ブリジット・バルドーの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 眼鏡をかけ、歯列矯正器をつけコンプレックスの塊だった。6歳の時、身体の芯奥から踊る衝動が突き上げてきた

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はじめに:

マリリン・モンローと並び称されることもあるほどの天真爛漫な「セックス・シンボル」ブリジット・バルドー。「B.B.=ベベ」という愛称をもって映画女優として歌手として強烈な個性を発揮したブリジット・バルドーは、そのあまりの個性ゆえ、しばしば”見た目”で判断されすぎてきたかもしれません。39歳で現役女優を引退(1973年)して以降、すでに35年以上もたちますが、その間に最も著名な毛皮反対論者として、また「動物愛護運動家」として活動してきたことはよく知られています。
しかしブリジット・バルドーの少女時代は、幼い頃から眼鏡をかけ、出っ歯矯正器をつけ、学校でもテストはほとんど零点でクラスの「三バカ」と呼ばれ、また母からも醜く頭も悪いどうしようもない子、と思われ、「鏡」を見ては泣いている少女だったのです。そうした少女がいったいどのように、後に映画監督となるロジェ・バデェムや、恋の達人セルジュ・ゲンズブルグを虜にしていったのでしょう。そして世界中が憧れるような”天真爛漫”な「セックス・シンボル」になっていったのでしょうか。成長過程でいったい何が彼女におこったのでしょうか。
後年の「動物愛護運動家」としての顔も、ブリジットの「マインド・ツリー(心の樹)」を読むと一目瞭然になります。すべてはあの弾けるような身体の内に”小さな動物”のように生きている彼女の”魂”の「声」であり、「恐怖」であり、「希望」なのです。それでは世界の「セックス・シンボル」ブリジット・バルドーの、「心の樹」を一緒に辿ってみましょう。

父はエンジニアで、ボンベを製造する工場を経営していた

ブリジット・バルドー(Brigitte Bardot)は、1934年9月28日に、パリ十五区ヴィオレ広場近くの自宅で生まれています。翌月10月12日にサン=ジェルマン=デ=プレ教会にて洗礼を受け、アンヌ=マリー・ブリジッド・バルドーの名を授けられています。父ルイ・バルドー38歳、母アンヌ=マリーは22歳の時でした。2人は前年に同教会で結婚式をあげています。
父ルイはエンジニアで、酸素とアセチレンのボンベを製造する工場を経営し、親類が一致結束して働いていました。またルイは第一次世界大戦時、重傷を負いながらも戦功をあげレジオン・ドヌール勲章などを受けた若き英雄の一人でもありました(兄は毒ガスを吸い死亡)。戦後もバルドー工場の家業は継続していましたが、一方で予備役将校でもありました。バルドー家はドイツ国境に面したロレーヌ地方出身だったこともあり、ドイツは敵でしたがドイツ語は流暢だったといいます(アレザス=ロレーヌはもともとはドイツ文化圏で現在も住民の大多数はドイツ系。中心都市のストラスブールは欧州統合のシンボル的地域で多くの国際機関がこの地に設けられている)。
家では母アンヌは生まれたばかりの可愛いブリジッドにかかりっきりで、気の短い父は一緒に外出もできないと癇癪を起こしたため、孤児院出身の若い女性ダダ(愛称)が子守役として住みこむようになりました(母方の祖母マミー・ミュッセルの手配でイタリアからやってきた女性。母方の祖父母はミラノに暮らしていた。)。ブリジットは、このダダが大好きになります。ダダとはイタリア語で話すようになり、イタリア語の方が早く上達し、フランス語を話す時に、イタリア語の訛(なま)りがでてしまうようになったといいます。ほどなくしてバルドー一家はラ・ブールドネ大通りに引っ越しています。
1939年になると戦争の跫が確実なものになってきます。父はアルプス歩兵連隊に入隊し、一家はディナール疎開します。しかし父の工場は戦争時には有用で、歩兵連隊から戻され、バルドー一家もパリに戻り地下室で生活をするようになります。ひっきりなしに鳴るサイレンの音の恐怖は大人になっても蘇ってくるといいます。ブリジットがこの頃によく読んだのは『ババール』の絵本で、その本から言葉も学んだといいます。母は『模範的少女たち』(レギュール伯爵夫人著)を読んで聞かせてくれました。ブリジットは母にお話を読んで聞かせてもらうのが好きでだったといいます。
夜には父が、キップリングの『こんな話』やマルセル・エイメの『木に登った猫の話』、それに門の前の木にとまり眠るのを見守ってくれるという自分で創作した「カササギおばさん」の話を、登場人物の声音を真似て読んで聞かせてくれました。楽しいひと時でした。最もほとんどの夜は妹のミジャヌーと女中と一緒に寝るまでを過ごし、楽しい思い出は数えるくらいだったといいます。それは戦時中の物不足というのではなく(ブリジットは必要最低限のもののなかで暮らすことには慣れていた)、また空襲警報とその恐怖で真夜中に何度も飛び起きざるをえなかったこととは別の要因(家族関係)があったのです。また幼少期は、戦時中にあたっているため、裕福な一家ではあったものの、父は朝の3時に食料品店の前に並び、5時に母が交替して並び、わずかの食料を購入する日々がつづいたといいます。

