マーティン・スコセッシの「マインド・ツリー(心の樹)」(2)- 故郷シチリアのことを、祖父母の”姿”と「映画」から学ぶ。神学校へ進学を諦め、映画のクラスのあるニューヨーク大学へ

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映画『赤い靴』のダンスシーンに忘我するマーティンと『吸血鬼ボボラカ』で逃げ出すマーティン

▶(1)からの続き:少年マーティンは、司祭に見に連れていかれた映画『波止場』に感激しているかとおもえば(実際、20回は見ているという)、同じ11歳の年、『吸血鬼ボボラカ』(低予算ホラー映画だが、画家ベックリンの絵「死人の島」が下敷き)を一人で見に行き、あまりの怖さから途中で映画館から逃げ出すような、この面では友達とあまり変わらない映画好きな少年でした。それでも自宅と学校、教会、それに近所の駄菓子屋がすべてだった少年にとって、父との心の架け橋だった「映画館」は、少年の世界を一気に広げる場所となりました。
たとえば、映画『三銃士』(監督ジョージ・シドニー)は、その豪勢なセットとキラビヤかな時代ものの衣装で、少年マーティンの空想の世界を何倍も拡大し、『赤い靴』(監督パウエル=ブレスバーガー)に登場するダンスシーンは、少年マーティンを忘我状態に落とし入れました。マーティンが後にダンスシーンに入れ込むことになったのも、この時の体験の強烈な影響からでした。マーティンの「心の樹」はダンスする「樹」となっていったのです(映画『ニューヨーク・ニューヨーク』など)。
『赤い靴』に劣らず、この時期の少年マーティンの「マインド・イメージ」に映し込まれていった映画にジャン・ルノワールの『河』もありました。次第にマーティンは、自分自身が投影されるような映画に心惹かれるようになっていったといいます。その代表作が、ジェームズ・ディーン主演の『エデンの東』で、後にマーティン・スコッセシは、この映画には「私自身の感情や経験が映しだされていた」と語っています。

14歳、初級の神学校のカテドラル・カレッジに入学するも1年で放校処分

少年マーティン14歳、リトル・イタリーを抜け出てアッパー・ウェスト・サイドにある初級の神学校のカテドラル・カレッジに入学します。が、たった一年で放校処分。その理由は勉強にまったく身が入らなくなったためでした。勉強への意識を欠くことになった出来事、理由は2つありました。一つ目はある女の子に夢中になってしまい、勉強どころか学校どころでなくなってしまったのです。二つ目の理由は、ロックン・ロールでした。エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードに夢中になったのです。マーティンはラジオから流れだすロックン・ロールを聴くために年がら年中ラジオをつけていました。そしてお金が都合つけばレコードにつぎこむようになっていました。当時、流行っていた黒色の皮ジャンをマーティンも求めたのですが、あまりにも似合わなく皆に笑われるだけだったといいます。
学校に通学しなければ時間はたっぷりありました。この頃には、100パーセントの映画狂になりはてています。ジョン・フォードハワード・ホークスなどの西部劇もたっぷり見ています。『現在までの映画』(ポール・ローサ/リチャード・グリフィス共著)を購入し映画史をかじったのもこの頃です。15歳の時(1957年)、かつて途中で逃げ出した『吸血鬼ボボラカ』にも懲りず、『フランケンシュタインの逆襲』を封切り前日の深夜上映で観て皆と熱狂し、翌年には『吸血鬼ドラキュラ』(クリストファー・リー主演。マーティンはベラ・ルゴシュよりクリストファー・リーを好んだ)が放つ映画ならではの世界に魅了されています。少年マーティンはそうした映画の中に、つくりものではない”本物”の世界があると感じとるようになっていました。
この頃、思うところもあり、少年マーティンは仲間が幾人か通っているジェジュイット大学に進学しようとしますが、進学のための取得科目がまったく足りず、ブロンクスにあるカーディナル・ヘイズ高校に自主的に通いだします。しかし、あまりの成績不良(クラスではほぼビリの成績)がたたりジェジュイット大学への進学の希望は断たれています。そしてトマス・ハーディの小説に感激し、読書への意識も俄然高まっていったのもこの頃でした。

