ルー・リードの「Mind Tree」(3)- 大学卒業後に行き先が見えなくなる

大学のカレッジ・ラジオ局のホストをつとめる

▶(2)からの続き:大学でエレキ・ギターを鳴り響かせていた時ルーに、同じく文学の道に入り込んでいたスターリング・モリソンが、同じ匂いをかぎつけてきました。モリソンはルーと同じくロングアイランド中流階級に育ちイリノイ大学に進学し、ROTC(予備役将校訓練部隊)をさぼったかどで放校され、シラキュース大学の旧友ジム・タッカーと同居していた時でした。モリソンも自身の中で鳴り響くロックン・ロール、ロカビリー、R&B、アーバン・ブルースの音楽をもてあましていました。
この頃、学生ミュージシャンといえばウールのセーターを着こんでアコースティック・ギターを奏でるのがせぜいで、エレキ・ギターをかき鳴らす者はほとんどいなかったようです。そのため1963年から64年にかけて、エレキ・ギターをびんびん鳴らすルーはかなり目立ち、ほとんど大学の「顔」になっていました。皆ルーのことを知っていたほどです。スターリング・モリソンとつるむようになってからはいつもモリソンが相棒役になり、ザ・キングスメン、ポール・リヴィア・アンド・ザ・レイダーズらの曲をカヴァーしてギターをうならせていました。ニューヨークとボストンの大学街は、教養がにじみでているようなフォークシンガーを生み出していましたが、教養では勝てないシラキュース大は独特の方向に行かざるおえなかったともいえます。事実ちょと変わったミュージシャンたちを生み出しはじめていたのです。たとえばピーター・スタンフェルで、かれはヴェルベット・アンダーグラウンドと同じ頃、グリニッジ・ヴィレッジのロックン・シーンを先駆けています。
ルーはキャンパスのカレッジ・ラジオ局で音楽番組のホストを務めるようになります。セシル・テイラーインプロヴィゼーション・ジャズにちなんで「エクスカーション・オン・ア.ウォブリー・レール(ぐらつく路線で遠出)」という番組名で、ロックン・ロールやニューヨークのドゥ・ワップを、そしてオーネット・コールマンフリー・ジャズも流したといいます。

大学卒業時、行く先が見えなくなる

卒業が迫ってくる頃、ルーは解放的な音楽の世界と、文学や哲学を探求したいという密かな欲求と、どちらをとるか迷います。これは多くの学生も同じで、卒業(学士課程の終了)は選択の試練に立ち向かわされます。父の望みは会計士に向うコースで、そのどちらでもありませんでした。ルーの「マインド・イメージ」は、ここでまったく霧につつまれたように、曇ってしまいます。選択もできず、方向性すら見えなくなります。ルーはしばらく学校に残り、それから切り開こうと考えました。ルーはジャーナリズム学科の研究生に登録しようとします。が、それが叶わなかったため、今度は演劇のクラスに登録します。舞台に少しばかり出て、自分は俳優としてはまったく大根役者だったと後に語っています。世界中の戯曲作品から好きなものを選んでプロデュースするというクラスの課題で、ルーはフェルナンド・アバラルの『自動車の墓場』を選んでいます。60年代の前衛劇に流行った不条理劇の典型の作品でしたが、ミュージシャンのキリスト教的な受難劇がえがかれ、アーティストが救世主的にとらえられルーになんらかの潜在的影響を与えたようです。
折しも、麻薬を取り締まるため警察が不審な学生たちをきつく取り締まりだしていました。警察はルーに強制大挙を命じます。ロングアイランドに戻ったルーでしたが、会計士になろうとする気持ちにはどうしてもなれませんでした。周りではヴェトナム戦争に徴用される者が増えてきて、ロックン・ローラーたちも2年間お軍の訓練を受け、その後、音楽に復帰する者もいました。ルーは徴兵を回避しようと、黒人から血液の交換で悪い肝炎をうつされたという診断書を用意しようとしましたが、面接でホモセクシャルの性向を一言口に出しただけ<精神的に不適合>と分類され徴用されませんでした。 

