ジョニー・デップの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- チェロキー・インディアンの祖父への愛情と30回もの引っ越しと仮住まい


はじめに:
かつてティーンアイドルだった一人の青年が映画界の異端児に、そしていつしか役柄に独自性をもたせ、深みのある演技をする本格派でドル箱の映画俳優となったジョニー・デップ。本格的に舞台経験を積んでいる役者がいるなか、見た目や容姿から映画の世界に入り込む者も多くなったといいます。スタニフラフスキー・システムを導入しているニューヨークの「アクターズ・スタジオ」も映画に向く演技派を輩出してきました。ジョニー・デップも役の本質を掴んで”つくりきって”、”なりきって”演じるタイプだけに、その演技そのものが異端なわけではありません。それどころか映画に声がかかるようになってから自身の演技力に不安をもったジョニー・デップも、スタニフラフスキー式演技の中心的指導者リー・ストラスバーグの後継者であるペギー・フューリーのロフト・スタジオ(ビバリーヒルズ)に入学し、徹底的に演技を学んでいます。けれども当初は表情も固く演技の基礎もないティーンアイドルが次第に演技力をつけハリウッドのトップ俳優に登りつめ、その存在感を維持していける確率は極めて低いものです。どうしてジョニー・デップにはそれが可能になったのでしょうか。それは映画に出演するようになるまでの、彼の「マインド・ツリー(心の樹)」の中に潜んでいます。その「心の樹」の幹となり枝葉となっている、辛さ、不安、想像の世界、祖父の人間味、疎外感、刻まれた14個もの刺青、音楽、執拗なねばり、継続性、積み重ねた体験、そして好奇心のすべてが、故郷で根腐れしてしまった「心の樹」をかけがえのない、独自の魅力を放つ存在にしたてあげていたのです。それでは一緒に、ジョニー・デップのファンの人も、そうでない人も、彼の「マインド・ツリー(心の樹)」にわけいってみましょう。意外な「発見」に驚かれるかもしれません。

父は公務員・土木技師、母はウェイトレス

ジョニー・デップ(本名:ジョン・クリストファー・デップ二世/John Christopher Depp II)は、1963年6月9日に、ケンタッキー州西部の町オーエンズボロに誕生しています。父ジョンは25歳で、ケンタッキー大学で土木工学の学士号を取得した後、地元で公務員の土木技師(祖父オーレンが経営する家族経営のゼネコン「OLデップ建設」に勤務していたという記述がある伝記があるが、事実だとしたらマイアミに引っ越す直前に一時的に就いていたかもしれない)だ。母ベティは29歳でウェイトレストして働いていました。ベティは14歳の時からダイナーやコーヒーショップのウェイトレストして働きだしているので、足掛け15年間もウェイトレストして働いていることになります。ベティは貧しい家庭に生まれましたが、気高くあり、勝ち気で活力ある女性でした。ベティは前の結婚で、2人の子供、兄ダニエル(ジョニーより9歳年上)と姉デボラ(7歳年上)をもうけていましたが、父ジョンはその2人を養子として迎えたので、ジョニーはデップ家の4人目の子供、2人目の男の子でした。キリスト教の洗礼を受けています。

チェロキー・インディアンの祖父への愛情

デップ家には、アイルランド人とドイツ人の血が流れていますが、ジョニーにとって最も自分の血を意識し、因縁を感じるのは母方に流れるインディアンの血です。母ベティの父ポーポー(ジョニーの祖父)はチェロキー・インディアンでした。純粋のインディアンの血は曾祖母にたどれるようです。ジョニーにとってその祖父は、「人生最初の手本」であり、「魂」において離れられない間柄だったといいます。祖父ポーポーは幼い頃からジョニーをタバコの葉摘みに連れ出し、タバコの巻き方や釣りなど大地や自然にかかわることすべてを直接教わっています。知恵にあふれ人間味豊かな祖父だったようです。ただそばに座っているだけでもつながっているような感じをもち、いつも祖父の近くにいようとし深く慕っていました。そのため近所の子供たちと西部劇ごっこをして遊ぶ時は、ジョニーはいつもインディアンの役をやりたがったといいます。といって他の子はまちがいなくピストルをもったカウボーイ役をやりたがったが。大人になり俳優になってもジョニーはこの感覚が変わることはなく、インディアンを血に染め上げたカウボーイ役をやりことは絶対にありませんし、映画界もジョニーにカウボーイ役をオファーすることは100%ありません。
映画『ブレイブ』(ジョニー・デップ初監督作品 1997公開)は、自身インディアン役で主演しています。また映画『ネバーランド』(ピーター・パン劇の誕生を描いたもの/マーク・フォスター監督 2004年公開)では、主演したジョニーは父を失った4人の子供たちと西部劇ごっこをして子供たちの心を和らげますが、そこでもインディアン役をしています。またその4人の子供はジョニーの心の内で自身の少年時代(デップ家の4人の子供)を映し出してもいるにちがいありません。

