セルゲイ・エイゼンシュタインの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 建築技師の父、うわべだけの家庭。乳母がもたらしたロシアの「大地」の匂い。ロシア・バロック建築とサーカスへの関心。「道化師」に自らを映し出した少年時代


人気ブログランキングへ

はじめに:映画を進化させた「モンタージュ理論」は、「日本語」の<漢字>の学びからやってきた

映画『戦艦ポチョムキン』の製作で、「モンタージュ理論」を確立したセルゲイ・エイゼンシュタインは、映画史のなかでも極めて重要な位置を占めています。『戦艦ポチョムキン』を監督した時、エイゼンシュタインはまだわずか27歳の時でした。映画を「発見」する前に、エイゼンシュタインは、人々の日常の生活の現実(アクチュアリティ)を反映させたリアリスティックな演出方法による野心的なプロレタリア演劇人だったことはよく知られています。ロシア演劇界の革命的な演出家メイエルホリドのもとに飛び込み、舞台と観客とのあいだのギャップを取り払うような時代の精神を体現した演出を吸収し、そこから自身の演劇を生み出していきました。その演劇の革新さは、エイゼンシュタインの少年時代から青年期にかけての「マインド・ツリー(心の樹)」がある意味そっくり映しだされたものだったのです。
20代前半に取り組んだ舞台、たとえば『マクベスシェイクスピアや『メキシコ人』ジャック・ロンドンの衣装デザインは、引っ込み思案だった少年エイゼンシュタインが自ら”同化”したサーカスの「道化師」の衣装から発展させたものであり、『戦艦ポチョムキン』で確立されたとされる「モンタージュ理論」は、青年期に興味をもって学んでいた「日本語」の<漢字>が、基本コンセプトとインスピレーションの<鏡>になっていました。
映画の革命的進化の契機に、エイゼンシュタインが勉強していた「日本語」とその<漢字>(無論、大本は中国語ではあるが、エイゼンシュタインは日本文化への関心から日本語、そして<漢字>を学んでいた)があったことは、エイゼンシュタインや映画史にそれほどの関心がないひとにとっても興味深いものではないでしょうか。映画とのかかわりがまだまったくない時期に、エイゼンシュタインの「心の樹」に<漢字>の”言の葉”がついていたことは、エイゼンシュタインや映画の世界にとどまらず、おおいに参考になるにちがいありません。またエイゼンシュタインは歌舞伎にも大いに刺激を受け、モスクワ公演をしていた市川左團次に「歌舞伎の見得は映画の技法でいうクロースアップだ」と述べ、映画『イワン雷帝』においては見得を切らせたことも夙(つと)に知られています。
「創造(力)」とは、二つのまったく異なる次元のものごとが強烈に接触し、奇妙に結びついた時にぽっくりと生じるものである、といわれていますが、セルゲイ・エイゼンシュタインの場合、まさにその様子が手にとるようです。そして「創造(力)」とは、同時に、自らの裡なる「心の樹」が映し出されないところでは、結局は(自分にも他人にとっても)何ものにもならず、無味乾燥なアイデアやイメージにばかりに始終するでろうこともまた本当であることを、エイゼンシュタインの「マインド・ツリー(心の樹)」から読み取れるのではないかとおもうのです。

ユダヤ人の父はロシア皇帝の直轄地ラトビアの都リガの建築技師

セルゲイ・ミハーイロヴィッチ・エイゼンシュタイン(Sergei Mikhailovich Eisenstein)は、1898年1月23日(〜1948年)バルト海に面するロシア帝国下のラトビアの都リガに生まれています(ラトビアは現在のバルト三国の一国のラトビア共和国第一次大戦後の1918年に独立。1940年にソビエト連邦に併合されるが、ソビエト連邦崩壊後の1991年に独立を回復)。
ユダヤ系だったエイゼンシュタイン家は、祖父、あるいは父ミハイルの代でその信仰を捨てていました。ロシア帝国は、ユダヤ人に対し、大学か技術専門学校の学位をもたないユダヤ人はロシア皇帝の直轄地となったリガに住むことを禁止します(1885年)。父ミハイル・エイゼンシュタインは、ロシア皇帝の直轄地リガ市の「建築技師」でした。


