい女性礼讃のモチーフと、「谷崎文学」の”本能寺”は、「ロマンティックな女性崇拝」と「陰靡でマゾヒスティックなエロティシズム」にありますが、その「谷崎美学」の”由来”は何処にあるのでしょう。なるほどそれは男の性(さが)こそ”本能寺”で、和漢混合文の魅力を滲ませた谷崎の筆力と極私的な妄想力に帰すように思われますが、谷崎潤一郎の「マインド・ツリー(心の樹)」にあたれば、「谷崎美学」の”由来”、その濃密な感性の源泉へと辿ることができます。
また谷崎潤一郎は、江戸趣味と歌舞伎や、後に評論『陰影礼讃』にみられるように日本の伝統美へ傾倒していきますが、その一方、関東大震災以前には(つまり初期作品)モダンで大衆的な文学を志し、英文法を骨格にした「ハイカラ」で明晰な文章でも知られてもいました。こうした「谷崎文学」の相矛盾するようなスタイルも幼少期にルーツをもちます。ここでその一端を明かせば、15歳の時に、英語塾と漢文塾に同時に通いはじめているのです。さらに遡れば、お神楽や歌舞伎見物(母や祖母たちとともに)に心を振るわせていたかとおもえば、文明開化の世の下、ハイカラさんたちで賑わう「銀座」の光景がパノラマとなって谷崎少年を刺激していました。


「自分が小説家として今日までに成し遂げた仕事は、従来考えていたよりも一層多く、自分の幼年時代の環境に負うところがあるのではあるまいか、と云うことである。私は今迄、自分が今あるようになった人間にになったのは、青年時代以降の学問や、経験や、社会との接触や、諸先輩諸友人との切磋琢磨に依るのであると考えていたけれども、今日に至って振り返って見ると余人は知らず、私の場合は、現在自分の持っているものの大部分が、案外幼年時代に既に悉く芽生えていたのであって、青年時代以降に於いてほんとうに身についたものは、そんなに沢山はないような気がするのである」(谷崎潤一郎

と、谷崎自身、自らの「文学」と「美学」の来歴を幼少期に求めています。『幼少時代』『小さな王国』『少年』と早くから自身の幼少期の体験を掘り起こしていっています。そこに紛れもなく「谷崎文学」と「谷崎美学」の”核”と”根っ子”が宿っていたのです。それでは一緒に谷崎潤一郎の「心の樹」の麓に分け入ってみましょう。