6歳の時、身体の芯奥から踊る衝動が突き上げてきた。バレエを習い出す

小学校に断続的に通っていた戦時中の6歳の時、ブリジットは父が持っていた手回し蓄音機が気になり、レコードを流していた時です。音楽が流れだすと、小さな身体の芯奥から自身も予想もつかない衝動が突き上げてきたのです。ブリジットがバレエを習いだしたのは、まさにこの頃でした(後述するように、バレエ教室に参加させたのは母でした)。
言葉にならない身体的衝動に、規律とかたちを与えるには「バレエ」はうってつけです。水をいれた壷を頭上にのせ、部屋の中を歩く訓練を重ねつつ、週に一度バレエのレッスンに通いだしています。バレエウエアは母がネグリジェを裁断して縫い合わせてくれたものでした。レッスンではギリサードやプリエ、アントルシャなどのバレエのテクニックを、ブリジットは容易に覚えることができたといいます。翌年の7歳の時には、バレエで1等賞をとり学校で表彰されているほどです。
逆に学校では惨憺たるものでした。とくに算数や書取りは大の苦手で、ほとんどクラスのビリっけつでした。家の引っ越しにともない学校も転校し、別のバレエ教室に通うようになります。そこでは週に3度のレッスンをするようになります。

父の趣味は8ミリカメラで映画を撮ることだった

父ルイの趣味は8ミリカメラで映画を撮ることでした。父は母や子供たちを生涯にわたって撮り続けたのです。また、この頃、バルドー家は、年に2、3回ほど「映画」を見に行っていたといいます。回数としては少ないのですが、同じ動く「映像」として興味はあったにちがいありません。父ルイは、仕事でボンベを製造する工場を経営していたように、新しい科学的な発明には他の人よりは意識が高かったようです。実際、父ルイはエンジニアだったので、「8ミリカメラ」だけでなく「蓄音機」などメカニックなものに入れ込む素地があったのです。
後の「ブリジット・バルドー」誕生の”根っ子”、「マインド・ツリー(心の樹)」の深部には、自身の姿形を映し出し記録するものへの興味やオブセッションがあったにちがいありません。そして「バレエ」への関心もまた、両親が自宅のパーティに招いていた人たちからの影響や(両親の友人クリスチャン・フォアは、シャンゼリゼ劇場バレエ団の男性スター・ダンサーだった)、映画で素敵なバレエ・シーンを見ていた可能性もあります。『自伝』には自身がバレエに向うようになって直接の契機にはまったくふれられていません。実際には、母こそがブリジットと妹のミジェヌーをバレエ教室に参加させたのですが、ブリジット自身も、それ以前にバレエはすでに気になるものになっていたとおもわれます。そのためなのか、ブリジットは自身の能力を引き出された「バレエ」が母の影響圏からはじまったことを消し去ったのかもしれません(あるいは後の母とのこじれた関係からか)。

