セルゲイ・エイゼンシュタインの「Mind Tree」(2)- 12歳の時、母が家を去る。「絵」と「読書」に向う。父からは「技師」になるよう説得。19歳の時、ダ・ヴィンチと内的つながりを”発見”、後継者になる運命を確信


映画『十月』(1927年)より
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12歳の時、母が家を去る。家の中はまるで”空き地”に

▶(1)からの続き:「道化師」になって、もう一人の自分をつくり出さなくてはならなかった心理的背景には、母の突然の家出もあったようです。サンクトペテルブルグに父と乳母がやって来て、再び家族で暮らしだして1年余りたった、少年セルゲイ12歳の時のことでした。小学校から帰宅したセルゲイは家の中の様子がいつもと違うのに驚きます。部屋が空っぽになっていたのです(残った家財道具は父のピアノとベッド、乳母のベッドだけだった)。母は再び家を出たのでした。今度の目的地は憧れの国フランスでした。父は家具を購入する経済的余裕もなく、当分のあいだ家の中は”空き地”の様になってしまったのでした。セルゲイは天上の聖母マリア様に懸命に祈りましたが、母は一向に帰ってきません。母は自分を愛してなどいなかった。セルゲイの心の中に何も無くなった部屋の様に、冷たい”空き地”が広がっていきました。その”空き地”に現れたのが、想像上の「道化師」—もう一人の自分—だったのです。
セルゲイは想像上の「道化師」を、他人にも目に見えるようにしなくては気がすみません。少年セルゲイは、それらしい「衣装」に装い、覚えた身振り手振りで、自ら”笑いの種”となったかとおもえば、言葉を慎重に選んで周囲の者にふてぶてしい印象を与えるのでした。こうした「変身」行為は、痩せ細った「心の樹」を支えるものになっただけでなく、「もう一人の自分」に”身をやつす”と、自らが表に出ていない分、他人とつきあいやすいことに気づいたのです。しばらくすると周りの者は、「もう一人の自分」の方が、本当のセルゲイであるかのように思いはじめたから不思議です。大きな頭と短い胴体、短く小さな手足に、「道化師」をすっぽり乗り移らせると、きびきびした精気溢れる表情にマッチし、自身のなかで不思議な調和が生まれでたのです。長じてからも、他人といる時は、セルゲイは「道化師」役をつづけていたので、その性格や気性が「セルゲイ・エイゼンシュタイン」だと思われつづけたのでした。
「道化師」に身をやつしているあいだ、少年セルゲイの心のうちで母への愛が憎しみへと変じていきました。ひとり乳母といる時だけは、セルゲイは「道化師」になる必要はありませんでした。素朴で、善良な乳母だけが、少年セルゲイをそのままに暖かく受け入れてくれていたのです。平穏でやすらぎを感じることができるのは乳母と一緒にいる時だけだったといいます。生涯を通じても、セルゲイ・エイゼンシュタインは、素朴で謙虚な人々と一緒にいる時にだけやすらぎを感じつづけ、そうした人々につねに愛情を注ぎつづけた源は、乳母と過ごした少年期の体験にあったのです。

初めての友達と、家の庭でサーカス”興行”をとりおこなう。「絵」と「読書」に向う

母が家を去り、ならば父と心を通わせ、時間を多く共有するようになったかといえば、そうではありませんでした。父は外向的で、友達と人生を謳歌する気象で、妻がいなくなった家にもすぐに順応していきました(嘆きはピアノにのせて易々と追い払えたようにみえた)。そんな父との生活にセルゲイは”順応”できず、一緒に住んでいるのに父との距離はひらいたままでした。父は親子の真剣な話し合いよりも、家具を新調することに熱心だったのです。苦々しい空気を察した父は息子を故郷のラトビアのリガに住む母の姉妹の許に送り出しました。母の姉妹との暮らしに嫌気がさしたセルゲイでしたが、その地で初めて親しい友達ができます。後に芸術活動を共にすることになるマクシム・シュトラウフでした。家の庭でサーカス”興行”をもつ程に、2人は「サーカス」に夢中になります。セルゲイは「道化師」だけでなく、動物になったり、あらゆる役をこなしたといいます。
「道化師」や動物になっていない時、少年セルゲイが時間をさくようになったのは「読書」と「絵」でした。それまでの心理的状態に、その二つの行為が強く作用し、少年セルゲイの内で、痛烈で鋭い「観察者」が育ちはじめていきます。「観察者」であることによって少年セルゲイは、不安と劣等感をなんとか払拭できたのです。
かなりたってから母から贈り物が届いたのですが、(愛と憎しみが入り交じった複雑な気持ちはあったものの)「観察者」セルゲイにとって、その贈り物は痛烈な皮肉の対象にしかならなくなっていました(ダイヤをきらめかせた富豪に、ユダヤ人とニグロの少年が「ありがとう」というプラカードをもってお辞儀するカリカチャアを描いた)。結局、出されることはなかった母への返信には、自分はいま悲劇『ニーベルンゲン』(ヘッベル)を上演することになっていて手がはなせないと書かれてあったといいます(この28年後に、エイゼンシュタインワーグナーの楽劇『ワルキューレ』をモスクワのボリショイ劇場で演出)。少年セルゲイの「心の樹」に、「道化師」や「観察者」としてだけでなく、<神話物語>の”樹液”が生成されはじめていたことをこの手紙は告げているようです。