銀座にあった、米相場を「物価表」として売り出した「谷崎活版所」で生まれた

谷崎潤一郎は、明治19年1886年)7月24日、東京・日本橋(当時の日本橋区蛎殻(かきがら)町2丁目;現在の中央区日本橋芳町1丁目)に生まれています。父・倉五郎(数えで28歳)と母・関(数えで23歳)の間にできた長男でした(潤一郎の前に生まれた男児は、早生児で生後3日後に死亡。潤一郎は戸籍上、長男として届けられている)。生まれた家は、谷崎家の繁栄を一代で築いた祖父・久右衛門の本家で、父母はまだそこに居候していました。本家のある「日本橋区蛎殻街2丁目」とは、江戸時代(寛文年間から明治初年まで)に「銀座」があった場所です。「銀座」は、谷崎家の象徴だった祖父とつながりがある場所だったのです。
潤一郎が数えで3歳の時(明治21年)に亡くなった祖父は、潤一郎に記憶を残してはいないのですが、「作家谷崎潤一郎」には、大きな影響を刻印することになります。「私の生まれつきの性質の中に、祖父の血を伝えているのではないかと思われる事実がある」と後に谷崎潤一郎は語っているほどです。その性格や生き方、趣向が「谷崎文学」の深層に影響を与えることになった祖父谷崎久右衛門を知ることは、谷崎潤一郎の「マインド・ツリー(心の樹)」の”根底”を知ることになるとおもいます。明治維新の時代、「銀座」に生きた祖父久右衛門とはどんな人物だったのでしょう。
谷崎久右衛門は若い頃は、深川(現在の江東区大島1丁目)にある釜を製造していた店「釜六」の総番頭をしていました。この釜六は、江戸庶民が使用する鍋釜を製造していた老舗の一つでした。が、幕府との関係も深かったことから明治維新で入ってきた西洋式鋳物技術への転換ができず店を閉じています。上野の戦争で「土地」が値下がりしたのを見越した久右衛門は、貯めたお金で京橋の旅館・真鶴屋を買い取り、経営し、次女の夫に旅館を譲り渡した後に、「谷崎活版所」という活版印刷業を始めています。
同じ「土地」が時代の浮き沈みのなかで変動する。祖父久右衛門は、米相場などの変動の「情報」を最速でキャッチし、それを「物価表」として印刷し市中に売り出そうと考えました。「谷崎活版所」とは米相場の「情報」を売るための印刷所で、米穀仲買人が忙しく行き交う「米穀取引所」のすぐ近くの「銀座」に設立したのはそうした理由からでした(この活版所の奥座敷で潤一郎は誕生している)。祖父の狙いはまんまと的中し、その印刷物は当時「谷崎物価」という名で通っていたといいます。後に谷崎は『幼年時代』のなかで、この「谷崎活版所」が「物価表」の印刷を仕事にしていたにもかかわらず、「印刷」し「販売」するそのことが、後の文筆の仕事に影響しているだろうことを記しています。
当時、銀座は高襟(ハイカラー;ハイカラの語源)の洋装した人たちが往来する文明開花の震源地でした。江戸経済の中心地は日本橋でしたが、文明開化の夜明けを告げた鉄道の終点が新橋(〜横浜間)だったことから、その中間エリアの「銀座」の商店に人が集い花開いていったのです。ひとが集えばお酒がかわされる、新しもの好きは舶来品のお酒を飲む。それをどこで買うか。「洋酒店」です。これもまた祖父・久右衛門が出したお店です。お酒が入れば夜になる。夜道でも提灯を下げなくても歩けるようにする。銀座煉瓦街に街灯が灯る。その石油ランプをもちいた街灯を灯すのが「点燈社」。それも祖父・久右衛門がやりはじめた事業でした(潤一郎の最初の記憶は、数え年の4歳の時に、点燈社の店先に母とともに父を訪ねた時のものだった)。祖父・久右衛門は、西欧のエキゾティックな文化に惹かれ(家族に隠れてニコライ教会派キリスト教信者になり、幼いイエスを抱いた聖母マリア像を部屋に隠し密かに礼拝していた)、ハイカラ趣味として知られただけでなく、商才に長けていたのでした。そしてこの数え4歳の年、もう一つ潤一郎の記憶に刻み込まれているものがありました。それは浅草・中村座市川団十郎の歌舞伎舞台(演目「那智瀧祈誓文学」)でした。当時、母や伯父が出向く歌舞伎見物にいつも伴っていたといいます。

母は当時の「美人絵双紙」の番附けで、「大関」にされていた。「女系」の谷崎家

「谷崎活版所」が印刷する「谷崎物価」がある一方、銀座界隈にはまだ江戸期からつづく「美人絵双紙」も出回っていました。潤一郎の母・関は、その番附けで「大関」におされた程の美人でした。江戸最後の浮世絵師・芳年が、母の似絵を描いたという噂が残っているほどです。また娘たちも一枚刷りの錦絵にえがかれるほどの器量でした。少年潤一郎にとって、そんな美人の母をもって得意気だったようです。ただ美人すぎる母は甘やかされ我が侭に育てられ台所の炊事をすることもなく、御飯すら炊けなかったといいます(乳母が亡くなってからは、父が早起きして御飯炊きをしていた)。子供たちの養育も、雇い入れられていた乳母が担っていました。乳母は潤一郎を水天宮や大観音などに連れて行き、夜には潤一郎に乳首をもたせて眠らせていたそうです。
谷崎家は「女系」でした。母の夫の倉五郎も、母の姉の花の夫も、ともに同じ江沢家からの婿(むこ)養子でした。娘に婿養子をとって「分家」させるのは、「個」でなく「家」が単位だった明治時代には広くおこなわれていましたが、フェミニストで女性崇拝の傾向があった祖父にとっては、”個人的”な都合をつけるための隠れ蓑でもあったようです。ともかくも第一子から3人つづけて生まれた女の子には婿をとって分家させ、4人目からつづけて生まれた男の子は、次男は元直参へ養子、3男は里子に、4男も旧幕臣に養子に入れています(長男は深川に奉公に出たのち祖父の跡目を継ぎ、2代目久右兵衛として「谷崎活版所」を継ぐ)。こうした扱いが谷崎家衰退の原因ともいわれていますが、養子縁組者は徴兵を忌避できるという町人の知恵もはたらいていたといわれています。銀座でのこうした「女系家族」的風土が、モダンな風俗好みと相まって、潤一郎の感性の”土壌”をかたちづくっていったのです。

