美空ひばりの「Mind Tree」(2)- 敗戦翌年、芝居小屋「アテネ劇場」で旗揚げ公演。「四国巡業」でバス衝突事故、仮死状態から”甦る”。樹齢2000年の日本一の杉の大樹に誓う


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焦土と化した日本列島に、大きな想像の「リンゴの樹」が誕生する

▶(1)からの続き:敗戦から2カ月後の1945年10月。”戦後歌謡曲”の最初のレコードが制作され発売されます。「リンゴの唄」でした。
「赤いリンゴに唇寄せて だまって見ている青い空 
 リンゴはなんにも 言わないけれど 
 リンゴの気持ちは よくわかる
 リンゴかわいや かわいやリンゴ」サトウハチロー作詞)
「リンゴの唄」は、「戦後歌謡史」の<出発点の曲>になった曲でした。敗戦から3カ月後。焦土と化した日本列島に突如出現した「想像の巨大な樹」でした。その想像の樹は、心を寄せてくる、焼け出された無数の日本人に、一つづつの赤いリンゴを手渡したのです。その「想像の赤いリンゴ」は、米兵がすきっ腹の子供たちに渡すチューインガムやチョコレートでは満たしてくれないものを満たしたのです。まさに古来から「歌」に心を寄せ、”言祝(ことほ)がれる”ような<言語空間>に心をかよわせてきた日本人の”心根”を、その共通しうる(だろうと皆が思っている/あるいは思い込んでいる)想像力を、無意識の裡に確認させるような歌だったのです(「リンゴの唄」は、GHQ検閲第一作目となった松竹映画『そよかぜ』の主題歌。主演:上原謙並木路子東映時代劇の重鎮だった監督佐々木康は、後にひばり主演の映画を数多く手がけることになる)
空襲警報が鳴り響いていた空は、「美しい青い空」をとり戻していました。ひばりの母・喜美枝もそうした「空」が大好きでした。その美しい青い空の下、磯子にある古い木造の市場が、小さな芝居小屋に生まれかわっていたのです。「アテネ劇場」でした(地元では「磯子劇場」と呼ばれた。五人掛けの木製ベンチ10脚が2列に並べられていただけの客席だったが、こけら落としには歌舞伎界の大物・当時の中村勘三郎松本幸四郎も舞台に立っています。歌舞伎座は閉鎖中で各地の小劇場にあがっていた頃だった)

敗戦の翌年、磯子の芝居小屋「アテネ劇場」で、「美空楽団」が旗揚げ公演

1946年9月、「美空楽団」が、旗揚げ公演をおこなったのがこのアテネ劇場でした(3日間借り切りの主催公演だったため、東京から名が売れている夫婦漫才師をトリに出演させている)。9歳の少女和枝は1時間にわたって歌いつづけました。そのうちの1曲が「リンゴの唄」でした。この時、小さな歌い手・和枝の舞台上の名前は、「美空和枝」になっていました。芸名の姓「美空」は、母のアイデアで、「空のように広々とした気持ちで、どこまでも行って欲しいと思うから」と、母は語っています(『ひばり自伝』より)。ネーミングにはそれを付ける人の希望や思いが反映されることをおもえば、「空のように広々とした気持ちで、どこまでも行って欲しいと思うから」というのは、母・喜美枝自身の希望や思いでもあったのです。
この旗揚げ公演にして、後の「美空ひばり」の姿がすでに予感されています。美空和枝は、「旅姿三人男」を歌う際、道中姿に扮し三度笠で顔を隠して登場し、歌い出しの時に笠をとると照明がパッとあたる光景をつくっています。これも母のアイデアでした。男装の麗人としても映える「美空ひばり」はすでにこの時にはじまっていたのです。
またひばりがこの頃に歌うようになっていた歌、「大利根月夜」「小雨の丘」「チンライ節」「長崎物語」は、後年の「ひばり節」として知られる多くの要素が、この4つの歌曲にすでに含まれていたとわれます(『完本美空ひばり竹中労。それは遊侠調で詠嘆調の歌(後の「柔」)、抒情溢れるシャンソン風の歌(「悲しき口笛、波止場もの(「哀愁出船」)、コミック・ソング風の歌(「お祭りマンボ」)でした。