英語と日本語のウィキペディアでは単にあっけなく「建築家」とある。ただ、参照されている資料は1点のみで、その記述もかなり簡潔なもの。フランス語のウィキペディアでは、ingénieur municipal de la ville de Riga、リガ市に勤務する「技師」としている。また、伝記本『エイゼンシュタイン 上・下巻』/マリー・マートン著—では、リガ市庁に勤務する成功した「技師」、サンクト・ペテルブルグに移り住んでからも土木技師として働いていたと記述。評伝『エイゼンシュタイン』/レオン・ムシナック著—では、父ミハイルはリガ市の建築技師だったとしている。こうした記述を基に、少年セルゲイがサンクトペテルブルグに移り住んだ折り、その華麗な建築物や装飾に大きな感銘を受けていること、サンクトペテルブルグでセルゲイは16歳の時、公立土木高等専門学校に入学、父と同じ職業に就く準備のため「建築技師」の勉強をはじめた、という詳細な記述—『エイゼンシュタイン』レオン・ムシナック著内、ジョルジュ・サドゥールによる年表—を含めそれらを総合的に勘案、判断すれば、リガ市に勤務する「建築技師」が妥当だとおもわれる。


ロシア皇帝の直轄地リガでは、ユダヤ人であってもキリスト教徒に改宗しさえすれば、父ミハイルのように市の建築技師に就くことや市の官吏になることを認めていました。けれどもミハイル・エイゼンシュタインのように、資産家のロシア婦人と結婚することになるとかなり稀なケースだったといいます。市の建築技師として秀でて成功したミハイル・エイゼンシュタインが娶ったのは、小柄ながらも洗練され品のある女性ユーリアでした中産階級でも上の部類の家系の出身ともされる)。ユーリアは、フランス風、ドイツ風、英国風のエレガントで、優雅なものにしか関心がない、言ってみれば”根の浅い”女性でした。ミハイルは、俄か成功者が必ずといっていほど陥る落ち着かない刺々しい路を歩くことになります。
一方、ユーリアにしてみれば、ずんぐりした胴体に幅広の額ながら洗練されているとおもったミハイルは、蓋をあけてみれば友人たちと劇場に乗り込んで最前列に陣取り、ヨハン・シュトラウスの喜歌劇『こうもり』の舞台のコーラスの合唱のあいだ、酷い声を張り上げて歌いつづけせっかくのコーラスを台無しにするような人物でした。家の外では、露骨な戯れ言に興じるばかりで、品格を重んじる母ユーリアとはあまりにも気質や性根の種類が違っていました。この父ミハイルの気質は、息子のセルゲイへと受け継がれていくことになります。幼少期のセルゲイにとって、母ユーリアはまるで手のとどかない世界に住む聖母そのものだったといいます。

とりつくろわれたうわべだけの家庭。乳母がロシアの「大地」の匂い、神秘の感覚をもたらした

エイゼンシュタイン家の家庭は、とりつくろわれたうわべだけのものでした。ロシア皇帝の直轄地リガの支配者側の空気に近いものものだったにちがいありません。そんなお高くとまっているのか、分裂しているのかわからないエイゼンシュタイン家に、暖かな「大地」の匂いをもたらす人がやってきたのです。セルゲイの乳母となる女性でした(後にエイゼンシュタイン家の家政婦となる)。このロシア人の乳母から、幼いセルゲイは、両親からは決して得ることのできない、素朴なロシア民衆に対する親近感や、ロシアの百姓言葉を肌感覚で接することになったのです。乳母は小さなセルゲイに、(後のエイゼンシュタインにとっても)決定的に重要な感覚を宿らせます。それは「神秘的」なものに対する感覚でした。乳母はセルゲイに、聖像(イコン)や魔除けには深淵なパワーが潜んでいるので、幸運の象徴は肌身離さず身につけていなくてはならないこと、聖像の前でお祈るすること、聖人たちの奇跡の「物語」の数々、目に見えない彼方にある世界のことを教え、伝えたのでした。