父・倉五郎は商売べたで損ばかりし店をつぶした

江沢家からの婿養子の父・倉五郎は、どんな人物だったのでしょう。父・倉五郎は、生真面目がたたって商売に向かない性格だったようです。江沢家は神田旅籠町で代々の酒問屋・玉川屋を営んでいましたが(嘉永7年のペリー来航の御用金の一部は、この玉川屋からでている。古くから外神田一帯は玉川一族が占有していた)、新しいアイデアと行動力がものをいう文明開化の世には、好奇心も野心も乏しい代々の問屋の倅(せがれ)ではもはや時代に埋没するしかなかったようです。代々の酒問屋にとって谷崎家の洋酒店はお門違いだったのでしょうか、まかせられた洋酒店もうまくいかず店を閉じ、引き継いだ点燈社の経営にも失敗し人手に渡すことになります。最後に米殻仲買店を持ちはしましたが(谷崎家へ養子に入った実兄の援助があった)、これも相場張りに失敗しを重ね店を畳み、浜町へ、その年の秋に茅場町へ移り住んでいます。それでも父・倉五郎は、自分は生粋の江戸っ子だというのが自慢で、夫婦仲もよかったといいます。祖父の活版所を継いだ本家の2代目久右衛門(祖父の長男)は放蕩に身を持ちくずし、”谷崎商店”の衰退があちらこちらではじまっていきました。

6歳、乳母に付き添われなくては学校に行けなかった。谷崎一家、零落へ

こうした祖父を中心点にした「谷崎家」の一時代は、潤一郎の記憶の風景にはありません。が、「谷崎家」繁栄の象徴・祖父の久右衛門の話は、母や祖母、親類から何度も聞かされていたといいます。潤一郎6歳時(明治24年)に住んでいたのは南茅場町で、家向きは中流の商人のものでした。潤一郎が通いだしたのは、かつての蒟蒻(こんにゃく)島にあった小岸幼稚園で、兜町証券取引所がある日本経済の中枢で株屋街は、近所の鎧橋からすぐの所にありました。父は米殻取引所にある米殻仲買店を営んでいました。
潤一郎も、甘やかされて育てられた母のように、我が侭で甘ったれ坊主だったといいます。阪本小学校1年の時、2学期の9月から通いだしたのも学校行くのを嫌がったため半年も遅れたためでした。それでも学校へは必ず乳母が付き添い、授業中も廊下からずっと見守っていました。乳母の姿が見えなくなると潤一郎は大声をあげて泣き出すか、そのまま家に帰ってしまうのです。まったく内弁慶で、家に帰れば手に負えない腕白坊主ぶりを発揮するのでした。潤一郎は、翌年もう一度一年生をやり直しています。興味深いのはこの小学1年の時、泣き虫だったのにもかからわず、木枠がついた石盤を持参していて、武者絵やあね様の絵を描いていたことでした。
ぐずつく児童に手慣れた先生になると、潤一郎は不安感や学校嫌いを克服していきます。やり直しになった新たな1年では、落ち着いて勉強もできるようになり一年生の総代にもなっています。ただその翌年、父の商売がさらに傾き家を引き払い、米殻取引所にあった商店の中に移り住むことになります。谷崎家の繁栄は2代ももたず、零落がはじまったのです。その翌年、潤一郎9歳の時、家業はさらに不振になり父は店を閉じるのです。
▶(2)に続く

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