ロバート・メイプルソープの「Mind Tree」(2)- ピカソの影響でキュビズム風のマリア像を描きだす。13歳、「ホモセクシャル」なのではないかと不安に。16歳、ゲイのポルノ雑誌で衝動がはじける。軍隊栄誉学生団体に加入


Art Bird Books Websiteでも、「Mind Tree」を展開中です。「写真家のMind Tree」のコーナーもあります。文章と違って「ツリー状」の紹介になっています。http://artbirdbook.com
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中学生になり、マンハッタンに出かける許可をもらい、友人と美術館を巡る

▶(1)からの続き:中学生になると、少年メイプルソープの人生が変転しはじめます。父から地下鉄に乗ってマンハッタンに出てもいいという許可がおり、ロバートは親友になったジム・キャシディと一緒に、土曜日にマンハッタンに繰り出すようになりました。中学を2年で終える特別のプログラムが受講できたロバートとジムの2人は、他の生徒たちとは一風変わっていました。ロバートと同じく運動神経が鈍かったジムも、皆が大好きなベイスボール・チーム、ブルックリン・ドジャース(現在は本拠地はロサンジェルスだが、当時はまだブルックリンが本拠地で地元で絶大な人気を誇っていた)は眼中になく、ジムのドジャース・スタジアムは「メトロポリタン歌劇場」でした(オペラ好きの消防士の父に連れられて行った。ちなみにジムの祖父はグラフィック・アーティストで母は絵が趣味)。2人してメトロポリタン美術館ニューヨーク近代美術館MoMAにも訪れ、あれこれと美術作品を見てまわるのでした。ジムは作品についてあれこれ語り、口下手なロバートは作品から刺激を受けロドーイングを描いていきます。ジムはロバートの絵才に感心しながら、いつも刺激しつづけていたようです。


この2人の子供たちに気づかされることは、「運動神経」が鈍いというそのことが、長い人生のなかで決してマイナスばかりになることはないということです。要するに自分は周囲の皆と違うという気づきや体験、試練を人生の早い段階に与えられることになるからです。中途半端に運動神経が良いと、その試練は遅まきにやってきて人生の選択において判断を鈍らせたり、身体能力が勝って、「心の樹」の存在を感じにくくしてしまいがちです。もちろんチーム・スポーツを通じて培われるものも多くあり、一概に言い切ることはできませんが。

ピカソの影響。なぜキュビズム風の顔が崩れたマリア像を何枚も描いたのか

ロバートにとって芸術的なものといえばカトリック教会陣内やイコン(マリア像やキリスト像を見ることだけでしたが、マンハッタンの美術館で数多くの美術作品に触れ、ロバートの芸術体験と視覚世界が一気にひろがっていくことになります。ところがそんなロバートに興味深いことが起こります。多くの美術作品に触れたロバートは次々に絵を描きだしたのですが、その絵はなんと「マリア像」だったのです。ただ、そのマリア像は教会で見続けていた柔和な表情と姿ではなく、顔が崩れ継ぎはぎされたグロテスクなマリア像だったのです。少年ロバートはそんなマリア像をしつこいくらいに何枚も何枚も描いたのです。
そのマリア像は、美術館で見たキュビズム時代のピカソの作品に影響されたものでした。当時キュビズム(20世紀初頭の美術運動。ピカソ、ブラックらが創始した伝統的な一点の視点を放棄した図法)など知る由もないロバートがなぜそんな混乱した聖母像を何枚も描いたのか。2人になった時、少年ロバートは相棒のジムに「お袋は子供を産むしか能がない」(自伝『メイプルソープ』より)と打ち明けています。その頃、母は妊娠つづきで、流産した後も、再び妊娠し、5人目のエドワードを産んだ後、さらにまた妊娠していました(後に妊娠しないよう子宮摘出された)。母は目にかけていたロバートに手をかけられなくなっていました。ロバートにとっては母がどんどん遠くに行ってしまう、そんな内面が絵になって生じていたのです。後にメイプルソープの初期作品の中心テーマの一つが、崩壊した「マリア像」だったことをおもえば、いかに強い内的関心事だったかわかるとおもいます。