「動物愛護運動家」としてのブリジットが生まれた背景

戦争中、お洒落好きな母は、暇つぶしも兼ね帽子づくりをはじめています。部屋にはヴェールや造花、羽根がたくさんあり、ブリジットの格好の遊び場になります。ブリジットは大好きなブリキの兵隊(人形は好きでなかった。父が予備役将校だった反映だろうか)のために帽子をこしらえたりしています。ただ母はしばらくすると自分でつくるのをやめ、名のある帽子店から少し古くなったような帽子を仕入れ、幾らか手直しして売るようになります(玄関の隣の部屋を帽子部屋に仕立てた)。
ドイツ軍の空襲が頻繁になってくると、パリから15キロ程離れた祖母の家に逃れています。樹木が繁茂するその一帯には泉があり、水を汲みにいったりしています(水道はなかった)。家では何匹ものウサギが飼われていましたが、かわいがっていたウサギがシチューにでたときはショックで一口も食べられず、生涯、ウサギの肉は食べられなくなったといいます。
昨今「ブリジット・バルドー」の名前がメディアに登場するのは、映画スターや歌手としてではなく、もっぱら「動物愛護運動家」としてです(1973年、39歳で女優としての仕事を一切辞めている)。ブリジットは、「動物の倫理的扱いを求める人々の会(PETA)」の会員であるだけでなく、同会の広告塔の存在でもあり、とくに毛皮反対論者(animal rights activist)として世界で最も有名な人物といっていいでしょう。
「動物愛護運動家」としての永続的にして容赦ない発言と行動は(反捕鯨団体シーシェパードも支援)、なにもウサギの肉の一件に原因があったわけではありません。それはまさに3歳の幼い時に盲腸の手術を受けた時にエーテル麻酔をかけられ手術室に入れられた時の、見捨てられたような「恐怖感」からきたものだったのです。同じように「恐怖」を感じて震えている動物たちのことを思うと、とても毛皮のバッグを勝ち誇ったように持ったり、それを売りつけて利益を得ることは感情的にも許せないのです。手術室で震えおののいている3歳児の自分は、いってみれば「小さな動物」です。その「小さな動物」が生涯消し去ることのできない「恐怖感」を感じていたことの事実。ブリジット自身、自分を「要求の多い小さな動物」だとみなしていました。憶測で付け加えれば、少女期に分かりあえなくなった母が、優雅なファッションに、おそらく毛皮を好んで身につけていた可能性があります(確認したところ、毛皮のコート、ミンクのストールなどおびただしく所有していました)。

7歳の時、「父」「母」でなく、他人のように「あなた」と呼びかけるように告げられる

ブリジットは、空襲警報の合間も同性の友達シャルタンといつも遊んでいたといいます。じつは友達はかなり長い間シャルタン一人だけでした。ブリジットが友達をつくりそうになると、いつの間にか両親がしゃしゃりでてきてその子の両親の仕事を聞き出そうとするのです。ブリジットは両親はあまりにも家柄を気にし、また多くの面で厳格に過ぎていないかと感じはじめます。それが数年内に現実となり、生涯ブリジットに深く影響を与えていくことになります。
それは妹のミジェヌーと女中を相手にしたインディアンごっこをして遊んでいた時に起こった事でした。テーブルの上にあった母が大切にしていた磁器の壷が床に落ちて割れてしまったのです。母はこの家はあなたたちの家でなく、”私たち(=父と母)の家”であること、今後は両親に対して親しく「父」「母」と呼びかけないこと、呼びかける時は必ず「あなた」という言葉を使うように、と告げたのです。ブリジット7歳半の時でした。
この時、ブリジットは、自分は見捨てられ、ひとりぼっちになったと感じたといいます。死にたくなるほどに。そしてこの日から、ブリジットは、両親との間に深い溝ができ気持ちが通じ合わなくなったといいます。この打ち捨てられたような感情はその後もずっと続き、それから35年以上にわたって”母”を「あなた」と呼んでいたといいます。父が死去(1975年)した時、途方に暮れた母から「あなた」ではなく親しく語りかけてほしいと言われたといいますが、今さらできなかったといいます。母は窓を開けるのが大嫌いな人でした。暖房の無駄使いになるとかなんとか、とにかく家全体が墓の中いいるような感じで閉め切ってしまうのです。そのためブリジットは、閉じこめたり閉め切ることに対して強い拒否反応をもつようになります。それだけでなく、母はすべてのものに「鍵」をかけてしまうのです。戸棚や箪笥などなんにでも。くわえてベッドのシーツ換えは恐ろしく厳格で、ベッド・メーキング 縁がずれでいたりシーツに皺が寄っていると 父がベッド・メーキングが完璧になっているか確認しにやってくるのでした。大人になってもブリジットは、シーツに皺が寄っていると眠れなくなってしまったといいます。