ゴシック・ホラーが好きな少年

ジョニーが初めて映画を観たのは、3、4歳の頃だったようで、バスター・キートンジョン・バリモアロン・チェイニーらが出ていた無声映画だったといいます。「サイレント・プリーズ」という後援団体が映画の上映会を主催していてその時に連れて行かれて観たようです。ハロウィンの夜には不気味な「スリーピー・ホロウ(首無し騎士)」の物語を聴いたりしていますが、ジョニーが後に映画『スリーピー・ホロウ』(ティム・バートン監督 1999年製作)に出演したのは、幼い頃の記憶と無関係ではありません。ジョニーはベラ・ルゴシの演じるドラキュラに魅入られ、その影響で「ダーク・シャドウズ」という昼ドラの大ファンになってもいます。ヴァンパイアが登場するゴシックホラーでした。ジョニーがゴシックホラーもの(主演する価値のある作品を選択するが)を好んで主演し、オファーがあったメジャー作品『スピード』や『テルマ&ルイーズ』『ロビン・フッド』を断っているのも、自身の「マインド・イメージ」にあった作品にだけ出演したいという思いからだといいます。『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のオファーを断ったのも自分が出演する意味があるかを考えた末の判断でした(トム・クルーズがオファーを受けた)。

7歳の時、最愛の祖父ポーポー亡くなる

ジョニー7歳の時(1970年)、最愛の祖父ポーポーが亡くなります(102歳とも65歳とも)。ジョニーの心に大きな「影」が射しました。その「影」は亡き祖父の大きな樹がつくりだしたものでしたが、ジョニーは祖父の大きな樹とずっと近くにいると感じることができたといいます。ジョニーの「マインド・ツリー(心の樹)」のすぐ隣には、祖父ポーポーの老樹が立っているのです。ジョニーは祖父がいつも自分を導いてくれている、人生で危機一髪という時に切り抜けることができたのも、祖父のおかげだなんだと語っています。ジョニーが「霊」や「霊」のパワーを信じているのも幾多の経験があるからのようです。

フロリダへ移住。30回もの引っ越しと仮住まい

心の安住の地だった祖父が亡くなった翌年、デップ一家は、フロリダのフォート・ラウダーデール地方の海沿いの新興住宅地ミラマーに移り住んでいます。より支払いのいい、条件のいい土木関係の仕事を求めての移住だったようです。最初はモーテル暮らしで、フロリダでも両親の言い争い(ケンタッキーに居た頃からすでに日に日に家計は苦しくなっていた)はもはや日常の風景で、夫婦関係は日を追うごとに危うくなっていきます。ジョニーが祖父になついていたのは両親にも原因があったのでしょう。
父が再び公務員の土木技師の職(公共事業の監督職)をみつけるまでの一年間、デップ一家は腰を落ち着けることなくモーテルなどに暮らしています。仮住まいだったのは、そのままデップ一家の生活スタイルになっていきます。アパート暮らし、借家暮らし、安ホテル暮らし、そしてまたモーテルに暮らしを繰り返し、なんと25回から30回も引っ越しています。母が引っ越し魔でした。たえず移動しようとするインディアンの血なのでしょうか? 隣家に引っ越したことすらあったいいます。ジョニーも兄姉たちも新しい学校や地域に来ても、どうせまた引っ越すんだとあきらめていたようです。いつも学校や地域の子供たちの間で新顔でありつづけたことは、ひとりひとりが否応無く「孤立感」として感じ取っていたようです。



ケンタッキー州とデップ一族◉父が一時勤務していた「OLデップ建設」は、技術コンサルタントをするジョンソン・デップ&クイセンベリー社(こちらも社名に”デップ”と入っている)の関連企業です。1960年代にこのジョンソン・デップ&クイセンベリー社(郡の空港の滑走路の再設計を実施)を中核にして民間の産業プロジェクトが企てられるまでは、かつての鉄鋼の町オーエンズボロは、第二次世界大戦後にはすっかりうらぶれた工場街になり下がっていました。ある自伝ではケンタッキー州におけるデップ一族のことが取り上げられていますが、土木関係事業と結びついてはいるものの、ジョニーの父ジョン・デップがよりよい土木関係の仕事を求めてフロリダに職を探しに行っているほどなので、それほどの土木建設一族だったとまではいえないようにおもわれる、また他の伝記でもあまり触れられるテーマにはなっていない。

◉デップ家とキース・リチャード家の思わぬ関係◉ジョニーの父のジョン・デップ・シニアはデップ家の9代目の子孫で、17世紀末、迫害を逃れフランスからアメリカのヴァージニアに移り住んだユグノー教徒のピエール・デップが一族の祖先だといわれます。ジョニー・デップは10代目ということになります。ただ、母方のチェロキー・インディアンの血筋のことはよく話題にするジョニーは、父方のこの血筋についてはほとんど話題にしない。あまり重視していないのか、気になるような血筋でみないとおもっているのか、また家を出て行った父とのつながり、はたまたケンタッキー州は母方のチェロキー・インディアンの土地であったことに対する思いが上回っていることは間違いないが。
じつは、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』で、ジョニーが役づくりのモデルの一人にしたローリング・ストーンズのキース・リチャード(続編にジョニー自身が出演交渉し海賊役で出演)の祖先も、フランスのユグノー教徒だったことがわかっている。映画で共演することになったジョニーとキースは、数百年前、プロテスタントの改革派としてカトリック側から”呪われた時代”にその”根”を近くにしていた。ただ少年時代、アメリカに夢見たキース・リチャードは西部劇のなかではインディアン側ではなく、カウボーイ側に憧れていました。
▶(2)に続く