その年の暮れ、伊勢佐木町で焼け残ったビルで、NHKのど自慢横浜大会に出演(10歳の時)。急ごしらえの杉材を使ったステージで、少女ひばりは「長崎物語」を歌っています。複雑な表情をする審査員たち。審査員の空気が読めなかったアナウンサーが少女にもう1曲歌うよううながします。「悲しき竹笛」か「愛染かつら」が歌われたとされます。鐘は鳴りませんでした。子供が大人の歌を歌っても審査の対象にならなかったのです(前例がなく審査基準がなかった)。子供に大人の歌を歌わせるのは「児童虐待」にあたり、「ゲテモノ」趣味である、言われています。

杉田劇場で幕間のつなぎとしての起用される。興行師の目にとまる

つづいて「美空和枝」がステージに立ったのは、同じ磯子区内で最も立派な劇場で、海に面していた杉田劇場でした(日本飛行機という会社の工場を改装した建物。収容人数300人。この劇場が賑わったのを知って伊勢崎町界隈に、マッカーサー劇場と、後にひばりが舞台にあがることになる横浜国際劇場が、1947年にたてつづけにオープン)。母・喜美枝の売り込みが功を奏したのです。幕間のつなぎとしての起用でしたが、出演は3カ月続きました。この時、そしてその舞台で一緒に出演していた漫談の井口静波と俗曲の大物・音丸夫妻の一座から、前歌(前座)として「四国巡業」に出ないかと誘われます。
この「四国巡業」が、ひばりの命運を決する旅になったことはすべての『伝記』と『自伝』にあらわされています。それは「加藤和枝」死出の旅路であり、起死回生の「黄泉帰り」となり、真の意味での後の「美空ひばり」誕生のターニングポイントとなった旅となったのです。それは”黄泉帰った”者=当時の「美空和枝」ばかりでなく、その様子を直に体験した母・喜美枝にとっても同じで、これ以降、2人の「心の樹」は”一心同体”となり、日本一の”唄歌いの樹”となって伸びはじめたのでした。
以下、その経緯と顛末を簡単に書き記せば、次の様になります。このロングランになる「四国巡業」には、芸事好きだった父・増吉が大反対します。父は娘が、浮き草的な水商売家業で、河原乞食の様な芸人になることは大反対で、まともな堅気の家に娘を嫁がせたいという思いが強くあったのです。なぜなら自身が、栃木から出てきて丁稚奉公からたたきあげ、ようやく一つの土地に”根”を張った存在になれたというのに、可愛い娘がなんでまた”根無し草的な”芸人になるのか、という思いだったのです。芸事の手引きをしたことが裏目に出てしまうとは、父・増吉は思いもよらなかったようです。父・増吉は怒鳴りちらしたといいます。
父から猛反対を受けた「四国巡業」がなぜ成ったのか。この辺りからひばりが自伝で書いたように「光と影」(『自伝』のサブタイトルでもある)が凄まじい勢いで交叉していきます。あれだけの「光」を生み出すための「影」。粋で遊びも派手だった増吉。バーのマダム(かつて奉公時代に出入りしていた同業者の娘)とのあいだに2人の男の子をもうけ、すでに何度も夫婦喧嘩の種となっていたのです(戦争中に、母がその証拠写真をにぎった。それ以外にも、ひばり10代後半の時、母娘をさらに一体化させた事実が発覚します。ひばりが生まれた時に家にお手伝いとして来ていた母の実妹と関係してしまい、女の子が生まれています。それまでずっと仲のいい従姉妹が、ひばりの母の妹の子供だったのです。—『自伝』より)
「四国巡業」は、「家族の亀裂」(父の負い目)があって叶ったといってもいいものでした。父・増吉の道楽さが母・喜美枝の<異常>とも思えるほどの芸能活動へののめり込みの理由になったと一般的にいわれていますが、その背景にあったのは、単なる「道楽」の閾を越えてしまった父と、深い「家族の亀裂」でした(最も、8月の小学校が夏休み期間だったこともあり最期に父はしぶしぶ了承したともされる)