目が悪く眼鏡をかけ、ずっと歯列矯正器をつけて不器量。コンプレックスの塊だった

ブリジットは帽子の部屋にあるお洒落な帽子を被ってみたりしますが、目が悪く眼鏡をかけていて、さらに出っ歯の歯列矯正器をつけていたので、鏡を見ればそこにはまるで漫画の中の不細工な少女がいる様にしか見えなかったといいます。ブリジットは、「鏡」の前や姿が映る時に、いつも満足げに微笑みかける母とはまるで逆で、「鏡」の前でいつも泣きじゃくっていた女の子だったのです。眼鏡をかけ矯正器を口に嵌め込んだ不器量な自分の姿を小さな頃から「醜い」と思っていたといいます。この時の気持ちは大きくなっても消えることはなかったといいます。
結局、歯列矯正器はなんら効果はあらわれず、面白いことに、後の天真爛漫なセックスシンボル「ブリジット・バルドー」のあの唇を前に尖らせるような独特の表情は、治ることのなかった出っ歯だったから自然とそうなったというのです。欠点こそ利点になる。「ブリジット・バルドー」の口許はまさにその謂いの証といえるかもしれません。
それが証拠にこの頃、両親はあからさまに妹のミジャヌーを溺愛しはじめています。そのあまりの偏愛ぶりにブリジットの心は両親から急速に離れていきます。妹のミジャヌーは赤い長い髪と淡い青い瞳をして人形のように綺麗だけでなく、学校でも成績優秀でした。対してブリジットは、この頃も成績はほとんど最下位で、学校では”3バカ”に数えられていた上に、歯列矯正器を嵌め込まれた眼鏡ちゃん(今なら眼鏡ちゃんは人気も高いが)だったのです。そんなミジャヌーが姉にいじめられたと嘘をついて言いつけにいけば、ミジャヌーに贔屓(ひいき)の両親がブリジットを咎める以外にありません。ブリジットは父からムチで打たれるしかありませんでした。そしてある時、ブリジットは、「姉は勉強ができなく器量が悪いので、妹のミジャヌーがいてほっとしている」と、母が友達に語っているのを耳にしてしまうのです。
ブリジットは自分はひょっとしてもらい子じゃないだろうかと不安になったともいいます。自分は家族、親戚の誰にも似ていないし、みな美しかったといいます。ブリジットはコンプレックスの塊になり、次第に自分に閉じこもるようになっていきました。「どうして私は生まれたのだろう。なぜ生きているのだろう」という自問ばかりしていたといいます。祖父ブームにそんな質問を投げかけ困らせるのでした。祖父ブームは博学で、歴史や地理に関心が深く、週末には部屋にこもって百科事典や地図、ガイドをひろげてさまざまな国を旅するのでした。インカ帝国やメキシコ、アフリカ、アメリカ、そして日本にも旅をし、その国の言葉、食生活や経済や文化を探求し、想像上(戦時中であり旅行はできなかったこともあるが)世界一周旅行をするのを楽しんでいました。そんな祖父にブリジットの悩み事が解決できるわけもなかったのですが、悩みを聞いてくれる有り難い存在だったようです。▶(2)に続く

・参考書籍『ブリジット・バルドー自伝 イニシャルはBB』(ブリジット・バルドー著 早川書房 1997刊)

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