エイゼンシュタインはもはや、自分が三角形の構図をくりかえし用いるのは、自分の創作だとか、自分の思いつきだとは思わなかった。逆に、自分はたんに超自然的な意識の媒介手段(インストルメント)に過ぎないと感じた……「偶然の一致」は彼に、基本的な形式、とくにピラミッドとか三角形のように神と人間と宇宙の関係を象徴する形式は、このより高い真理の具体的な証跡であると確信させた。この形は人間の情念をゆり動かす手段であって、こういった形の中に人間は、たとえその背後にある形而上的な観念をつかみとる意識的な知力をもたないとしても、秩序ある宇宙の神秘を感じとったのだ」(『エイゼンシュタイン 上巻』マリー・マートン著 美術出版社 232頁)


小さなセルゲイにとって、乳母とちがいいつも身近にいてくれない母は、ゆえに人の匂いもなくどこか神秘的で、手のとどかないところに存在する聖母マリアのイメージと重なる存在だったようです。セルゲイ7歳の時、突如、母ユーリアに連れられ家を出、列車に乗ってサンクトペテルブルグ英語圏での呼称はセントピーターズバーグ。1914年から1924年の間の呼称はペトログラード1924年以降、1991年までのソビエト連邦時代はレニングラードへ行きました。ユーリアは「北のベネチア」と呼ばれるその地に部屋を借り住みだしたのです(母の行動の背景には、日露戦争敗戦直後、1905年に第一次ロシア革命が勃発し、ロシア帝国が独立に向かい蜂起したラトビア市民を武力鎮圧するなど物騒な日々がつづいていたが)。両親が別れて暮らすことは、当初は偶像ですらあった母と2人きりになれ無情の幸せを感じたのですが、次第に不安なものになっていきます。セルゲイの”聖母マリア”は、セルゲイを父の住むリガに送り返したのです。再び今度は逆に乳母に付き添われてサンクトペテルブルグの母の許へ。そしてまたひとり列車に乗せられリガへ。
父と母の間を行ったり来たりしている不安な気持ちのなかで、少年セルゲイが心を向けるようになったのは「絵」を描くことでした。セルゲイはいつも持っていたスケッチブックは、空想的な絵で溢れるようになっていったのです。この頃出会った終生の友となるマクシム・シュトラウフ(後に俳優)は、10歳頃のセルゲイがたくさんの空想的な絵でスケッチブックを満たしていたのを何度も目撃しています。