「四国巡業」でのバス衝突事故。「仮死状態」から”黄泉帰った”ひばり

ひばりの「不死鳥」伝説の起こり、そしてひばりの「心の樹」に「不死鳥」がとまったのは、昭和22年8月(ひばり9歳)、四国でのことでした。一座とひばり母子、そして「美空楽団」のメンバーが乗り合わせていた満席状態の路線バス(高知県大豊村から土讃線の大杉駅行き)がトラックと衝突。バスは崖の下を流れる吉野川に墜落する寸前で、バンパーが桜の木に引っかかったものの(桜の木が亡ければ全員死亡だったという。振り落とされた女車掌が偶然にも下敷きとなりバスが崖から落ちるのを防いだとも)、車掌さんは即死、ひばりも瞳孔が開き「仮死状態」になり、息が途絶えた車掌さんの横に寝かされ筵(むしろ)を掛けられています。村の唯一の医師のことなど、幾つもの奇跡と幸運が巡ります(詳細は『自伝』や『伝記』へ)。およそ30時間もの間、意識不明の状態が続きましたが(村医師は心臓に太い注射をしている)、奇跡的に息を吹き返しています全身骨折の重傷。右手首動脈への大きな傷は生涯後遺症となる。横浜に戻る前、四国で1カ月治療を受けている)
この世に生還を果たしたひばりは、地元の大杉村の八坂神社の境内にある、日本一大きな杉の大木(14尋—ひろ。つまり大人14人が手をつないで囲めるほどの太い幹)のことを聞き、「私は日本一の大杉のある村で生まれ変わったので、お礼に行きたい」と、村を離れる前にその大杉を見に連れて行ってほしいと病院の医師に願い出ています。その大杉の樹は、スサノオノミコトの化身ともいわれ、樹齢2000年余の「神木」でした。ひばりの最初に出版した『自伝』は、この杉の樹のことから始まっています。「助けてくださった杉さん、私も、あなたに負けないような日本一の歌手になりますから守って下さい」と、誓ったといいます。その姿を見て、母・喜美枝は、自分の命を捧げても惜しくはないと泣き出しています。
横浜に帰郷した時、「和枝には二度と歌を歌わせない」と、父・増吉は母にびんたをくらわせています。しかし、この大事故を体験した母・喜美枝の心の内に、「信仰」にも近い念がおこっていたのです。母は、まさに意識不明の状態から甦った娘の奇跡を見ています。娘に「神」が乗り移ったと、時に公言することもあったといいます(地元の新聞に「豆歌手・美空和枝は神様の申し子だ、という大きな記事が出た)。そしてひばり自身、父を前にして「歌をやめるなら、わたし、死んだ方がまし、自殺する」と言い放つのです。しかしバス事故を契機に「美空楽団」は解散してしまいます。

”2本あった樹齢2000年余の「神木」。「本尊」としての「ひばり」、「教祖」としての母

八坂神社の大杉は、和枝と母のように、1本でなく2本が重なるような大杉でした。ひとはそれを「本尊」としての「美空ひばり」、「教祖」としての母・喜美枝と見立てるのでした(敗戦後、心の拠り所を失った人々を呼び込むように、各地に新興宗教が誕生している。その教祖の多くは庶民の出の女性が多かった。そうした気性、気質に近いものをもっていた母・加藤喜美枝が、我が子に「奇跡」を見たことで、2人による”神がかり的”ともいえる「美空教」が誕生したと。「美空」の名は、いうまでもなく母がつけた芸名でもあった。後に美空ひばり自身よく口にしていた言葉は、「美空ひばりには神様がついていてくれるけど、加藤和枝には神様がついていない」だった。『戦後—美空ひばりとその時代』—本田靖春講談社
「四国巡業」とは、「美空ひばり」誕生に、それほど大きな意味をもっているものでした。「美空ひばり」と「母・喜美枝」の各々の「マインド・ツリー(心の樹)」に、四国でも随一の、否、日本一とも言われていた樹齢2000年余の「神木」が、映し込まれたのですから。あらためていうまでもなく、母と娘の名前は、「喜美枝」であり、「和枝」で、2人はもともと樹木の心と姿が映し込まれた名前でした。少女「和枝」が、黄泉帰った時、「神木」である日本一の大杉に、まったく素直に「お礼に行きたい」と思わせたのも、まったく無関係ではなかった、そう思わせずにはおられません。
▶(3)に続く-未
・参考書籍『戦後—美空ひばりとその時代』—本田靖春講談社 1987年刊)/『姉・美空ひばりと私—光と影の50年』佐藤勢津子著 講談社 1992年刊/それ以外は「美空ひばりマインド・ツリー(1)」に掲載

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