高校では仲間に入れてもらえず、教会傘下のマッチョな青少年団体に参加

13歳で(1960年)の時、ロバートと友人ジムは2人とも、コダック社製のカメラ「ブローニー」を手に入れていました。クリスマス・プレゼントでした。ロバートが最初に撮った写真は、赤ん坊の弟のジェイムズでした。メイプルソープ家には、父が「写真」を趣味にしていたため現像用器具がひととおり揃っていました。ロバートはジムと2人で父に隠れてネガを現像して楽しみます。
じつはロバートとジムは2人とも、中学時代、「SP」と呼ばれるスペシャル・プログラムの生徒だったので、中学は2年間しか通っていません。ロバートはこの「SP」を、”スペシャル・ピープル(特別な人間)”の略だと思い込むようになっていたといいますが、少なくとも周りの人たちの目には、本人たちが思っているイメージとは異なる、”スペシャル・ピープル”と映っていたようです。そんな2人の”スペシャル・ピープル”でしたが、高校に入学すると2人が会う機会は減り、「写真」への関心も比例するように減っていきました(しかし、リアルなイメージへの感覚はずっと潜行します)。
ロバートが入学したのは5000人の生徒が通うマンモス校マーティン・ヴァン・ブレン高校(Martin Van Buren High School ;メイプルソープ家があるフローラルパークのやや西寄り、 ヒルサイド・アヴェニュー沿いに建つ)で、生徒の大半はユダヤ教徒でした。カトリック教徒だったロバートは学校にあるほとんどの友愛会(大学の「フラタニティ」や「ソロリティ」といった社交クラブや友愛クラブの高校生版)には入れてもらえず、アウトサイダーの気分を晴らすため、社交の場をキャンパス外に求めたのです。そこはアワー・レディー・オブ・ザ・スノウ教会(
our lady of the snow church)傘下に結成されていたコロンビアン・スクワイアという青少年団体でした。

青少年団体への加入は、半ば父に気にいってもらいたいがためでしたが、この団体もマッチョな青少年にとくに人気があり、ユニフォームも白いマルタ十字の付いたネイビー・ブルーのジャケットでした。ロバートはこの青少年団体に加入し、「自己改造」をはじめます。自らの呼称を「ボブ」とし、その名の如く男らしく振るまおうとつとめます。が、マッチョさは板につかず皆から浮いてしまうばかり。
青少年団体のお目付役の教会の神父たちの仕事は、青年を不純な行為に走らないよう、不潔な考えをもたないように監視することでした(聖なる結婚の契り以外の性行為は無論、少しでもいかがわしい映画を観ることも不道徳として厳しく禁じていた)。ロバートは、制服の様に型にはめられた行為や考えが、次第に耐えられなくなっていきます。学校でも青少年団体にいても文化的な趣味を話題にすると、男らしくないと烙印を押されるばかりで悩みは深くつきません。少年ロバートの「心の樹」は、統一されたユニフォームを着せられ、家でも学校でも教会でも、迸(ほとばし)りでる”芽”は行き場を失ってしまったのでした。

13歳の時、自分は「ホモセクシャル」なのではないか、と不安におののく

少年ロバートが家のクローゼットの中に隠されてあった『チャタレイ夫人の恋人D.H.ロレンス著)を見つけたのもこの年でした(1960年ロバート13歳の年。米国でも同書の無削除版は輸入禁止になっていた。裁判で言論・出版の自由が適用され輸入可の判決が下った1959年の後すぐに父が購入したものとおもわれる)メイプルソープ家でも「セックス」の話はタブーだったこともあり、『チャタレイ夫人の恋人』は秘められたものでした。ロバートはこの『チャタレイ夫人の恋人』よ読んではじめてマスタベーションを経験します。
ここまでは多くの男子に共通するものといえますが、クローゼットに隠されてあった「ヌード雑誌」を見た時、ロバートは自分の感覚と欲望の”異変”に気づきます。「ヌード雑誌」に載っていた女性のヌード写真だけでなく、一緒に映っていた男性の姿態に押さえがたいものを感じたのです。自身は「ホモセクシャル」なのではないか。ロバートは、不安と恐怖にさいなまされます。この時期、米国でもホモセクシャルであることは、イコール「変態」であり、社会的にも受け入れられず、一生涯「オカマ」として軽蔑されて生きる運命にあるとおもわれていたのです。
不安にあおられたロバートは、少しでも疑惑をもたれないように、高校の第二外国語の選択も、希望していたフランス語から急遽スペイン語に切り換えたほどでした(フランス語を専攻する者は「オカマ」だけだという風潮があった)。「男」らしく振る舞う努力をつづけたにもかかわらず、少年ロバートは、メイプルソープ家で「変わり者」扱いされはじめます。父は、スポーツ好きでハンサムで美人の彼女もいて、どこからみても”男らしい”兄リチャードを完全に贔屓(ひいき)にし、ロバートは同じ部屋を共有していた兄と口をきくこともなくなり、ひとり孤立していったのです。