父から「技師」になるよう説得される。「建築」を”再発見”する

リガに暮らす間、セルゲイは市立実科学学校に通っています。良い成績を取り良い学生たらんという意欲もなく、学校での勉強に身が入ることはありませんでしたが、<知識欲>は旺盛で、「絵」を描いていなければ、「読書」する少年だったといいます。少年セルゲイは美術学校に通いだしています。ところがせっかく通いだした美術学校の教育方法は、枠をはめ込むようなのアカデミックな教育方法でセルゲイは息苦しくなり、「文学」と「代数学」へと避難回避しています。
1914年、第一次世界大戦が勃発。サンクトペテルブルグに戻ったセルゲイを待っていたのは、将来に向けての父からの説得工作でした。見通しもたたない芸術志向を捨て、「技師」になるのが最善だという父。父を前にするとどうしても萎縮してしまう本来は気の小さいセルゲイは、この説得を受け入れるのです。父の引いた青写真にのっとり、セルゲイはモスクワ大学の土木工学専門部に入学します。が、セルゲイは敷かれたコースを歩むばかりではありませんでした。


「芸術の分野で働きたいというぼんやりとした、まだはっきりしない志向は、ぼくに同じ工学でも機械や、技術の分野にではなく、芸術に密接に結びつけられたもの—すなわち建築—へのコースをえらばせた」(『エイゼンシュタイン』マリー・シートン著 美術出版社)


「建築」は、はじめてサンクトペテルブルグの華麗なロシア・バロック建築を見た時にも心を奪われたもので、遡れば少年の頃から不思議と「視線」が向かうものだったのです。もとを辿ればその志向は「建築技師」だった父からもたらされたものでした。関係がうまく”構築”できない父から「技師」になるよう説得されたものの、その芽はセルゲイのなかにすでに宿っていたといってもいいかもしれません。そして自ら「建築」や建築装飾をあらためて”再発見”することによって前にすすむことができたのです。

「ヴォードヴィル・コメディアン」と「寄席演芸」への関心

「建築」の科学的アプローチが、セルゲイにとって興味深い挑戦する対象となる一方、「サーカス」への情熱は決して衰えることはありませんでした。またあらたに「ヴォードヴィル・コメディアン」と、エキセントリックでユーモラスな「寄席演芸」を体験しすっかり魅了されてしまいます。大学の建築学科でしっかりした勉強を重ねていれば、ふつうは大衆演芸への関心は休日の楽しみや趣味で終わりそうなものですが(日本で言えば、芝居や落語が大好きな建築学科の大学生のイメージだろうか)、セルゲイの興味の持ち方は人と違っていました。セルゲイは「サーカス」や「寄席演芸」などの舞台上の「道具立て」に興味をもちだしたのです。それは「サーカス」のリングであったりエイゼンシュタインは芝居『メキシコ』の客席のど真ん中にボクシングのリングを設置し実際、試合をさせた)、寄席の舞台の時代ものの小道具や書き割りなどで、古(いにしえ)のものになればなるほどセルゲイのイマジネーションと幻想を掻き立てたのでした。
その背景にあったのは、真剣に取り組みだしていた「イタリア・ルネッサンス」研究で(18歳の時)、セルゲイはその時代の至高の絵画表現だけでなく、屈託のない演劇的表現に惹き付けられていたのです。そして当時さかんに催された「即興喜劇コメディア・デラルテ」の存在を知るに及び、セルゲイが目にしていた「ヴォードヴィル・コメディアン」(喜劇役者)の動きと様式の中にも、ルネッサンス期の「即興喜劇」の技術が生きているのに気づいたのです。