サンクトペテルブルグの華麗なロシア・バロック建築の虜に

11歳の頃、少年セルゲイの不安定な暮らしに終止符が打たれました。父ミハイルがサンクトペテルブルグに乳母を連れてやって来て、その地で土木技師の職を見つけたのです。じつはセルゲイは、サンクトペテルブルグに来る度に、このロシア最大の文化都市が誇る華麗なロシア・バロック建築にずっと心を奪われていたのです(後に、その建築への強い関心は映画『十月』にあらわされる)。建築や建築装飾への興味は、間違いなく「建築技師」だった父ミハイルの影響でした(セルゲイが16歳の時に入学したのは、サンクトペテルブルグの公立土木高等専門学校で、父と同じく「建築技師」の勉強をはじめている)
サンクトペテルブルグは、壮麗な装飾で埋め尽くされていました。少年セルゲイがすっかり魅了されたのは、とりわけ冬宮の荘重なファサードの装飾や花弁紋様、その上部にとりつけられた官能的な新古典派的な人像だったといいます(成年にいたっても持続されたその印象は、その社会的な意味を知った後には、逆に嫌悪感へと変わり、偶像破壊へと駆り立てられてるようになる。上流階級のロココ趣味には強い反発を抱いていた)。ミハイルに連れられてきた乳母ら一般ロシア民衆にとっては、サンクトペテルブルグは「非ロシア的」なものの総和で、まるで異国の地だったといわれています。それは「母なるロシア」と呼ばれる「大地信仰」を根底にするモスクワの、「土」の匂いがする「土着の都」とは真逆で、西欧に倣って「人工的」に建設されたキリスト教的にして父性的支配に基づいた大都市でした。
サンクトペテルブルグの華麗さ、その都市建築美は、不和だったエイゼンシュタイン家に、一時の融和をもたらしました。エレガント好きな母ユーリアにとってだけでなく、ユダヤ的なものを払拭して一人息子にコスモポリタンな教養を身につけさせようとした父にとっても願ったり叶ったりで、裕福な家庭で流行っていたように、さっそくイギリス人の婦人家庭教師が雇い入れられたのです。少年セルゲイの英語はたちまち上達、英国の児童文学にすっかり慣れ親しみ外国語で自己表現できるまでになっていました。結局、少年セルゲイはサンクトペテルブルグの小学校に通いだしたものの、重要な初等教育はこの婦人家庭教師から受けることになります(友達のように自由気侭に外で遊べない自分の境遇を英語で詩に書いて自嘲。後年になってもこの特権的な家庭教育を皮肉っている)

サーカスに魅了される。「道化師」に自分を映し出し、自ら「別の性格」をつくりだした

「人工都市」サンクトペテルブルグで、華麗な建築美と装飾に目を奪われる傍らで、少年セルゲイがもう一つ虜になったのは、サーカスの「道化師」でした。ことの発端は、乳母が気持ちが塞いでばかりのセルゲイを楽しませようと、ある日、空き地にたったサーカスに連れて行ってくれたことでした。空中ブランコ、綱渡り芸人、アクロバットなサーカスにひととおり興奮した少年セルゲイは、背丈が同じくらいの小柄な道化師が気になってしかたなくなるのです。その道化師は、人間と同じように頭があって手足があるにもかかわらず、これまで見たこともない不思議な生き物にセルゲイの目に映ったのです。おどけた仕草をする道化師に、少年セルゲイは自分を”映し出し”ていました。自分がもし道化師だったら、引っ込み思案や孤独につきまとわれなくなる、そう想像をはりめぐらしたといいます。その想像には、少年セルゲイの内面だけでなく、外面、つまりセルゲイ自身気に病んでいた身体的な不格好さ(セルゲイ自身、自分は頭でっかちで胴体も手足も短く妙ちくりんな体つきだと強く思っていた)から逃げたかった、身体を魔法のように隠してしまい誰にも相談できない欲求があったのです。
「大地の匂い」を運んできた乳母が、ふたたび「大地の人間」に触れさせたのでした。家に帰ってからも道化師にかけられた「魔術的」な幻想はなかなか消えず、それどころか自分が一日一日と「道化師」に”変化”していっているような奇妙な感覚が生じだしたのです。セルゲイはサーカスがサンクトペテルブルグの空き地にやって来る日を心待ちにし、テントが立てばセルゲイは見逃すようなことは決してなかったといいます。もはや小柄な「道化師」は、少年セルゲイの「分身」でした。
そしてセルゲイはあることをはじめるのです。セルゲイ自身、不格好だとおもっている自分の肉体的な特徴に合わせるかのように、自身の縮まった引っ込み思案の性格とはまったく異なる、もう一つの「別の性格」をこしらえだしたのです。
▶(2)に続く
・参照書籍:『エイゼンシュタイン 上・下巻』マリー・マートン佐々木基一、小林牧訳 美術出版社 1966年刊/『エイゼンシュタイン 現代のシネマ8』レオン・ムシナック著 小笠原隆夫、大須賀武訳 三一書房 1971年刊