42丁目で売られていたゲイのポルノ雑誌で衝動がはじける

父はメイプルソープ家の「変わり者」ロバートを扱いかねていましたが、自分と同じくプラット・インスティテュート(父の母校)に進学させ、自分と同じくエンジニアの資格をとらせ”常識人”にしようとようと決めていました(兄リチャードも父の意見通りエンジニアの資格取得をめざし州立アカデミーに入学)。ロバートは進学を契機に息苦しい家から逃げ出そうと目論んでいましたが、父は自宅通学を言い渡します。父の青写真通りにプラット・インスティテュートへの進学を決めたロバートは入学前に、かつて祖父が勤めていたナショナル・シティ・バンクで使い走りのアルバイトをしていますが、昼休みに近くにあったヒューバート・フリーク・ミュージアムに出向くようになります(このフリーク・ミュージアムへは、ひと世代上の写真家ダイアン・アーバスも足繁く通っていた)。そこで見た両性具有者やヴードゥー教の儀式などの見世物は、かつて祖母が連れて行ってくれたコニー・アイランドの「見世物小屋」の記憶を甦えらせたかのようにロバートを惹き付けたようです。
しかし、フリーク・ミュージアムへの興味を吹き飛ばしてしまうほどのものとロバートは出会ってしまうのです。それは42丁目で売られていた「ゲイのポルノ雑誌」でした。18歳にならないとその類のものは購入できないため、16歳だったロバートは雑誌の表紙写真しか見ることはできません(性器の部分には黒いテープが貼ってありそれがまた欲望を強めた)。ロバートは身体の芯から”樹勢”が迸り、強烈な衝動が突き上げてくるのを我慢できなくなります。ロバートは盲目の売り子が店番をしている時があることに気づき、本当に目が見えないことを何度も確認し、ある日ポルノ雑誌を万引きします(後日もう1冊盗もうと企て失敗。見張りに見つかり死にもの狂いで逃走)。ポルノ雑誌を見たロバートは、「こいつをなんとかアートにできないかと思った。この感覚を作品のなかに留めることができれば、僕にしかできないことがやれるんではないかと思った」と後に語っていますが(『メイプルソープ』パトリシア・モリズロー著)、それは後日談のことで、その時のロバートにはそこまでの感覚の余裕はなかったにちがいありません。

かつて父も入会していた軍隊栄誉学生団体「パーシング・ライフルズ」

父の母校でもあるプラット・インスティテュートに入学したロバートがまず最初におこなったのは、学内のROTCユニットに属する軍隊栄誉学生団体「パーシング・ライフルズ」へ入会でした。この学生団体は、学内で政治的に最も右寄りでキャンパスを歩く時も銃を肌身離さず、タフガイからなるファシスト的団体として知られていました。じつはかつて父もこの団体に所属していたのです(兄リチャードも入会)
なぜロバートがこうした自身の気質と真逆ともいえるグループに入会希望をだしたのか。それはホモセクシャルに対する激しい罪悪感と、ゲイ雑誌の万引きで捕まりそうになったことへの恐れ、そして選ばれた人間しか仲間入りできない、(父や兄と同じように)”男らしさ”を象徴するエリート組織の一員に自分もなりたいという思いからだったといいます(猛特訓に耐えられなかったと父に告げるのが癪だったため懸命に踏みとどまったとロバートは語っている)。「パーシング・ライフルズ」の制服や、ゲイのSMプレイを彷彿とさせるしごきは(銃の先を肛門に突っ込まれたり、ペニスにレンガを縛ったロープを結わえ腰を振ってレンガを前方に飛ばすもの等、こうしたしごきが新人テストで夜明けまでつづいたという)、意に図らずもロバートを”開花”させてしまったようなのです。「ゲイのポルノ雑誌」「制服」「SMプレイ」気味のしごきなど、後のメイプルソープのアート作品のなかにそのどれもがあらわせられたり、実際に用いられるものとなったのです。そしてそれらを見事にリアルに再現するものが「写真」だったのです。
▶(3)に続く-未
・参照書籍/『メイプルソープ』パトリシア・モリズロー著 
 田中樹里訳 新潮社 2001年刊

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