神学校へ進学をいったん諦め、授業料も安く映画のクラスのあるニューヨーク大学

それでもマーティンは、神学校への進学への思いを完全に断ち切ったわけではなく、条件や状況がそろったらどこかの地点で少年の頃の思いを貫徹しようとおもっていたようです。しかし一家の経済状態と、映画への思いが交錯し、別の人生の軌道を描きはじめるのです。マーティンはニューヨーク大学(NYU)に映画のクラスのあることを知り、なんとか入学することに成功します(映画を主専攻で、英語を副専攻)。
この選択が、マーティンの映画狂にかたちと姿勢を与えていきます。週1回の「映画・テレビ・ラジオ史」のクラスでのヘイグ・マヌーギアン教授との出会いこそ決定的なものとなります。『現在までの映画』を購入して読むなど映画の歴史への関心をして、マーティンをこのクラスに引きつけたのです。映画の歴史への関心が何処からきたのか。それはイタリア映画の中に、自身のルーツをはからずも見出したことからでした。小さな頃からイタリア語を話す祖父母ら(英語は片言しか話せず、アメリカ社会に融け込むことはなかった)とともにイタリア映画を一緒に見てきたマーティンにとって、「映画」はたんに楽しむものではなく、とくにイタリアの原風景がそのまま映し出されるイタリアのネオリアリズモ映画は、自身のよってきたる”土壌”を見るおもいがしたにちがいありません。実際、マーティンはイタリア映画の登場人物の中に祖父母の姿と思いを見い出していたと語っています。とくにシチリア島を舞台にした映画を一緒に見る時は、マーティンは祖父母の故郷に対する複雑な思いを深く感じとっています。
マーティンの「祖国」は、「映画の中」にあったのです。マーティン少年は、映画とともに映画を通じて「祖国」というものを感じ取ってきていたのです。マーティンは、「映画」の中に、「祖国」を夢見る少年になっていったのです。それは直接触れることも、国籍を回復したり、帰国するべき「祖国」ではなく、陽炎(かげろう)のようにスクリーン(あるいはブラウン管)にだけ映し出された「祖国」だったのです。マーティンの「マインド・ツリー(心の樹)」は、スクリーン(ブラウン管)を通じて、触れ得ぬ”土壌”に、懸命に”根”を張ろうとしていたのです。実際、マーティンは故郷シチリアのことを、祖父母から直接聞いたことはなかったといいます。故郷のことはすべて祖父母の”姿”と、映画から学んでいました。

故郷シチリアのことを、祖父母の”姿”と、「映画」から学ぶ

ニューヨーク大学のヘイグ・マヌーギアン教授の講義は真剣勝負になっていきました。マヌーギアン教授の1時間半の緻密な講義の後に、映画を見せるのですが(計3時間の授業)、教授の猛烈な「映画愛」が注ぎ込まれた講義は、マーティンの「映画狂」に方向舵を与えていきます。たとえば映画をとおして見、感じとっていた自身のルーツを、今度は自身で別のかたちで表現できるのではないかということに気づかされていきます。「映画は個人的であらねばならない」という教えが、マーティンに自身が育ち暮らしている「リトル・イタリー」に目を向けさせたのです。イタリアでもなく、シチリア島でもなく、「リトル・イタリー」こそが、マーティンの生きている”土壌”であり、まさにそこから「現実」が叩き出されているのです。
2年目になるとマヌーギアン教授の講義は、レンズや照明などの扱い方、用い方など映画製作の実際面に関するものになります。年の終わりに生徒たちは、16ミリのアリフレックスコダックのシネスペシャル(通称スペシネ)を用いて3分の映画をつくっています。あれほど勉強に集中できなかったマーティンが、厳しいマヌーギアン教授の講義に食いついていっています(ついていけない生徒はどんどん落ちていった)。3年目の講義は、映画を監督する者は台本を自分で書かなくてはならないことを徹底的に教え込まれます。年度の終わりに5、6分の短篇映画の製作が課され、マーティンは映画製作にのめりこんでいきます(36人の残った学生のなかで6本分しか予算がないので生徒間で激しい競争となった)。

映画『突然、炎のごとく』にみた「自由」と「解放」のこと

18歳の時(1960年)、大衆映画の王様・ロジャー・コーマンが製作・監督した『アッシャー家の惨劇』(エドガー・アラン・ポーの小説シリーズの第一作。1960年製作。コーマンはポー原作の怪奇映画を次々と手がけている)を見て熱狂するマーティンもまたいます(後にマーティンは29歳の時、初めてロジャー・コーマンに引き合わされ、『血まみれギャング・ママ』の続編『明日に処刑を...』の監督を任されることに)。マーティンの映画熱は、マヌーギアン教授の講義と映画製作の実践を通じ、そして1960年代初頭という時代をおおった熱気がマーティンら映画青年の情熱をさらに駆り立てていきました。イタリアン・シネマだけでなく、フランスのヌーヴェルヴァーグや、斬新な東欧の映画、そしてジョン・カサヴェテス(処女作『アメリカの影』1960年製作)らお膝元のニューヨークの実験的映画など、様々な映画と才能から刺激を受けない日はなかったほどでした。リトル・イタリー近くのグリニッジ・ヴィレッジの映画館は、毎日のように新たな映画がどこかで上映されるほどだったのです。
「自由」と「解放」。これこそこの時期のマーティンがスクリーンに塗り込めようとしたものでした。マーティンは、映画『突然、炎のごとく』(監督フランスワ・トリュフォー。主演ジャンヌ・モロー)の最初の2分間に、「自由」と「解放」の象徴的なものをみてとっています(映画監督になって以降も一緒にチームを組む者には、『突然、炎のごとく』のそのシーンを必ず見てもらっている)。自身のルーツのシチリア島が、他の民族や国家によって支配されてきた歴史(サラセン、ノルマン、グリーク、ビザンチン、フレンチ、スパニッシュ、ナチスアメリカの圧政下におかれてきた)、がマーティンを「自由」と「解放」に駆り立てていったにちがいありません。▶(3)に続く