流れ作業のようにすばやく流行り曲をコピーする「音楽工場」での職

戦場に向うこともなく、再び五里霧中の、ルーの「マインド・イメージ」から音楽が消えてなくなることはありませんでした。それからまもなくルーは、実家のあるロングアイランド近くのコニーアイランドに構えたピックウィック・レコードに職を見つけました。ピックウィック・レコードは低予算レーベルで、音楽トレンドやヒット曲を模倣したようなあやしげなコンピレーション・アルバム(ウェストコースト、リヴァプールサウンドナッシュビル等、最新のサウンドをすべてフィーチャーとうたっていた)を専門に制作していました。流行を追いかけるティーンエイジャーのポケットから1ドルを出させるための、流れ作業のようにすばやくパスティーシュな音楽をつくりだすまるで「音楽工場」でした。ルーは音楽に浸透しだしたこの企業資本主義に数ヶ月耐えて演奏しましたが、それ以上は無理でした(1964年10月から1965年2月まで)。曲ごとに別々のミュージシャンの名前がクレジットされていましたが、どれも同じピックウィックのミュージシャン・スタッフが異なる組み合わせで演奏していたものでした。その間に、ルーは「ザ・プリミティブズ」というバンド名でシングル盤も出しています。驚くべきことに、アメリカン・バンドスタンドの制作スタッフが、何を勘違いしたのか次代のヒット曲になると、TV番組収録への出演を依頼してきたのです。会社側もルーもまず滅多にないオファーだと考え、レコード製作にミュージシャンを探します。そして思わぬことが起こります。会社の担当が、ニューヨークのパーティーで知り合ったミュージシャンのジョン・ケイルとトニー・コンラッドに声をかけ、「ザ・プリミティブズ」に加わることになったのです。コンラッドはパーカショニストにとウォルター・デ・マリアに声を掛け、3人はピクウィック・レコードのあるコニー・アイランドへ。22歳のルーは、その音楽制作工場で初めて3人と会うことになります。そして4人は、1カ月間、実際「ザ・プリミティブズ」として活動。「アメリカン・バンドスタンド」にもTV出演し、学校やショッピング・モールでも演奏しています。
後のヴェルベット・アンダーグラウンドのコア・メンバーがこうしたかたちで出会うことになるとはなんとも興味深いものがあります。そしてルー・リードの文学にまで高められた詩とサウンドに、ジョン・ケイジの音楽セオリーに魅了されたジョン・ケイルアヴァンギャルド・ミュージックが組み合わされてゆきます。ヒット曲もどきをハイスピードで制作しうる能力をもったアド・ホックなバンドは、特異な<化学反応>をし、ニューヨークのアンダーグラウンドに出没するようになっていきます。そして詩人ジェラルド・マランガを通じてあのアンディ・ウォーホルにその黒いサウンドが届いていったのです。


◉出会ったジョン・ケイルについて◉ジョン・ケイルはイギリスのサウス・ウェールズに炭坑夫の息子として生まれています。クラシック音楽の素養がありロンドンの大学で3年間過ごした後、バーンスタイン奨学金を得てタングルウッド音楽学校でクセナキスに師事。しかしクセナキスとはうまくいかず数週間後に、ニューヨークへ。そこでジョン・ケイジの音楽セオリーに魅了され、ケイジの「変奏曲」のマラソン・パフォーマンスに参加。「ニューヨーク・タイムズ」紙の注目を浴び、ラモンテ・ヤングのドリーム・ハウス・アンサンブルに迎えられる。その頃、ケイルはヤングの弟子トニー・コンラッドとともに、マンハッタンのアパートに暮らしていた。コンラッドがロックン・ロールのレコードを大量に収集していたことから、ケイルはラモンテ・ヤングの実験的な音の使用法と、ロックの刺激とエネルギーの両者に同時に興味を持つようになります。アヴァンギャルド・ミュージックとポッピュラー音楽の接点がジョン・ケイルによってもたらされることになります。