19歳の時、レオナルド・ダ・ヴィンチと内的つながりがある運命を確信

セルゲイが「イタリア・ルネッサンス」研究に打ち込んでいた時、ロシア帝国は音を立てて瓦解しはじめていました。1917年、「二月革命」が勃発した日にもセルゲイは市街戦が行なわれている最中に、アレクサンドリンスキー劇場に芝居を観に向っています。メイエルホリドが演出する『仮装舞踏会』の初日でした。市街戦のなか劇場は閉まっていました。ただそれほどにセルゲイは、芸術に没入していたのです。セルゲイにはっきりしている未来予測が一つだけあったといいます。それは「技師」としてどれほど成功しようとも、本当の自分を表現することはできない、ということでした。
周りの学生たちが政治思想を闘わせたり恋をしたりしているなか、セルゲイが夢中になっていたのはイタリア・ルネッサンスの万能人、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」でした。セルゲイ19歳の時でした。ダ・ヴィンチ初期の傑作『ベノアの聖母(マドンナ)』は、サンクトペテルブルグエルミタージュ美術館に蔵されていて、セルゲイはそれを見ていますが、セルゲイを魅了したのは、画家・彫刻家としてのダ・ヴィンチだけでなく、哲学者であり、工学者であり、建築家でもあり、化学者、解剖学者でもあり、科学技術に通じた発明家である多面的な才能に溢れたダ・ヴィンチでした。


ダ・ヴィンチのことを読めば読むほど、ますます自分とのあいだに何か内的なつながりがあり、自分がダ・ヴィンチの20世紀の後継者になる運命を確信した。セルゲイはフロイトによるダ・ヴィンチ精神分析的研究に出会った時、いっそう強い絆が確立されたようにおもわれた。このダ・ヴィンチ分析はある面で、自分そっくりあてはまると思われたのだ
 不用意に急いでフロイトによるダ・ヴィンチ研究)に目を通して、最初は大して感心もしなかったが、不意に、『幼年時代の記憶』が意識の中心に爆弾のように炸裂した。彼は茫然とした。新しい太陽が地平線にのぼり、すべてが愛情であふれた。それは天啓だった……」(『エイゼンシュタイン』マリー・シートン著 美術出版社)


セルゲイがダ・ヴィンチを「映し鏡」のように感受しただけでなく、”内的つながり”がある、”強い鉾”があるとまで思いつめるようになったのは、おそらく「幼年時代の記憶」の共通性だとおもわれますダ・ヴィンチにはセルゲイ以上に”家庭”は無かった。ダ・ヴィンチが生まれると公証人だった父は逃げるように良家の娘と結婚し、母もすぐに別の男性の許に嫁いだため、80歳を越していた父方の祖父だけが、セルゲイに対する乳母のように、幼少期のレオナルドの面倒をみた。セルゲイの母の様に、ダ・ヴィンチの母も去っていった)。「心の樹」が成長する過程や契機に相同性を感じとったようです。そのため人類史上類い稀な人物ダ・ヴィンチに自己を<同一化>する大胆さをもいとわなかったのでした(セルゲイには、「道化師」といい「ダ・ヴィンチ」といい自己を自分が強く深く関心が向いた者に、強烈に<自己同一化>する性向があったようだ。またそれが深い学びにつながったといえる)


後の映画『戦艦ポチョムキン』で、民衆や労働者や兵士たちの「顔」や「姿」がリアルに描かれているのは、ダ・ヴィンチの科学的探求精神の”映し”なのです。メディチ家に対するクーデターを仕掛け失敗に終わり首吊りの刑になった者の姿を冷静に克明にスケッチ(「バロンチェルリの首吊り」)したダ・ヴィンチのように、セルゲイはロシア帝国が目の前で崩壊していく様子、敵対関係にある階級がどのようにふるまうかを克明に「観察」していたのです。『戦艦ポチョムキン』は、セルゲイの記憶の底に刻まれた印象と、ダ・ヴィンチ的な科学的な「観察」から生み出されたものだったのです。
▶(3)に続く-未